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東京地方裁判所 昭和50年(ワ)8964号 判決 1989年7月21日

当事者の表示 別紙のとおり

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一章当事者の求めた裁判

第一請求の趣旨

一  別紙請求債権目録被告欄記載の被告らは、同目録各該当原告欄記載の原告らに対し、連帯して同目録請求金額欄記載の各金員及び右各金員に対する各訴状送達の日の翌日である別紙遅延損害金起算日一覧表記載の日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告らの負担とする。

三  仮執行宣言

第二請求の趣旨に対する答弁

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二章当事者の主張

第一請求の原因

一  当事者

1 原告ら

(一) 原告原山清は、昭和四五年九月二三日に出生し、原告原山武男と原告原山都は原告原山清の父母である。

(二) 原告池田健一は、昭和四七年三月二六日に出生し、原告池田嗣弥と原告池田のぶ子は原告池田健一の父母である。

(三) 原告石井久子は、昭和四〇年一〇月九日に出生し、原告石井良平と原告石井かつは原告石井久子の父母である。

(四) 原告高橋佳吾は、昭和四六年四月三〇日に出生し、原告高橋正作と原告高橋美智子は原告高橋佳吾の父母である。

(五) 原告長島弘継は、昭和四〇年七月一日に出生し、原告長島弘吉と原告長島美和子は原告長島弘継の父母である。

(六) 原告染谷さとみは、昭和三七年一〇月六日に出生し、原告染谷平三郎と原告染谷澄子は原告染谷さとみの父母である。

(七) 原告鈴木春江は、昭和四〇年二月九日に出生し、原告鈴木由百と原告鈴木泰江は原告鈴木春江の父母である。

(八) 原告青木康子は、昭和四一年一一月二六日に出生し、原告青木泉と原告青木節子は原告青木康子の父母である。

(九) 原告猪井未央は、昭和四七年七月二五日に出生し、原告猪井武司と原告猪井キミは原告猪井未央の父母である。

(一〇) 原告浅井一美は、昭和四四年二月四日に出生し、原告浅井瑠美子は原告浅井一美の母である。

(一一) 原告春原健二は、昭和四二年一月一二日に出生し、原告春原功一と原告春原三代子は原告春原健二の父母である。

(一二) 原告伊藤慶昭は、昭和四二年七月二八日に出生し、原告茂木正江は原告伊藤慶昭の母である。

(一三) 原告矢田佳寿代は、昭和四四年一月一三日に出生し、原告矢田正勝と原告矢田照子は原告矢田佳寿代の父母である。

(一四) 原告友田英子は、昭和四三年七月六日に出生し、原告友田城太郎と原告友田昭子は原告友田英子の父母である。

(一五) 原告須田裕子は、昭和四七年四月一一日に出生し、原告須田実と原告須田祐子は原告須田裕子の父母である。

(一六) 原告奥山太郎は、昭和四八年七月七日に出生し、原告奥山智也と原告奥山篤子は原告奥山太郎の父母である。

(一七) 原告大場健太郎は、昭和三九年一〇月三〇日に出生し、原告大場一弥と原告大場澄子は原告大場健太郎の父母である。

(一八) 原告二宮裕子は、昭和四〇年三月二二日に出生し、原告二宮一郎と原告二宮幸子は原告二宮裕子の父母である。

(一九) 原告宮沢健児は、昭和四七年七月一八日に出生し、原告宮沢昌義と原告宮沢寿子は原告宮沢健児の父母である。

(二〇) 原告福島千枝は、昭和四五年一二月一六日に出生し、原告福島由武と原告福島美智子は原告福島千枝の父母である。

(二一) 原告林千里は、昭和四八年三月二六日に出生し、原告林和夫と原告林富美子は原告林千里の父母である。

(二二) 原告仁茂田ルリ子は、昭和四八年八月八日に出生し、原告仁茂田恭一郎と原告仁茂田雅子は原告仁茂田ルリ子の父母である。

(二三) 原告植木竜夫は、昭和四五年七月七日に出生し、原告植木正弘と原告植木善江は原告植木竜夫の父母である。

(二四) 原告米良律子は、昭和四六年二月二三日に出生し、原告米良忠治と原告米良郁子は原告米良律子の父母である。

(二五) 原告戸祭智子は、昭和四八年一月一五日に出生し、原告戸祭俊之と原告戸祭俊子は原告戸祭智子の父母である。

(二六) 原告内田麻子は、昭和四七年九月一五日に出生し、原告内田耕介と原告内田恭子は原告内田麻子の父母である。

(二七) 原告後藤強は、昭和四七年六月二七日に出生し、原告後藤俊男と原告後藤そめじは原告後藤強の父母である。

(二八) 原告藤城保史美は、昭和四五年四月一五日に出生し、原告藤城紘一と原告藤城洋子は原告藤城保史美の父母である。

(二九) 原告久連山直也は、昭和四六年八月三日に出生し、原告久連山啓一と原告久連山金子は原告久連山直也の父母である。

(三〇) 原告寺西満裕美は、昭和四三年七月六日に出生し、原告寺西忠雄と原告寺西久美子は原告寺西満裕美の父母である。

(三一) 原告塩田洋子は、昭和四八年一一月五日に出生し、原告塩田利男と原告塩田けいは原告塩田洋子の父母である。

(三二) 原告浅川勇一は、昭和四六年二月五日に出生し、原告浅川又四郎と原告浅川アヤ子は原告浅川勇一の父母である。

(三三) 原告三浦由紀子は、昭和四二年二月二七日に出生し、原告三浦和夫と原告三浦順子は原告三浦由紀子の父母である。

(三四) 原告田尻享司は、昭和三三年一一月二五日に出生し、原告田尻公治と原告田尻あさは原告田尻享司の父母である。

(三五) 原告小松宏衣は、昭和四三年一一月一三日に出生し、原告小松正夫と原告小松順子は原告小松宏衣の父母である。

(三六) 原告益繁康弘は、昭和四二年一〇月一三日に出生し、原告益繁弘と原告益繁久子は原告益繁康弘の父母である。

(三七) 原告熊川佳代子は、昭和四七年七月五日に出生し、原告熊川正二郎と原告熊川和子は原告熊川佳代子の父母である。

(三八) 原告渡辺修二は、昭和四五年一二月一六日に出生し、原告渡辺広司と原告渡辺松江は原告渡辺修二の父母である。

(三九) 原告松本純子は、昭和四五年七月二三日に出生し、原告松本保弘と原告松本洋子は原告松本純子の父母である。

(四〇) 原告皆川広行は、昭和四一年九月一四日に出生し、原告皆川紀二と原告皆川キヨ子は原告皆川広行の父母である。

(四一) 原告川崎陽子は、昭和四六年一一月二二日に出生し、原告川崎明と原告川崎実保子は原告川崎陽子の父母である。

(四二) 原告池島直子は、昭和四七年一〇月二三日に出生し、原告池島定男と原告池島勝江は原告池島直子の父母である。

(四三) 原告安藤美香は、昭和四六年一〇月三〇日に出生し、原告安藤和彦と原告安藤由美子は原告安藤美香の父母である。

2 被告ら

(一) 被告国

(1) 右被告は、国立立川病院を設置し運営しており、滝直彦医師は、昭和四〇年三月二二日ころ、右病院の医師として勤務していた同被告の職員たる医師であり、原告二宮裕子の診療を担当したものである。

(2) 同被告は、国立千葉病院を設置し運営しており、森和夫医師及び芦川医師は、昭和四八年八月八日ころ、右病院の医師として勤務していた同被告の職員たる医師であり、原告仁茂田ルリ子の診療を担当したものである。また、右森和夫医師は、昭和四二年三月三日ころも右病院に勤務しており、原告三浦由紀子の診療養育を担当したものである。

(3) 同被告は、東京逓信病院を設置し運営しており、島中俊次医師、楠本医師は、昭和四六年二月五日ころ、右病院の産婦人科医として勤務していた同被告の職員たる医師であり、原告浅川勇一の診療を担当したものである。

(4) 同被告は、東大付属病院を設置し運営しており、小泉医師は、昭和三三年一一月二五日ころ、右病院の医師として勤務していた同被告の職員たる医師であり、原告田尻享司の診療を担当したものである。

(二) 被告東京都

(1) 右被告は、東京都立築地産院を設置して運営しており、儘田直久医師は、昭和四八年七月一九日ころ、右築地産院の非常勤の眼科医として勤務していた同被告の職員たる医師であり、原告奥山太郎の診療を担当したものである。

(2) 同被告は、都立豊島病院を設置し運営しており、白井徳満医師は、昭和四五年九月二四日ころ及び昭和四六年六月一〇日ころ、右豊島病院の小児科医として勤務していた同被告の職員たる医師であって、原告原山清及び原告高橋佳吾の診療を担当したものであり、鈴木弘一医師は、昭和四六年六月一〇日ころ、右豊島病院の眼科医として勤務していた同被告の職員たる医師であって、原告高橋佳吾の診療を担当したものである。

(3) 同被告は、都立八王子乳児院を設置し運営しており、松尾準雄医師、宇居医師、日野原正幸医師は、昭和三九年一〇月三〇日ころ、右病院に小児科医として勤務していた同被告の職員たる医師であって、原告大場健太郎の診療を担当したものである。また、沢田医師及び二木医師は、昭和四二年一月一二日ころ、右八王子乳児院に小児科医として勤務していた同被告の職員たる医師であって、前記日野原医師とともに原告春原健二の診療を担当したものである。江木医師及び長田伍医師は、昭和四七年四月一七日ころ、右八王子乳児院に小児科医として勤務していた同被告の職員たる医師であって、原告須田裕子の診療を担当したものである。

(4) 同被告は、都立大久保病院を設置し運営しており、小沼昌之医師は、昭和四二年一〇月一三日ころ右病院に、小児科医として勤務していた同被告の職員たる医師であって、原告益繁康弘の診療を担当したものである。

(5) 同被告は、都立墨東病院を設置し運営しており、篠塚輝治医師は、昭和四三年一二月六日ころ、右病院に小児科医として勤務していた同被告の職員たる医師であって、原告小松宏衣の診療を担当したものである。

(三) 被告神奈川県

右被告は、神奈川県立足柄上病院及び神奈川県立こども医療センターを設置して運営しており、洲崎淳二医師は、昭和四六年一一月二二日ころ、右県立足柄上病院に産婦人科医として勤務していた同被告の職員たる医師であって、原告川崎陽子の診療を担当したものであり、小宮弘毅医師、大槻医師(両名は小児科医)及び秋山明基医師(眼科医)は、昭和四七年一〇月二三日ころ右県立こども医療センターに勤務していた同被告の職員たる医師であって、原告池島直子の診療を担当したものである。

(四) 被告医療法人社団美誠会

右被告は、井出病院を経営しているものであるが、中條文四医師は、昭和四六年四月三〇日ころ、右病院に勤務する産婦人科医であって、原告高橋佳吾の診療を担当したものである。

(五) 被告医療法人社団米山産婦人科病院

右被告は、米山産婦人科病院を経営しているものであり、米山国義医師は、右被告の代表者理事たる産婦人科医であり、昭和四七年四月一一日ころ、原告須田裕子の診療を担当したものである。

(六) 被告久保田玉子、同久保田繁、同田中シズ子、同早田いつ子(以下「被告久保田ら」という。)

死亡前被告久保田梧楼は、久保田産婦人科病院の名称で医療行為に従事し、昭和四八年七月七日ころ、原告奥山太郎の診療を主として担当したものである。被告久保田らはいずれも死亡前被告久保田梧楼の子であり、相続によりそれぞれ死亡前久保田梧楼の地位を承継した。

(七) 被告医療法人財団慈啓会

右被告は、大口病院を経営しているものであり、大江医師、黒須医師、村岡医師、西山医師は、昭和四六年一〇月当時右病院に勤務していた小児科医であり、原告安藤美香の診療を担当したものである。

(八) 被告社団法人全国社会保険協会連合会

右被告は、社会保険埼玉中央病院を経営しており、本村晴光医師は昭和三七年一〇月ころ及び昭和四〇年二月ころ右病院に勤務していた小児科医であり、原告染谷さとみ及び原告鈴木春江の診療を担当したものである。

(九) 被告日本赤十字社

(1) 右被告は、大宮赤十字病院を経営しており、本多忠典医師は昭和四〇年一〇月ころ、昭和四四年二月ころ及び昭和四六年八月ころ右病院に勤務していた医師であり、原告石井久子、原告浅井一美及び原告久連山直也の診療を担当したものである。

(2) 同被告は、日本赤十字社渋谷産院(現在は日本赤十字社医療センターとなっている。)を経営しており、昭和四四年一月と昭和四五年四月ころ、中嶋唯夫医師は右病院に勤務していた小児科医であり、梶利一医師は依頼されて右病院において眼底検査を担当していた眼科医であり、いずれも原告矢田佳寿代及び原告藤城保史美の診療を担当したものである。

(3) 同被告は、大森赤十字病院を経営しており、真田幸一医師、寺木医師、松浦医師、西井医師は右病院に昭和四七年九月ころ勤務していた産婦人科医であり、原告内田麻子の診療を担当したものである。

(4) 同被告は、葛飾赤十字産院を経営しており、赤松洋医師と清水由規医師は昭和四八年から四九年にかけて右病院に勤務しており、原告塩田洋子の診療を担当したものである。

(5) 同被告は、新宿赤十字未熟児センター室を経営しており、山下泰正医師は昭和四六年二月ころ右病院に勤務していた小児科医であり、原告米良律子の診療を担当したものである。

(6) 同被告は、横浜赤十字病院を経営しており、宮井哲郎医師は昭和四七年六月ころ右病院に勤務していた産婦人科医であり、原告後藤強の診療を担当したものである。

(一〇) 被告医療法人仁寿会(財団)

右被告は荘病院を経営しており、荘寛医師(院長)、荘進医師(副院長、)武田秀雄医師は昭和四三年七月当時右病院に勤務していた産婦人科医であり、原告寺西満裕美の診療を担当したものである。

(一一) 被告医療法人愛生会

右被告は愛生会病院を経営しており、宮本みつ医師は昭和四七年七月当時右病院に勤務していた小児科医であり、原告猪井未央の診療を担当したものである。

(一二) 被告君津郡市中央病院組合

右被告は君津中央病院を経営しており、時永達巳医師は昭和四五年七月当時右病院に勤務していた医師であり、原告植木竜夫の診療を担当したものである。

(一三) 被告旭中央病院組合

右被告は旭中央病院組合を経営しており、桑島斎三医師と鈴木純行医師は昭和四八年三月当時右病院に勤務していた産婦人科医であり、原告林千里の診療を担当したものである。

(一四) 被告芦屋市

右被告は芦屋病院を設置し経営しており、小泉英雄医師、中川佳代医師は昭和四八年一月当時右病院に勤務していた小児科医であり、原告戸祭智子の診療を担当したものである。

(一五) 被告医療法人社団深田病院

右被告は深田病院を経営しており、深田チエ医師は右病院に勤務する小児科医であり、昭和四五年七月当時に原告松本純子の診療を担当したものである。

(一六) 被告三橋信

右被告は三橋医院の名称で医療に従事している産婦人科医であり、昭和四五年一二月ころ、原告渡辺修二の診療を担当したものである。

(一七) 被告株式会社日立製作所

右被告は日立総合病院を経営しており、福地恒行医師は昭和四一年九月ころ右病院に勤務していた産婦人科医師であり、原告皆川広行の診療を担当したものである。

(一八) 被告社会福祉法人恩賜財団済生会

右被告は埼玉県済生会川口総合病院を経営しており、岡村泰医師は右病院に勤務している医師であり、昭和四一年一一月ころに原告青木康子の診療を担当し、昭和四七年三月ころに原告池田健一の診療を担当したものである。真柄医師も右病院に勤務していた医師で昭和四一年一一月ころに原告青木康子の診療を担当したものである。

(一九) 被告名古屋市

右被告は名古屋市立城北病院を設置し経営しており、海部園子医師は右病院に勤務している医師であり、昭和四〇年七月ころに原告長島弘継の診療を担当したものである。

(二〇) 被告内野閉

右被告は内野産婦人科医院の名称で医療に従事しているものであるが、昭和四二年七月ころ、原告伊藤慶昭の診療を担当したものである。

(二一) 被告太田五郎

右被告は太田病院の名称で医療に従事しているものであるが、昭和四五年一二月ころ、原告福島千枝の診療を担当したものである。

(二二) 被告加藤末子

右被告は、加藤病院の名称で医療に従事していたものであるが、昭和四七年七月ころ、原告宮沢健児の診療を担当したものである。

(二三) 被告秋田県

右被告は、秋田県立中央病院を設置し運営しており、大野忠医師は右病院に勤務する小児科医であり、昭和四三年七月ころ、原告友田英子の診療を担当したものである。

(二四) 被告浦安市市川市病院組合葛南病院

右被告は、葛南病院を経営しており、佐野慎一医師は右病院に勤務する産婦人科医であり、昭和四七年七月ころ、原告熊川佳代子の診療を担当したものである。

(二五) 被告岩倉理雄

右被告は、岩倉病院の名称で医療に従事している産婦人科医であり、昭和四三年一一月ころ、原告小松宏衣の診療を担当したものである。

二  原告患児らに対する治療行為と原告患児らの失明

1 原告原山清

(一) 原告原山清(以下この項において「原告清」という。)は、昭和四五年九月二三日午前一時三七分、訴外村山病院において、在胎週数二八週と二日、生下時体重一三一五グラムで出生した。訴外村山病院は産科しかなかったので、同病院の勧めで、同年九月二四日午後〇時三〇分、被告東京都が設置し運営する都立豊島病院(以下この項において「被告病院」という。)へ転医し入院した。

(二) 原告清が被告病院に入院した昭和四五年九月二四日午後〇時三〇分ころ、原告清には全身チアノーゼが認められ、呼吸数も多かった。そして、被告病院の担当医は直ちに保育器に収容し、保育器内の酸素濃度が三〇パーセントとなるように酸素投与をするよう指示した。

(三) 翌九月二五日になると原告清のチアノーゼも軽減してきて、同日午前〇時からはチアノーゼが顔・口周囲・四肢末端に限定されるようになり、同日午後四時以降は口周囲と四肢末端に限定されるようになってきた。そして、呼吸状態についても、呼吸不整や陥没呼吸はあったが、午前八時以降は呼吸窮迫というべき症状はなかった。そして、この日も原告清に対して三〇パーセントの酸素投与を継続した。

(四) 九月二六日、担当医は九月二八日午前から酸素の投与量を減らし保育器内の酸素濃度を二八パーセントとするように指示し、同日及び翌二七日も原告清に対して三〇パーセントの酸素投与を継続し、同月二八日からは環境酸素濃度を二八パーセントにした。

(五) 九月二九日夜から三〇日にかけて、原告清が吐乳したため、九月三〇日から再び環境酸素濃度を三〇パーセントとするように指示された。そして、一〇月五日まではこの投与量が継続され(一〇月一日に、一〇月四日朝から環境酸素濃度を二八パーセントとするように指示がなされたが、実行されなかった。)、一〇月六日に環境酸素濃度を二八パーセントとするように指示がなされた。その間、一〇月一日には吐乳の原因は便秘であることが判明したし、一〇月三日には呼吸状態は良好であった。原告清は、一〇月六日と八日にはオイルバスを受けた。そして、一〇月一二日、原告清に対する酸素投与は中止された。

(六) 一〇月二二日、早朝から原告清には無呼吸発作が継続し、四肢末端のチアノーゼがみられたため、医師の指示のないまま看護婦により、流量毎分〇・五リットル、環境酸素濃度二八パーセントの酸素投与が再開された。さらに、同日午前九時一五分にも無呼吸発作があり、無呼吸状態から回復させるため、原告清を刺激するとともに、毎分五リットルの酸素を投与した(この時の投与時間は不明であり、環境酸素濃度は測定されていなかった。)。その結果、原告清はまもなく回復し、正午には、チアノーゼは鼻・口周囲に限定されるようになり、酸素の投与量も毎分〇・九リットルとなり、環境酸素濃度は三一パーセントであった(この日の医師の指示では三〇パーセントであった。)。

一〇月二三日、原告清は発熱したが、チアノーゼは口・鼻周囲に限定されていたし、夕方の注射の時には強い啼泣がみられた。一〇月二四日、原告清の熱は下がり、強い啼泣もみられた。

(七) 一〇月二五日午前三時、原告清は顔面が蒼白になり、無呼吸発作を起した。そこで担当医は原告清を刺激するとともに、毎分三リットルの酸素を投与した(この時の酸素濃度は測定されていない。)。その結果、間もなく原告清の症状は回復に向った。そして、その後も環境酸素濃度が三〇パーセントとなるように酸素投与を継続した。一〇月二六日からは原告清の活動力は良好であったが、担当医は、原告清の症状は肺炎であると診断し、それに対して酸素投与が必要であると考えて、肺炎が軽快したと認められた一一月四日まで酸素投与を継続した。

(八) 一一月五日から同月二〇日までは環境酸素濃度二八パーセントの酸素が投与され、さらに同月二一日から同月二三日まで環境酸素濃度二五パーセントの酸素が投与され、同月二三日に最終的に酸素投与を中止した。結局、原告清に対しては五二日間(一九日間と三三日間)にわたって酸素投与がなされた。

(九) 被告病院では、原告清の九六日間の入院中、一度も眼底検査を眼科医に依頼して実施しておらず、退院時においても眼底検査の必要性について何ら注意をしなかった。

(一〇) 原告清は未熟児網膜症に罹患して、両眼とも失明するに至った。

2 原告池田健一《省略》

3 原告石井久子関係《省略》

4 原告高橋佳吾《省略》

5 原告長島弘継《省略》

6 原告染谷さとみ関係《省略》

7 原告鈴木春江関係《省略》

8 原告青木康子関係《省略》

9 原告猪井未央関係《省略》

10 原告浅井一美関係《省略》

11 原告春原健二《省略》

12 原告伊藤慶昭《省略》

13 原告矢田佳寿代《省略》

14 原告友田英子《省略》

15 原告須田裕子《省略》

16 原告奥山太郎《省略》

17 原告大場健太郎《省略》

18 原告二宮裕子《省略》

19 原告宮沢健児《省略》

20 原告福島千枝《省略》

21 原告林千里《省略》

22 原告仁茂田ルリ子《省略》

23 原告植木竜夫《省略》

24 原告米良律子《省略》

25 原告戸祭智子《省略》

26 原告内田麻子《省略》

27 原告後藤強《省略》

28 原告藤城保史美《省略》

29 原告久連山直也《省略》

30 原告寺西満裕美《省略》

31 原告塩田洋子《省略》

32 原告浅川勇一《省略》

33 原告三浦由紀子《省略》

34 原告田尻享司《省略》

35 原告小松宏衣《省略》

36 原告益繁康弘《省略》

37 原告熊川佳代子《省略》

38 原告渡辺修二《省略》

39 原告松本純子《省略》

40 原告皆川広行《省略》

41 原告川崎陽子《省略》

42 原告池島直子《省略》

43 原告安藤美香《省略》

三  未熟児の全身管理に関する医療水準

1 全身管理の重要性

未熟児の全身管理が重要であることは次の発言からも知ることができる。

すなわち、昭和五〇年七月一八日・一九日の両日、北海道厚生年金会館で開催された第一一回日本新生児学会総会学術講演会で名古屋市立大柴田隆は次のように述べている。

「未熟性を最も特徴とする極小未熟児の長期予後の成績を世界に求めると(中省略)一九六六年以後の保育例においては、その発症をみない。これと同時に、ろう唖、脳性マヒ等中枢神経系の後遺症も減少しており、また、私共でも同様の成績を得ている。この様に未熟児診療体制の異る各々の国において同じ様な好成績が得られている事は、出生初期の酸素療法のみならず全てのケアーの重要性を示すものである」(第一一回日本新生児学会総会学術講演会抄録)

このように、未熟児のintact survivalは、到達し得ない理想なのではなくて現実の目標なのであり、それは、未熟児の全身管理の徹底とその一環としての注意深い酸素管理によって達成可能なのである。

ここでは酸素管理を除いた全身管理について述べる。

2 注意深い全身的観察とその記録の必要性

(一) 一般に患者の状態を注意深く観察することは、医師にとっても看護婦にとっても診療の基本というべきものである。特に、未熟児においては、全ての面に当り状態が不安定で時々刻々と変化するものであり、したがって、全身状態、皮膚の色、体温、呼吸数、脈拍数その他さまざまな点について継続的な観察、監視が必要不可欠である。このことは、未熟児のことを知っている者であれば誰もがその必要性を認識し得るはずのものであり、以下に一部を紹介するように古くから強調されていたことであった。

(1) 「(4)監視の継続 嘔吐というような、成熟新生児にとっては殆ど問題にならぬ些細な出来事も、未熟児にとっては屡々生命をおびやかすことがあるから、看護にあたる者は、終日、注意深い監視をおこたってはならない。そして、下記の様な異常を発見した場合には、即刻医師に報告し適切な処置を取るべきであると考えられる。即ち、①運動不安、異常に静かな状態、痙攣等の全身運動の異常、②チアノーゼ、蒼白、異常発赤、早期黄疸等の皮膚色異常、③呼吸停止、不整呼吸、頻数呼吸等の呼吸異常、④長時間覚醒していること、嗜眠等の睡眠異常、⑤呻き声、⑥嘔吐、⑦発熱、⑧出血等である。」(『小児科最近の進歩』昭和三一年一月発行、未熟児の看護の項。馬場一雄執筆八五頁)。

(2) 「未熟児の容態の変化は激しく時々刻々変わることが多い。呼吸の状態が変り、チアノーゼが急に出現することがある。嘔吐が思わざるときに起こったり、あるいはしきりに起こる場合もある。急に腹部膨満を起こしたり、けいれんが始まることもある。これらの、いろいろの症状と変化を絶えず観察して、ただちに適宜の処置をとらなければならない。目で見るだけでなく、うなり声や泣き声の変化にも耳で深く聞く必要がある。勤務者は勤務時間中はすべての感覚器官を緊張して働かせねばならない。なかなか困難で疲労も感ずるであろうが、ちょっとした見のがしのために、未熟児の命にかかわるようなことが起こる。そこで観察、注意すべきことのおもなものは次の点である。」(以下活動力、呼吸(チアノーゼ・周期・胸廓の形と運動・呼吸数)黄疸、浮腫、脱水症、貧血その他につき観察の内容を説明している。)(未熟児シリーズ第二条『未熟児の保育と栄養』昭和三四年一一月発行、大坪佑二執筆九頁~一三頁)。

(二) 右に、昭和三五年までの単行本記載のうち、一部のものを引用したが、この他にも継続的な監視の必要性に関する記載は枚挙にいとまがない。

かように、未熟児の保育に当っては、綿密な継続的観察とその記録が必要であり、そのことは古くから認識されており、チェックリストのようにそのための合理的方法が考察されてきたことが理解されよう。看護記録を含めたカルテに記録することの法的義務は別としても未熟児の命と脳を守るために真剣に努力し、誠心誠意、治療、看護を行うためには今まで述べてきたような記録が必要不可欠なのである。したがって、体温表(経過表)、看護日誌、指示録、医師診療録など、カルテ全体として、記載がどの程度の内容、詳しさであるか、ということは、その未熟児の保育に携さわった医師・看護婦の知識と熱意を示す一つの指標であるといえよう。

この意味から、被告らのカルテを検討してみると、その記載状況はきわめて不充分といわざるを得ないのである。すなわち、カルテらしきものが殆どないとか、未熟児保育に当って最も基本的な情報である在胎期間、出生児体重すらカルテに見当らないとか、常識を疑わせるような例が少からずあるのをはじめ、看護婦による満足な記載が殆どみられない例は多数認められ、充分な医師の記載があるものは二割程度に過ぎないという実態なのである。

3 保育器の管理上不可欠な事項

そもそも、保育器は、感染を予防しつつ、体温調節機能の不充分な未熟児に対し環境温度を適正に保ち、体温を適正に維持するために考案されてきたものであり、また温度と共に重要な環境因子である湿度の調節も目的の一つである。したがって、保育器内の温度と湿度が適正に保たれているかを常にチェックし、その時間的変化の確認のためにも温度、湿度を記録しておくことが必要とされる。しかるに、被告らのカルテをみると、このような基本的な保育器内温度・湿度の測定、記録すら行われていない例が少なくないのである。また、未熟児は細菌感染に対する抵抗力がきわめて弱く、感染を予防するための対策は、古くから未熟児医療における主要なポイントの一つであった。そして、ひとりの未熟児から他の未熟児への細菌感染が拡がっていくこと(交互感染)を防ぐために早くから個別的看護ということが強調されていた。しかるに、被告らの中には、一つの保育器に二名の未熟児を収容していた例がある。

4 体温の維持の重要性

未熟児は体温調節能力に欠け、環境温の低下により容易に低体温をきたす。したがって、適当な環境温度の調整によって、体温を一定の適正なレベルに安定させることが未熟児の保育に当って最も重要な要件の一つであり、保育器が作られた主要な目的もここにある。以下、低体温の危険性を説明する文献を一部引用する。

(1) 「未熟児の体温が低体温に傾き、またその安定が困難であることは広く認められている事実である。環境温度の低下によって体温の下降が起ると、凡ての臓器組織における細胞の生活力が低下し、またおそらくは呼吸酵素の作用が減弱するためにチアノーゼを発し死に至ることも稀でない。」(『小児科最近の進歩』昭和三一年一月発行、馬場一雄執筆五〇頁)。

(2) 「小さい未熟児では著明の低温を示す。三四度台になるのも少なくないが、三三度以下になれば生命の危険が増大する。」(『未熟児シリーズ第二集、未熟児の保育と栄養』昭和三四年一一月発行、大坪佑二執筆六頁)。

(3) 「直腸温が摂氏34度以下に下降した未熟児は死亡することが多く、32度以下の症例の予後は絶対的に不良であるから、保育器や保温ベッドを用いることが未熟児保育の一般的術武となっている」(『産婦人科治療大系』昭和三七年一二月発行、馬場一雄執筆五九九頁)。

(4) 「普通または増量した酸素濃度においては基礎代謝(及び酸素必要量)は周囲の温度(及び体温)が低下するにつれて、かえって増大する。」。

「著者の経験では、直腸体温が摂氏35度以下にさがった未熟児では、肺硝子膜症を伴う拡張不全と、高ビリルビン血症との両方が増加する。」(クロス著、大坪佑二訳『未熟児』原著昭和三六年発行、日本語訳昭和三八年六月発行五二頁)。

(5) 「未熟児では熱産生が少なく、熱喪失が大きいため体温が下降しやすい。低体温ではかえって基礎代謝が増大することも知られている。とくに生後間もない間保温に注意しないと著しい低体温となり、硬化性浮腫、肺炎などを合併して死亡する場合がある」(『臨床小児科全書』第一巻、昭和四一年四月発行、中村仁吉執筆一九七頁)。

(6) 「体温の低下は新生児型循環から胎児型循環への逆行を招き動静脈混合をおこし特発性呼吸障害の原因となることも考えられる。また体温の低下は呼吸中枢の昂奮性を低下させ、呼吸停止、発作を招きやすい。」(『四季よりみた日常小児疾患診療のすべて』昭和四六年九月発行、山内逸郎執筆二四七頁)。

一時期、低体温の方が好ましいという主張が一部でなされたことがあるが、この説はすでに否定されている。例えば次の文はこれを良く示している。

(7) 「未熟児を保温することは古くからの常識となっていたが、これに対して低温で保育したほうが酸素消費量が少なくてすみ、基礎代謝も低いから好影響を与えるであろうという考えから、未熟児を従来の常識よりも低い温度で保育することを試みた研究者もある。しかし、最近海外で発表されたいくつかの論文は未熟児に対する保温の必要性を再確認している。」(以下その論文を紹介している)(『現代小児科学大系第二巻』昭和四二年一月発行、村田文也執筆一五四頁~一五五頁)。

具体的な体温維持の目安などについて次に一部引用しておく。

(8) 「保温を行うにあたって、適当な体温のレベルにも増して重要な目やすと考えられるものは体温の動揺であるが、Am Acad of Pedの指針は腋窩体温の動揺を摂氏一度以内に止むべきことを述べ、我国の小児保健部会の指針もまた、多少の低体温は余り問題とするにあたらず、むしろ体温の動揺を警戒すべき旨述べている。」(前掲(1)『小児科最近の進歩』昭和三一年一月発行五〇頁)。

(9) 「体温は摂氏三六度ないし三七度の間で安定していれば理想的であるが、しばしば35度以下のことがある。この場合無理に体温を上げることなく、体温の動揺を最少限にするようにつとめる」(『今日の治療指針一九五九年版』昭和三四年六月発行、未熟児の保育法の項、斎藤文雄、江口篤執筆四五七頁)。

(10) 「保育器内又は、コット内の温度及び湿度は概ね表30(表28の誤記と思われる)の模型に従って調節する。但し、生下時一五〇〇g以下の未熟児は生後五日間は肺硝子腫症を予防する意味で、できるだけ飽和に近い高湿環境に置く(中省略)ここに示した温度、湿度の模型は、大まかな目やすであるから、子供の状態に応じて適当な改変を要する場合がある。」

『東大小児科治療指針第三版』昭和三六年六月発行三二一頁)。

表28 未熟児の保育環境

体重

温度℃

湿度(%)

保育器具

1200

1400

2000

2500

3000

34

70

保育器

(インキュベーター)

32

30

60

コット又は行李ベット

27

25(気候馴化)

50

(11) 「体温を特定の温度まであげることを狙うよりは、安定した体温を保つことのほうが、はるかに大切である。直腸体温が摂氏35度以下にさがらなければ心配はないことは、経験で判っている。」(クロス著、大坪訳『未熟児』昭和三八年発行)。

(12) 「最少の熱量消費で生理機能を保ち得るような気候条件が必要である。そのためにはいわゆる不感環境温に維持する。……(中省略)……一般にいえば直腸温を摂氏三六度ないし三七度に維持するように保育器を調整することが望ましい。」(『四季よりみた日常小児疾患診療のすべて』昭和四六年九月、山内逸郎執筆二四七頁)。

5 黄疸(高ビリルビン血症)の管理の必要性

血液中のビリルビンが増加し、そのために皮膚、眼球結膜などが黄染するのを黄疸と称する。一般に新生児においては、正常でも一時期血液中の間接型ビリルビンが増加し、黄疸を呈する。これは新生児黄疸とよばれる。母児間の血液型不適合などによって、血液中の間接ビリルビン値が一定値以上に異常となると、新生児の脳がおかされ、その結果死亡するか、あるいは死を免れても重大な脳障害を後遺症として残す。この高ビリルビン血症による新生児の脳障害は核黄疸とよばれ、古くから知られていたことであった。そして、特に未熟児においては、成熟新生児よりも核黄疸を起し易く、血液型不適合による新生児溶血性疾患がなくとも、核黄疸が生じてくることも広く認識されていた。

したがって黄疸についての観察と治療は未熟児の保育に当って最も重要なことの一つであり、黄疸の有無やその程度についてのチェックは、未熟児保育において必要不可欠なことであった。そして黄疸がある程度強い場合は、血液中のビリルビン濃度を測定し、それが一定値以上であれば、核黄疸を予防するために交換輸血を行わなければならないことは、古くから常識となっていた。表面的にもある程度客観的に黄疸の程度を評価するための手段として、イクテロメーターなどが考案されてきている。また、治療として、交換輸血の他に、ACTH(副腎皮質刺激ホルモン)その他の薬物療法も出現したが(昭和四三年~四五年頃から普及した光線療法はある程度別として)、いずれも交換輸血に替り得るものではなかった。

未熟児の生命及び脳を守るために黄疸の観察及び治療がいかに大切であるかということは次の文献からもわかる。

「黄疸さえうまく治療されていれば、知能障害を何ひとつ残さなかったであろうと考えられる未熟児も多いのである。」(『新生児期の医学』昭和四四年四月発行、山内逸郎執筆一四二頁)。

しかるに、被告らの黄疸に対する管理は全体的にみればきわめて不充分なものであった。黄疸に関するチェックの記載すら全くない例も少くなく、生後四日目からイクテロメーターで五度という強度の黄疸が続きながらビリルビン値の測定もせず、八日目になってやっとACTHの注射を開始した例もあり、黄疸の管理が杜撰、不充分な例が被告らの行った本件診療の半数以上にのぼっているのである。

6 呼吸障害に対する全身的管理の必要性

(一) 酸素は、呼吸障害に対して与えられるものであるが、呼吸障害に対する治療はただ酸素を投与することのみではない。酸素が未熟児に対して持つ副作用を考えると、呼吸障害の原因のチェック、呼吸障害の正確な状態評価、それに基づいた酸素を含めた全身的な治療が一体となって初めて妥当な治療であるといえるのである。

一般に患者が何らかの異常を呈した場合、その原因を追及すべきことは当然であり、未熟児の呼吸障害についても、その原因追及の必要性は次の文章を引くまでもなく明らかであろう。

(1) 「未熟児の呼吸障害の治療―呼吸障害の原因としては、子宮内の無酸素症、肺拡張不全、肺硝子膜症、その他気胸、横隔膜ヘルニアなどもあるゆえ、その原因を追求したうえで適切な治療をほどこすべきである。」(『今日の治療指針一九六五年版』昭和四〇年七月発行、小川次郎、下野丈司執筆四九〇頁)。

(2) 「新生児の呼吸障害に対しては早い処置が必要であるから、鑑別診断を速かに行なわねばならない。そのためには、あり得べき原因、発現時期、臨床症状のほかに胸部レ線検査が役立つ。

表26―新生児の呼吸障害の原因

中枢神経障害

1 麻酔 2周産期無酸素症 3 頭蓋内出血 4 中枢神経系奇型。

末梢性呼吸困難

1 肺拡張不全 2 肺うっ血 3 肺硝子膜症 4 羊水嚥下 5 肺炎 6 横隔膜ヘルニア 7 肺嚢胞 8 肺気腫 9 気胸 10 食物誤嚥」

(『小児科学』蒲生逸夫著、昭和四〇年五月発行六一頁)。

(二) 呼吸障害の治療は、たとえば肺炎であればそれを起している細菌に対する抗生物質の投与、横隔膜ヘルニアであれば外科的処置、心不全によるうつ血のためであれば強心剤の投与、低血糖によるものであれば低血糖の是正などというように、原因がはっきりしているものに対して、その原因に対する治療を行うべきであることは勿論、対症療法として、酸素投与だけでなく、保温、充分な湿度の保持、腹部膨満の回避、気道分泌物の吸引などが必要とされてきている。さらに一九五九年Usherは呼吸障害によって血液が酸性に傾き(これを酸血症あるいはアシドーシスと称する)、それがさらに症状を悪化させることから、アシドーシスに対し重曹を静脈内に投与する、いわゆるアルカリ療法を提唱した。これは間もなく日本に紹介されている。例えば、『新生児学』(昭和三八年九月発行、新生児未熟児講習会編)の中では、新生児、未熟児の呼吸障害に対する予防及び治療として、一般的養護(安静、体位変換、気道分泌物吸引、食餌は最小限にとどめ、腹部膨満を避ける)酸素投与、湿度、呼吸回復のための処置(胸・足への刺激、気道吸引、横隔膜、電気刺激、蘇生器)などを述べた後、次のように書かれている。(呼吸障害の際の)「代謝異常に対する治療として呼吸障害児にアシドーシスの強いこと、血中Kの上昇などがみとめられることからUsherは次の治療法を提唱している。すなわち、呼吸障害児及び一キログラム以下の未熟児について生後三時間以内に血中CO2及びpHを測定し、静脈内に一〇パーセントブドウ糖と重曹水を注入する。液量はキログラムあたり65cc、初期のpHが七・二以下であった場合および臨床状態の悪いときは六~二四時間ごとに再測定をおこない、結果により重曹水をそれぞれの濃度に従って混注する。……(中省略)……かかる治療を始めてからUsherは、生下時一キログラム以下の未熟児の死亡が九五パーセントから六〇パーセントに下がり、また呼吸障害児の死亡児が半数になったという。」。『新生児学』(昭和四一年二月発行、産婦人科学会、新生児委員会編)においても「新生児初期の呼吸障害におけるacidosisの意義が重要視されているおりから、これに対する治療が近年広く行なわれ比較的好評を博している」として具体的な方法の紹介があり、『今日の治療指針一九六五年版』、『臨床小児科全書第1巻』(昭和四一年四月発行)『未熟児の保育』(昭和四一年一一月発行、馬場一雄著)その他多くの本の中で、アルカリ療法が推奨されている。

7 栄養補給と低血糖症の予防

未熟児保育に当って最も基本的なことの一つである栄養・水分補給に関して、従来、未熟児では嘔吐の危険性などから、生後しばらくは飢餓期間とし、その後ミルクを徐々に増量しながら投与していく方法が採られている。飢餓期間は一日~三日長くて四日間で出生時体重が低いほど長くとされていたが、この間に体重減少が著しかったり脱水を呈したときには非経口的に水分を補給することが必要とされていた。しかし、低血糖には次のような危険性があることが明らかになっていた。すなわち、低血糖症が無呼吸発作、チアノーゼをきたすことが、昭和三四年のCornbathの報告以来徐々に認められるようになり、『新生児病学』(昭和四三年四月発行、馬場一雄著)、『臨床小児科学』(昭和四四年発行、加藤寿一著)などに解説されているが、山内は次のように実際的に説明している。

「出生体重の小さい未熟児によくみられる無呼吸発作は血糖値の低いものに特に多い。呼吸障害のあるものでは、血糖の測定は重要である。出生当日四〇ミリグラム(一デシリットル当り)以上あった血糖値が、二日目には二〇ミリグラム以下に下ることはまれでない。一般に二〇パーセントブドウ糖液を静脈内に投与したり一〇パーセントブドウ糖液を点滴輸液することによって無呼吸発作をいちじるしく減少させることができる。」(『四季よりみた日常小児診療のすべて』昭和四六年九月発行、山内逸郎執筆)。

そして、低血糖症の危険性の認識などに伴い飢餓期間は短縮される傾向にあり、また極小未熟児の場合生後間もなくから、ブドウ糖液などの点滴をルーチノンに行う方向に進んできている。栄養補給の妥当性を判断する指標となるのは体重の推移であり、その標準としてHoltの体重曲線(一九四八年)が広く用いられてきた。

四  未熟児網膜症の発症予防に関する医療水準

1 原告患児らの出生当時において、未熟児の保育に当る医師は、未熟児網膜症の発症を予防するため、必要最少限の量を超えた酸素を未熟児に供給してはならない義務を負っていた。そして、その義務の内容は具体的には次のとおりであった。

(一) 酸素療法の適応(必要性)は、全身チアノーゼまたは呼吸窮迫(Respiratory Distress)であり、これらの症状のないときに酸素投与をしてはならない。ここにいう呼吸窮迫とは、呻吟、肋骨陥没呼吸、多呼吸(呼吸数が六〇を超えている状態)、のうち二つ以上の症状を合併しているものをいう。また、手・足・耳などのような末梢におけるチアノーゼは酸素療法の適応ではない。そして、無呼吸発作(呼吸停止が三〇秒以上にわたって停止する場合をいう。)が起っている場合には、無呼吸の状態では酸素を供給しても役立たない一方、発作から回復すれば過剰な酸素を吸う結果となるだけであるので、保育器内の酸素濃度を上昇させるなどの必要はない。周期性呼吸や不正呼吸はいずれも酸素療法の適応ではない。

(二) 酸素の供給中は頻回に児の状態を観察し、児の状態が改善されて酸素療法の適応が認められなくなったら、直ちに酸素供給を止めなければならない。

(三) 酸素濃度はチアノーゼを指標として調節し、チアノーゼが消失して児の状態が良好となる最低濃度で供給しなければならない。また、一日一回は酸素濃度を下げてチアノーゼの出現する酸素濃度を測定し、それに応じて酸素供給量を調節しなければならない。

(四) 動脈血中酸素分圧(PaO2)の測定が可能であるときには、供給する酸素の量は、動脈血中酸素分圧が一〇〇mmHgを超えることなく六〇ないし八〇mmHgに保たれるように調節しなければならない。

(五) 酸素投与は必ず医師の指示に基づいて行われなければならず、その指示は記録されなければならない。また、酸素供給中は、頻回に酸素の環境濃度を測定し、児の状態と併せて記録し、もって、医師、看護婦が児の状態の判断を誤り、ひいては誤った酸素供給、看護を行うのを防止しなければならない。

(六) 酸素マスクや鼻腔カテーテルによる酸素投与は高濃度の酸素を児の肺に吸入させる危険があるから許されない。また、一つの保育器に二児以上を同時に収容することは、個別的な酸素管理を不可能にするとともに感染症発生の危険を増大させるだけであるから、いずれもそれ自体危険な方法であり、行ってはならない。

2 右の酸素投与に関する治療指針が、原告患児らの診療当時において、臨床の実践において準拠すべきものであったことは次の医学文献の記載からも裏付けることができる。

(一) 未熟児に酸素を投与するには、適応条件がなければならない。酸素もまた、薬品であるからである。そして、酸素は、児の状態に即して必要にして最少限、できるだけ短い期間、注意深く投与されなければならない。

未熟児に酸素投与が必要とされるのは、呼吸障害やチアノーゼの強い場合である。これらを放置すれば、低酸素血症となり、脳障害を起したり、死亡したりする危険があるからである。他方、過剰に酸素が与えられると未熟児網膜症を発症する危険のあることは既に述べたとおりである。

また、呼吸障害の最も大きな原因となる呼吸窮迫症候群(RDS)についてみれば、生後三日間に最も起りやすく、生命が数日維持されれば、自然にそして急速に回復するものである。

このことは、わが国においても、指摘されている。たとえば、

(1) 「新生児学」(昭和三八年九月一日、新生児未熟児講習会編、小川次郎、飯田稔子執筆、世界保健通信社)において、

(IRDSは)「多くは四八時間以内に死亡するが、それ以上生存し得た場合は、これらの呼吸障害は自然に消失する」

「四八時間生存しうれば、順調な経過をとりうるものも多いのであって、出生後時間との関係においてその予後は画然としてくる」(三四三頁)。

(2) 「未熟児に多い病気」(馬場一雄「産婦人科治療」一五巻二号、昭和四二年八月、一八七頁)において、

(RDSについて)「更に進むと、無呼吸発作(若しくはチアノーゼ発作)が始まり、この発作は次第にその頻度と程度を増し、通常、生後三日以内に死亡する。四日以上生存すると、それ以後に死亡することはまれで、数日の間に次第に症状がとれて自然に治癒する。」

また、チアノーゼも、酸素を投与しなければならないのは、ごく限られた時間であり、チアノーゼがなくなれば直ちに酸素投与を止めなければならない。

酸素療法に関する右の必要最少限という原則は、わが国においても、遅くとも昭和三〇年代の初めには説かれており、その内容が医学の進歩とともにより具体化されることはあっても、基本的には現在に至るも変ってはいない。

(二) 我国における未熟児網膜症の研究と酸素療法の歴史は次のとおりであった。

(1) 昭和二〇年代

昭和二〇年代の後半には、未熟児網膜症が酸素投与と関係ありとする研究が紹介され、研究者も熊本医大眼科(三井幸彦ら)、国立公衆衛生院(辻達彦)、岡山大(赤木五郎ら)、徳島大眼科(水川孝ら)、日本医科大(三谷茂)、賛育会(馬場一雄ら)、東京医歯大(大島祐之)、長崎大眼科(吉岡久春ら)と全国的な広がりをみせていた。文献としては次のようなものがあった。

① 「未熟児の諸問題」(辻達彦「公衆衛生」一五巻一号、昭和二九年一月、一五頁)

② 「Retrolental fibroplasia臨床講義」(水川孝ら「綜合臨床」三巻四号、昭和二九年四月、五九二頁)

③ 「昭和二八年度産婦人科の展望、早産児、未熟児」三谷茂(「産婦人科の世界」六巻七号、昭和二九年七月、六八頁)

④ 「早産児の眼底所見」(馬場一雄ら「小児科診療」一七巻八号、昭和二九年八月、八三頁)

他方、酸素投与については、この当時にも既に次の様な小児科の「治療書」がある。

⑤ 「育児と治療より見たる小児科学」(昭和二五年一月二五日、和泉成之著、鳳鳴堂書店)

酸素吸入は一般にはかなり出鱈目に実施されているとしたうえ、「酸素吸入は何分位持続的に施行すべきかといふ問題が残されている。之れは其の病症によって差異あるべきは勿論でチアノーゼが除かれ鼻翼呼吸も落着いて来たならば一旦中止し、又チアノーゼや呼吸困難が加って来たならば再び三度繰り返し施行すべきで大体一回には一〇~二〇分位持続すれば足る様に思ふ。酸素は必要以上に吸入したからとて体内に貯蓄される訳ではないから過分の吸入は無意義である。」

(2) 昭和三〇年ないし三五年

以下(⑥~)にみるように、昭和三〇年から三五年までの間に、「基本書」「教科書」などの学生や実地医家を対象とした書物においても未熟児網膜症(以下この項において「本症」という。)がとり上げられ、酸素との関連、適切な酸素管理について多数論じられているのである。ここで引用した⑥~の文献のうち、⑦⑩⑬⑯⑱⑲は書物(雑誌を除く。以下同じ)であり、「基本書」「教科書」「読本」「入門書」「治療指針」といわれるものが殆どである。

こうした研究の背景には、一九五二年(昭和二七年)に日本政府がWHOとの間に協定を結び、未熟児の予防、死亡の減少並びに適正な養育の普及についてWHOの方針に従って努力することとなった経過がある。翌昭和二八年には、アメリカから未熟児センター設置の技術援助のために、チップマン博士が来日し、わが国からは医師・看護婦がアメリカ等を視察調査のため訪ねている(⑬の四三頁参照)。

わが国においても、昭和三二年には「医学シンポジウム」のテーマに「未熟児」が取り上げられ、厚生省児童局母子衛生課長も参加して組織的な研究がなされている(⑬)。この執筆者は、大部分が厚生科学研究費による未熟児研究班の班員であった。

そして、昭和三四年には厚生省の後援のもとに「未熟児講習会」が催された。受講者は全国から参加し、まれにみる成功裡に終了したという(の自序)。その際参加した受講生の強い希望もあって三分冊に分けて刊行したのが「未熟児シリーズ」なのである。の文献は、そのうちの二冊である。

内容的には、酸素との因果関係を前提としたうえで、酸素投与はチアノーゼのあるときなど、必要なときに最少限とすること、酸素濃度を調べ記録しておくことなどが述べられている。「酸素濃度は四〇パーセント以下とする。」との記載も、「四〇パーセントまでは安全である。」というのではなく、「必要最少限にすべきだが、濃度を上げるときは四〇パーセントを超してはならない。」という趣旨のものが殆どである。

⑥ 「乳幼児視力障碍と酸素吸入」(弘好文「小児科診療」一八巻一一号、昭和三〇年一一月、二二頁)

⑦ 「眼科最近の進歩」(昭和三〇年一一月五日、萩原朗ら編、鹿野信一執筆、医歯薬出版(株))

⑧ 「後レンズ線維増殖症における酸素の研究」(神立、「世界産婦人科綜覧」四巻一号、昭和三一年、五一頁)

⑨ 「早産児・未熟児」(木原行男ら「産婦人科の世界」八巻九号、昭和三一年九月、八九頁)

⑩ 「欧米小児科の近況新しき治療と研究を訪ねて」(昭和三二年二月二〇日、高井俊夫著、(株)診断と治療社)

⑪ 「後水晶体線維症(Retrolental fibroplasa)について」(大島祐之ら「臨床小児医学」五巻二号、昭和三二年二月、九二頁)

⑫ 「未熟児およびその取扱い方」(斉藤正行「産婦人科の世界」九巻三号、昭和三二年三月、八頁)

⑬ 「医学シンポジウム第一六輯未熟児」(昭和三二年四月一〇日、斉藤文雄ら、(株)診断と治療社)

⑭ 「未熟児保育基準の検討」(馬場一雄「小児保健研究」一六巻二号、昭和三二年五月、五九頁)

⑮ 「未熟児」(馬場一雄「医学のあゆみ」二四巻三号、昭和三二年九月、二二一頁)

⑯ 「小児科学第一集(第二版)」(昭和三三年一月一〇日、詫摩武人、馬場一雄著、(株)東西医学社)

⑰ 「未熟児」(馬場一雄「産科と産婦人科」昭和三三年三月、二四頁)

⑱ 「未熟児の取扱いと其知識」(昭和三三年六月一五日、久慈直太郎著、(株)診断と治療社)

⑲ 「産婦人科治療の実地手引」(昭和三三年九月一日、産科と婦人科編輯会編、(株)診断と治療社)

⑳ 「後水晶体線維形成症の一例」(中尾昭一ら「産婦人科の実際」一八巻二号、昭和三四年二月、一七六頁)

「小児治療学」(昭和三四年三月二〇日、内村良二監修、斉藤文雄執筆、金原出版(株))

「小児科最近の進歩第Ⅱ集」(昭和三四年六月一〇日、高津忠夫ら編馬場一雄執筆、医歯薬出版(株))

「失明防止読本」(昭和三四年一〇月一日、杉浦清活執筆、日本眼衛生協会)

「小児科学テキスト改訂第三版」(昭和三四年一〇月一〇日、高津忠夫ら著)

「未熟児の保育と栄養―未熟児シリーズ第二集」(昭和三四年一一月一日、未熟児講習会編集、大坪佑二執筆、世界保健通信社)

「未熟児疾患の病理および治療―未熟児シリーズ第三集」(昭和三五年三月一〇日、未熟児講習会編集、小川次郎執筆、(株)世界保健通信社)

「新生児に於ける治療過誤」(鈴木武徳「産科と婦人科」昭和三五年四月、八五頁)

「今日の治療指針―私はこうして治療している―一九六〇年版」(昭和三五年五月二〇日、石山俊次ら編集、江口篤寿執筆、(株)医学書院)

「未熟児の看護・保育」(高井俊夫ら「産婦人科の世界」一二巻一〇号、昭和三五年一〇月、九五頁)

「新小児科学入門」(昭和三五年一一月一五日、山田尚達著、(株)南山堂)

「小児科学上巻改訂第六版」(昭和三五年一一月二〇日、内村良二ら編、弘好文執筆、金原出版(株))

「日本小児科全書第V編」(昭和三五年一二月二〇日、和泉成之著、金原出版(株))

(3) 昭和三六年ないし昭和三九年

以下~の文献をみると、酸素投与はチアノーゼがあるときなど必要なときに最少限とすること、酸素濃度を調べ記録しておくことなどがより明らかにされてきた。

「小児における眼疾患」(中島章「小児科」二巻一号、昭和三六年一月、五頁)

「高等看護学講座(19)産婦人科学・産婦人科看護法第四版」(昭和三六年二月一日、橋本寛敏監修、高野貴伊執筆、(株)医学書院)

「臨床眼底図譜」(昭和三六年三月五日、植村操監修、慶大医学部眼科学教室執筆、(株)南山堂)

「今日の治療指針―私はこうして治療している―一九六一年版」(昭和三六年五月一〇日、石山俊次ら編集、中村仁吉執筆、(株)医学書院)

「未熟児の血中酸素飽和度に関する研究第三篇未熟児における酸素負荷および蘇生術の血中酸素飽和度に及ぼす影響」(山崎恭男「日本小児科学会雑誌」六五巻七号、昭和三六年七月、七五六頁)

「未熟児保育器・人工蘇生器・搾乳器」(大坪佑二「産婦人科治療」三巻二号、昭和三六年八月、二二一頁)

「未熟児の取扱い第二版」(昭和三六年一二月一〇日、江口篤寿著、(株)医学書院)

「最新眼科学下巻」(昭和三七年一月二五日、萩原朗ら編集、倉地与志執筆、(株)医学書院)

「今日の治療指針―私はこうして治療している―一九六二年版」(昭和三七年五月三〇日、石山俊次ら編、山内逸郎執筆、(株)医学書院)

「未熟児についての二五年間の経験―レビン教授講義集」(「小児科診療」二六巻二号、昭和三八年二月、一一三頁)

「未熟児」(昭和三八年六月一〇日、V・M・クロス著、大坪佑二訳、(株)日本小児医事出版社)

「失明と産婦人科―後水晶体線維増殖症に関連して―」(中島章「臨牀婦人科産科」一七巻一二号、昭和三八年一二月一〇日、七頁)

〔まとめ〕

この時期には、看護婦や助産婦向けの「手引書」、「教科書」の類にまで、詳細な記述がみられた。例えばには次のように記載されていた。

「高濃度の酸素、殊に長期間にわたっての使用は後水晶体線維形成症をおこす危険があることが知られてから、酸素の適切な使用のためには酸素濃度の測定が必要となった。」一七頁)。

「  未熟児に対する酸素吸入の原則

(ⅰ) 酸素吸入によって呼吸不整、チアノーゼが改善される場合には十分の酸素を使用する。

(ⅱ) 酸素は連続的でなく、断続的に与える方がよい。

(ⅲ) 酸素はroutineとしてではなく、本当に必要なときにのみ使用する。

(ⅳ) 酸素は児の状態が改善されるに必要な最少限度の濃度で使用すべきである。しかし必要な場合には高い濃度で使用することも躊躇すべきでない。

(Ⅴ) 酸素使用は必要な最短時間に止めるべきである。

酸素吸入を必要とする場合、呼吸不整が著しいとき、チアノーゼがある時は酸素を用いる。元来、未熟児の呼吸は不整の傾向があるから、多少の呼吸不整のみで酸素吸入を行なうことは適当でない。胸壁の陥凹、著しい呼吸不整、しばしば無呼吸発作がおこるような場合には酸素吸入が必要である。もし処置(清拭、哺乳、注射等)の場合にチアノーゼ呼吸不整がおこる時はそのつど用いる。」

また、V・M・クロスの「未熟児」の翻訳は画期的であった。クロスはWHOの未熟児専門協議会の一員でもあり、未熟児についての世界的権威者の一人であった。には次のように記載されている。

「酸素がないとチアノーゼを起こす児には酸素の投与が必要であるが、酸素の濃度は皮膚を良い色に保ち得る程度の最低限の濃さにする。一〇分間以上持続的に使用するときには、後水晶体線維増殖症の危険性があるから、濃度は三〇パーセントを超えてはいけない。チアノーゼの発作から蘇生させるためには短時間なら純酸素を与えても安全であるが、八~一〇分間より長くこの濃度を必要とするときには、特別な予防策を講じなければならない。たとえば、極小未熟児が純酸素を投与さたときだけピンク色であるようなときには、次のようにすれば良い結果(生存、知能発達、および後水晶体線維増殖症の回避に対して)が得られる。すなわち、まず八~一〇分間純酸素を与え、それから軽いチアノーゼが現われるまで酸素を中止し(眼の動脈を拡張させるため)、この処置を必要なだけ繰りかえす。これは時間のかかる方法であるが視力を救い、さらには生命をも救うための処置である。」

(4) 昭和四〇年ないし四四年

この時代、必要最少限、チアノーゼ等の適応のあるときに限って投与するという原則が、動脈血酸素分圧(PaO2)との関連の研究が進んだため、環境酸素濃度よりも、動脈血酸素分圧の測定がより合理的であるとの考えが有力になってきた。しかし、PaO2が低いときは、ときに一〇〇パーセントの酸素を投与することが認められたからといって、それには、PaO2の測定とかワーレイ・ガードナー法によるとかの前提が必要であり、無制限に酸素を投与してよいなどという文献は存しないのである。投与する酸素の濃度に巾が出来たからといって、決して裁量の巾が広がったのではなく、むしろ、PaO2の測定などの厳しい制限が加えられたのであって、裁量の巾は決して広くなったわけではない。被告らは、1)「無制限酸素投与時代」、2)「制限酸素投与時代」、3)「自由裁量時代」と酸素療法が三つの大きな段階を経てきたと主張するが、「自由裁量」の内容は右に述べたとおりであって、決して勝手に好きなだけ投与してよいというものではない。そして、「裁量」の基準は、医学の進歩とともに、より合理的になってきたにすぎないのである。

「看護学大系2、臨床看護総論」(昭和四〇年六月一〇日、福田邦三他監修、山村秀夫他執筆、(株)文光堂」

「臨床小児科全書第三巻」(昭和四〇年一二月二五日、中村文弥他監修、中島章他執筆、金原出版(株))

「未熟児に起こる薬の副作用」(村田文也「看護技術」昭和四〇年一二月号、六七頁以下)

「小児眼科トピックス」(昭和四一年一月三〇日植村恭夫他著、金原出版㈱)

「臨床小児科全書第一巻」(昭和四一年四月二〇日、中村文弥他監修、中村仁吉執筆、金原出版(株))

「酸素療法器械」(岡田和夫他座談会、「医料器械学雑誌」三六巻六号、昭和四一年六月一日、三九六頁)

「今日の治療指針―私はこうして治療している―一九六六年版」(昭和四一年六月一〇日、石山俊次他編集、村田文也執筆、(株)医学書院)

「小児の眼科」(昭和四一年七月一〇日、植村操他編集、(株)医学書院)

「未熟児の保育」(昭和四一年一一月三〇日、馬場一雄著、金原出版(株))

「スポック博士の育児書」(昭和四一年一一月一日、ベンジャミン・スポック著、高津忠夫監訳、暮しの手帖社)

「現代小児科学大系第二巻」(昭和四二年一月三一日、遠城寺宗徳監修、村田文也執筆)

「今日の治療指針―私はこうして治療している―一九六七年版」(昭和四二年六月一五日、石山俊次他編集、村上勝美執筆、(株)医学書院)

「母と子のための視力読本」(昭和四二年六月二〇日、湖崎克著、浪速社)

「未熟児の看護」(藤井とし「産婦人科治療」一五巻二号、昭和四二年八月、二〇二頁)

「新生児特発性呼吸障害症候群の成因と治療」(奥山和男「小児科診療」三〇巻九号、昭和四二年九月一日、二四頁)

「未熟児の呼吸器疾患」(松村忠樹他、「産婦人科治療」一五巻二号、昭和四二年八月、一九四頁)

「小児の眼疾患」(浅野秀二、植村恭夫対談「臨床科」二一巻八号、昭和四二年八月一五日、九七三頁)

「現代小児科学大系第一五巻」(昭和四二年一〇月七日、遠城寺宗徳監修、増田茂執筆、(株)中山書店)

「疾患別看護双書一〇眼疾患々者の看護」(昭和四二年一〇月一〇日、加藤格編、(株)医学書院)

「新生児特発性呼吸障害とその治療」(大浦敏明他、「治療」四九巻一二号、昭和四二年一二月一日、四五頁)

「眼科学提要」(昭和四三年一月二〇日、塚原勇他著、金原出版(株))

「医学シンポジウム三一集新生児」(昭和四三年五月一日、高津忠夫他著、松村忠樹執筆、(株)診断と治療社)

「今日の治療指針―私はこうして治療している―一九六八年版」(昭和四三年五月一日、石山俊治他編、奥山和男執筆、(株)医学書院)

「新生児特発性呼吸障害とその治療」(大浦敏明他「産婦人科治療」一六巻五号、昭和四三年六月、五八七頁)

「未熟児管理の現況」(奥山和男他「眼科」一〇巻九号、昭和四三年九月、六三一頁)

「小児科治療―私はこう治療している」(昭和四三年一〇月一日、太田敬三他編、大浦敏明執筆、金原出版(株))

「未熟児管理の最近の動向」(奥山和男、「臨床眼科」二二巻一〇号、昭和四三年一〇月一五日、四九頁)

「新生児のいわゆる呼吸障害症候群(RDS)について」アンケートに対する回答(奥山和男、「治療」五〇巻一一号、昭和四三年一一月、九九頁)

「未熟児の眼の管理」(塚原勇他、「臨床眼科」二三巻一号、昭和四四年一月、六九頁)

「新生児特発性呼吸障害の治療」(大浦敏明他、「日本新生児学会雑誌」五巻一号、昭和四四年三月、三三頁以下)

「今日の治療指針―私はこうして治療している―一九六九年版」(昭和四四年五月一日、石山俊治他編、山内逸郎執筆、(株)医学書院)

「眼科学新書」(昭和四四年五月一〇日、EM新書刊行会編著、(株)金芳堂)

〔まとめ〕

この時期には、すでに育児書のなかでも、未熟児網膜症(本症)が取り上げられ、「最近では、酸素量を最小限度におさえる方法がわかったので……」と、述べ、「母と子のための失明読本」()においても、同様のことが記載されている。の「スポック博士の育児書」は、外国の書物の翻訳というに止まらず、わが国において多くの母親が、日常使用していることは周知の事実である。

また、この時期の雑誌に載せられた「対談」には注目すべきものがある。例えばでは、国立小児病院の副院長の浅野と、同病院の眼科部長であった植村が対談している。浅野の指摘しているように「いい加減に使っているから、非常に多く使っているんじゃないか。」「別にチアノーゼなんかあまりこなくて、わりあいに元気なのでもなんでもやたら使うということをセレクションしてきめていけば」ずいぶん違ったはずである。

内容的には次のに記載されているような考え方が説かれた。

(未熟児の保育として)「呼吸状態が良好でチアノーゼも無い者には、酸素の補給は不要である。酸素の過剰投与はRLFの原因となるので、酸素を供給する場合には、酸素濃度測定器を用いて一日に少なくとも三回は保育器内の濃度を測定し、できれば環境酸素濃度を四〇パーセント以下に止めるように調節する。環境酸素濃度を四〇パーセントにしてもチアノーゼが消失しない場合には、より高い濃度(場合により一〇〇パーセント近くまで)とするが、児の状態が好転し、チアノーゼが消失したならば、環境酸素濃度をだんだん低くするように調節する」(、四一六頁)。

また、昭和四二年頃からは、右の考え方に加えて環境酸素濃度ではなくPaO2の濃度によって酸素療法を行うべきであるとされ、実際上はワーレイ・ガードナ法によるべきことを勧める数々の文献もみられるようになってきた。例えば、は次のように記載している。

「患児の動脈血PO2は少なくとも五〇mmHg以上になるように酸素を投与すべきであろう。

Warley and Gairdnerは、保育器内の酸素濃度を次のようにして決定すべきことを推奨している。

すなわち、チアノーゼが出現するまで酸素濃度を低下させ、チアノーゼを示す最低濃度の1/4だけ高い酸素濃度を維持する方法である。」

(5) 昭和四五年ないし四八年

以下~の二八件のうち、一九件が書物であり、そのうち「治療指針」が八件(、、、、、、、)、「大系」が三件(、、)、その他「年鑑」()、「講座」()、「研修」()、「教科書」()などもある。

雑誌は九件(、、、、、、、、)あるが、眼科、小児科、周産期学等、各科に及んでいる。

「今日の治療指針―私はこうして治療している―一九七〇年版」(昭和四五年五月一日、石山俊次外編集、奥山和男執筆、(株)医学書院)

「今日の小児治療指針」(昭和四五年一一月一五日、加藤英夫他編、(株)医学書院)

「専門医にきく今日の小児診療Ⅰ」(昭和四五年一一月三〇日、加藤英夫、大国貞彦編集、(株)中外医学社)

「未熟児の管理」(奥山和男、「臨床眼科」二四巻一一号、昭和四五年一一月、一三七五頁以下)

「今日の治療指針―私はこうして治療している―一九七一年版(昭和四六年五月一五日、石山俊次外編集、松村忠樹執筆、(株)医学書院)

「四季よりみた日常小児疾患診療のすべて」(昭和四六年九月一五日、篠塚輝治他編集、金原出版(株))

「天理病院における未熟児網膜症の対策と予後」(金成純子、永田誠外「日本新生児学会雑誌」七巻二号、昭和四六年六月、一五一頁以下)

「水晶体後部線維増殖症」(奥山和男、「小児医学」四巻四号、昭和四六年一〇月、六七一頁以下)

「現代産科婦人科学大系、20巻B、新生児各論」(昭和四六年一一月三〇日、小林隆外監修、(株)中山書店)

「後水晶体線維増殖症」(奥山和男、「ドクターサロン」一六巻二月号、昭和四七年一月、二三頁以下)

「未熟児網膜症の光凝固による治療」(永田誠外「臨床眼科」二六巻三号、昭和四七年三月、二七一頁以下)

「今日の治療指針―私はこうして治療している―一九七二年版―」(昭和四七年五月一日、石山俊次外編集、(株)医学書院)

「小児科学年鑑」(昭和四七年九月八日、中村兼次他、松村忠樹執筆、(株)診断と治療社)

「産婦人科最新治療指針」(昭和四七年九月三〇日、五十嵐正雄著、(株)永井書店)

「未熟児保育に関する諸問題」(島田信宏、「最新医学」二七巻一一号、昭和四七年一一月、二〇九七頁以下)

「今日の治療指針」(昭和四八年五月一日、石山俊次他編、(株)医学書院)

「未熟児にみられる異状症状と処置」(小官弘毅、「周産期医学」三巻四号、昭和四八年六月、二二七頁)

「極小未熟児の呼吸管理」(小川雄之亮、「小児科臨床」二六巻六号、昭和四八年六月五日、一九頁)

「小児疾患の治療」(昭和四八年一〇月五日、大国真彦編、(株)中外医学社)

「臨床新生児学講座」(昭和四八年一二月一〇日、島田信宏著、金原出版(株))

「現代小児科学大系―一九七三a」(昭和四八年一二月二五日、遠城寺宗徳他監、(株)中山書店)

〔まとめ〕

以上の文献などに照らせば、この時期には可能なかぎりPaO2を測定して酸素投与の要否、投与量の決定をすることが主張されており、これが不可能なときでも、チアノーゼや呼吸困難がないときには酸素投与をすることは許されず、投与量の決定についてはワーレイ・ガードナー法によることがほぼ一致して認められていた。

3 酸素供給は対症療法にすぎないから、常に当該症状の原因の追及を行い、その原因自身の治療を行わなければならない。特に問題となるのは保温、栄養補給、代謝の管理、感染予防などの全身管理である。

未熟児においては、当然のことながら各器官が独立しているのではなく、全体の一部として機能しているものであり、未熟児の全身の管理が充分になされれば、未熟児の発育(体重の増加)は順調になり、低体温も生ずることは少くなり、チアノーゼや呼吸障害の発生も抑制される。すなわち、全身管理を怠り、低体温が続くと、体温を上昇させるために、体内で化学的機序による熱産生を続け、脂肪を消費し、酸素の需要を増加させ、酸素の消費量を増大させる。そして、必要とする熱量が大きいため、栄養が充分に与えられていなかったり、体外からの物理的な熱の供給(保温など)がないと、まず、発育や運動に必要なカロリーの消費を減らし、ついで基礎代謝をも低下させて適応しようとする。そのため、発育が停止され、呼吸運動も不充分になるし、末梢循環も悪くなってチアノーゼが出現したりすることになる。そして、最悪の場合には、新生児寒冷障害に罹患し、代謝異常、とくに低血糖やアシドーシスをきたし、脳障害が生じたり、死亡したりすることになる。したがって、逆に保温や栄養補給などの全身管理が充分になされれば、低体温、チアノーゼや呼吸障害は発生し難くなり、酸素投与の必要性もそれだけ減少するものである。本件において、一部の被告らは低体温であったこと、発育が不充分であったことなどの全身状態を根拠として、酸素投与の必要性があったと主張するが、それは全身管理が不充分であったことを意味するものであり、酸素投与の必要性が真にあったものとは認め難い。感染症についても同様である。

さらに、未熟児網膜症は自然治癒率が高く、たとえ発症したとしても全身管理が良く、良好な全身状態を保てば、自然治癒して失明に至らないが、全身管理が悪く、全身状態が不良であると自然治癒力が働かずに症状が悪化し、失明に至る。この点では、全身管理義務の違背は未熟児網膜症発症の間接的原因となることがある。

4 いわゆる「二律背反」論に対する主張

未熟児に酸素投与が必要とされるのは、呼吸障害やチアノーゼが強い場合である。これらを放置すれば、低酸素血症となり、脳障害を起したり、死亡したりする危険があるからである。他方、過剰に酸素が投与されると未熟児網膜症が発症する恐れがある。しかし、この二つの要請を同時に満たすことは可能であるし、二律背反は常に存在するものではない。

(一) 欧米においてはいち早く厳格な酸素管理がなされていたため、本症は既に過去の病といわれるまでになっているのである。邦訳された文献をみても、例えば、

「バーネット、小児科書(下)、第一五版」(昭和五〇年三月一五日(邦訳発行日、以下訳書につき同じ)馬場一雄他監訳、(株)広川書店、二三一九頁)は、「流星のごとく現われ、流星のごとく消えた本症は、まさに医原性疾患の典型である」という。

昭和五〇年八月より三か月間、アメリカにおける本症の現状を研究するため東京都職員海外研修生としてアメリカに派遣された医師の報告によっても「アメリカにおけるRLFの発生はきわめて少ない。」という(「未熟児網膜症(RLF)、米国におけるその発生・予防および治療の現状」昭和五一年九月三〇日、白井徳満著、東京都職員研修所、二七頁)。

フランスにおいても「この恐ろしい合併症の網膜症はフランスにおいては、今日ほとんど姿を消した。これは本症の原因が解明されたからである。すなわち過剰酸素治療法である。」(「早産児」(未熟児)、昭和五一年二月二〇日、アルフレッド・ロッシェ著、海輪利光訳、(株)東西医学社、一三三頁)とされ、イギリスにおいても、「私達は最近RLFの症例をごくわずか見たにすぎないが、全例とも比較的軽症であり、重症の障害をひき起すことはなかった。」(「新生児治療ハンドブック」昭和四九年六月五日テイザード他著、竹内徹訳、(株)永井書店、二九四頁)という。

(二) 被告らは、二律背反、三律背反の根拠として、一九六〇年のアベリー・オッペンハイマーの報告(死亡率)及び一九六七年のマクドナルドの報告(脳性麻痺)をあげている。しかし、アベリーらの報告に対しては、一九五四年以降の薬剤投与による未熟児の死亡や、一九五七年のインフルエンザの大流行などを考慮すれば、この計算は必ずしも妥当ではないとされている。

脳性麻痺に関しても、テイザードはGritt iths(1967)のデータや、Bacola, Behrle, de Schweinitz, Miller, Mira(1966)の報告を引用しながら、「未熟児の脳障害の形成に対する新生児期低酸素血症の役割は、きわめて過大視されてきたように思われる」と述べている(British Medical Bulletrin二六巻二号一九七〇)つまり、酸素投与によって脳性麻痺の多くを救うことができるのであれば、あるいは二律背反を論ずる余地もあるが、必ずしも酸素投与によって救うことはできないのである。

被告らが、二律背反、三律背反というとき、眼は救えなかったが、それは脳や生命を守るため止むを得なかったという趣旨であろう。だとするならば、少なくとも、未熟児網膜症の患児は脳障害は免かれていなければならない。ところが、現実には本症の患児に脳性麻痺などの重複障害児が多く、昭和五一年八月「未熟児網膜症から子供を守る会」が行った全国調査によれば、四六一名の本症患児のうち、家に三九パーセントが脳性麻痺などの重複障害を受けていたのである(昭和五一年八月二六日「朝日新聞」夕刊)。また、原告ら患児についてみても、脳性麻痺児が相当数いるのである。

(三) 原告ら両親の殆どは、退院後、眼の異常(猫眼といわれる)に気付き、被告らとは別の眼科医院の診断によって、はじめて失明の事実を知ったのである。また、何人かは、被告らへ眼の異常を訴えても、「早産児で、普通の子供より早く生れてきたのだから、その分だけ見えるようになるのも遅い。心配は要りません。」とさえ告げられているのである。このような発言をした医師達が、はたして、二律背反に直面していたかは疑問である。

五  未熟児網膜症の治療に関する医療水準

1 光凝固法は、永田誠医師がこれを昭和四二年一〇月に第二一回臨床眼科学会で講演発表した時点で、未熟児網膜症(以下この項において「本症」という。)に対する有効な治療法として成立し、また、冷凍凝固法は、遅くとも山下由紀子医師らが、これを昭和四七年三月、臨床眼科二六巻三号に発表した時点で本症に対する有効な治療法として確立した。この点は後記のとおりである。したがって、昭和四二年一〇月以降に出生した原告患児については、同人らに本症が発生した場合には光凝固法を実施することが可能であった。さらに昭和四七年三月以降に出生した原告患児らについては、光凝固法のほかに冷凍凝固法を実施することも可能であった。

2 注意義務の内容

被告らの担当医らは原告患児ら(光凝固法に関しては昭和四二年一〇月以降に出生した児、冷凍凝固法に関しては昭和四七年三月以降に出生した児)に対して次のような一般的注意義務を負っていた(各原告に対する注意義務については後記のとおりである。)。

担当医たる小児科医ないし産科医は、光凝固法または冷凍凝固法を適期に実施するため、酸素療法を受けた原告患児らに対し、眼科医に依頼して、生後三週目位から定期的に少なくとも週一回の眼底検査を実施し、成熟した眼底(通常生後三か月を経過してその状態になる。)になるまでこれを継続しなければならない。眼底検査は倒像式検眼鏡を用いて行う。

担当医たる小児科医ないし産科医は、本症が発生して、活動期二期の終期ないし三期の初期に進行するに至ったときは、適期に光凝固法または冷凍凝固法を実施するように眼科医に依頼すべきである。

担当医たる小児科医ないし産科医は、被告病院において、右の定期的眼底検査及び光凝固法または冷凍凝固法を実施する人的、物的能力が欠如しているときは、できるだけ速やかに、原告患児らを適切な医療機関に転医させなければならない。

また、眼科的管理を依頼された担当医たる眼科医は、定期的眼底検査を実施して未熟児網膜症の発見に努め、これを発見したときには自ら適期に光凝固法または冷凍凝固法による治療を実施し、それが不可能なときは原告患児らを適切な病院に転医させる措置を執るべきであった。

さらに、仮に、治療義務ないし転医義務がなかったとしても、担当医らは、定期的眼底検査を実施して未熟児網膜症を発見し、原告患児らの両親に対し、光凝固法(昭和四七年三月以降は冷凍凝固法も)の存在とその有効性、予想される予後・危険性、治療可能な病院の所在について充分説明し、この治療を受けるか否かを選択する機会を患者の両親に与えるべきであった。なぜなら、未熟児網膜症はこれを放置すれば失明という重篤な結果に至る可能性が高い一方、当時は光凝固法ないし冷凍凝固法の他には有効な治療法が何もなかったからである。

3 光凝固装置の発明と他の疾患への応用

(一) 光凝固装置の発明

昭和二〇年七月一〇日ドイツのマイヤー・S博士は日蝕観察中に黄斑部障害を起した患者を診察した際、光凝固の原理を黄斑部裂孔の閉塞に応用することを考え出し、その後、幾多の基礎的条件に関する家兎実験を続け一応光凝固装置を完成し、昭和二四年春はじめて人眼における光凝固術に成功したのである。

その後博士は多くの臨床経験を積み、その応用領域も彼が最初考えていたものよりはるかに広大なものとなった。一方光凝固装置の技術的改良も進み、光源として炭素を使用した旧型のものに比べはるかに高性能のクセノンを光源とするものを完成するに至った。

(二) 我国における光凝固法の紹介と普及

光凝固法の我国への紹介は百々次夫が昭和三〇年に「眼科最近の進歩」という成書で行ったのが最初で、その後秋山晃一郎(昭和三二年)の詳細な報告があり、更に萩原朗(昭和三三年)、神島文雄(昭和三三年)、田川博継外(昭和三三年)、久保木鉄也(昭和三三年)、坂上英(昭和三四年)などもこれを報告している。

そして昭和三七年には我国にも光凝固装置が輸入され、昭和四〇年当時日本では数十台に達しており、その普及度はめざましく、昭和四六年には六〇台にものぼっていたのである。

一方光凝固による治療も盛んに行われ、昭和三七年六月から広島大学医学部眼科教室の百々次夫外が網膜血管腫に光凝固を行い良好な治療を得、昭和三八年四月、その報告を行っている。その後各大学病院や眼科専門病院(京大、阪大、九大、順大、広大、千葉大、京都府立大、新潟大、東芝中央病院など)で昭和四二年までに動物実験を含め次々とヒッペル氏病、イールス氏病、糖尿病、コーツ病、自発性網膜剥離などの網膜疾患に光凝固を行い、その結果が続々と発表されている。

そして光凝固法の研究もさかんに行われ、昭和三七年一一月一一日第一六回臨床眼科学会で百々次夫がヒッペル氏病の治験について発表し、昭和四一年五月の第七〇回眼総会に本治療の創始者であるマイヤー・S博士が出席し、「光凝固法」と題する講演を行い、学会終了後も網膜剥離研究班の会合に出席し、日常臨床上の実際における問題に多くの解答を行っているのである。そして同年秋の臨床眼科学会では光凝固に関する演題が四題も数えられるに至ったのである。光凝固法の治療の方法についても昭和二四年以降の治験例の積み重ねにより統一普通化した治療基準があり、副作用についても多くの治験例によって、他の治療法より少いことも実証されているのである。

又、光凝固法はその原理が集光による熱で網膜と脈絡膜とのたんぱく凝固をするというものであるから、一定の症例の経験があれば充分他の症例にも応用駆使し得るものである。現に、天理病院眼科永田誠医師はイールス氏病の血管増殖した例に光凝固を応用して非常に効果をあげた経験があり、これにヒントを得て未熟児網膜症に初めて施術し、しかも成功しているのである。

以上、述べたように光凝固法は幾多の基礎的条件に関する動物実験ののち、昭和二四年に人眼における光凝固術の成功以来、昭和四二年までの一七年間に世界で、又日本で数えきれない程の臨床経験が積まれ、副作用についても他の方法に比して非常に少いことが明らかにされた。

その応用領域も拡大の一途をたどり、昭和四二年当時には眼科領域の過半数に達するといっても過言でないところまで適応範囲を拡げ、網膜剥離を始めとする多くの眼疾患にはなくてはならぬ治療法として確立されていた。

日本におけるその装置も数十台に達し、日本各地の大学病院や大きな眼科専門病院に普及し、右病院の医師であれば光凝固術は充分駆使できるものであり、その効果も確実なものと評価され、治療に大きな成果をあげていたのである。

4 未熟児網膜症に対する光凝固法の開発と確立

(一) 永田誠らの開発経過

(1) 永田らの臨床実験の成功

天理病院眼科の永田医師らは、昭和四一年四月同病院が開設されて以来、小児科未熟児室において未熟児を扱い、未熟児の眼科的管理を行ってきたが、昭和四二年三月、同年五月に各一例の未熟児に対し、光凝固法を実施した。各例とも本症が発生し、オーエンスの活動期一期より二期に進み、限局性の網膜隆起部の血管から血管発芽が起り、血管新生の成長が硝子体内へ進出し始めた時点、すなわち三期の始まったところで光凝固を行った。その結果病勢は頓座的に終熄した。

永田は、この結果を昭和四二年秋の第二一回臨床眼科学会講演において発表した。そこで永田は、まず本療法の有効性について「病勢は頓座的に終熄し、その後増殖性網膜炎の進行はみられなくなった。」「その後の観察により眼底周辺部の光凝固の瘢痕以外はほぼ正常である。」と述べ、また本療法が自然治癒傾向のある本症に対しては過剰侵襲ではないかとの問題については、「この症例でみられた活動期三期病変が……寛解してくる可能性はKinseyらの報告によれば五〇パーセントであるが、もし血管新生がさらに進み、網膜剥離が進行し、あるいは硝子体出血を起してきた場合は、光凝固はおそらく不可能となるおそれがある。またここで自然寛解が起ったとしても、植村らの報告によれば瘢痕二度以上の変化を逸れることはあるまいと考えられる。」として、オーエンス活動期三期のはじまりにその進行を確かめたうえで本療法を行うならば、過剰侵襲とはならない旨明確に述べた。

ついで永田は、光凝固が発育途上にある未熟な網膜に悪影響を与えるのではないかとの疑問(副作用の問題)に対しても、「光による傷害も十分考慮して必要最小限に止めたつもりである。今回の症例では、幸いそのような傷害はまったく認められなかった。」と回答した。

すなわち、永田らのこの臨床実験において、本療法の有効性が明らかに認められ、過剰侵襲(実施時期の問題)、副作用(網膜の発育に与える悪影響の問題)についても、特に問題となる点はみいだされなかった。そうであればこそ永田は「今後の方針として……光凝固を……行なうつもりである。」と述べ、今後は本療法を実用治療術として用いる考えを示したのである。

永田のこの講演の内容は、昭和四三年四月発行の「臨床眼科」二二巻四号、四一九頁に「未熟児網膜症の光凝固による治療」と題して掲載された。

また永田は右二例の治療結果を、京大眼科同窓会第一八回総会においても報告し、その報告要旨が、昭和四三年七月発行、「眼科臨床医報」六二巻七号、八八頁に掲載された。

(2) 永田の臨床実験結果の自己考察

永田は前記二例の臨床実験の結果を再度昭和四三年一〇月発行「眼科」一〇巻一〇号、七一九頁「未熟児網膜症の光凝固による治療の可能性について」と題する論文に発表し、本療法を行うことの妥当性について更に考察を深めている。

第一に本療法の奏功機序について永田は、「光凝固によって新生血管と共に異常な網膜を破壊すれば、この部に至る網膜血管は、血管の増殖化傾向に伴なう悪循環から断ち切られる可能性がある。Eales氏病における網膜血管病、出血、増殖性変化、再出血という悪循環に対して光凝固法が偉効を奏する事に似た治療転換が未熟児網膜症の光凝固にも期待できるのではないかと考えている。」と述べ、本療法が単なる思いつきではなくAshton Michaelsonらによって究明された本症の病理学的変化を基にして、従来から網膜剥離疾患の治療法として用いられている光凝固法の効用をふまえて開発されたことを明らかにしている。

第二に永田は、本療法の実施時期(過剰侵襲の問題)につき考察し、前記(1)記載の「臨床眼科」二二巻四号におけると同様な考察をしたうえ、本療法は活動期三期の初期に行うのが妥当であり、そうすれば過剰侵襲とはならないとの結論を得た。

第三に副作用(永田は過剰侵襲と表現している)について永田は「光凝固によって、網膜周辺部は勿論瘢痕化する。日常我々は、網膜剥離における予防的光凝固に際して、光凝固による網膜剥離は……比較的軽度で、これによる牽引性網膜皺壁形成は起らないことを知っている。従って未熟児網膜症が進行して更に強い瘢痕形成、悪くすると水晶体後部線維増殖に至る可能性を考えれば、たとえ広範囲の瘢痕が生じてもこの取引は引合うのではないか。」と述べ、それ以上の眼への悪影響は見出されないことを述べた。

右のような考察のうえで、永田は今後「必要に応じ光凝固による治療を試みて行くつもりである。」、光凝固は「従来……全く無力であった本症の治療面に少くとも一つの可能性を示」したと述べ、今後本療法を実用治療術として用いて行く考えのあることを示した。

(3) 永田らによる光凝固法の有効性の再確認

その後永田は、昭和四三年一月から昭和四四年五月末までに四例に対し本療法を実施した。うち二例は天理病院未熟児室で発症したもの、他の二例は他院より紹介されたものであった。右四例のうち三例はオーエンス三期の光凝固を実施し、他の一例は初診時の右眼でオーエンス四期、左眼で五期であったため右眼にのみ光凝固を実旋した。結果はいずれもその病勢の進行を停止せしめることができた。

永田は右実施結果を、昭和四四年一〇月に開かれた第二三回臨床眼科学会において講演発表し、その内容は昭和四五年五月発行「臨床眼科」二四巻五号、六五五頁「未熟児網膜症の光凝固による治療Ⅱ」と題して掲載された。

そこにおいて永田は「この治療の成否を決定する最も重要な要因は実施の時期である」と述べ、詳細な検討のうえ「本療法の実施時期がオーエンス三期をねらうべきことは明らかである」と断定した。ついで治療の時期を失しないための眼底検査について「眼科検診は生後三〇日目頃から始めても遅すぎることはなく、むしろこの時期以降一~二か月の観察が最も大切であると述べ、さらに眼底検査実施の回数、眼底検査に用いる器具まで特定し、手とり足とりともいえるほど具体的に本療法の実施方法を教示している。

そして結論として永田は、「われわれは、本症は適切な適応と実施時期をあやまたずに光凝固を加えることによりほとんど確実に治癒しうるものであり、重症の瘢痕形成による失明や高度の弱視を未然に防止することができるとの確信を持つに至った。」と述べた。

(二) 永田らの開発した光凝固法の完成度の高さ―光凝固法の本症に対する治療術式としての成立及び確立

永田の開発した光凝固法は、前記(1)記載の二例での臨床実験に成功し、これが昭和四二年秋の学会に発表された時点において、直ちに実用治療に用いられ得るものとして、治療術として成立するに至ったということができ、ついで前記(2)記載の四例において本療法の有効性が再確認され、これが昭和四四年一〇月の学会において発表された時点において、その有効性はほぼ完全に明らかにされ、治療術として確立したものである。

すなわち、本療法は永田の前記二例の臨床実験及びその後の四例の追試を実施するなかで、その有効性、奏功機序、実施時期、副作用の三点につき充分なる検討が加えられており、いずれの点についても、本療法を実用化するのに妨げとなる問題は見出されなかった。

第一に本療法は、永田らの二例の臨床実験、四例の追試において、いずれも顕著な治療効果を収めており、その有効性は全く明らかにされたし、またAshtonらの本症についての病理学的変化の研究及び従前光凝固法が網膜剥離疾患の治療で示していた効果からみて、本療法の有効性は理論的にも充分説明できるものであった(名鉄病院眼科の田辺吉彦医師は、昭和四六年一一月に「本症は病理組織学的に網膜血管とmesenchyme cellの硝子体中への異常増殖で、糖尿病網膜症や、Eales氏病との類似が指摘され、Ashtonらはこれらの治療法が本症の治療になろうと予言している。光凝固法はまさにそれである」と述べている。

第二に本療法は、永田の臨床実験及び追試のなかで、その実施時期(過剰侵襲の問題)につき充分なる検討が加えられており、実施すべき時期も具体的に明らかにされた。

さらに第三に、本療法の実施が未熟な網膜に与える影響(副作用)についても、永田は臨床実験及び追試のなかで検討を加え、従前行われていた光凝固施行例における多くの経験から、未熟児網膜症に対する本療法の実施も、凝固部位が瘢痕化すること以外、眼の発育に悪影響を与えないであろうことを予見している。

右三点について充分なる検討が加えられていることから、永田の開発した光凝固法は、臨床実験ないし追試が終了した段階において、治療法としての完成度が極めて高く、またその治療術式も具体的に教示されていることとあいまって、二例の臨床実験終了により直ちに実用治療術としての成立に達し、四例の追試により、治療術として確立されたものである。

さればこそ永田は、二例の臨床実験結果を発表した昭和四二年秋の学会講演において、前述のとおり「今後の方針として……光凝固を……行うつもりである。」と述べ、今後は本療法を実用治療術として用いる考えを示したのであったし、その後の四例の追試の結果を発表した昭和四五年一〇月の学会講演では「本療法を全国的な規模で成功させ、わが国から未熟児網膜症による失明例を根絶するため」の医療態勢の整備を強く訴えたのである。

5 未熟児網膜症に対する冷凍凝固法の開発と確立

東北大学眼科の佐々木一之、同山下由紀子医師らは、永田の光凝固法開発の報告を聞いた後直ちに「光凝固法が有効なら冷凍手術も有効であるはずとの考えから」冷凍凝固法による本症の治療を試み、東北大学周産母子部未熟児室で生後間もなくから眼科的管理を行った未熟児及び直接東北大学眼科外来を訪れた本症患児のうち、活動期三期に至り、自然治癒が望めなくなったものに対し、「一九七〇年一月から症例を選んで治療を行なってきた。」(「未熟(児)網膜症のすべて」山下由紀子執筆一四七頁)。

そして「光凝固と同じかそれ以上と思われる効果が期待できる結果を得」た。

佐々木は、昭和四六年五月一六日開かれた第二回光凝固研究会において、未熟児網膜症「五例の活動期三に冷凍手術を施行して良い結果を得た。」と追加報告をなした。

ついで佐々木は、第九回北日本眼科学会で「最近、未熟児網膜症の活動期症例に対し光凝固法による治療が試みられているが、我々はこれに対し冷凍処置を施してほぼ満足すべき結果を得ている。……六ケ月以上経過観察の現在、五症例中二例がオーエンスの瘢痕二度、三例が一度で治療の状態にある。」と報告し、冷凍処置の術式を具体的に教示した(「未熟児網膜症の検索(Ⅲ)抄」佐々木一之「日本眼科紀要」二二巻一二号、昭和四六年一二月、一〇四三頁)。

冷凍凝固法の本症に対する奏功機序は、光凝固法とほぼ同じであるため、佐々木、山下らが冷凍凝固法による治療を試みてこれに成功し、その結果を前記のとおり学会に発表した時点において、これが光凝固法と同じく有効であることが承認され、本症に対する治療法として確立されるに至った。

6 光凝固法・冷凍凝固法の奏功機序及び治癒経過

(一) 光凝固法

本症の発生機序のうち、血管閉塞に引き続き発生する血管増殖は次のような病理学的変化を起しているものと考えられる。すなわち、まず紡錘型細胞(血管の原基となる未分化細胞であって、血管の内皮細胞や壁細胞へと分化してゆくもの)の異常な増殖が起り、さらにこれにより視神経乳頭側に血管の内皮細胞が帯状に増殖して提防状にもり上り、境界線(demarcation line)が形成され、さらに進むと、内皮細胞が境界線を破って硝子体内に増殖し、この細胞塊の中へすでに発育を終った有血管帯から新生血管が増殖する段階に至る。

光凝固はこの境界線を第一の目標とし、無血管帯の散発凝固を第二の目標とする(無血管帯の凝固部位は紡錘型細胞の異常増殖した部分である)。そして光凝固法の奏功機序としては、境界線の中に異常増殖した内皮細胞とその先端部にある紡錘型細胞を光凝固により破壊して、その数を減じ、血管増殖に対する生化学的な異常刺激を鎮静することによって、網膜血管発育過程中での狂いが矯正されるものと理解されている。

現実にも、光凝固の凝固斑が瘢痕化し始める術後三~五日ごろから、境界線に向って増殖していた新生血管の数が著明に減じ、動静脈の拡張蛇行が劇的に減退し、これと一致して硝子体中へ出現していた発芽組織が直接凝固していない部分でもみるみる収縮し、一週間を経ずして消失し、同時に凝固部位以外の境界線も薄くなってくるのが観察される。このことは異常に増殖した内皮細胞が、異常刺激の除去によって退縮している状況を示していると理解される。

光凝固斑の瘢痕化が始まると、網膜全般の浮腫性混濁が急激に消退し、それと同時に境界線で止っていたようにみえた網膜血管が凝固斑のあいだを抜けて周辺にのびているのが認められるようになる。つまり正常な新生血管が網膜周辺の無血管帯に発育するのである。俗に光凝固法は「家をこわして火事を消すようなものだ。」というが、これは全く誤まった比喩であることが明らかである(前記5の「未熟(児)網膜症のすべて」永田誠執筆、一四二~一四三頁)。

(二) 冷凍凝固法

冷凍凝固法の場合は、右光凝固法における光の代りに、摂氏マイナス五〇度ないしマイナス七〇度に冷却した網膜用ペンシルを用いて、冷凍凝固を行うもので、原理は光凝固と同じであると理解されている(前記5の「未熟児網膜症の検索(Ⅲ)」山下由紀子「臨床眼科」二六巻三号、三八五頁「未熟児網膜症のすべて」山下由紀子執筆 一四七頁)。

7 光凝固法・冷凍凝固法の有効性

(一) 治療法の「有効性」

被告らは光凝固法の有効性につき批判を加えているが、その主張は要するに「光凝固術そのものにまだ未解決の問題が多い」、「診断治療の両面に未解決の問題が山積して」いるというものであって、末梢的な点についての光凝固法の不完全性を誇大に取り上げたり、あるいは、光凝固法の実施時期という医師の裁量にまかされる余地のある事柄を、あたかも医師の見解の不一致であるかのごとく主張するものである。

被告らは、光凝固法が有効であり、確立された治療法といえるためには、これが完全無欠でなければならないと主張するものに外ならない。すなわち光凝固法がⅠ型Ⅱ型を問わずあらゆる種類の未熟児網膜症に対し全く同様な効果を発揮し、かつこれを実施することによって一〇〇例中一〇〇例につき常に必ず失明を防止できるのでなければ、有効な、確立された治療法とはいえないと主張するものに外ならない。

しかし一般に、医学における治療法は個体差のある人間の身体を対象とするものであるから、常に一〇〇パーセントの効果をあげることはむしろまれである。疾病の種類、程度と治療術の侵襲の程度との相関関係によって、五〇パーセントの効果をあげる治療術でも有効な確立された治療法として承認されることもあるし、七〇パーセントあるいは八〇パーセントの効果がなければ有効な治療法とは承認されないこともあろう。いずれにしても一〇〇パーセントの効果を期待できる治療法なるものはむしろ少いことは常識であるといってよい。

これを光凝固法について考えると、本療法は永田が昭和四二年三月に初めて実施して以来ほぼ一〇〇パーセントに近い治療効果をあげてきており、これはむしろ驚異的でさえある。

医学研究者はそれでもさらに一〇〇パーセントの治療効果をめざして努力を重ねているものであり、光凝固法には「未だ未解決な問題」はあるにしても、一〇〇パーセントに達しないことをもって、本療法が未だ確立していないとか、追試中であると主張するのは不当である。

(二) 現在到達した医学水準における光凝固法・冷凍凝固法の評価

厚生省特別研究費補助金、昭和四九年度研究班報告「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」は、現在我が国における本症研究の最高権威とされる医師ら一二名を網羅して組織した未熟児網膜症研究班が、そこでの検討を基にして作成したものである(昭和五〇年三月発表)。そこにおいて右報告は、「進行性の本症活動期病変が適切な時期に行なわれた光凝固或は冷凍凝固によって治癒しうることが多くの研究者によって認められて」いると述べ、本療法が本症の治療法として広く多数の医師によって実用化されている現況をふまえた上で、その治療基準をより明確化、統一化するため治療基準を提示している。

右報告は「註」において、「これらの治療方針が真に妥当なものか否かについて更に今後の研究を俟って検討する必要がある。」というが、これは日進月歩してやまない医学の性質からして、本療法のより高度な完成を目指すべきことを意味するにとどまり、本療法が有効な実用治療法であることを否定するものでないことはいうまでもない。

(三) 被告らの主張に対する反論

(1) 被告らが光凝固法・冷凍凝固法の有効性を否定することは我が国における医療の現実に照し不当である。

被告らを含め、日本の未熟児を扱う医療機関は現在総て、現在Ⅰ型であれば活動期三期の中期に至ったとき、Ⅱ型であれば早期から光凝固・冷凍凝固を例外なく施行しているのである(甲A第四四号証の四)。それは光凝固・冷凍凝固が、未熟児網膜症による失明の問題が生じ始めた初期に考案された時から「あまりにも有効」と認められ「広く行われるようになった」(甲A第四四号証の四)からであり、その結果「我国においては光凝固療法の普及が早く、また激症型の未熟児網膜症に対する光凝固の適切な時期・方法が工夫されていることもあって、網膜剥離の発生は幸いにも少ない」(甲A第四四号証の四)ことが共通の認識となっているからなのである。現在進行中のプロスペクテイブ・スタディによれば、全国の主要な未熟児医療機関一二施設のうち九施設では、二年間に一五〇〇グラム以下の未熟児から全く失明眼を出していない(甲A第四四号証の二)。これは勿論光凝固・冷凍凝固が適期に施行されているからである。

もし被告らの主張するが如く、光凝固・冷凍凝固が効果もはっきりしない実験段階のものであるというのなら、我が国の代表的な医療機関は、ことごとく自分は有効性を信じていない療法の人体実験に日々いそしんでいるということになるのであり、それこそ人倫に悖る行為であろう。本件における被告らの主張が、単なる裁判所向けの訴訟対策の主張に過ぎないことは、被告らを含む医療機関の日々の実践によって明白である。

(2) 光凝固法や冷凍凝固法が効果があったとされた事例(Ⅰ型)は本来自分治癒すべきものであったと主張するが、これも失当である。

前記厚生省特別研究班報告は「治療の摘応……Ⅰ型においては……自然治癒傾向を示さない少数の重症例にのみ選択的な治療を施行すべきである。」「治療時期 Ⅰ型の網膜症は自然治癒傾向が強く……二期までの病期のものに治療を行う必要はない。三期において更に進行の徴候が見られる時に初めて治療が問題となる。」と述べているのであり、Ⅰ型においても本療法による治療の必要性有効性があることは疑う余地がない。

(3) また、被告らは右の点との関係でコントロール・スタディを経ないかぎり、有効性は認められないとするが、この主張も失当である。

すなわち、光凝固法、冷凍凝固法の有効性は、P=0.0005ないしP=0.001という非常に低い危険率で有意差が肯定されたタスマンのコントロース・スタディ(甲A第四四号証の五)で、もはや争いようのない事実となっているということができる。なお、この論文に付されたパルマーのディスカッションでは、例数が少いから、有効であったうち、二、三例が無効の結果になれば有意差は出なくなるという留保がされているが、これは論文全体を検討すれば全く根拠のない議論であることが明らかである。タスマンの実験では治療経験を重ねるにつれ成績は向上し、一番最近の一一例ではことごとく治療した方が良くなっているのであるから、今後例数が増加すれば、有意差はますますはっきりすることが明白だからである。

(4) さらに被告らは、未熟児網膜症Ⅱ型に対しては、本療法が有効でないかのごとき主張をする。

しかしながら前記特別研究班報告は、「治療の適応……Ⅱ型においては……網膜症が異常な速度で進行するために……失明を防ぐために治療時期を失わぬよう適切迅速な対策が望まれる。」と述べ、さらに「註」において「Ⅱ型においては放置した際の失明防止のために早期治療を要することに疑義はない。」としてⅡ型に対してこそ光凝固法の必要性が高いことを強調している。また光凝固法のⅡ型に対する有効性について、永田はⅡ型網膜症は「光凝固によって必ずしも全例治癒するとは限らない。」と述べながらも、早期に治療することによって治癒し得ることを報告している(前記5の「未熟(児)網膜症のすべて」一三八頁)。

(5) 凝固部位と凝固時期について

被告らは光凝固の部位と時期について統一した基準がなかったために、いつ、どこを凝固すればいいのか分らなかった旨の主張をしているが、これも事実に反するものである。

Ⅰ型については、永田自身の凝固時期は第一例から、凝固部位は第四例から一貫していることは、永田の論文の記載から明白である。確かに、活動期二期に凝固をすることを主張した少数の論者も昭和四〇年代の中期に現われたことは事実であるし、無血管帯の凝固と境界線の凝固のどちらを強調するかで一見差のあるように見える論文もある事は事実であるが、活動期に至って硝子体内への新生血管の増殖が見られる頃から、硝子体内に入った太い血管が間葉系組織に牽引されて橋状に硝子体内で増殖するに至るまでの間に凝固すべきであるという点では、全ての論者は一致していたのであるし、Ⅰ型では無血管帯の幅は狭いので、境界線を凝固するといっても、無血管帯を凝固するといっても、実際にはその両方が凝固されるという意味で変りはなかったのである。

このように、凝固時期も部位も極めて狭い範囲で一致していたからこそ、多くの医療機関で永田の発表直後から光凝固の実施が可能だったのであり、被告の主張するように、いつ、どこを凝固すればいいか全く一致が見られないという状況がもし本当にあったのであれば、このような早期からの普及は有り得なかったはずである。

(6) 副作用の問題について

被告らは光凝固や冷凍凝固の実施に伴う凝固斑から将来どのような障害が生ずるか判明していない以上、治療法として有効とはいえないとする。つまり、自然治癒に比して予後が悪い可能性が高いとする。しかし、これも失当である。

まず、眼球の発育に伴う後遺症の心配もないことは、永田の第三報(甲A第三〇号証の六)の執筆時(昭和四六年)には既に判明していたのである。

さらに、永田らが光凝固を実施する症例は、未熟児網膜症の病変が進行して、放置した場合に重症瘢痕(瘢痕期三度以上)が生ずると予測される事例である。このような例は仮に自然治癒したとしても、鋸歯状縁までの血管発育を促す光凝固とは異なり、無血管帯を残したままの治癒であることが多いのであり、そこから網膜剥離を含む晩発性合併症が発症する危険が残されるという、いわば時限爆弾付きの「治癒」でしかないのである(甲A第二四号証の一五、甲A第二七号証の一四、甲A第三三号証の一二)。

これに対し、光凝固すれば必然的に光凝固瘢を残すことになるが、そのグレードは一度であり、また、網膜血管が光凝固瘢痕を超えて延び鋸歯状縁に達すること、従って無血管帯とそれによるぜい弱な網膜を残すことになる自然寛解例より患児にとって利益があることは永田の第一例から確認されている。

六  各請求及び各請求の原因の関係(診療行為に関するもの)

各請求の関係については、原告らは主位的に債務不履行による請求をなし、予備的に不法行為による請求をなすものである。各請求における各請求の原因の関係は、発症予防責任(治療義務・転医義務)を主位的請求の原因とし、治療責任(治療義務・転医義務・説明義務)を予備的請求の原因とするものである。そして、債務不履行については、期待権の侵害を、さらに予備的な請求の原因とするものである。

七  被告らの責任原因(診療行為に関するもの)

1 被告東京都の原告原山ら三名に対する責任原因

(一) 診療契約

原告原島清(以下この項において「原告清」という。)が昭和四五年九月二四日に右被告が設置し経営する都立豊島病院(以下この項において「被告病院」という。)に入院した際、同原告の法定代理人である原告原島武男、同原島都と被告との間において、被告病院の医師をして当時の一般的医療水準による最善の治療行為を原告清に対して実施せしめるとともに、当時の医学上の確立した最善の治療方法を受ける機会を与える義務を原告原島ら三名に対して負うことを内容とする準委任契約を締結した。

(二) 発症責任

被告病院の白井徳満医師は前記の酸素投与に関する医療水準に従って、不必要な酸素投与をしてはならない注意義務を負うところ、原告清については昭和四五年九月二四日及び一〇月二二日の全身チアノーゼ発現時並びに九月二五日及び一〇月二三日の呼吸窮迫時を除いたその他の時には酸素投与に必要性がないのに、延べ四八日間(九月二四日から一〇月一二日までの一九日間と一〇月二二日から一一月二三日までの三三日間のうち上記四日間を除いたもの)にわたって環境酸素濃度二五パーセントから三〇パーセントの酸素投与を指示し、継続投与した。

(三) 治療責任

未熟児である原告清に対して五二日間もの長期にわたって酸素投与をした以上、白井医師は未熟児網膜症の発症を予見すべきであり、眼科医に依頼して、生後三週目からは定期的に眼底検査を実施し、未熟児網膜症が発症・進行する場合には光凝固法による手術を実施して貰うようにすべきであり、被告の豊島病院でそのような措置が執れないときには専門の病院に転移させて治療を受けさせるべきであったのに、白井医師は原告清について未熟児網膜症の発症を全く予期せず何らの措置も執らなかった。

(四) 説明義務違反

仮に、直接の治療義務ないし転医義務がなかったとしても、白井医師は、定期的眼底検査により原告清の未熟児網膜症を発見し、原告清の両親である原告原山武男、同原山都に対し、光凝固法の存在とその有効性の程度や、予想される予後、危険性、治療可能な病院の所在などについて充分説明し、この治療法を受けるか否かを選択する機会を与えるべき義務があった。しかるに、被告病院の白井医師は、何らの説明も行わなかった。

2 被告社会福祉法人恩賜財団済生会の原告池田ら三名に対する責任原因《省略》

3 被告日本赤十字社の原告石井ら三名に対する責任原因《省略》

4の1 被告医療法人美誠会井出病院の原告高橋ら三名に対する責任原因《省略》

4の2 被告東京都の原告高橋ら三名に対する責任原因《省略》

5 被告名古屋市の原告長島ら三名に対する責任原因《省略》

6 被告社団法人全国社会保険協会連合会の原告染谷ら三名に対する責任原因《省略》

7 被告社団法人全国社会保険協会連合会の原告鈴木ら三名に対する責任原因《省略》

8 被告社会福祉法人恩賜財団済生会の原告青木ら三名に対する責任原因《省略》

9 被告医療法人愛生会の原告猪井ら三名に対する責任原因《省略》

10 被告日本赤十字社の原告浅井一美に対する責任原因《省略》

11 被告東京都の原告春原ら三名に対する責任原因《省略》

12 被告内野閉の原告伊藤、同茂木に対する責任原因《省略》

13 被告日本赤十字社の原告矢田ら三名に対する責任原因《省略》

14 被告秋田県の原告友田ら三名に対する責任原因《省略》

15の1 被告医療法人社団米山産婦人科病院の原告須田ら三名に対する責任原因《省略》

15の2 被告東京都の原告須田裕子に対する責任《省略》

16の1 被告久保田らの原告奥山ら三名に対する責任原因《省略》

16の2 被告東京都の原告奥山ら三名に対する責任原因《省略》

17 被告東京都の原告大場ら三名に対する責任原因《省略》

18 被告国の原告二宮ら三名に対する責任原因《省略》

19 被告加藤末子の原告宮沢ら三名に対する責任原因《省略》

20 被告太田五郎の原告福島ら三名に対する責任原因《省略》

21 被告旭中央病院組合の原告林ら三名に対する責任原因《省略》

22 被告国の原告仁茂田ら三名に対する責任原因《省略》

23 被告君津郡市中央病院組合の原告植木ら三名に対する責任原因《省略》

24 被告日本赤十字社の原告米良ら三名に対する責任原因《省略》

25 被告芦屋市の原告戸祭ら三名に対する責任原因《省略》

26 被告日本赤十字社の原告内田ら三名に対する責任原因《省略》

27 被告日本赤十字社の原告後藤ら三名に対する責任原因《省略》

28 被告日本赤十字社の原告藤城ら三名に対する責任原因《省略》

29 被告日本赤十字社の原告久連山ら三名に対する責任原因《省略》

30 被告医療法人仁寿会の原告寺西ら三名に対する責任原因《省略》

31 被告日本赤十字社の原告塩田ら三名に対する責任原因《省略》

32 被告国の原告浅川ら三名に対する責任原因《省略》

33 被告国の原告三浦ら三名に対する責任原因《省略》

34 被告国の原告田尻ら三名に対する責任原因《省略》

35の1 被告岩倉理雄の原告小松ら三名に対する責任原因《省略》

35の2 被告東京都の原告小松ら三名に対する責任原因《省略》

36 被告東京都の原告益繁康弘に対する責任原因《省略》

37 被告浦安市市川市病院組合葛南病院の原告熊川ら三名に対する責任原因《省略》

38 被告三橋信の原告渡辺ら三名に対する責任原因《省略》

39 被告医療法人社団深田病院の原告松本ら三名に対する責任原因《省略》

40 被告株式会社日立製作所の原告皆川ら三名に対する責任原因《省略》

41 被告神奈川県の原告川崎ら三名に対する責任原因《省略》

42 被告神奈川県の原告池島ら三名に対する責任原因《省略》

43 被告医療法人慈啓会の原告安藤ら三名に対する責任原因《省略》

八  期待権の侵害に基づく損害賠償請求権

もし仮に、原告らのこれまでに述べた請求の理由が認められない場合、被告らは原告らが被告らから受けた医療において期待すべき期待権を侵害したことに対し、損害賠償の責任がある。

1 医療契約における期待権の保護

すなわち、患者及びその親族等が医療を求めるのは、本来的確な診断とそれに基づく適正な対応による健康の維持・回復であり、したがって医師が故意過失によりその要求に応え得ず患者に損害を与えたときは、医師は医療契約上の責任により、あるいは不法行為責任により、その損害を賠償する義務を負うことになるのであるが、それと共に、仮に当該病患につき当時の医療水準において有効な確立した治療方法がなく、その結果健康(機能を含む)の喪失(その最大のものは死である)が避けられないものである場合であっても、患者はなお医師に、医師としてのその全知識全技術を尽くした誠実な医療を求めるものであり、医師がその要求を満たすことによってこそ、患者側はいわば心残りや諦めきれない想いから免れ、或はこれを軽減して、回復し得ない結果を受容する心境にもなり、死あるいは不治の障害の苦痛に対し、心の平静を保ち得るものである。したがって、医師と患者の医療契約の内容には、単に当時の医療水準に拠った医療を施すというのみではなく、そもそも医療水準の如何に拘わらず緻密で真しかつ誠実な医療を尽くすべき約定が内包されているというべきであり、また医師は、本来そのような注意義務を負うものと解するのが相当である。換言するならば、医師が右の義務に反して粗雑・杜撰で不誠実な医療をしたときは、医師のその作為・不作為と対象たる病患について生じた結果との間に相当因果関係が認められなくても、医師はその不誠実な医療対応自体につき、これによって患者側に与えた精神的苦痛の慰謝に応ずる責があるというべきである。

2 各原告らについての期待権の侵害

(一) 原告 原山清

酸素投与の適応がなくなった後も長期間にわたり漫然と酸素を投与し、しかも投与期間中に一時五リットル又は三リットルという多量の酸素投与を行っているにも拘わらず、その間酸素濃度の測定をしていない。

(二) 原告 池田健一

酸素療法の副作用の危険性を認識しておらず、そのため長期にわたり不必要な高濃度酸素投与が行われた。

(三) 原告 石井久子

酸素投与の副作用の危険性が認識されておらず、そのため全く適応もないのに不必要な高濃度酸素の機械的投与が行われた。

(四) 原告 高橋佳吾

過まった全身管理により低体重、低体温をきたし、しかも適応のない時期においても酸素投与を続けた。

(五) 原告 長島弘継

全く必要のない酸素投与が行われている。

(六) 原告 染谷さとみ

チアノーゼがなくなり、酸素の適応がなくなった後も酸素投与が行われた。

(七) 原告 鈴木春江

酸素の適応についての判断を誤り、不必要かつ長期間の酸素投与が行われた。

(八) 原告 青木康子

適応がないのに酸素を投与し、しかもその投与の判断を助産婦に任せているような情況である。

(九) 原告 猪井未央

必要でなくなった後も酸素投与を行っただけでなく、未熟児に酸素を投与するときは眼底検査が必要であることを知りつつ、原告に対しては眼底検査を行わなかった。

(一〇) 原告 浅井一美

酸素適応のない時期においても機械的に酸素投与をし、しかも医師のカルテが作成されていないなど杜撰な医療が行われた。

(一一) 原告 春原健二

酸素の副作用が認識されておらず、不必要かつ多量な酸素投与が行われている。カルテも全く不十分で、医療内容が杜撰であったことを窺わせる。

(一二) 原告 伊藤慶昭

酸素投与に関する知見を欠いた医療により、不必要な酸素投与が行われた。

(一三) 原告 矢田佳寿代

眼底検査の時期を誤り、しかも眼底所見を見誤ったために光凝固の時期を逸した。

(一四) 原告 友田英子

酸素の適応がない時期に酸素投与が行われた。

(一五) 原告 須田裕子

症状と全く無関係に酸素投与を行い、未熟児網膜症を発生せしめただけでなく、光凝固法を知っていたにも拘わらず、眼底検査の時期を誤り治療の適期を失わせた。

(一六) 原告 奥山太郎

カルテすら充分に記載されておらず、杜撰な診療が行われ、不必要な酸素投与が行われた。

(一七) 原告 大場健太郎

酸素の副作用を知りながら、酸素濃度の測定もせず、不必要な酸素投与が行われた。

(一八) 原告 二宮裕子

酸素投与の適応の判断を誤り酸素の適応がないにも拘わらず酸素投与を行っただけでなく、未熟児網膜症に対する認識の低いままで診療していた。

(一九) 原告 宮沢健児

全く適応がないのに過度の酸素が長期間にわたって投与されている。カルテはあとで記載がつけ加えられている。又、RLFの予防、治療には眼底検査が必要であることを知り得たにも拘わらず眼底検査も行っていない。

(二〇) 原告 福島千枝

小児科医はおらず、産科医が未熟児を診療しており、適応もないのに酸素投与を行った。

(二一) 原告 林千里

医師の判断によらず、看護婦が酸素投与を行い、しかも呼吸数の測定をせず、酸素濃度の測定も不足しているなど杜撰な投与を行っている。

(二二) 原告 仁茂田ルリ子

体重を基準として誤った酸素投与を行い、光凝固による治療を知っていながら誤った時期に眼底検査を行い、時期を失してしまった。

(二三) 原告 植木竜夫

酸素の適応を誤り、不必要な酸素を投与して未熟児網膜症を発生せしめ、眼科医は未熟児網膜症の知見すら有していなかった。

(二四) 原告 米良律子

鼻腔カテーテルによる過剰な酸素投与と不必要な酸素の投与を行いRLFを発生せしめ、又、眼底検査、光凝固の実施も可能であったのに担当の眼科医が正確な知識を有していなかったためにその時期を失してしまった。

(二五) 原告 戸祭智子

酸素の適応の判断を誤って過剰な酸素投与を行いRLFを発生せしめ、光凝固法のことを知っていたのに眼底検査すら行わなかった。

(二六) 原告 内田麻子

全身管理の拙さから全身状態を悪化させ、それに対する適切な措置を執らず、酸素の適応と無関係に酸素投与を行い、RLFを発生せしめた。

さらに担当医は、光凝固法を知っていたのに眼底検査の時期を失し、遅ればせながら行った眼底検査においても適切な判断ができず、治療の機会を失ってしまった。

(二七) 原告 後藤強

全身管理の拙さから、低体温、低体重、ひいては全身状態の悪化をもたらし、これに対して適切な措置を執ることなく放置し、漫然と酸素投与をしRLFを発生せしめた。

(二八) 原告 藤城保史美

酸素の適応もないのに過剰な酸素投与を行いRLFを発生せしめ、光凝固法による治療の態勢も整っていたのに眼底検査を誤り治療をなし得なかった。

(二九) 原告 久連山直也

担当医はRLFについて全く無知で、酸素の適応を誤り失明の危険に気づかなかった。

(三〇) 原告 寺西満裕美

酸素の適応を無視し、未熟児であるということだけで酸素を投与しRLFを発生せしめた。

(三一) 原告 塩田洋子

不必要な酸素を投与してRLFを発生せしめ、眼底検査の所見を誤って治療の時期を失した。

(三二) 原告 浅川勇一

適応もないのに多量の酸素を長期間投与しているにも拘わらず、RLFに気づかず眼底検査すらしていない。

(三三) 原告 三浦由紀子

担当医はガードナー法など酸素の投与において注意すべき点について知っていたにも拘わらず適応もないのに酸素投与を行い眼底検査すらしなかった。

(三四) 原告 田尻享司

酸素投与を行ったのに酸素投与はしていないと述べるなど被告の診療は杜撰である。

(三五) 原告 小松宏衣

被告両病院はいずれも酸素投与の適応がないのに酸素投与を行い、墨東病院においては眼科も併設しているのに眼底検査すら行っていない。

(三六) 原告 益繁康弘

チアノーゼもないのに酸素投与を行ったり、チアノーゼの原因を見誤って酸素を投与するなど酸素の適応に関する判断を誤ってRLFに陥れたが、黄疸や浮腫等に対する適切な措置ができないなど未熟児に対する基本的な知識を欠いていた。

(三七) 原告 熊川佳代子

出生直後を除いては、およそ酸素の適応もないのに酸素投与を行い、酸素投与の基本的手順である濃度測定すら行っていない。

(三八) 原告 渡辺修二

未熟児を診療する基本的知見すらなく、未熟児養育の能力もないのに養育し、杜撰な酸素投与を行ってRLFを発生せしめた。

(三九) 原告 松本純子

必要もないのに高濃度の酸素投与を行い、その間濃度測定すらしなかった上、他の未熟児には眼底検査を行っているのに原告純子には眼底検査を行わなかった。

(四〇) 原告 皆川広行

酸素の本来の適応とは無関係に酸素投与を行い、必要がなくなった後も漫然と投与を続けた。

(四一) 原告 川崎陽子

必要な呼吸管理、体温管理、体重管理が行われず、漫然と酸素療法が行われ、脳障害等の危険な状況に対しても何の必要な措置も執られなかった。

(四二) 原告 池島直子

症状にあわせて頻回の眼底検査が必要であったにも拘わらずそれを怠り、かつ眼底所見を誤って治療の適期を失った。

(四三) 原告 安藤美香

全身管理を誤り低体重、低体温に陥らせ、これに対して適切な措置を執ることなく漫然と酸素投与を行い、担当医はRLFについてよく知っていたにも拘わらず適切な治療をしていない。カルテも後に責任を免がれるため書き加えを行ったところがある。

九  被告国の行政上の責任

被告国は、国家賠償法第一条により、原告らに対して後記の損害を賠償すべき責任がある。すなわち、厚生大臣は、医薬品たる酸素、医療用具たる保育器の使用に伴い未熟児網膜症の多発が予想できたのであるから、後記の行政上の措置を執ってこれを回避すべきであったのに、これを怠り、よって原告患児らに未熟児網膜症が発症したのであり、被告国はこの点について責任がある。

1 厚生大臣が執るべきであった行政上の措置の内容

厚生大臣は、未熟児保育の先進国である欧米とりわけRLF大量発生の経験を持つアメリカの小児科学会の勧告を参考として、酸素の投与法につき「使用上の注意」事項を定め、医師達に知らしめるべきであった。

すなわち、保育器を使用して未熟児に酸素投与をすれば未熟児網膜症が発症するおそれがあり、そこで、(イ)酸素は薬と同様に医師の指示によって与えること(緊急時を除く)、(ロ)ルーチンに与えず、医学的適応のある場合に限って与えること、(ハ)酸素濃度は酸素不足による症状を救うことのできる最低濃度に保つこと、できれば四〇パーセントを超えないこと、(ニ)酸素投与は適応がなくなったら、できるだけ早く中止すること、(ホ)酸素投与の適応は全身のチアノーゼ(末梢チアノーゼではなく)と呼吸困難に限定されるべきであること、などの「使用上の注意」を次のような行政上の措置を通じて医師らに周知せしめるべきであった。

(一) 薬事法五二条一号に基づき、添付文書として「使用上の注意」を記載させること。

(二) 局方のなかに「添付文書又はその容器もしくは被包に記載するよう定められた事項」として、右「使用上の注意」を記載させること(薬事法五二条二号)。

(三) 医師法二四条の二に基づき、医師に右の情報を流すこと。

(四) 保育器の日本工業規格(JIS規格)を制定するに際し、「使用上の注意」を保育器に表示させること。

(五) 母子保健法(昭和四〇年八月一八日法律一四一、それ以前は児童福祉法)一九、二〇条に基づき、医師に右の情報を流すこと。

2 酸素の副作用に関する被告国ないし厚生大臣の知見

厚生大臣は、国民の健康の維持・向上を図るために薬事行政を担当しているのであり、右の目的を達成するために薬事法上医薬品の安全性確保を職務上の義務として負わされているのであるから、その注意義務は、その時代における最高の学問的水準によったものでなければならない。それは、国内の学問に止まらず、広く世界の水準を基準にしなければならない。したがって、国は、本来、各病院、医師より一層高度の知見を持つべきであり、かつそれに基づいた行政が求められているのである。

現実に、次に述べるように、厚生省は昭和二〇年代の終りには自らの費用で未熟児保育の研究を学者に命じ、酸素とRLF関係について研究させ、またアメリカでの多発に関する資料やWHOの資料を入手するなどして酸素の副作用について充分に知っていたのである。

(一) 厚生科学研究

(1) 厚生省は、昭和二九年八月一九日厚生省発総第四三号により「未熟児の生理・養護及び疫学に関する研究」というテーマで、四八万円を交付して、久慈直太郎医師(日赤産院)に研究を命じた。この結果、翌三〇年四月九通の報告書が提出された。そのうち、分担研究者馬場一雄、藤井としの報告書「Retrolental Fibroplasiaの探索成績」によれば、

「(研究目標)後水晶体繊維形成(R・L・F)は、諸外国では、最近急激に増加し、失明の原因として重要視されているが、我邦では、未だ確実に本症であると思われる症例の報告が無い様である。然しながら本症は未熟児、特に生下時体重の甚だ少い例に発現し、又、酸素の供給に関係ありと言われており、最近は我国でも欧米流の哺育術式を用いる様になって来たので、或は本症が見出されるのではないかと考え、調査を行った。

(研究方法)本症に罹患した子供の異常に家人が気付くのは、生后半年以后が多いとされているが、本症の初期変化である眼底の変化は既に生后一週、遅くも三ケ月迄には発現し、本症の終末段階である水晶体後方の繊維形成が完成されるのは、生后二~五ケ月とされている。(中省略)

我々は、上記の事実を念頭に置き、未熟児四五例(中三五例は生下時体重一八〇〇瓦以下)の眼底を検査した。

(研究結果)検査成績は第一、第二表(省略)に一括した。四五例中八例に、眼底出血、血管の怒張、蛇行、増生、結繊維の増殖等本症の初期変化を疑い得る異常を認めたが、定形的な繊維形成を示した例は一例も発見出来なかった。」

つまり、国は自らの費用で命じた研究報告によって、本症が諸外国では急激に増加していること、酸素の供給と関係があるといわれていることなどについて、知っていたのである。

昭和二九年(一九五四年)には、アメリカ眼科耳鼻科学会におけるシンポジウムで、酸素投与に関して「(1)未熟児に対するルーチンな酸素投与の中止。(2)チアノーゼあるいは呼吸障害の兆候あるときにのみ酸素を投与する。(3)呼吸障害がとれたら直ちに酸素療法を中止する。」との三項目の勧告がなされており、右の研究もこれらの世界の研究を念頭に置いたものと思われる。

(2) 厚生省は引き続き、翌昭和三〇年九月一五日厚生省企第三号により前年と同じテーマで久慈直太郎に研究を命じた。分担研究者藤平治夫の報告書によれば、眼底所見として「蒼白乳視、色素輪を多く認めたが、出血は少ない。後水晶体繊維症は認めなかった。」とあり、同じく馬場一雄の報告書によれば「酸素分析器の試作」として「環境気体の酸素濃度を知る目的で、銅アンモニア法を利用した携帯用酸素分析器を試作した。銅・アンモニア法の療法に比し、測定値にさしたる遜色なく、簡易、迅速に操作し得る。」とある。

(二) アメリカ小児科学会の勧告

(1) 前記アメリカ眼科耳鼻科学会の勧告に引き続いて、昭和三一年(一九五六年)一月には、アメリカ小児科学会胎児、新生児委員会は次のような勧告をなした。

① 酸素は薬と同様に医師の指示によって与えること(緊急時を除く)

② ルーチンに与えず、医学的適応のある場合に限って与えること

③ 酸素濃度は酸素不足による症状を救うことのできる最低濃度に保つこと、できれば四〇パーセントを超えないこと

④ 酸素投与は適応がなくなったら、できるだけ早く中止すること

⑤ 酸素投与の適応は全身のチアノーゼ(末梢チアノーゼではなく)と呼吸困難である。

その後、昭和三二年(一九五七年)になされたアメリカ小児科学会の勧告においても、右の一九五六年の勧告は、若干の追加(三項目)がなされたものの、そのまま掲載されている。

そして、昭和三九年(一九六四年)になされたアメリカ小児科学会の勧告においても、右一九五六年勧告の骨子は、殆どそのまま生かされている。

さらに、昭和四三年(一九六八年)四月には、カリフォルニア州公衆衛生局が、高濃度酸素投与は動脈血酸素分圧の測定によってモニターされるべきことを勧告した。

(2) 昭和四六年(一九七一年)アメリカ小児科学会は、次の勧告を出した。

① 動脈血酸素分圧は、一〇〇mmHgを超えることなく、六〇~八〇mmHgに保つべきである。

② 血液ガス測定ができない場合、成熟児であれば、全身性のチアノーゼを消失せしめるに必要な最小限の酸素濃度で投与してもよい。ただし、未熟児の場合は測定可能な病院へ移送されるべきである。

③ 酸素療法中は、少くとも二時間ごとに酸素濃度を測定すべきである。

④ 酸素は他の器官(たとえば肺)にも毒性を有することを認識すべきである。上記の基準に従ってもなお障害を与える可能性のあることを銘記すべきである。

(三) 世界保健デーにおける報告

昭和三七年(一九六二年)四月七日、WHOの世界保健デーが開催され、「視力保護・失明防止」のテーマで報告がなされた(甲A第二〇号証の五)。

その内容は次のとおりである。

「姙娠六ケ月~九ケ月で生まれた未熟児を育てるのに酸素を用いるが、酸素を与えすぎた場合、失明という新たな危険をまねく。以前は病院で五人の内一人の未熟児がこのために失明した。」(同号証四頁)

「約三〇年前、病院で生まれた未熟児の間に流行した眼病がある。この症状は網膜が分離し漸次傷跡組織になってくる。こうなるとしばしば失明はまぬがれない。また治療も手術も何ら効果がない。しかしこの病気は家庭では見られないもので、また設備された病院に乏しい国にも発生しない。

一九五四年に英国では二〇四人の患者を出し乳児失明の最も大きな原因となった。アメリカでは八〇〇〇人の乳児が同じように失明した。オーストラリアでは僅か三〇人であった。

ケイト・キャンベル博士はこの症状は未熟児を蘇生さすために使用する酸素の過多量に一致すると述べた。彼女の意見がロンドン眼科協会で取り上げられ、酸素が確かに失明の原因であったことが結論的に証明された。未熟児に関する酸素の使用は現在では三〇パーセントの安全濃度に制限され、この病気は完全に消滅した。」(同号証二〇頁以下)

この世界保健デーの実施については、事前に同三七年二月二七日、厚生省各局、各課に通知され(甲A第二〇号証の七)、また、右報告は厚生省大臣官房連絡参事官から各都道府県等に送付されている(甲A第二〇号証の八、九)。

(四) まとめ

右のような資料により、国はすでに述べたように遅くとも昭和二九年ころからRLFについて厚生科学研究などによって学者に研究させていたのであって、アメリカでの苦い経験と、右に引用したようなRLF発生防止のための勧告も、世界保健デーの報告も当然のことながら、知っていたのである。

3 薬事法上の安全性確保義務

(一) 薬事法の性格、安全性確保義務

(1) 薬事法による国の薬事規制の保護法益は国民の生命・健康の維持・増進にある。製造業者の「営業の自由」に対する規制にその目的があるのではなく、又その結果としての国民の生命・健康の維持増進が単なる反射的利益に止まるものでもない。このことは、現行憲法の下において確立された理論というべきである。

薬事法規をみると、医薬品医療用具の規制に関して行政当局に付与された権限はきわめて強大である。昭和二三年制定のいわゆる旧薬事法の条文を要約、整理すると、

第一に、公定書外医薬品医療用具の製造に際しては、品目ごとに厚生大臣の許可を受けなければならない(法二六条三項、三一条)、

第二、許可を受けた医薬品医療用具であっても、表示書に「虚偽の事項又は誤解を招く虞がある事項」の記載されているもの、「使用上の適当な注意」等が記載されていないもの、表示書に記載されている用法・用量又は使用期間が保健上危険であるものなどを「不正表示医薬品」とした上(法四一条)、その製造販売を禁止するとともに、あわせて虚偽又は誇大な記事の広告・流布を禁じ(法三四条)、

第三に、これら規制の実効性確保のため、違反に対しては刑罰をもって臨むほか、医薬品の製造又は販売業者の登録取消又は業務停止の命令権(法四六条)、業者等からの報告徴収権、立入検査権、不良又は不正表示医薬品に対する危害防止のための処分命令権ないし処分権などが厚生大臣に付与されている(法四八条、四九条)。

以上は、昭和二八年当時の薬事法の条文を基にしたものであるが、その後数次の法改正を経たとはいえ、厚生大臣の規制権限の基本は今日でも何ら変わってはいない。

しかも、右の如き広範かつ強大な規制権限の根本には、国民の生命と健康保護の要請があることは多言を要しない。厚生省事務官中村光三「新薬事法解説」は、昭和二三年のいわゆる旧薬事法制定の趣旨について、次のように述べている。

「新憲法により公衆衛生の向上及び増進に努めるべきことが国家の最高責務の一とせられていることに思いを致すならば、取締規定の不備を補い、取締の完璧を期することは刻下の急務と、いわなければならない。」

右新薬事法解説は、著者が現職の行政官であることからして、当時における厚生省の考え方を示したものと解されるが、第一条の薬事法の目的についても、次のように述べ、国民の健康で文化的な生活を営む権利の確保を強調している。

「第一条、この法律は、薬事を規整し、之れが適整を図ることを目的とする。

薬事とは、第二条第一項において、医薬品・用具又は化粧品の製造調剤・販売又は授与及びこれらに関連する事項と定義されているが、かかる意味における薬事を保健衛生的見地から規整し、以てその適正な運営を図ることは、憲法によって、国民に保障されているところの健康で文化的な生活を営む権利を確保し、公衆衛生の向上及び増進を図るための必須条件であると思われる。これは本条において、この法律の目的として薬事を規整することをかかげた所以である。」。

すなわち、

①  憲法二五条の生存権保障により、国が薬事について積極的に関与し規制することは、単なる立法政策の問題に止まらず国家最高の責務に転化したこと

②  国の薬事規制により享受される国民の生命・健康の維持増進の利益は、単なる反射的利益に止まるものではなく、「健康で文化的な生活を営む権利」に裏打ちされており、薬事規制の保護法益が医薬品の受手である個々の国民の生命・健康にあること

は、旧薬事法制定当時、すでに明らかであった。

右の各法条からすると、被告国は医薬品・医療用具に関して安全性確保義務を負っているというべきである。

すなわち、被告国ないし厚生大臣には、新薬製造承認に際して有効性、安全性につき厳格な審査をなすことは勿論、既に製造承認の与えられている医薬品・医療用具についても副作用情報を収集し、疑問が生じたときは随時再審査を行って再評価し、当該医薬品、医療用具の全面禁止、適応の一部について使用の禁止、副作用の発現が用法用量に関連する場合は、用法用量の制限、あるいは副作用についての使用者に対する警告の措置をとる義務がある。

(2) 被告国においても安全性確保義務の存在を認めたものと評価すべき事態がみられた。

①  厚生大臣の回答など

昭和四三年五月七日の参議院社会労働委員会で、薬務行政の最高責任者たる園田直厚生大臣は、藤原道子委員のサリドマイド児に関する質問に対し次のように答えている。

「厚生省が反省をし、今後の問題を明確にしたいと考えます。」「許可した場合、それからその後の措置について、あいまいな責任のがれのことばを言っておりまするが、たとえ訴訟になっておりましょうとおりませんとも、政府と製薬会社がその責任をとって今後の処置をそれぞれやるべきだ。」

園田厚相は同じ応答の中で、製造承認は慎重にし、何かあったら直ちに製造中止などの措置を取るべきであるとも述べている。

次に、昭和四五年五月一九日衆議院決算委員会での内田厚生大臣の答弁は次のとおりである。

「前の承認が誤りであった、また前の承認と条件その他が違ってきて今日無効であることが客観的に学会等の検証によって認められます場合には、行政行為によって承認をいたしたものでありますから、今日の薬事法上も承認の取消ということはできる。こういう解釈に私どもは立っております。」

また、厚生省薬務局長(当時)、松下廉蔵は、『医薬品副作用被害者救済制度の問題点』(ジュリスト五四七号昭和四八年一一月一五日、八一頁以下)において、「医薬品については、特に、その性質上、有効性および安全性を確保することがその法的規制の中核をなすものであることは、いうまでもない。現行の薬事法においては、医薬品の製造の規制は、局方外医薬品……について品目ごとに厚生大臣の承認を受け、さらに局方医薬品を含むすべての医薬品について、製造所ごとおよび品目ごとに厚生大臣の許可を受けるという二重のチェックがなされており、輸入についてもこれに準じている。承認・許可の何れについても、各時点における科学技術の水準に照らして厳格な審査が行われ、さらに発売後においても、検定・検査や薬事監視などによって品質の確保が図られているのであるが、最近におけるこの分野の医学・薬学の研究は急速に進歩しており、その成果をふまえて、現在実施されている有効性および安全性確保のための行政的施策の主なものは次のとおりである」として、(1)製造承認に当っての審査の厳格化、(2)副作用情報処理体制の強化、(3)薬効再評価の実施につき、なお詳細に言及している。

②  サリドマイド訴訟の和解

サリドマイド訴訟の和解は、昭和四九年一〇月二六日の第六八回口頭弁論期日に成立した。そして和解と同時に締結され、和解と一体を為した確認書に於て、国は次のような責任を認めざるを得なくなった。「厚生大臣及び大日本製薬株式会社は、前記製造から回収に至る一連の過程において、催奇形性の有無についての安全性の確認、レンツ博士の警告後の処置等につき、落度があったことに鑑み、右悲惨なサリドマイド禍を生ぜしめたことにつき、薬務行政所管官庁として及び医薬品製造業者として、それぞれ責任を認める。」「厚生大臣は、本確認書成立に伴い、国民の健康を積極的に増進し、心身障害者の福祉向上に尽力する基本的使命と任務を改めて自覚し、今後、新医薬品承認の厳格化、副作用情報システム、医薬品の宣伝広告の監視など、医薬品安全性強化の実効をあげるとともに、国民の健康保持のため必要な場合、承認許可の取消、販売の中止、市場からの回収等の措置をすみやかに講じ、サリドマイド事件にみられるごとき悲惨な薬害が再び生じないよう最善の努力をすることを確約する。」(サリドマイド確認書二、四項)。

③  スモン訴訟の和解

東京スモン訴訟において、昭和五二年一月一七日和解案提示について裁判所は所見を発表した。

「いみじくも、国自身の主張の中に現われるように、『医薬品の安全性の確保が緊急課題となり、より積極的な薬務行政の展開が必要とされるに至った現在において』、このような『新しい行政需要』には行政指導をもって対応しているが、それは要するに、単なる任意のサーヴィスにすぎず、現行の薬事法制およびこれに基づく国の義務とは関りのないものであるということができるであろうか。もし、それが無関係のものとされるとすれば、一面、製造、販売業者に対する強い規制としての性質をもつ、かかる行政指導は、そもそも如何なる根拠に基づいて行われたのであるかが、改めて問われなければならないであろう。『医薬品の安全性確保』は、まさしく『緊急の課題』であって、それがまず製造・販売業者の本来の義務に属することは当然としても、その自主的規制のままに放置し得ないからこそ、『より積極的な薬務行政の展開が必要とされる』のである。しかるに国が、時代の要求に応えるための法規の改正を顧慮することなく、もっぱら行政指導によって新たな行政需要に対応し、むしろこれをもって足りるとしながら、一度提訴を受けるや、既存の実定法規の体裁を論拠として国に責任なしとするのは、矛盾の甚だしいものというほかはない。

しかも、薬務行政に関する実定法規を見るのに、昭和二三年法は、公定書外医薬品の製造について、品目ごとに厚生大臣の許可を要すべきものとし(二六条三項)、昭和三五年法は、局方外医薬品の製造承認の申請があるときは、厚生大臣は、名称、成分、分量、用法、用量、効能、効果などを審査し、品目ごとに製造承認すべきものとしている(一四条一項)のである。すなわち、これら医薬品の製造については、品目ごとに審査したうえ、製造承認(旧許可)を与えるべき旨の明文の規定が存するのであり、この規定を目して『新しい行政需要』に対応すべき安全性確保のための根拠規定と解しえないものではなく、したがって、法律それ自体に『審査基準、審査手続及び審査機関並に承認後における追跡調査制度及び承認の撤回等』に関する規定が存しないことを理由として、一般に国の法的義務を否定すべきものとするのは、もとより失当というほかはない」。

そして国は、右に述べられた所見を和解の前提として承認した上で、昭和五二年一〇月二九日成立した和解に於て、「スモンによって引き起こされた諸問題を被告、製薬会社とともに、解決すべき責任がある事を認め、空前のスモン禍が発生するに至ったことを薬務行政の立場から深く反省し、国民の健康を維持、増進すべき使命を再確認して、今後薬害を防止するため行政上最善の努力を重ねる事を確認する」旨表明した。

(3) 医薬品等の安全性に関する薬務行政

被告国が実施してきた薬務行政も医薬品の安全性確保について積極的な措置が執られてきている。

①  厚生白書を中心として

「昭和三二年度版厚生白書」(厚生省大臣官房企画室編、大蔵省印刷局発行、昭和三三年一月一〇日、甲A第一六号証の三―一三六頁以下)

「医薬品等の取締

医薬品をはじめ、医療用器具器械、化粧品等は全国に流通するもので、その品質の良否、広告または表示の如何は、国民の保健衛生に直接影響を及ぼすものである。すなわち、医療用器具器械は、疾病の診断、治療に用いられ、医療ときり離せない関係にあるし、昨今、市場に著しく進出を見せている各種化粧品等が、その効果を高めようとするあまり、一部に皮膚傷害等を起す例も出てきていることは周知のとおりである。 (中省略)

現在、この取締のため、全国に一、九〇〇名の薬事監視員が置かれ、国家検定、国家検査命令等不良品の発見とこれに対する措置のために活動しているほか、さらに製造工場および販売業者の立入検査においては、医薬品等の安全性を確保するため積極的な取締と指導が実施されている。」。

「昭和三九年度版厚生白書」(厚生省編、昭和四〇年九月一五日、甲A第二三号証の四―一七二頁以下)

「医薬品の安全性確保

サリドマイド問題を契機として、医薬品の胎児に対する影響を含めて、広く医薬品による事故を未然に防止するため種々の方策が世界的に考えられた。

WHOは、三八年五月二三日ジュネーブにおいて、第一六回世界保健会議を行ない、医薬品の有害な作用について、各国間のすみやかな情報の交換と早期の処置をするため、医薬品の悪い副作用に関してすでに使用中の医薬品を禁止もしくは使用の制限をしたとき、新案の承認を否決したとき、および新薬を制限つきで承認したときは、すみやかにWHOに報告することを決議した。

(中省略)

国内では、WHOからの情報に基づいて、直ちに中央薬事審議会医薬品安全対策特別部会等に審議を求めるなどの措置をとり、医薬品の表示事項の訂正、使用上の注意の記載、または副作用の動物実験等の処置を行っている。

一方、日本国内に学会その他からの情報の入手にもつとめ、たとえば甲状腺製剤、水虫治療用の有機水銀剤による副作用などに対処して、必要な処置を行った。

(中省略)

なお、四〇年に入りアンプル入りカゼ薬の服用直後における死亡事故があいついで発生し、大きな社会問題となったが、これに対しては、直ちに関係業者に製造・販売・回収などの措置を要請する一方、三月二日、中央薬事審議会にその可否を諮問した。

その結果、(中省略)アンプル入りカゼ薬は製造販売を禁止すべきである旨の答申が五月七日同審議会からあり、それに基づいて所要の措置を行った。」。

「昭和四〇年度版厚生白書」(厚生省編、昭和四一年一〇月一〇日、甲A第二四号証の九―一七六頁以下)

「医薬品の安全性確保

医薬品の安全性を確保するということは医薬品の本来的使命から当然のことであり、従来からも、新医薬品の承認等に際して、この点について慎重に配慮されてきたが、サリドマイド事件の発生を契機に医薬品の安全性の問題がいっそう重要視されるようになった。

(中省略)

わが国においても、医薬品の安全性の確保を図るため、新薬の承認に際し、医薬品の胎仔に及ぼす動物試験成績を提出させたり、臨床実験例数をふやしたりするなど……の措置が講ぜられている。また、副作用情報の収集については、海外からのものはWHOその他各国政府との連絡を緊密に行い、国内における情報は、学会その他関係者の協力のもとに入手して所要の措置を行っているが、四一年度からは、情報の収集先をさらに拡大したモニター制度の実施を予定している。

ところで医薬品は、複雑微妙な生体に作用するものであり、しかも製造承認時における学問に照らして承認され、世に出るものであるので、当初予測されなかった副作用が後になって判明することも全くないとはいえない。ここに上記のような医薬品の安全性確保のための措置がきわめて重要な意義を有し、今後も万全が期されなければならない……

(中省略)

なお、四〇年はアンプル入りカゼ薬の製造廃止届の提出を行わせた。……

塩酸メクリジン等含有製剤については、妊婦がこれを使用するときは必ず医師に相談するよう添付文書にうたわせることとし、甲状腺製剤については、単に『やせ薬』として誤用又は乱用されることのないよう、添付文書の記載等に関し、所要の措置が行われた。」。

「昭和四一年度版 厚生白書」(厚生省編、昭和四二年一一月三〇日、甲A第二五号証の一三―二二〇頁以下)

「医薬品の安全性確保

…………

わが国においても、医薬品の安全対策を強力に推進するため、医薬品による副作用に関する事例を組織的に収集し、これらを分折整理のうえ正しい評価を行い、当該医薬品に対し適切な措置を講ずるべく、かねてより施策を講じてきたが、昭和四一年度から次のようなモニタリング制度が実施されることになった。

(中省略)

厚生省では、報告された情報を、当該医薬品の承認・許可時における内容及びその後集められた科学的資料などとともに中央薬事審議会に提出し、同審議会の医薬品副作用調査及び医薬品安全対策特別部会の評価を受け、その結果、必要がある場合は、所要の措置をとろうとするものである。」。

「昭和四三年度版 厚生白書」(厚生省編、昭和四三年一二月五日、甲A第二六号証の二一―一九〇頁以下)

「医薬品の製造承認等に関する基本方針

…………

新医薬品のより効果的かつ安全な利用を図るためには、従来の施策だけでは十分でなく、これに新しいものを加味して有機的かつ系統だった施策を樹立する必要があった。 (中省略)

この『医薬品の製造承認等に関する基本方針』は厚生省薬務局長から各都道府県知事及び各種関係団体の長あての通知(四二年九月一三日薬発第六四五号)の形式で発表されたものであるが、そのおもな内容は次のとおりである。

(中省略)

オ、新医薬品については、その副作用あるいは毒性が特に問題になり、その安全対策の万全を期するためには承認・許可後もこれによる副作用等の追跡調査を行う必要があり、このため製造承認を受けたものに二年間当該医薬品による副作用に関する情報の収集、報告を義務づけるとともに……」。

「昭和四四年度版 厚生白書」(厚生省編、昭和四四年一二月一五日、甲A第二七号証の一一―二三六頁以下)

「副作用等の情報収集体制の整備

承認審査の段階において十二分に慎重を期したとしても、なおその医薬品の使用中まったく予期しなかった副作用等の発生をみることがある。このような場合に備え、かかる副作用等の発生をみたときには、これをできる限りすみやかには握し、それによる危害の発生を最小限度に止めるための適切な措置を臨機に講じることのできる体制を整えておく必要がある。

(中省略)

このような情報収集機構を活用することにより、例えば四三年五月の米国におけるクロラムフェニコールの副作用問題を契機として、既承認抗生物質製剤全般に対する再調査を行ない、同年八月、及び一二月には、これらの医薬品に関して追加すべき使用上の注意事項を明らかにし、これをその添付文書等に記載させる措置を講ずることによって、これら医薬品の安全使用に資することとした。

また、四三年七月には、毒性、副作用に関する試験研究体制の拡充強化を図ることを目的として、国立衛生試験所の機構を再編成し、その毒性センターとしての機構を整備した。」。

「昭和四五年度版 厚生白書」(厚生省編、昭和四五年一二月二一日、甲A第二八号証の一五―一八二頁以下)

「安全性の確保

…………

これら各種のルートから得られた情報は、中央薬事審議会において評価、検討を行い、その意見に基づき、四四年度中には次のような措置を講じた。

ア、四四年一〇月米国FDAは、サイクラミン酸ナトリウムがラットにがんを発生せしめたという実験に基づき、本剤を含有する医薬品に対し、禁止措置をとることを発表した。この情報に接し、わが国においては、上記米国の実験データを至急とりよせるとともに、国内の研究データをとりまとめ、四四年一〇月二九日サイクラミン酸ナトリウムおよびサイクラミン酸カルシウムを含有する医薬品等の取り扱いについて、中央薬事審議会の意見を求め、これに基づきつぎの措置を講じた。

ア、(省略)

イ、製造の承認および許可を受けている医薬品等がサイクラミン酸塩類を含有するものについては、今後その製造を中止させる。

(中省略)

ウ、四四年一二月、スルファミン、糖質副腎皮質ホルモン、非ステロイド系消炎剤、クロロキンおよび血液代用剤について使用上の注意事項を定め、医薬品の使用上の適正化を図った。」。

「昭和四六年度版 厚生白書」(厚生省編、昭和四六年一一月二五日、甲A第二九号証の二二―二二四頁以下)

「安全性の確保

…………

ア、昭和四五年八月、キノホルムがスモンの発生に何らかの要因になっている疑いがあるとの情報に接し、ただちにキノホルムの取り扱いについて、昭和四五年九月七日、中央薬事審議会に諮問し、その答申に基づいて、腸性末端皮膚炎等の医療上、特にやむを得ない場合を除いて、キノホルムおよびブロキシキノリンならびにこれらを含有する医薬品につき、スモンとの関連が明確になるまでの間販売を中止させるとともにすでに販売されているものについては、その使用を見合わせるよう広く一般に周知をはかった。

(中省略)

ウ、昭和四六年三月、局所麻痺、精神神経用剤、抗ヒスタミン剤を含有する外用剤、ホウ酸またはホウ砂およびそれらの含有製剤について、使用上の注意事項を定めた。」。

「昭和四七年度版 厚生白書」(厚生省、昭和四七年一二月二五日、甲A第三〇号証の三一―二一四頁以下)

「安全性の強化

…… また副作用がその効果に比較して著しい場合には販売中止や回収に至る場合もある。最近では、四六年一二月、気管支拡張剤、女性ホルモン剤、向精神薬、骨格筋弛緩剤の一部を要指示薬に指定し、四七年四月から医師等の処方せん又は指示がなければ購入しえないこととしているほか、四七年三月、三環系抗うつ剤、チアジド系降圧利尿剤、経口糖尿病薬について使用上の注意事項を整理して定め、周知を図るなどの措置をとっている。」。

「昭和四八年度版 厚生白書」(厚生省編、昭和四九年一月二一日、甲A第三二号証の九―二三九頁以下)

「安全性の強化

…………

最近では、四八年三月、抗てんかん剤、フチロフェノン系精神神経用剤、卵胞ホルモン剤、黄体ホルモン剤、黄体ホルモン及び卵胞ホルモン含有剤(経口剤)について、使用上の注意事項を整理して定め、周知を図るなどの措置を執った。」。

「昭和四九年度版 厚生白書」(厚生省編、昭和四九年一一月三〇日、甲A第三二号証の一一―二八一頁以下)

「安全性の強化

…………

最近では、四九年六月、塩化ビニール(モノマー)を含有するスプレー式の殺虫剤について製造販売の停止、回収を行う措置を講じた外、四九年三月には蛋白同化ステロイド剤等について使用上の注意事項の整備を行った。

副作用情報の伝達については、四八年六月から『医薬品副作用情報』を隔月に作成し、各モニター施設、報告医師等に送付するとともに専門誌にも掲載し、情報のフィードバックの充実化を図っている。また、四九年度からは、さらに、全国の病院、診療所等を対象として、副作用情報等の伝達を図ることとしている。」。

このように、厚生白書をみると、昭和三〇年代の初めは、不良医薬品の取締、不正表示、誇大広告の取締などに重点が置かれていたようである。しかし、この時期にも、医薬品の安全性の確保のため積極的な取締と指導の実施されていたことは、先に引用した昭和三二年度版白書の記すとおりである。そして、サリドマイド事件を契機として、昭和三〇年代の後半からは、医薬品の安全性がきわめて重要な課題として取り上げられ、白書においても『医薬品の安全性確保』という項目が設けられる程となってくる(昭和三九年度版から)。以後、現在に至るまで、新医薬品の製造承認に際し、動物実験を義務づけたり、既に製造を承認したものについてさえ、製造を禁止させたり、使用上の注意事項の記載を求めたり、副作用情報の収集、報告を義務づけたりしてきた。それらが、すべて医薬品の安全性を確保するための措置であったことは言うまでもない。

②  通達類について

薬務行政の動きを知る上で、薬務局長らの発した通達、通知類が重要となる。

次に引用する通達類をみれば、厚生省が医薬品等の安全性を確保するために、製造承認の取消を含む強い規制を、現行法の下において行っており、もはや「行政指導」などといい得るものでないことが明白となる。

「医薬品の安全確保の方策について」(昭和三八年四月三日、厚生省薬発第一六七号各都道府県知事宛、厚生省薬務局長通知以下、通達の引用において特に断りないかぎり、知事宛の薬務局長通知である)

「医薬品の胎児に及ぼす影響については、昭和三六年一一月西ドイツにおいて妊婦のサリドマイド服用が奇形児を生ずる疑いがあると報ぜられて以来、……医薬品の安全確保の方策について種々検討を重ねてきた処であるが……すべての新医薬品については、申請者から従来の基礎実験に加えて、当該医薬品の胎児に及ぼす影響に関する動物実験成績の提出を求めることとした。……」。

「かぜ薬の製造(輸入)承認および製造(輸入)許可について」(昭和四〇年五月一一日、薬発第三六〇号)

すでに承認を受けているアンプル入りかぜ薬については、日を限って製造品目の廃止届を提出させること、指定期限までに廃止届を提出しない場合には、製造の取消を行う方針である旨を明言した。

「医薬品の安全確保対策について」(昭和四〇年五月二八日、薬製第一二五号各都道府県衛生管理部(局)長宛、厚生省薬務局製薬課長通知)

医薬品の胎児に及ぼす影響に関する動物試験の方法を具体的に定めたもの。

「メクリジン等の使用上の注意事項について」(昭和四〇年一一月一八日、薬発第八五九号)

アメリカからの情報により、メクリジン等の安全対策のため、『使用上の注意』として『妊婦又は妊娠の可能性のある婦人は、この薬の服用については、必ず医師と相談すること』を医薬品に表示することなどを製薬業者、輸入販売業者らに指導せよというもの。

「甲状腺製剤等の取扱いについて」(昭和四一年三月二日、薬発第九九号)

甲状腺製剤などにつき、直接の容器もしくは直接の被包又は、添付文書に記載する使用上の注意などを定めたもの。

「ナファゾリン又はその塩類を含有する点眼剤の取扱いについて」(昭和四一年三月一二日、薬発第一三二号)

「ナファゾリン又はその塩類を含有する点眼剤については、過度の使用等により、保健衛生上の危害を生ずることが判明したので、当該医薬品の安全性を確保するため、今回次の措置をとることとしたから……(以下省略)」。

「医薬品の製造承認等に関する基本方針について」(昭和四二年九月一三日、薬発第六四五号、厚生省薬務局長から日本製薬団体連合等あて)

「クロラムフェニコール等抗生物質製剤の使用上の注意事項について」(昭和四三年八月一四日、薬発第六三九号)

クロラムフェニコール等の投与により再生不良性貧血等の血液障害が現れることがあるので、血液に異常が認められたときは、投与を中止することなどを『使用上の注意事項』として、医薬品製造業者等に指導せよというもの。

「抗生物質製剤の使用上の注意事項について」(昭和四三年一二月二七日、薬発第一、〇一九号)

ペニシリン・ストレプトマイシン等、抗生物質製剤の全般について、薬事法五二条一号に規定する使用上の注意事項として記載すべきことを定めたもの。以下には、表題のみを掲げることとする。

「アミノ酸第二水銀(白降汞)を含有する製剤等の取扱いについて」(昭和四四年七月二三日、薬発第五六二号)

「シクラミン酸カルシウム及びシクラミン酸ナトリウムを含有する医薬品等の取扱いについて」(昭和四四年一〇月三〇日、薬発第八四九号)

「染毛剤の使用上の注意について」(昭和四五年四月二一日、薬発第三七六号)

「かぜ薬の添付文書等に記載する使用上の注意について」(昭和四五年九月三〇日、薬発第八四一号)

「ヘキサクロロフェン等を含有する医薬品の取扱いおよび使用上の注意事項について」(昭和四六年一二月二八日、薬発第一、二二八号)

「イドクスウリジン等を含有する医薬品の使用上の注意事項について」(昭和四六年一二月二八日、薬製二第四号、各都道府県衛生主管部(局)長宛厚生省薬務局製薬第二課長通知)

「ヘキサクロロフェンを含有する医薬部外品の取扱いについて」(昭和四七年三月二日、薬発第一七九号)

「ビサチンを含有する医薬品の取扱いについて」(昭和四七年三月三日、薬発第一八〇号)

「抗てんかん剤等の使用上の注意事項について」(昭和四八年三月二四日、薬発第三〇三号)

「塩化ビニール(モノマー)を含有する医薬品等の取扱いについて」(昭和四九年六月一〇日、薬発第四九〇号)

以上に引用したもののほかにも、医薬品の安全性を確保するために使用上の注意事項の記載を製薬業者、販売業者らに行わせるよう知事に指導周知徹底方を求めた通達は多数発せられている。

これらの通達をみれば、厚生省が医薬品の製造承認の取消を含む強い権限を背景として医薬品の安全性確保のために種々の措置を執ってきたことが明らかとなる。

③  酸素、保育器についての国の規制

RLFの予防という視点からみれば、国は何の措置も執らなかったといえる。しかし酸素や保育器に関して、薬事法五二条に基づく「使用上の注意」事項を添付文書とするよう指導したり、関係機関に呼びかけたり、種々の規制を行っているのである。例えば、

「医療用酸素の取扱いについて」(昭和四〇年五月一日、薬発第三五六号、愛知県知事あて厚生省薬務局長回答)

これは、医療用液体酸素も、薬事法二条一項に規定する医薬品として取扱うというもの。

「高圧酸素治療装置の添付文書に記載すべき使用上の注意事項等について」(昭和四四年九月一二日、薬発第七〇四号)

高圧酸素治療装置の安全対策として、製造業者、販売業者らに「使用上の注意事項」を添付文書とすること、及び、器体の見易い箇所に貼付するべき「注意事項」を定めたもの。

「酸素テントの使用上の注意について」(昭和四五年二月一二日、厚生省薬務局薬事課長から各都道府県衛生主管部(局)長あて)

酸素テントなどの使用に際しては、火気、火災源等について注意されたい旨の「使用上の注意」事項を添付するよう製造業者らに指導し、関係機関にも注意するよう呼びかけたもの。

「医用電気機器の添付文書に記載すべき使用上の注意事項について」(昭和四七年六月一〇日薬発第四九五号)

医用電気機器の使用上(安全および危険防止)の注意事項として、「1)診断、治療に必要な時間、量をこえないよう注意すること、2)機器及び患者に異常のないことを絶えず監視すること」等を定めた。なお、本通知は、最大電圧が一五ボルトをこえる機器に適用され、JIS規格に適合するものについても、さらに、すでに医療機関に納品されたものについても準じるとされている。

「医療用ガス製造所の医薬品製造管理者について」(昭和四八年七月五日、薬発第六五八号)

酸素などの医療用ガスについては薬事法一五条一項但書の「その製造の管理について薬剤師を必要としない医薬品」として取扱うこととし、薬剤師に代えることのできる技術者の資格を定めたもの。

「ガス性医薬品及び揮発性医薬品の取扱いについて」(昭和五一年一二月一七日、薬発第一、三四四号)

酸素などのガス性医薬品などについて、販売業者の許可に当っての留意事項などを定めたもの。

このように、酸素や保育器に関して、国は種々の規制を行っているのである。

これらは薬事法の法規集、「薬務公報」、「製薬関係通知集」(昭和五一年一〇月五日、日本公定書協会編、薬業時報社)などによって、容易に知ることのできるものである。

(4) 被告国の法解釈に対する反論

被告国は、「国は、医薬品・医療用具等の製造承認後における安全確保義務は有し得ない」と主張し、その理由として、薬事法一四条一項は、日本薬局方(以下「局方」と略称する。)収載外の医薬品についての製造承認を定めているところ、酸素は昭和七年以来、四度の局方改正に際して引き続き収載されてきたこと、また、医療用具としての保育器も薬事法一四条一項、同法施行規則一八条によって、JISに適合するものについて厚生大臣の承認を必要としないことなどをあげている。

①  薬事法一四条一項

同項は、たしかに「局方外医薬品等」に対する製造の承認を定めている。それは、「局方に収載される医薬品は、既に十分な使用経験によってその安全性が確認されているのであり、医学・薬学上その医薬品の用法・用量が存在することは当然の前提とされている」からに他ならない。

しかし、局方に収載することは薬事法四一条に基づく厚生大臣の行政行為であり、国以外の第三者の行為ではないのである。

国は酸素を、昭和七年六月の第五改正局方に収載し、以後、昭和二六年三月、昭和三六年四月、昭和四六年四月、昭和五一年四月に、それぞれ第六改正、第七改正、第八改正、第九改正と局方を改正するたびに引き続き収載してきたのであるが、それは「国がその安全性を確認した」からこそ局方に収載したのである。

そして、局方に収載した以上、それは個別的な品目ごとの製造承認を要しないとしたわけであるから、その安全性について、局方外の医薬品以上に安全性確認の義務を負うべきである(局方に収めてない医薬品についてさえ、国は安全性の確保の義務を負っている以上、局方に収めた医薬品については、なおのこと、同様の義務を負っていることは、薬事法一四条の規定の類推解釈として当然導かれることである。)。

②  薬事法五二条

被告国は、薬事法五二条二号について「酸素について、日本薬局方が添付文書等への記載を定めた事項はない。」と主張する。しかし、局方によって添付文書への記載事項を定めることができるのであるなら、国が自ら酸素について局方のなかで添付文書への記載を定めればよかったはずである。さらに、同条一号について「局方収載医薬品についても、製造業者等が薬事法五二条一号に基づき当該医薬品に添付する文書等に医学・薬学上認められる範囲外の用法・用量を記載した場合において、厚生大臣が薬事法上の規制権限(例えば、七〇条一項、五五条)を発動することがあり得る。」という。

同条は「医薬品は、これに添付する文書又はその容器若しくは被包に、次の各号に掲げる事項が記載されていなければならない。」とし、その一号に「用法・用量その他使用及び取扱い上の必要な注意」を掲げている。

「薬事法詳解」の著者は、当時厚生省薬務局長であり、同人の著作は国の新薬事法に対する見解を示すものと思われるが、同著によれば、薬事法五二条「第一号の記載事項は、おおむね(1)使用量(年令、疾病の程度、身体の状況等の差異により必要があれば書き分ける。)、(2)使用の度数、(3)使用の期間、(4)使用の時期、(5)使用の順序、又は方法、(6)使用の準備(カッコ内省略)、(7)禁忌症、副作用が起きた場合の措置等その使用によって生ずるおそれのある保健上の危害を防止するための注意、(8)貯法又は保管方法等であるが、勿論、これだけに限られるものでないと同時に、これらの事項はすべて記載しなければならないものではなく、その医薬品の性質等を考慮して客観的に必要と認められる事項を記載すれば足りる。」(二九二頁)。つまり、同号は医薬品の副作用を防止するため、製薬業者に対し用法・用量・使用及び取扱い上の注意事項の記載を義務づけたものである。したがって、国のいうように、製造業者が添付した文書に医学・薬学上認められる範囲外の用法・用量が記載されていた場合に止まらず、添付文書に何の記載もない場合も国が規制権限を発動する場合に含むことは明らかである。けだし本件のように危険な医薬品について、その用法、用量、副作用防止のための注意などが記載されていない場合、それは誤った記載がある場合と同じ程度に危険だからである。

また、局方収載の医薬品にあっても、一号に規定する事項を記載する必要のあることはいうまでもない(昭和三八・二・八薬事一四秋田県厚生部長宛厚生省薬務局薬事課長回答)。

つまり、局方収載薬品であれば、まず第一に局方のなかに「添付する文書」などに記載する事項を定めるべきであり、第二に、仮に局方に記載事項を定めなかったときでも、本件においては、薬事法五二条一号の定める「添付書類」は必要だったのであるから、これをなさない製造業者に対し、薬事法五五条による規制をなすべきであったのである。

(二) 酸素に関する安全性確保義務違反

(1) 酸素は「医薬品」である。

酸素が薬品であり、副作用があることについては古くから薬学の書物にも記載されている。

つまり、安全性について、疑問視されていたに止まらず、毒性が早くから指摘されていたのである。

①  「臨床薬理学」(昭和一七年七月六日、額田晉著、金原商店一八七頁)

「酸素ノ吸入ハ血液酸素欠之症ノスベテノ場合ニ試ミラレルガ……純粋ナ酸素ハ、コレヲ長イ時間、即チ一日以上モ吸入セシメルト、大気ノ圧力ノ下ニアツテモ、大多数ノ実験動物ハ肺上皮細胞ノ傷害ニヨッテ炎症性肺変化ヲ起ス。人ニアリテモ、特ニ前カラ炎症性肺変化ガアルカ、或ハ純粋ナ酸素ヲ四―六時間ヨリモ長ク吸入セシメル場合ニハ、同様ノ変化が起ル。マタ人ニアリテハ、酸素ヲ高圧ノ下ニ吸入セシメル時ハ特ニ強イ毒作用ガアル……

局所性或ハ全身性循環障礙ニヨル血液酸素欠之症ハ、同時ニ動脈血ノ酸素飽和ガ不充分ナ場合デナケレバ酸素ノ吸入ハ有効デナイ。」

②  「薬物療法の理論と実際」(昭和二五年八月三〇日、貫文三郎著、大成堂書店一一八頁以下)

「応用時の注意としては、ヘモグロビンの摂取する量に限度があるので無暗に投与しても無駄であり有害である。故にチアノーゼが起れば一定時間吸入させる。……」

③  「最新薬理学」(昭和三二年六月二五日、栗秋要著、中外医学社、甲第一五号証の五―四四二頁以下)

(酸素の副作用として)

「硝子体後方線維症

早産児をincubator内で高張力の酸素中に保っておくことが、早産児でよく起る本症の原因である。高張力の酸素は網膜血管を閉塞する作用があり(この作用は血管の成熟度と逆比例する。)、そのため網膜障害が起される。酸素張力を正常に下げると閉塞された網膜血管は開かず、網膜無酸素症を起し、その結果無秩序の血管再生・網膜剥離や萎縮が起る。incubatorの酸素濃度を正常に保てば本病の発生は大いに減ぜられる。」。

④  「『ショック』その基礎と臨床」(昭和四四年一二月二五日、三枝正裕編、真興交易(株)医書出版部、甲A第二七号証の一二―三九九頁)

(酸素中毒の項に、RLFをとりあげ)

「臨床時には三気圧、酸素呼吸二時間が常人で酸素中毒の心配のない範囲と考えられている。一般に乳幼児は成人より抵抗力が弱い。新生児酸素呼吸の際の後水晶体線維形成は良く知られている。」。

⑤  「グットマン・ギルマン薬理書(下)第四版薬物治療の基礎と臨床」(昭和四九年六月二五日、上条一也外監訳、広川書店、甲A第三二号証の一〇―一一二五頁以下)

同書の、訳者まえがきによれば、

「グッドマン・ギルマンの薬理書は、一九四〇年の初版以来、医学生と医師にとって必読の書とされ、次々と版を重ねる毎に薬物治療の最新の知見を幅広く取り入れ、今日に至るまで世界最高の権威ある薬物治療学の教科書、参考書として多くの要望に応じて来た名著である。」とある。

同書は、第四三章「治療用気体」として、酸素をあげ、詳細に説明したのち、「酸素吸入の副作用」として「後水晶体線維増殖法」をあげ、「RLFは、出産時に高濃度の酸素にさらされた未熟児にときおりみられる、網膜の血管が増殖する疾患である。……酸素を必要とする未熟児のみに必要期間だけ、可能であるならば、三五~四〇パーセントの吸入酸素濃度に限って与えることにより、近年著しくこの疾病の出現率(頻度)は低下した(Silverman.一九六一参照)。

しかしながら、チアノーゼの乳児は四〇パーセントの酸素吸入よりも高濃度の酸素にさらさなければならないが、この疾病の原因として重要なのは吸入(傍点原著のまま)PO2ではなく動脈(同上)PO2であるから、後水晶体線維増殖症の危険を増すことなく行うことができる(Smith.一九六四参照)。」。

このように、薬学関係の教科書等にさえ、酸素の副作用は記載され、その危険性が指摘されているのである。しかもわが国で未熟児に対する酸素療法の開始される前の昭和一〇年代からなのである。

(2) 酸素の日本薬局方収載との関係

酸素は昭和七年以来日本薬局方に収載されてきた。

そして、日本薬局方に収められている医薬品を製造しようとするには、旧薬事法のもとでは製造業の登録を受けた者ならば、自由にこれを製造することができ、品目ごとの製造許可は不要であり、薬事法のもとでも製造業の許可をもって足り、品目ごとの製造承認を必要としない。しかしながら同法は局方に収められている医薬品については、製薬業者即ち国民の側からみて製造許可などは不要であるとしているに過ぎず、局方収載の医薬品については、一旦収載すれば後は厚生大臣即ち国側においても審査を要しないとまでいっていない。局方収載にこのような確定効を認める規定はない。医薬品は、本質的に危険を内包し、また医薬品の安全性確認は、学問の進歩と情報の集積によって深められて行くものであることを考慮すると、局方収載後も引続き安全性に留意する必要があるというべきである。局方収載時に厚生大臣によって安全性と有効性が審査されることは当然であるが局方収載と同時に厚生大臣の安全性確認義務が消滅すると解すべきではなく、また事柄の性質上、局方収載によって或る医薬品の性質が科学的に安全なものに確定するわけでもない。かえって、局方に収載することによって、国が公認したという信頼感、安心感が製薬、医療の分野に生じ、これはさらに一般に反映されて行くことが考えられるのであって、第二次的信頼が発生、増幅される虞れがあって危険である。したがって局方収載をした厚生大臣は、或る医薬品が安全かつ有効であることを認めて公示した責任上、収載が継続する限り、収載品についての安全性確認の義務を潜在的かつ継続的に負っているというべく、少くとも収載者としては収載によって国民に生じた実質的根拠のない増幅された第二次的安心感を再移入してはならないということができる。そうだとすれば局方収載後であっても、特定の医薬品について疑問を生じたときは随時個別的に、局方収載後一定期間経過したような場合は全面的に審査を行い、また局方に収められていない医薬品について、製造許可等の申請があった際は、これを機会に、その医薬品の成分中の局方収載品についても改めて審査を行うといったような方法で、時代の変遷に応じた新しい態勢のもとで常に安全性確認を行う義務を肯定しなければならない。

(3) 厚生大臣が執るべきであった措置

①  第一に、添付文書への使用方法などの記載をなさしめるべきであった。

局方収載の医薬品についても厚生大臣はその医薬品の用法・用量、取り扱い上の注意などを「添付する文書」などに記載する事項を定める権限を有しているのであり、かつ、局方収載後でも、医学・科学の進歩に伴って「添付する文書」に記載すべき事項を追加することも出来るのである。(前掲、北陸スモン判決、証人野海の証言)

薬事法五二条は「医薬品は、これに添付する文書又はその容器もしくは被包に次の各号に掲げる事項が記載されていなければならない。」とし、その一号に「用法・用量その他使用及び取り扱い上の必要な注意」を掲げている。

甲A第二号証の「薬事法詳解」の著者は、当時厚生省薬務局長であり、同人の著作は国の新薬事法に対する見解を示すものと思われる。同著によれば、薬事法五二条「第一号の記載事項はおおむね(1)使用量(年令、疾病の程度、身体状況等の差異により必要があれば書き分ける。)、(2)使用の度数、(3)使用の期間、(4)使用の時期、(5)使用の順序、又は方法、(6)使用の準備(カッコ内省略)、(7)禁忌症、副作用が起きた場合の措置等その使用によって生ずるおそれがある保健上の危害を防止するための注意、(8)貯法又は保管方法等であるが、勿論これだけに限られるものでないと同時に、これらの事項はすべて記載しなければならないものではなく、その医薬品の性質等を考慮して客観的に必要と認められる事項を記載すれば足りる。」(二九二頁)。つまり、同号は医薬品の副作用を防止するため、製薬業者に対し用法・用量・使用及び取り扱い上の注意事項の記載を義務付けたものである。したがって、製造業者が添付した文書に医学・薬学上認められる範囲外の用法・用量が記載されていた場合に止まらず、添付文書に何の記載もない場合も国が規制権限を発動する場合に含むことは明らかである。蓋し、本件のように危険な医薬品について、その用法・用量・副作用防止のための注意などが規制されていない場合、それは誤った記載がある場合と同じ程度に危険だからである。

また、局方収載の医薬品であっても、一号に規定する事項を記載する必要のあることはいうまでもない(昭和三八・二・八薬事一四秋田県厚生部長宛厚生省薬務局薬事課長回答)。

つまり、局方収載品であれば、まず第一に局方のなかに「添付する文書」などに記載する事項を定めるべきであり、第二にかりに局方に記載事項を定めなかったときでも、本件においては、薬事法五二条一号の定める「添付文書」は必要だったのであるから、これをなさない製造業者に対し、薬事法五五条による規制をなすべきであったのである。

②  第二に薬事法第四二条による指導を行うべきであった。

原告らが主張する点につき薬事法四二条一項もその根拠となるものである

薬事法四二条一項において「厚生大臣は、生物学的製剤、抗菌性物質製剤、その他保険衛生上特別の注意を要する医薬品につき、中央薬事審議会の意見を聞いて、その製法、性状、品質、貯法等に関し、必要な基準を設けることができる。」と定められている。

日本薬局方に収載されている医薬品も本条の対象となることは当然であり、前記解説書「薬事法詳解」においても、日本薬局方収載医薬品も本条の対象となるとされている。

(4) しかるに、厚生大臣は、「酸素」の投与に伴う安全性の確保のために右の措置を執ることを怠った。

(三) 保育器についての安全性確保義務違反

(1) 医療用具と医薬品の類似性(医療用具についての安全性確保の必要性)

現在迄問題となった薬害事件の殆どは医薬品の副作用を原因としている。したがって、提訴された殆どの薬害事件においては、国の安全性確保義務は殆ど医薬品に関してのみ検討が加えられてきた。しかしながら医療用具にも医薬品と同様な意味で国の安全性確認義務が課せられていることは明らかである。

医療用具にも医薬品と同様な義務が国に課せられていることは、まず第一に法の定義から導き出される。

薬事法二条は、医薬品、医療用具などについての定義に関する条文である。この定義によると、要するに、医薬品と医療用具はいずれも人若しくは動物の疾病の診断、治療若しくは予防に使用されること、又は身体の構造もしくは機能に影響を及ぼすことが目的とされる物である。そして医薬品と医療用具の差は、医療用具がそのような目的を持った器具器械であるのに対し、医薬品はそのような目的を持ったもので、器具器械でないものであるというところにある。この定義によると、医薬品と医療用具の差は極言すると、器具器械であるか否かという点のみであるとも言える。したがって薬事法一四条一項において、医療用具は医薬品とともに、原則として名称、成分、分量、用法、用量、効能、効果等の審査の上製造承認を受けることが、製造の条件となっているのである。即ち薬事法一四条一項においては医薬品と医療用具は殆ど同一に扱われているのである。

そして、保育器は、未熟児に対し、加温、加湿及び呼吸障害のあるときの酸素供給を行うための医療器具である。一方、酸素は、未熟児に対し過剰に与えられたときは重篤な障害をひき起す。したがって、酸素供給の役割をも担う保育器の製造承認に当っては、当然、未熟児に安全に酸素を供給するための装置・構造及び用法が審査されなければならないのである。

(2) 保育器の製造承認に当って何ら酸素投与に伴う安全性を確保する措置を執らなかった違法

保育器は医療用具であるが、医療用具に関しては厚生大臣に大きな権限が付与されている。すなわち、第一に、公定書外医薬品医療用具の製造に際しては、品目ごとに厚生大臣の許可を受けなければならないし(薬事法二六条三項、 三一条)、第二に、許可を受けた医薬品医療用具であっても、表示書に「虚偽の事情又は誤解を招く虞がある事項」の記載されているもの、「使用上の適当な注意」などが記載されていないもの、「表示書に記載されている用法、用量又は使用期間が保健衛生上危険であるもの」などを「不正表示医薬品」とした上「薬事法四一条)、その製造販売を禁止するとともに、併せて虚偽又は誇大な記事の広告・流布を禁じ、第三に、これらの規制の実効性担保のため、違反に対しては刑罰をもって臨むほか、医薬品の製造又は販売業者の登録取消又は業務停止の命令権(薬事法四六条)、業者からの報告聴取権、立入検査権、不良又は不正表示医薬品に対する危害防止のための処分命令権ないし処分権などが厚生大臣に付与されている。以上は昭和二八年当時の薬事法の条文を基にしたものであるが、その後数次の法改正を経たとはいえ、厚生大臣の規制権限の基本は今日でも何ら変ってはいない。

したがって、保育器の製造承認にあたって(昭和四三年の日本工業標準規格制定以前)、厚生大臣は「使用上の適当な注意」として前記の「使用上の注意」を記載させるべきであった。しかるに厚生大臣は何らそのような措置は執らなかった。

(3) 保育器製造について何ら酸素投与に伴う安全性について審査しなかった違法

医療用具である保育器は、昭和四三年の日本工業標準規格の制定後、薬事法一四条一項、同法施行規則一八条によって日本工業標準規格(JIS)に適合するものについては、その製造につき厚生大臣の承認を必要としないとされている。

しかし、日本工業標準規格は工業標準化法(昭和二四年法第一八五号)によって制定されているものであるところ、同法及び工業標準化法施行規則第一条によって、医療用具である保育器の日本工業標準規格を定めるのは主務大臣である厚生大臣である。厚生大臣は日本工業標準規格を定めるに際し、当該医療用具について安全性について充分な検討をすべきであり、安全性を確保できるように前記のような使用上の注意を定めるべきであったのに、これを怠った。

(4) 保育器について一度定められた日本工業標準規格について、それの安全性が確保されているかを事後的に追跡監視しなかった違法

厚生大臣は、保育器につき一度定めた日本工業標準規格についても常に検討し、安全確保に努めるべきである。科学の進歩や、臨床使用経験の蓄積などにより、当初の判断の是正を迫られるケースも決して少くない。換言すれば、製造承認の審査義務は、事後の追跡監視を伴わないかぎり無意味である。法もその点を考慮して工業標準化法一五条において「主務大臣は、一一条の規定により制定した工業標準がなお、適正であるかどうかを、その制定の日から少くとも三年を経過するごとに調査会の審議に附し、これを確認し、又は必要があると認めるときは改正し、若しくは廃止しなければならない」と規定している。

すなわち、厚生大臣は三年毎に、保育器の使用方法適正の有無、安全性について検討・確認すべき義務を負っているのである。科学は日進月歩ともいうべき速さで進歩し、医療用具についても同様であり、従前看過されていた副作用が発見されることは稀なことではない。

薬事法四二条二項においても厚生大臣は保健衛生上の危害を防止するために必要があるときは、医療用具について、中央薬事審議会の意見を聞いて、その性状、品質及び性能に関し、必要な基準を設けることができるとされているのである。

しかるに、厚生大臣は工業標準化法に基づく保育器のJISの検討を怠り、何らの措置を執らなかった。

4 医師法二四条の二に基づく医師に対する指導責任

保育器の使用ないし酸素の投与は未熟児の養育医療に当たる医師においてこれを行うものであるが、国の医師に対する適切な指示、指導があったならば、未熟児網膜症の発症は抑制されたはずである。

(一) 医師法の規定

医師法は、国民の生命・健康の維持増進に関する医師の重要性にかんがみ、医師の資格を定めて試験・免許制度とし(同法二条ないし 六条、 九条ないし 一六条)、免許を受けた後も二年以上の臨床研修を課したうえ、医師として医療業務に従事させることが不適当な一定の場合には厚生大臣に医師免許の取消、医業停止などの処分権限を与えている(同法七条)。そして、医師には診療義務などを課し(同法一九条)、無診療治療などを禁止し(同法二〇条)、処方せんの交付(同法二二条)や診療録の作成保存(同法二四条)を義務づけて医師による適切な診療行為を担保するようにしている。

そして、医師の行う個々の具体的な治療行為に関しては、医師の判断に一応委せることが適切であるとしても、公衆衛生上重大な危害が生ずる虞れがある場合には、厚生省設置法四条、一〇条(医師の身分及び業務について指導監督を行うこと)などの規定からして、厚生大臣が必要な指示を与え、医師の治療行為を指導監督すべき義務があるものと考えられる。昭和二四年五月一四日に法律第六六号をもって医師法二四条の二に右の趣旨の規定が追加されたが、これは厚生大臣が医師に対し医療又は保健指導に関し必要な指示を与える権限と責任を有することを具体的に立法化し明確にしたものである。すなわち、同条一項には「厚生大臣は、公衆衛生上重大な危害を生ずる虞がある場合において、その危害を防止するため特に必要があると認めるときは、医師に対して、医療または保健指導に関し必要な指示をすることができる。」と規定されている。

(二) 医師法二四条の二の規定は、昭和二三年秋に、輸血による梅毒感染事故による損害賠償事件(東大病院輸血梅毒事件)が機縁となって制定されたものである。その提案理由は、医師に対しその専門的素養充分として一旦医師免許を与えた以上、一般的には、医療行為の内容については、厚生大臣といえども具体的な指示をせずに医師の裁量に委せて治療行為を行わせるということが医師法の基本的な立場であったが、社会的にも重要な問題が発生した場合には、「公衆衛生上重大な危害を生ずる虞がある場合においてその危害を防止するために特に必要」であることを条件として医師に対しても必要な指示ができるようにすることにあった(第五回国会参議院厚生委員会会議録第一七号二頁以下)。右立法の経緯としては前記輸血問題に対する対策として生まれたものであるが、将来この種の問題が起るだろうということを予想して、現実の表現は一般的なものに広くされたのである(右会議録)。

医師法二四条の二の規定は、厚生大臣に対する権限付与の規定であるが、これは同時に厚生大臣に対し、所定の要件が充たされた状況下ではその権限を行使すべき法的義務を与えたものと解すべきである。

(三) 保育器を使用して酸素を供給した場合、その供給方法によっては未熟児網膜症が多発する可能性があったわけであり、医師法二四条の二所定の「公衆衛生上重大な危害を生ずる虞がある場合」に該当することは明らかであった。したがって、厚生大臣は、右法条により、保育器による酸素投与に当っては前記の「使用上の注意」に従うよう医師らに指示すべきであったのにこれを怠った。

5 母子保健法に関する被告国の責任

(一) 母子保健法の規定

母子保健法は五条で

「1 国及び地方公共団体は、母性並びに乳児及び幼児の健康の保持及び増進に努めなければならない。

2 国及び地方公共団体は、母性並びに乳児及び幼児の健康の保持及び増進に関する施策を講ずるに当っては、その施策を通じて、前三条に規定する母子保健の理念が具現されるように配慮しなければならない。

と定め、この具体化として、未熟児の訪問指導(一九条)、養育医療(二〇条)などを定めている。なお、これらの制度は同法の前法といえる児童福祉法において定められ、昭和三三年度から実施され、昭和四一年度の母子保健法に引継がれたものである。この養育医療の給付を適切に行うために、指定養育医療機関制度を設け、次のような基準に合致する医療機関を指定している。

「(ア) 産科又は小児科を標ぼうしていること。

(イ) 独立した未熟児室を持っていること。但し、新生児室のみを持つ場合には、壁などで明確に仕切り、新生児室と未熟児室にわけるか、又は閉鎖式保育器を持っていること。なお、未熟児室は適度の高温・高湿を保ち得るものであること。

(ウ) 保育器、酸素吸収装置その他未熟児医療に必要な器具を持っていること。保育器は、未熟児室がある場合は開放式、閉鎖式のいずれでもよいが、新生児室のみで未熟児室がない場合には、閉鎖式であること。

(エ) 未熟児養育に習熟した医師及び看護婦を適当数持っていること。

(オ) 以上のほか、本条の解釈九において述べたように、未熟児移送の危険性にかんがみ、できる限り救急用自動車ないし乗用車、移送用保育器及び酸素吸入器等の設備を有し、収容未熟児の移送を担当することができるものであること。」(「母子保健法の解釈と運用」厚生省児童家庭局長竹下精紀著、甲A第三号証八七頁。)。

同法五条は、抽象的な努力目標ではなく、このような形で具体化されているのであるから、こうした指定基準も同法条の義務をなすものと考えねばならない。

(二) 酸素投与に関する使用上の注意につき医師を指導することを法的義務とすることは次の事実からしても妥当なものである。

(1) 昭和三三年六月発行の「未熟児の取扱とその知識」(甲A第一六号証の二)は、厚生省の委託研究を行い、当時の母子衛生課長浅野が説明を聞いたりしていた日赤病院長久慈直太郎の著作であるが、二〇五頁には次のように述べられている。

「近年に至って発表された未熟児に起こる眼の疾病であって、生後二~三週間で発病するものが多い。この変化は、未熟児に眼底検査を行って初めて発見されるようになったもので、本邦ではまだその発表がない。この病の原因については色々の説があるが、未熟児哺育の際における酸素の使用過度と関係があるものの如くである。

それ故に酸素の濃度を四〇パーセント以上に上げぬようにし、かつ、必要なときにのみ酸素を用いるよう注意すればこれを予防し得る。我国にこの病の発生した報告のないのは、本邦において未熟児哺育施設の数が尚少なく、かつ、本邦において未熟児を哺育するに長時間高濃度に酸素を使用する者のないためであろう。

症状の軽いものは自然に治癒するが、しからざる場合には色々の程度の眼障害を残す。適当な治療法がないから、高濃度の酸素を長く用いぬようにし、かつ、不必要に長く酸素を用いぬようにする。」。

また、昭和三四年一〇月発行の日本眼衛生協会「失明防止読本」(甲A第一七号証の二―一九頁)によれば、

「これは近年欧米特にアメリカにおいて乳児の主要失明原因として注目せられているもので、未熟児を保育する際、生後三~六週の間に先ず網膜血管拡張、蛇行、出血が起こり、次第に血管新生結合織増殖が著明となって、硝子体中に水晶後面に達する模様の結合織が形成せられ、やがて網膜剥離も起こして失明するもので、原因は未熟児に対する酸素の過剰補給によるという説が有力である、我国においては報告が少ないが、社会及び医療が進歩し、未熟児の保育が盛んになると問題となるに違いない。」

と警告しているのである。

(2) 厚生省児童家庭局編集の「未熟児養育医療訪問指導必携」(甲A第二八号証の二一―初版昭和三六年)は、同法の訪問指導を行うもののバイブルのような書であるが、この五七頁には、酸素吸入の項があり、

「チアノーゼや呼吸困難に対しては、安静第一にして無用の処置を避けるほか酸素吸入を行う。酸素は症状を消失せしめるのに必要な最小量を使用するのが安全で、又経済的である。

酸素の濃度が四〇パーセントを超えると、後水晶体繊維形成症の原因になることがあるから、酸素使用に当っては、酸素濃度の測定を行うことが望ましい。」

として、本症に対する警戒を呼びかけている。

厚生省は、「未熟児疾患の治療や予防に携わっている」者のために、厚生省後援による「未熟児講習会」を開催し好評を得たが、これを昭和三五年三月「未熟児シリーズ第三集未熟児疾患の病理及び治療」(甲A第一八号証の二―自序参照)という形で、講義の内容そのままに再現し出版した。この八一頁、八二頁では、本症について次のように述べられている。

「酸素及び湿度の適正補給

酸素の有用性については異論はないが、予防のため、幼若未熟児全ての例にルティーンとして酸素を与えることには議論はある。ことに酸素の過剰補給が、後水晶体線維症又は肺硝子膜症の原因となるという説は、次第に広く認められてきており、従来に比べて慎重であり、多くの人々は、必要最少限度にとどめるがよいとの見解をもっている。三〇%~四〇%の酸素が用いられているが、Crosseは続いて用いる場合には三〇%をこえぬようにすべきだという。過剰に用いられた酸素こそ有害に働く場合があるが、最もAnoxiaを起こしやすい未熟児にとって、酸素がよい治療法であることは論をまたない。たとえ過剰な酸素であっても、頑固なチアノーゼ発作等に対して一過性に用いることは効果的であり、またその害はない。なお、酸素吸入により効果の現れない場合、胃内に酸素を送気する方法は、近年用いられ卓効を奏することがある。Weintraub(一九五六)によると、過剰酸素補給後突然酸素補給を中止した場合において、高率に後水晶体繊維症が発生しているが、過剰酸素吸入後のrelative Hypoxie(相対性酸素欠乏症)が重要な役割を演じているようである。この点、酸素中止に際して心すべきことであろう。ともあれ、酸素測定機は今日では保育器の必需付属品であろう。」。

この当時は、本症の発症例は少かった時期であるが、次のように将来の大発生が予想されていたので、訪問指導員や養育医療に携わる者に注意を呼びかけていたものであろう。

(三) 訪問指導において「使用上の注意」を徹底させることは人員の面からみても可能であった。

次の表のとおり、昭和三四年から同五二年までの間毎年約五万~七万人の低体重児の届出のあるうち、訪問指導は、実人員で毎年約六万人、延人員で、毎年約九万人である。つまり、出生した低体重児の殆どが、母子保健法(旧児童福祉法)に基づき、「医師または未熟児の養育に習熟した保健婦」による訪問指導を受けていたのである。

(四) 中央児童福祉審議会の答申

児童福祉法八条四項によれば「中央児童福祉審議会」(以下「福祉審議会」という。)は、厚生大臣の管理に属し、その諮問に答え、又は関係行政機関に意見を具申することができる。」とあり、母子保健法七条も、同旨を定めている。これに基づいて、福祉審議会は種々の意見具申を厚生大臣に対して行ってきた。

低体重児

届出総数

訪問実人員

訪問指導延人員

昭34

59,352

50,137

103,544

35

63,980

54,726

108,492

36

66,164

51,677

96,447

37

74,332

52,744

92,853

38

76,850

59,908

100,874

39

77,196

62,362

100,865

40

77,281

65,434

105,373

41

58,657

55,019

85,879

42

73,116

71,956

109,768

43

71,269

69,628

101,763

44

69,645

69,047

97,802

45

69,652

69,219

96,653

46

69,292

68,603

95,104

47

69,781

69,515

95,158

48

69,036

66,250

90,998

49

67,715

66,557

91,637

50

62,092

66,660

93,794

51

57,867

63,074

90,963

52

54,569

60,003

86,206

(「厚生白書」および「母子衛生の主なる統計」(厚生省児童家庭局母子衛生課監修)による)

(1) 「母子保健福祉施策の体系化と積極的な推進について」(昭和三九年一二月一七日)

「1 わが国における母子保健対策強化の必要性

1) わが国の母子保健の現状

……また、未熟児は、重症黄疸の発生率も高く、脳性まひその他の心身障害をひきおこすことも多いので、現在実施されている未熟児対策の内容の充実をはかる必要があり、同時に未熟児以外の新生児に対しても養育指導並びに養育医療の徹底がはかられるよう考慮する必要がある。

(中省略)

5 小児医療の充実強化と福祉施設の整備

1) 未熟児養育医療の充実

未熟児死亡の減少には、核黄疸・肺機能不全による無酸素性障害・感染・先天異常の合併などに対する適切な処置が不可欠である。この目的を達成するためには、指定養育医療機関の質的、量的、地域的整備が必要であり、同時に末端機関の中核となる未熟児センターの適切な配置が必要である。即ち、未熟児センターにおいては、適切な収容能力とともに、血清ビリルビンの測定、詳細な血液型の判定、交換輸血、酸素濃度の測定、その他必要な検査を即時に実施し得る設備と要員をそなえ、少くも人口五〇万に対し、一センターを整備する必要がある。

なお、未熟児の健全な育成のためには、長期の観察が必要であり、退院後も医師による定期的な健康管理を行なうことが必要である。未熟児に脳性小児麻痺の合併が極めて高率であるにかかわらず、その原因が必ずしも明らかでない現状に鑑み、出生前より出生後少くも三年間一貫した観察、記録を行なうための施策が必要である。」。

(2) 「当面推進すべき母子保健対策について」(昭和四三年一二月二〇日)

「3 乳幼児の保健管理体制の確立

2) 未熟児対策

とくに未熟児は、精神薄弱、脳性まひ、重症黄だん等心身障害の発生率も高く、また、乳幼児死亡率を高めている要因となっており、出生直後から特別の医療養護を必要とするので、早期の低体重児届出を励行するようすすめる必要がある。また、乳幼児死亡を防止し、心身障害児への移行を予防するために、医学の進歩に即応して、その成果をすみやかにとり入れ、未熟児に対する発育医療、在宅指導のほか、先天性の代謝異常児等についても早期発見、早期医療の拡充強化をはかることが肝要である。

訪問指導にあたっては、現在養育医療担当機関等との有機的連繋を欠くことなどにより十分な効果を発揮していない面もみられるので、今後は事後指導の徹底を期するために、保健所と家庭、医療機関等との連絡体制を充実し、効率的な指導が行なわれるよう配慮すべきである。」。

福祉審議会の、右のような未熟児医療に対する正当な指摘は、厚生省の容れるところとはならず、厚生省はRLF発症を予防する施策を何ら行ってこなかった。

(五) 被告国の義務の懈怠

右の事実からすると、被告国において未熟児網膜症の発症予防に関心を寄せていた時期があったのであるが、それ以後には全くの無為無策であった。我国における未熟児網膜症の発生状況は、「日本における新生児医療の実態」(甲A第三六号証の一)より引用すれば、その発生状況は「調査の対象となったカルテは一九五七~一九七六の一六二名(学会発表時から二名分のカルテが追加された)。出生年度別分布(図1)では、アメリカで厳密な酸素管理の結果、本症が激減していたころから本邦では急増を続けていたことが分かる。特に、国民皆保健以後に増加傾向のあったものが、昭和四〇年母子保健法制定と差額無料化と共に激増していることが分かる。

我が国でも早くから酸素と本症の関連性が知られており、多くの学者達が競って酸素管理の研究をしていたにもかかわらず、本症が激増し続けていたことは一驚に値する。ところが、昭和四九年高山裁判の判決と共に、さしもの急増を続けたRLFが激減したことも又明白である。」というものであった。しかるに、厚生省では、未熟児網膜症については問題がないものとの認識で何らの措置も執らず、昭和四九年度に至ってようやく「未熟児網膜症の診断及び治療基準に関する研究」を委託するに至ったのである。前記一判決によって未熟児網膜症が激減したのであるから、被告国が積極的な指導をすれば未熟児網膜症の多発を防ぐことができたはずである。

一〇 因果関係

1 酸素投与との一般的因果関係

(一) 未熟児網膜症が酸素療法に関係することは、キャンベル(一九五一年、昭和二六年)の報告以降パッツ、キンゼイ等の臨床実験が行われ、一九五六年(昭和三一年)ころには、確定している。これらをふまえて、アメリカ小児科学会は、一九五四年、一九五七年、一九六四年、一九七一年に勧告を行い、酸素の過剰使用をきびしく戒めている。こうした経過のなかで、欧米諸国での未熟児網膜症(以下この頃において「本症」という。)は激減し、過去の病とまで言われるようになったのである。欧米における本症の発症、予防の歴史をみれば、酸素投与と本症の因果関係は明らかである。

(二) 酸素非投与例の存在と因果関係

酸素を投与しなかった場合や成熟児にも本症が発生したと報告する文献も若干ある。しかし、それらの文献も、酸素非投与例や成熟児の場合に本症が発生するのは例外的なことであることを前提として報告しているのである。そして、その大半は本症予防のために、酸素の使用を必要最少限とせよと警告したり、酸素投与の方法(ガードナー法やPaO2測定など)について述べ、文献の全体を読めば、酸素投与と本症の因果関係を否定するものは皆無といってよい。

(三) 未熟性と因果関係

未熟児の網膜血管が未発達であり、この発達途上の血管が酸素に敏感に反応することから本症が発生する。したがって、未熟児として生まれたことが本症罹患と関係あることは事実である。また、医学文献のなかにも、本症の原因として、未熟性と酸素投与を列記するものもある。

だが、ここで重要なことは、自然的な因果の連鎖をたどることではない。被告ら病院、医院、医師(以下、便宜上、医師という)の注意義務を設定する限りでの因果関係が、つまり法的な因果関係が問われているのである。したがって、ここでは自然的な因果の流れから、診療にたずさわる医師が関与し得る範囲での因果の系列をとり出し、その流れに医師がどう関与し得たのか、どう関与すべきであったのかが論じられねばならない。そうでなければ、因果の系列は、「未熟児として生れたこと」から、さらには本人の出生前のさまざまな生物学的変化のなかを無限にさかのぼることになろう。そのような必要のないことはいうまでもない。

本症の発症、予防について、医師が関与し得たのは、出生した未熟児に適切な(全身管理の一環としての)酸素管理をなすということにつきる。つまり、未熟児として生れたことは、与えられた条件であって、「未熟性」を前提として医師のなすべきことを論じなければならないのである。

2 治療義務違反との一般的因果関係

光凝固法・冷凍凝固法は有効であり、これらの治療法が実施されれば、失明などの重大な結果を生ぜしめる未熟児網膜症の重症瘢痕を防止することができる。光凝固法・冷凍凝固法の有効性についても前記のとおりである。

3 各原告らの場合における因果関係

(一) 原告原島清関係

原告原島清が被告東京都が運営する東京都立豊島病院に入院中になされた請求の原因二1(一)ないし(八)記載の酸素投与のうち、昭和四五年九月二四日及び一〇月二二日の全身チアノーゼ発現時並びに九月二五日及び一〇月二三日の呼吸窮迫の時を除いた時における酸素投与は、請求の原因七1(二)記載のとおり当時の医療水準に照らして不必要な酸素投与であったというべきであり、これにより、原告原島清は未熟児網膜症に罹患し、両眼とも失明するに至った。また、同病院の医師が眼科医に依頼して原告原島清について定期的眼底検査を実施し、未熟児網膜症の発症が認められたら直ちに光凝固法による手術を受けさせるようにし、又は転医させることにより定期的眼底検査及び光凝固法による手術が受けられるようにしていたならば、原告原島清は失明を免れることができた。さらに、被告病院の担当医らが請求の原因七1(四)記載の説明義務を果たしていたならば、原告原島清は光凝固法による治療を受けて失明を免れることができた。

(二) 原告池田健一関係《省略》

(三) 原告石井久子関係《省略》

(四) 原告高橋佳吾関係《省略》

(五) 原告長島弘継関係《省略》

(六) 原告染谷さとみ関係《省略》

(七) 原告鈴木春江関係《省略》

(八) 原告青木康子関係《省略》

(九) 原告猪井未央関係《省略》

(一〇) 原告浅井一美関係《省略》

(一一) 原告春原健二関係《省略》

(一二) 原告伊藤慶昭関係《省略》

(一三) 原告矢田佳寿代関係《省略》

(一四) 原告友田英子関係《省略》

(一五) 原告須田裕子関係《省略》

(一六) 原告奥山太郎関係《省略》

(一七) 原告大場健太郎関係《省略》

(一八) 原告二宮裕子関係《省略》

(一九) 原告宮沢健児関係《省略》

(二〇) 原告福島千枝関係《省略》

(二一) 原告林千里関係《省略》

(二二) 原告仁茂田ルリ子関係《省略》

(二三) 原告植木竜夫関係《省略》

(二四) 原告米良律子関係《省略》

(二五) 原告戸祭智子関係《省略》

(二六) 原告内田麻子関係《省略》

(二七) 原告後藤強関係《省略》

(二八) 原告藤城保史美関係《省略》

(二九) 原告久連山直也関係《省略》

(三〇) 原告寺西満裕美関係《省略》

(三一) 原告塩田洋子関係《省略》

(三二) 原告浅川勇一関係《省略》

(三三) 原告三浦由紀子関係《省略》

(三四) 原告田尻享司関係《省略》

(三五) 原告小松宏衣関係《省略》

(三六) 原告益繁康弘関係《省略》

(三七) 原告熊川佳代子関係《省略》

(三八) 原告渡辺修二関係《省略》

(三九) 原告松本純子関係《省略》

(四〇) 原告皆川広行関係《省略》

(四一) 原告川崎陽子関係《省略》

(四二) 原告池島直子関係《省略》

(四三) 原告安藤美香関係《省略》

二 損害

原告らは、原告患児らが未熟児網膜症に罹患して失明又は視力障害の状態になったため、財産上および精神上著しい損害を蒙った。これら一切の損害を金銭に見積った場合、その額は別紙請求債権目録の損害額欄記載の各金額を下らない。

また、被告らは本件損害賠償債務を任意に履行しないので、原告らは本訴の提起及び追行を原告ら訴訟代理人に委任し、その報酬として右各損害額の一五パーセントに相当する右請求債権目録の弁護士費用欄記載の各金額を支払うことを約した。

三 結論

よって、別紙請求債権目録被告欄記載の被告らは、同目録各該当原告欄記載の原告らに対し、連帯して同目録請求金額欄記載の各金員及び右各金員に対する各訴状送達の日の翌日である別紙遅延損害金起算日一覧表記載の日以降完済に至るまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

第二請求の原因に対する認否

一  被告国の行政上の責任に関する被告国の認否

請求の原因九の主張は争う。

二  診療経過に関する各被告ら共通の認否

請求の原因一(当事者)の事実は認める。請求の原因三ないし五の主張は否認し、争う。請求の原因七の事実(被告の責任)のうち、各原告と各被告の間の診療契約の成立は認めるが、その契約上の債務の内容については争い、各被告に注意義務違反があるとの主張は争う。請求の原因八の主張は争う。請求の原因一〇の事実(因果関係)は否認する。請求の原因一一の事実は知らない。

三  診療経過に関する各被告らの認否

1 被告国《省略》

2 被告東京都《省略》

3 被告浦安市市川市病院組合葛南病院《省略》

4 被告神奈川県《省略》

5 被告久保田ら《省略》

6 被告医療法人社団米山産婦人科病院《省略》

7 被告医療法人美誠会井出病院《省略》

8 被告岩倉理雄《省略》

9 被告医療法人慈啓会《省略》

10 被告社団法人全国社会保険協会連合会《省略》

11 被告秋田県《省略》

12 被告日本赤十字社《省略》

13 被告医療法人仁寿会(財団)《省略》

14 被告医療法人愛生会《省略》

15 被告君津郡市中央病院組合《省略》

16 被告旭中央病院組合《省略》

17 被告芦屋市《省略》

18 被告医療法人社団深田病院《省略》

19 被告三橋信《省略》

20 被告株式会社日立製作所《省略》

21 被告社会福祉法人恩賜財団済生会《省略》

22 被告名古屋市《省略》

23 被告内野閉《省略》

24 被告太田五郎《省略》

25 被告加藤末子《省略》

第三被告らの主張

一  診療契約上の債務の内容と不法行為の前提となる注意義務の内容

1 医師が診療に当る場合には、様々な困難が生じる。未熟児についていえば、生命も脳も救い、未熟児網膜症の発症も予防できればよいが、それが困難なことがある。そのような場合には、医師としては第一に生命を救うことを考え、ついで脳を救うことを考え、そして、眼を救うことを考えることになる。医師の注意義務の内容を検討する場合には特定の眼という利益だけに着目するのではなく、未熟児保育全般を検討してその内容が検討されるべきである。

2 医師は当時の医療水準として確立していない診療方針ないし医療技術を実施する義務はない。ある診療方針ないし医療技術が医療水準に達するまでには、実験的段階(動物実験、臨床実験)、追試の段階、医学水準の段階、医療水準の段階というように段階的に進展してくるものである。医学水準の段階から医療水準の段階に至るまでには、知見の普及のみならず、教育訓練・設備の普及等によって一般の医師にとって技術的・物的に実行可能となっていることが必要である。

二  酸素管理についての医療水準

1 未熟児保育の困難さ

未熟児は、母胎内で十分な発育を遂げないまま生理的に未完成な状態で胎外生活を余儀なくされることから、身体のあらゆる機能が未成熟であり、その保育はきわめて困難である。

未熟児、とりわけ極小未熟児(未熟児の中、生下時体重が一五〇〇グラム以上であっても一五〇〇グラムに近い児の場合、その未熟性、保育の困難性などすべての点において極小未熟児と大差ない。以下極小未熟児の語は極小未熟児並びにこれと近い身体的未熟性などの顕著な児の意味に用いる。)は、その身体各部の機能が満期産児に比べ極端に未熟であり、自力で胎外生活をなし得ないため、死亡率も高く、現在でも医療従事者の努力むなしく出生後間もなく死亡する例が少くない。

また、極小未熟児は、呼吸器系器官の機能が未成熟であるため、特に特発性呼吸窮迫や無呼吸発作を起し易く、このため酸素欠之による脳性麻痺などの障害を生じ易いうえ、もしかかる脳障害が発生した場合は事後にいかに酸素を補給しても機能回復は不可能である。このため、幸いにして救命できて死を免れた場合にも、成熟児に比べて脳性麻痺、知能障害、その他後遺症を残す場合が多く、抗生物質・酸素・輸液・人工的換気による呼吸管理などを中心とする飛躍的に進歩した現在の医療技術をもってしても、すべての極小未熟児の後遺症なき救命はなし得ないというのが実情である。そして、かかる極小未熟児の出生が不可避である以上、その未熟性に起因する死亡、及び脳性麻痺を含む知能障害・末熟児網膜症等の疾患がある一定割合で発生することを避けることができないのである。

このように「極小未熟児」であること自体が、新生児保育においては「極めて重篤な症状」であることがまず認識されなければならない。

2 未熟性の具体的意味と酸素投与の必要性

(一) 母胎内における胎児の発育状況

胎児は、受胎後、在胎週数の経過に伴って徐々に身長・体重が増加し、それに伴って胎外生活を送るのに必要な形態的成長・機能的成熟をとげて、正常な場合、在胎三七ないし四一週で満期産児として出生する。

呼吸器官についてみると、胎児は胎内においては胎盤呼吸を行うため肺によるガス文換をしておらず、胎児肺は形成ないし成熟途上にある。

すなわち、胎児肺は、先ず在胎三週半ばころに気管溝として発生し間もなく憩室となり、更にその先が二つに分れて肺芽となる。この肺芽は在胎四週ころにはさらに、左に二つ、右に三つに分れて肺葉気管支の原基となる。この原基はその後に気管支が形成され、肺葉が分れ、さらに二〇数回の樹枝状の分肢を続けて後に呼吸気管支、肺胞、肺胞上皮、肺胞を包む網の目状の毛細血管などの形成・成熟(在胎二六ないし三一週)を継続する。

その後さらに、呼吸中枢、呼吸筋等の形成・成熟の後、自力による胎外生活が可能となり、出生するのである。

眼球についてみると、人の網膜は在胎一六週ころまでは無血管状態であり、その後硝子体血管より網膜内に血管が発達し、在胎二四ないし二八週ころにおいて網膜内の血管の発達は最も急速となり、在胎三二週間ころでは網膜内鼻側の血管は鋸状縁まで発達するが、耳側では血管は未だ鋸状縁に達していない。したがって、在胎週数の短い未熟児程網膜内の血管成長が未成熟で、鋸状縁との間の無血管帯も広い。

(二) 極小未熟児の機能的未熟性

胎内で順調に成長し、三七ないし四一週で無事出生する満期産児に比べると、極小未熟児は身体各部の形成・成熟の途上で流産又は早産によって出生したものであることから、その在胎週数が短かければ短かい程単に低体重であるというだけでなく、脳・眼球・肺・腎・中枢神経等の臓器がきわめて未成熟であって、胎外での生活に自力で適応できる状態にまで成熟していない。

そのため、極小未熟児は、本来は胎内で形成・成熟すべきものが、出生後に胎内とは著しく異なる環境である胎外で形成・成熟することになる。極小未熟児は、形態学的にも機能的にも未成熟であるが、肺機能についてもその発達が充分でないため、従前からの胎盤呼吸が肺呼吸へ円滑に転換することができず、大気中(大気中の酸素濃度は二一パーセント程度である)からは、酸素を体内に充分に取り入れることができない。

また、特発性呼吸窮迫や無呼吸などの呼吸障害を起しがちである。この結果、しばしば酸素欠之(低酸素症)に陥り死亡したり、とりわけ、脳においては酸素が欠之し、そのため、頭蓋内出血や低酸素性脳障害を起したりする。幸いに救命できた場合にも脳性麻痺などの後遺症を残す例が多い。

(三) 以上のような点で、極小未熟児には酸素投与が必要なことが多い。そして、生命や脳を救うための酸素投与が未熟児網膜症を発症せしめることがあり、医師はこのような二律背反の要請の下で困難な判断をしなければならないのである。

3 原告ら出生当時における酸素投与に関する医療水準

(一) 原告患児ら出生当時、産婦人科医、小児科医に示された酸素投与の指針は、保育器内の環境酸素濃度四〇パーセント以下に止めることが一般的な術式として存在していた(ただし、呼吸停止やチアノーゼが強いときは四〇パーセントを超える高濃度の酸素、場合によっては一〇〇パーセントの酸素を与えてもよいとされていた。)。そして、具体的には右濃度の範囲内で個々の症例の臨床所見から担当医師の判断で低減するなどして酸素投与していたというのが実態であり、四〇パーセント以下の濃度を保持し、かつ徐々に低減することにより未熟児網膜症は予防し得るとの認識が一般化していた。

例えば、早くから未熟児保育に強い関心を示した産婦人科医としては数少い東北大学医学部助教授安達寿夫は、新生児学入門第二版(乙A第三三号証の一〇―二〇三ページ)において、末熟児網膜症の治療と予防にふれ、現在治療法はないとしたうえ、酸素投与法につき四〇パーセント以下説に立ち、普通のインキューベーター内投与法では四〇パーセント以上になっていることは少いので実際上高濃度そのものはあまり心配なく、ただ投与を中止するときその濃度を急激に下げないで徐々に下げるように注意すべきであると説いている。

なお、投与期間について基準を示したものはなきにひとしく、担当医師が保育経験を踏え児の具体的症状から判断して決めていたというのが実状であり、PaO2測定時代に入った現時点でも期間の制限は何ら示されていない。

(二) 右の事実は次の文献からも知ることができる。

(1) 産婦人科医向けの権威ある文献とされる新生児学(乙A第二六号証の七)は、酸素投与の適応になる症例として次のごとき所見のみられるものを対象としている。

すなわち、「努力呼吸、不規則な呼吸をするもの、ときどき無呼吸のapneaの発作が起こるもの、泣き声が弱いもの、あるいはピッチの速い泣きかたをするもの、無気力なもの、蒼白あるいはチアノーゼがあるもの、けいれん様過敏またはけいれん発作のあるもの、一般状態の悪いものなどである。」としており、酸素の適応範囲を非常に拡大している点が注目され、救命及び脳障害防止の見地から理解すべきものであろう。

また、右文献は、「未熟児の酸素療法時の酸素濃度は四〇パーセント以下とするのが常識である。」とし、低酸素症に対して酸素を投与するのは明らかに有効で、少なくともチアノーゼが生じない程度の酸素投与というのは必要なことだと思うと述べ、さらに酸素投与期間が短いと脳性麻痺の発生頻度が高くなることを警告的に紹介している。

(2) 平田教授は未熟児の規則正しい呼吸、つまり自立呼吸を図るためには空気中の酸素の二倍の濃度四〇パーセントが適当であるとしており、期間については全く触れていない(乙A第二七号証の四―三一〇ページ)。

(3) また、東大治療指針は四〇年度版、四四年版共に脳障害・頭蓋内出血を予防する見地からチアノーゼや呼吸困難を示さない児に対するルーチン投与法を採用しており、酸素濃度は通常四〇パーセント程度に止める、ただし四四年版ではこの場合三〇パーセント以下に止める、としている(乙A第二五号証の二―四九五頁、乙A第二九号証の三―五五六頁)。とりわけ、四四年版では体重別投与期間の目安が削除され、その期間については専ら医師の判断に委ねられている点が注目される。

(三) 原告らの主張に対する反論

たしかに、昭和四五年当時、明らかな呼吸障害や強度のチアノーゼを酸素投与の指標とし、このような状態が消失したときは直ちに酸素投与を中止すべきであるとして酸素使用の厳格な制限を強調する見解が述べられていた。しかし、このような基準で過失の有無を判断することは、次の理由から不当であるというべきである。

(1) まず、右の指針は一つの考え方に過ぎず当時一般に承認されていたわけではない。とりわけ、一五〇〇グラム以下の極小未熟児は死亡率が高いのみでなく、肺機能の未熟度が高く無酸素症に陥る危険があるため、酸素投与の厳しい制限はかえってこれら極小未熟児の死亡率を高め、無酸素症に基因する、より重篤な後遺障害を招くおそれがあることから、前記東大小児科治療指針(乙A第三五号証の二及び第二九号証の三)や新生児学(乙A第二六号証の七)に代表される極小未熟児にはチアノーゼ等の有無に拘らず酸素を投与すべきであるとの見解は、本件当時なお小児科及び産婦人科界の根強い支持を受け通説的立場を保持していたものというべきである。

(2) 次に、実際の医療の場においてチアノーゼの有無を判定することは非常に難しく、一方、チアノーゼがなければ低酸素症状態にないかというと必ずしもそうとはいえないのである。極小未熟児で呼吸障害がなく元気よくチアノーゼがみられないのにPaO2を測ってみると五〇mmHg前後と低いPaO2値を示す症例がしばしばみられることは専門的研究者によって指摘され、チアノーゼを指標とする投与酸素濃度の設定は不正確であり、PaO2測定による酸素濃度の調節が望ましいとされている(乙A第三五号証の四並びに東京高裁での第二回石塚証言―乙A第四〇号証の一一―一五丁)。

(3) 酸素投与に関する指針は、いわば一般的指針というべきものであり、一応の目安の域を出るものではなく、法的注意義務を設定すべき具体的に確立した基準として存在していたわけではない。またPaO2測定時代へ移行した今日においても確立した基準が示されていないことにはなんら変わりがない。したがって、具体的な酸素の供給量やその期間は、当該臨床医において、過去の臨床経験を踏まえ、個々の未熟児の状況に応じて決定するほかなく、しかも、若し酸素の供給量や期間が必要な程度を下まわったときは生命の危険や脳障害に陥る危険に曝されることが充分考えられ、当該担当医師の裁量に委ねられていたものといわなければならない。

ちなみに、石塚医師は、東京高裁第二回証人尋問において「とにかく、臨床というのは難しいもので、機械と違いますから、しかし、実際問題として一般状態とか呼吸の状態とかチアノーゼの状態あるいは未熟性の問題、そういうことを総合判断して、個々の医師の裁量で決めるもので、絶対のあれはないんです。どうしても未熟児には酸素の問題は大事であるということは確かであります。」と証言しているところである(乙A第四〇号証の一一―一一丁表)。

未熟児、とりわけ極小未熟児はどれ一つをとってみても、同様の症状を示すものはなく、個体差があり、当該未熟児の全身状態に即応した保育が行われることになるのであって、成書などに示される投与基準は、前述のとおり、一応の目安であり、確立された基準ではない。文献上の記述どおりに行われたから過失がなく、行われなかったから過失があるというような概念で医療は律せられるものでは決してない。具体的判断自体は、各担当医師の経験と知識を基礎とした裁量の範囲内とされていたのである。

4 まとめ

(一) 本件の原告患児ら出生当時における未熟児保育の一般臨床医は未熟児網膜症(以下「本症」という。)の発生と酸素投与との関係について、次のような認識を有し、かつこのような見解が一般化していた。

(1) 未熟児網膜症は未熟児特有の疾患であり、本症の発生原因の一つとして、酸素の過剰投与が挙げられているが、本症は四〇パーセント以上の酸素を長期間投与した未熟児に発生するものであり、酸素濃度を四〇パーセント以下に制限すれば本症の発生を防止することができ、その発生の危険はない。

(2) 一方、酸素投与をいたずらに制限することは、未熟児に低酸素症あるいは無酸素症を起こし、かかる症状からくる頭蓋内出血によって死亡もしくは脳性麻痺を招く恐れがあるので、未熟児の状態に応じて酸素の供給は積極的に行うべきである。特に、極小未熟児の場合、症状が不安定で突然呼吸障害に陥るなど変動がはげしく、右の危険が大きいので、チアノーゼや呼吸困難を示さなくとも生後一定期間ルーチンとして酸素の供給を行う。

(二) したがって、未熟児保育の担当医師は、本症発症の可能性と極小未熟児は多くの場合一般的に酸素投与の適応にあることを念頭におき、在胎期間・体重・呼吸循環状態・活動性・その他の一般状態など(例えば呼吸数・体温等)を考慮しながら酸素投与の要否、量(濃度)を決定することになるのである。

三  全身管理に関する医療水準

1 体温保持の方法

原告患児ら出生当時、未熟児の体温は大体摂氏三六度位に保持するのが理想的であるとされていた。しかし、体重が少く未熟性が強い場合にはなかなか理想の状態に保持できないというのが通常の保育の実態であった。保育器内温度を上げることによって対応していたがそれにも自ら限界があって、余り器内温度を高くすると今度は水分との関係で問題を生ずる(脱水状態を招く)ため、現在のような高温環境下の保育は推奨されていなかった。つまり、体温を上げるための積極的方法は一般化していなかったのである。むしろ生後暫らくの間の低体温傾向は、未熟児の一般的症状として捉えられていた。

(一) 未熟児保育のパイオニアといわれる日本大学の馬場一雄教授は、昭和四四年版「末熟児の保育」の中で未熟児の体温につき生後急速に下降し三〇分ないし二時間で最低となりその後上昇して三六時間ないし四八時間で一応最高となるが、ここから生理的体重減少が最大となる時期まで再び体温は下降し、体重が増加し始めると体温も上昇する、と述べている(乙A第二九号証の五)。このような現象は未熟児の一つの特徴として理解されていたわけである。

(二) さらに、石塚祐吾医師は当審における証人尋問において「高温度環境下での未熟児保育はNICUを持っている病院でやるようになった、時期としては昭和五〇年を過ぎてからである。それ以前は低温環境下での保育が一般的であった。」旨述べており(第三〇回石塚証人調書)、昭和四〇年代の実態を明らかにしているところである。

2 栄養の与え方

(一) 東大治療指針(昭和四〇年版、四四年版共)は「未熟児に対する授乳開始を急ぎ過ぎたり、食餌の増量をあせったりすることは嘔吐を誘発し、吐物の吸引が窒息や吸引性肺炎の原因となることが多いから、厳に慎むべきである。」(乙A第二五号証の二、第二九号証の三)と述べ、飢餓日数と授乳開始後の食餌の増量を表によって示している。しかし、これはあくまでも目安を示したに過ぎない。

(二) 右東大治療指針と同一著者である馬場一雄教授は著書「未熟児の保育」の中にほぼ同様の食餌の増量表を掲げ、おおよその目安であると述べている(乙A第二九号証の五)。このように文献におおよその目安として示された指針はあくまでも指針であって、児の臨床所見によって変更することは何ら差支えなく、むしろ医師の判断で児の状態に即応して決めるべきことであり、それが医療というものであろう。

(三) 前記神戸大学の平田教授は、栄養の与え方について、「未熟児は正熟児と比べてトレランスがせまいので、量を過ごすと逆効果となる。……以前のように直接口から綿又はスポイトで与えるのは嚥下性肺炎の原因となるのでチューブで鼻腔から与えるのが良い。」(乙A第二七号証の四)と述べている。

四  未熟児網膜症の治療法に関する主張

1 医師の注意義務と医療水準

医療は、なによりも実践であり、医師に課せられる注意義務の基準となるべきものは、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準であることは今日判例法上確立した理論である。

そして、一つの新しい治療法が、一般に普及し実施されるようになるためには、まず先進的研究者らによる多数症例に対する臨床試験ないし追試(特に、自然経過との比較による対照試験が重要)による有効性の確認、ついで被験者に対する長期間に及ぶ追跡調査に基づく安全性と合理性(副作用の存在しないこと)の確認を経てはじめて治療法として確立し、更にこれが実施のための教育・普及という段階を辿るのが医学の常道である。けだし、医療行為は、特定の疾病に対する一種の挑戦であり、医的侵襲の危険を伴う内在的特質を有し、それ故に複雑微妙な人体に対する治療行為は、あくまでも有効性と安全性と合理性とが確認され、医学界全体の共有財産となった治療法でなければ、文献上の発表即実地医療への応用というかたちで軽々にこれを実施すべきものではないからである。

2 医療水準形成への三つの段階

右の点に関し、更にふえんすれば、医療行為における法的注意義務の基準として評価される臨床医に対する医療水準がどのようにして形成されるかが最も基本的な問題であるが、これは決して一様であり得ず、いくつかの段階を経てはじめて一つの水準が形成されるということである。これを大別すれば、第一番目が治験的段階(実験段階を含む)、第二番目が学問的水準の段階、第三番目が具体的可能性のある医療水準の三段階に分けることができよう。

(一) 治験的段階―ある疾患の治療について新知見が発表されたあと、関心ある研究者によってこれを試みようという動きがあり、追試がなされ、何年間かに続いて発表が行われ、学会の討議事項となる段階である。この段階で重要なことは、有効性と安全性確認のための対照試験(コントロール・スタディ)、つまり光凝固法を例にとれば、右眼を凝固し、左眼を凝固しないで両眼の視機能などを長期間にわたり、自然治癒との比較を含め追跡検討し、慎重なる試行錯誤の過程を踏まなければならないということである。自然治癒率の高い疾患であればあるほど、コントロール・スタディの重要性が強調される。

(二) 学問的水準段階―(一)の治験的段階は、その研究が集積するにつれ徐々に集約化されていく過程を辿る。いかなる研究の成果でも三年から五のうちには必ず反論が生ずるものとされるが、それによってひとつの学問として実態を備え、ある程度のコンセンサスができあがる。これが学問的水準の段階である。たとえば、その研究者の所属する学会での宿題報告が定まり、一定の期間を置いて報告すべきことが求められる。そこでは、それまでの対象となった研究の過程を広く辿り、より深化した検討を加えながら、診断基準、治療基準が形成される。いままでの最初の発表者や新たに研究の対象として追試を始めた各研究者の、得られる症例を手掛りとして横の連携もなく行っていた研究が広がりを持ち、まちまちであった考え方をつなぎ、厚みを増して集積し、体系づけられることになる。

また、厚生省と文部省の研究助成金を得てプロジェクトチームを組んで研究を進めていた研究者達が共同の成果として報告書を完成し発表する段階も、ひとつの学問的水準の形成と評価されよう。この時点でもまだ研究は終息するのではなく、一応示された診断基準・治療基準による具体的適応のための検討、またその治療法の実施に当っての副作用ないしは障害の指摘と考慮すべき問題点が投げかけられる。ここで実地医療に携わる臨床医は、示された診断・治療基準の概念を把握し、知識として理解を始めるのである。治験的段階では単なる一つの知見に過ぎなかったものが成熟し、評価として登場するからである。しかし、この段階では、さらに教育・訓練という場が必要である。文献は次々と発表されるが、治験的段階の論文として啓蒙的な性質を帯びていたものが、学問的水準段階ではそれが修正され、集約された意味で教育的なものとして解釈され登場する。このような考え方と指示の下で教育・訓練・物的設備の段階的な配慮が行われるのである。したがって、この学問的水準によって直ちに具体的可能性のある治療が開始されるのはまだ一部の先進的な大学・研究所・病院など限定された範囲においてである。そして増加してきた研究者を中心に臨床医の数があちこちに増え、医療機関に対して人的設備、物的設備を充実させるための予算要求の始まるのもこのころである。医療機器、薬品の製造も一段と活発化してくる段階である。

(三) 具体的可能性ある医療水準―(二)の学問的水準が一応の形成をみたあと、前述のような臨床医にとっての具体的可能性のある医療環境の整備がなされ、知識の普及、人的・物的措置が徐々に講じられるわけで、具体的には、学会としての講習が行われたり、医療機関では財政上の段階的な配慮がなされる。また、病院などでは限られた予算の枠の中で各診療科から出される要求に優先順位をつけ、年次的に整備していこうとし、医療行政の立場でも全体的な視野のなかでセンター病院の新設や各医療機関における連携体制を図っていくようになるものなのである(なお、病院については、医療法二一条、同法施行規則一九条ないし二一条でその法定の人員や施設の内容について規定が設けられている)。

ちなみに、厚生省特別研究班による本症に関する一応の診断治療基準が発表されたのが昭和五〇年三月であるが、昭和五〇年五月一八日開催された北日本眼科学会(新潟市公会堂で開かれ、北海道から東北六県と新潟までの眼科医を対象とする学会)において一般講演として本症が取り上げられ、また特別講演としては本症研究の権威者の一人である植村恭夫教授(慶応義塾大学眼科)が、「未熟児網膜症の診断と治療」と題する教育的講演を行い、本症の診断と治療における問題点を述べている状況にあり(乙A第三五号証の一二)、当時の水準を窺い知ることができるのである。

以上、みてきた点から理解されるように、医療はなにをおいても実践であり、地域性という問題一つを捉えてみても一つの新治療法が実地医療の中に定着していく過程には、さまざまの段階と帰趨を辿るものなのである。

3 光凝固法の創案とこれに対する反響と評価

本症に対する治療法としての光凝固法は、昭和四三年天理よろず相談所病院の永田医師らが網膜剥離の治療の目的で西ドイツで開発された光凝固法を本症の活動期の治療に応用し、その結果、頓挫的に病勢の中断されるのを経験したと報告したことに始まる(臨床眼科二二巻四号・二三ページ以下、昭和四三年四月刊―乙A第二八号証の二)。

光凝固法は、もともと太陽光線を凸レンズで集めて黒い紙の上に焦点を結ばせると紙が燃え出す原理を応用した、眼科にのみ特有のいわゆる光のメスとして開発されたものである。とりわけ、光凝固法は、本症を治癒せしめる術法ではなく、発育途上にある極めて未熟な網膜の組織を光で焼灼凝固して完全破壊し、眼の組織に永久的ダメージを与えてその進行を停止するだけの、光のメスによる非常に危険な物理的療法であり、これが実地医療への応用に当ってはことのほか慎重を期する必要が強調されなければならない。

(一) 昭和四三年~同四四年までの反響と評価

永田医師が本症二例につき光凝固を試み、これを学会報告したのが昭和四二年の秋で、文献的に研究報告したのが昭和四三年四月(臨床眼科二二巻四号)であり、その結果、どのような反響があったかにつき、本症の先進的研究者らの意見を聞いてみよう。

まず、福岡大学医学部大島健司教授は、「一般的な反響は殆どなかった、本症の研究という特殊な立場にある者、或いは成人の眼疾患の光凝固器による治療に従事していた者が本症にも使えるのかなあという程度の反響しかなかった。大多数の受止め方はまたかという感じだったと思う、というのは、本症に関しては過去にいろんな治療法が登場したが次々と消えていっており、この方法もやはりその一つではなかろうかというふうに思っていた者が大部分だったから。」と述べ、また永田医師が昭和四五年に第二回目の研究報告を出したことに関しても、「眼科学界における永田のこの仕事に対する反響は殆どなかったと思う。」とその感想を述べている(乙A第三八号証の五)。

次に、植村恭夫教授は、永田医師の前記二症例発表当時の反響につき、「未熟児施設のない大学だとか、病院というのは全く関心がない、眼科医としては非常に数が少ない病気ということもあって糖尿病性網膜症みたいな関心はなかったと思う。」と述べ(乙A第三八号証の七)、植村教授自身、産婦人科の実際(昭和四三年一一月発行―乙A第二八号証の八)において「新生児眼疾患」と題し、このことに関し、「永田らにより光凝固法という新しい治療法も登場し、失明を防ぐ努力が続けられている。このような眼科的管理が全国的に普及すれば、網膜症による失明はさらに減少すると思われる。」と触れ、いわば希望的観測として述べているに過ぎない。

さらに、右植村は永田医師の学会発表の際、発育途上にある未熟な網膜に対する悪影響及び全身麻酔による影響を危惧するかのごとき質問をしている(乙A第二八号証の二)。

また、右大島、植村らの証言を裏付けるかのように、昭和四三年七月刊の「新生児と脳と神経」(乙A第三一号証の三)において、植村と並ぶ未熟児眼科の権威とされる塚原勇は、光凝固法について「最近、光凝固法Photo cagulationにより網膜周辺の血管新生、網膜病巣を熱凝固することにより病勢の進行を阻止し得た症例がある。着想は興味深いが、症例数も少なく術後の観察期間も短いので、治療法としての価値の判定はさらに今後の問題である。」としている。

(二) 昭和四五年末当時における永田医師の追加報告と評価

前述のとおり、永田医師は、昭和四五年一一月刊の臨床眼科二四巻一一号(乙A第三〇号証の八)で一〇例の追加症例について報告し、「光凝固法は現在本症の最も確実な治療法ということができる。」としているが、昭和四二年施行の二例と合わせ僅か一二症例の臨床試験の結果に基づく発表であり、当時他の研究者らによる一編の追試報告もなかったことからすれば、永田自身の確信に過ぎないと評すべきであり、このことは以下の文献上の発表内容からもうなずけよう。

事実、岩瀬帥子(関西医科大学小児科)は、昭和四五年二月刊の小児外科内科二巻二号(乙A第三〇号証の一)の「未熟児網膜症の発生要因と眼の管理について」と題する論文の中で「最近光凝固法が提唱されているが、われわれは症例を経験していないので価値を論ずることはできない。」とし、同じく未熟児保育に積極的に取り組んできた中嶋唯夫(当時日赤本部産院医師)は、同四五年二月刊の産婦人科の実際(一九巻二号―乙A第三〇号証の三)の「新生児哺育の問題点―産科的立場より―」の中で「現在早期発見しても、重症で失明するものもあり、この未熟児網膜症対策の確立されるよう切に望み……」と述べつつも光凝固については一言も触れていない。

また、未熟児保育の権威者である奥山和男(当時国立小児病院小児科医師)は、昭和四五年一一月刊の臨床眼科二四巻一一号(乙A第三〇号証の六)の「未熟児の管理」中にも光凝固法のことは触れていないし、同じく同四五年一一月刊の「専門医にきく、今日の小児診療1」の<水晶体後部線維増殖症の予防と治療>(奥山担当部分―乙A第三〇号証の七)で本症の治療に触れてはいるが、光凝固法については全く触れていない。

なお、植村恭夫は、昭和四五年七月刊の小児科一一巻七号(乙A第三〇号証の五)において、本症の治療法の一つとして光凝固法を挙げたほか、同年一二月刊の日本新生児学会雑誌六巻四号(乙A第三〇号証の九)の「未熟児網膜症」の中で、現在治験段階であるとしつつ、「光凝固法の開発により、未熟児網膜症は、早期に発見すれば、失明をださずにすむことがほぼ確実となった。」と述べているが、この記述は永田医師の報告を信じたことの結果にすぎず、自ら臨床試験ないし追試によって実証したことによる結論ではなく、文献上の知識のみによる多分に先取り的な個人的抽象的評価に過ぎない。ちなみに、後述するように、植村の評価は後に至って消極的な方向への変動がみられ、この点特に重視したい。

以上述べたとおり、昭和四五年末時点においては、永田医師以外による光凝固法の臨床試験ないし追試報告例は一編も見当らず、客観的評価は皆無にひとしかったといってよいであろう。臨床試験ないし追試として光凝固を実施した結果の文献発表があったのは、昭和四六年以降である。

(三) 昭和四六年当時の知見と評価

本症に対する光凝固法は永田医師により実験的に試みられ、その結果は昭和四三年(二症例)と四五年(四症例の追加)に眼科専門誌に発表され(乙A第二八号証の二及び第三〇号証の四)、発表内容は適期に光凝固を行えば、ほぼ確実に失明を防止し得る、というものであった。

しかしながら、永田医師の右見解は、僅少のしかも殆どが自然治癒するといわれる症例での実験結果に基づいて有効性を主張したものであり、当時、多様な病像、病態を示す重症例に遭遇しなかったことから本症の病態の把握そのものを誤り、あまりにも性急に有効性の発表を行ってしまったというのが実情で、慎慮を欠いた先走りの結論として位置づけられるものである。このことはその後永田医師自身、昭和五一年の日本眼科学会宿題報告の中で、自ら行った光凝固例のうち、五分の四ないし六分の五は光凝固なしで、自然治癒する症例であることが推定されるとして、かなり無用の光凝固を行ってきたことを反省し、加えて、Ⅰ型網膜症三期でなお進行の止まないものに両眼凝固するのは過剰治療といえないことはないとして、馬嶋教授のⅠ型三期中期の片眼凝固の方針は当を得たものとこれを是認するに至っていることからも明らかといえよう(乙A第三六号証の一一)。

本来、新規治療法の提唱者の見解は、あくまでも主観的なものであり、これが客観性あるものとして認められるためには他の研究者(又は研究機関)による臨床実験ないし追試が必要となることはいうまでもない。この追試も開発研究者と同一方法で行われるのであれば、客観性に乏しく、とりわけ本症のごとき自然治癒率の高い疾患の場合は意味がないことになる。そこで追試は二重盲検法(ダブルブラインド)ないし対照試験(コントロール・スタディ)、又はこれに類する方法で施行されるのが医学・薬理学の常道であり、かかる方法に基づかない単純な追試の結果だけでは、その有効性・安全性が客観的に証明されたことにはならない。

とりわけ永田医師自ら認めているように、光凝固法は非常に危険な術法であり、発育途上にあるきわめて未熟な網膜の組織を光で焼灼凝固して完全破壊し、眼の組織に永久的ダメージを与えてしまう(凝固部位は完全に視力を失う)光のメスによる非常に危険な物理的療法であること、また本症が八〇~九〇パーセントと非常に自然治癒率の高い疾患であることから、無用の凝固は絶対に避けなければならないのである。そうであれば、数多くの追試(馬嶋昭生教授の試みた片眼凝固の方法などを含め)を施行し、遠隔成績の検討、自然経過との比較、治療効果と副作用の確認はもとより、本症の病態、病勢の正確な把握、対象例の選択を含む治療適応の判断、治療適期の選択確定、治療方法(凝固部位、程度など)に関する課題(以下「光凝固施行上の重要課題」という。)の解決が必要不可決な治療法である、といえるのである。

ところで、永田医師以外の研究者によって臨床試験ないし追試として光凝固を実施した結果の文献発表があったのは、昭和四六年四月以降であるが、次に考察するとおり、いずれも光凝固の有効性を含め右指摘の「光凝固施行上の重要課題」の解決には程遠いものであった。

(1) 関西医大眼科上原雅美らは、昭和四六年四月刊の臨床眼科二五巻四号(乙A第三一号証の二)において、「未熟児網膜症の急速な増悪と光凝固」と題する光凝固追試の研究報告を行っているが、おそらく永田医師以外の研究者らによる初めての追試報告例であろう。この中で上原らは、五症例に光凝固を試みた結果について、「周知のように本症の軽症例は自然治癒の傾向が著しい……従って光凝固を行う適応の選定が問題となる。」とし、失明例を具体的に紹介したのち「極端な未熟児では、眼底周辺検査が困難であり、検査が可能となった時には既に重症な網膜症が発生しており光凝固が十分にその効果をあらわさないというやむを得ぬ症例も存在する。また周辺を広範に光凝固を行い、後極部付近に一見障害を残さずに治癒せしめ得たと考えられる症例の実際の視機能に関しては、今後の研究(観察)に残される。」と結んでおり、高い自然治癒率(上原らの場合は八七・五パーセントの自然治癒率を示しているという。)との関連での病像の把握と適応選定の困難性のほか、有効性及び安全性の確保に今後の研究が残されているとの指摘に注目する必要があろう。

(2) 大島健司らは、昭和四六年九月刊の日本眼科紀要二二巻九号(乙A第三一号証の五)において、「九大における未熟児網膜症の治療と二、三の問題点」と題する論文を発表しているが、「実験対象と調査方法」の表現にみられるごとく、右論文は光凝固法による大島ら独自の臨床実験の研究報告であり、右上原ら同様に今後なお検討すべき問題点を提起しており、凝固の方法、時期等に意見を述べており、今後追試を試みる研究者らへの橋渡し的な役割の文献と評価でき、有効性・安全性についての確たる結論が示されていない点を重視すべきであろう。

(3) 要するに、昭和四六年中は永田医師以外の本症の先駆的研究者らの臨床実験ないし追試の結果が文献的に初めて報告された時期であり、その結果をみても明らかなように、実地医療への足がかりにも程遠い研究途上にあったということができる。

(4) また、昭和四六年当時には、名鉄病院眼科田辺吉彦が同四六年一一月刊の現代医学一九巻二号(乙A第三一号証の一〇)で述べているように、光凝固の副作用の点は全くもって未知数であり、この点についてはその後の研究に待たねばならない状況にあったのである。

(四) 昭和四七年当時の知見と評価

昭和四七年当時光凝固法は次に述べるとおり、いまだ先駆的研究者間で実験的にあるいは追試として行われていたに過ぎず、本症に有効な治療法として確立していなかった。したがって、一般臨床医レベルで治療法として普遍化しほぼ定着しているという状況にもなかった。

(1) 昭和四七年の臨床実験ないし追試による光凝固の有効性の報告には多くの問題を含んでいる。本症に対する光凝固法の提唱者永田誠医師は、昭和四七年三月刊の「臨床眼科」二六巻三号(乙A第三二号証の二)において、二五症例について光凝固術を施行した結果を報告し、結論の項で「今や未熟児網膜症発生の実態はほぼ明らかとなりこれに対する治療法も理論的には完成したということができるので、今後はこの知識をいかに普及し、いかに全国的規模で実行することができるかという点に主なる努力が傾けられるべきではないか。」としている。

ところで、右論文において永田医師が光凝固法が有効であったとしている症例はその殆どがⅠ型網膜症であり、しかも最も理想的な光凝固施行時期を活動期病変オーエンス三期よりもオーエンス二期の終り(右報告以前は、光凝固の適期をオーエンス二期から三期への移行期としている。)であるとしていることに注目しなければならない。

馬嶋昭生教授(名市大)は、Ⅰ型網膜症(一二例)に対し、初めて片眼凝固(一種のコントロール・スタディ)を試みた研究者の一人であるが、同教授は、その結果を昭和五一年一月刊の「臨床眼科」三〇巻一号(乙A第三六号証の二)で、次のように報告している。「片眼凝固で他眼が自然寛解したのは一〇例(八三・三パーセント)、結局両眼ともに凝固しなければならない結果になったのが二例(一六・七パーセント)である。非凝固眼が自然寛解した一〇例中、他眼凝固後一週間以内に寛解にむかったもの三例、一週間以上経過後に寛解にむかったもの六例、一時わずかに増悪した後に寛解したものが一例である。」

右論文で重視すべきことは、八三・三パーセントが凝固眼・非凝固眼共にすべて瘢痕一度(grade Ⅰ)で治癒したとの点は勿論であるが片眼凝固の時期を「活動期三期の中期に入りさらに進行の傾向を示したもの」としている点であり、この姿勢は現在でも変っておらず、同教授は昭和五六年八月刊の「臨床眼科」三五巻八号(乙A第四一号証の一)で「われわれは現在もⅠ型網膜症では、三期中期に入りさらに進行の傾向がある時期に、まず片眼の光凝固を行う方針で治療を行っている。」と述べ、さらに「Ⅰ型網膜症では一二五〇グラム以下のものでも七〇パーセント近くは三期初期で自然治癒している。」と報告している。

そうだとすると、永田医師やその他の研究者が活動二期に、あるいは二期から三期への移行期に光凝固して有効であったとしていることが、果たして、本当に光凝固によって進行が停止したといえるのかどうか、科学的根拠に乏しく疑問とせざるを得ない。ちなみに、赤石英教授(東北大)は、国立小児病院における光凝固法の治療効果を引用したうえ、「光凝固法で治癒したとされているものも、元来放置しても自然治癒した蓋然性が高く、光凝固法が未熟児網膜症に対し有効な治療法であるとはいえないことになる。」と述べている(昭和五五年度日本弁護士連合会刊「特別研修叢書」六五九ページー乙A第四一号証の九)。

まして、永田誠医師は、前記論文発表まではⅡ型網膜症を一例も経験していないのであって、その後Ⅱ型・混合型などの永田論文にはみられない治療困難な症例報告が出るに及んで、本症の病勢・病態が漸くにして解明されはじめたのであって、永田医師のいう、本症に対する治療法も理論的に完成したなど到底いい得ないところといわざるを得ない。しかも、永田医師は研究者の光凝固施行の時期・程度についての質問に対し、かなりの経験の蓄積を必要とするので、この意味での情報交換が必要であるとか、正しい判断のためには症例の蓄積が必要と考えるなど抽象的な答弁に終始している点を見逃すことができない。

さらに強調すべきは、昭和四七年論文発表当時においては前記重要課題の一つである光凝固の方法(部位・程度)すら確定しておらず、その後修正変更を余儀なくされていることであろう。

要するに、昭和四七年の永田論文(永田医師に従ったその他の研究者の追試報告論文も含めて)は光凝固の有効性を根拠づけるものとは到底なしがたいのである。

(2) 永田医師以外の研前者の昭和四七年論文の考察

昭和四七年には、昭和四六年に永田医師以外の先駆的研究者らによる研究報告(臨床実験ないし追試)が出て、二年目に当るが、光凝固法の有効性・安全性は確認されておらず、依然として実験・追試研究の段階にあった。

① 本多繁昭は、昭和四七年一月刊の眼科臨床医報六六巻一号(乙A第三二号証の一)に臨床実験―「未熟児網膜症に対する光凝固ならびに凍結凝固の経験」と題する論文を発表し、この中で光凝固の安全性(副作用)の問題に触れ、「今後のもっとも大切なことはこれらの凝固例がどのような経過をとるかということである。鋸状縁より網膜周辺部は硝子体の構造からも重要なところであり今後に残された問題である。著者も上記症例についてできるだけFOLLOW UPするつもりである。」と述べており、光凝固法が治療法として価値があるかどうかの判定はなお今後の問題であることを示唆しているものと理解される。

② 田辺吉彦医師らは、本症の自然治癒に関連して、昭和四七年五月刊の日眼会誌七六巻五号(乙A第三二号証の五)において光凝固の追試症例の結果報告をなしその中で、「本疾患の軽い時期に自然緩解の多い理由は、初期では一寸したきっかけから悪循環を脱することができる為と思われる。一眼は失明し他眼は正常に近いという症例があることはこれを裏書している、僅かの光凝固はそのきっかけとなるものと思われる。」と述べており、光凝固が果たして有効なのかを問う意味が含まれているものと解され、その有効性を確認した論文とは理解できないし、また、安全性の問題に触れ、「発育途上の未熟な眼球に光凝固を行うことが将来の発育にどのような影響を及ぼすかはまだ観察がなく、自然緩解の可能性のある眼に光凝固を行うことに疑問がなくはない」と指摘しており、この点もいまだ未解決であることを端的に表わしていることが理解される。

③ 田淵昭雄医師らは、昭和四七年七月刊の臨床眼科二六巻七号(乙A第三二号証の一〇)の「兵庫県立こども病院における未熟児の眼科的管理」の中で、「光凝固による網膜の組織学的変化が著しいことから、こういった網膜の器質的変化をきたさない治療をさらに検討する必要がある。」と述べており、このことは有効・安全な治療法のないことを示すものであり、また光凝固施行時期に関し、他の研究者らとは異なる活動期二期後期説を提唱しており、このことは、光凝固の最も重要な施行時期について研究者らの間においてさえ定説がなく、追試研究段階の域を脱していないことを明白に物語っているものといえよう。

④ 植村恭夫教授は、昭和四七年六月刊の小児科臨床二五巻六号(乙A第三二号証の六)に「未熟児網膜症―眼科医の立場から―」と題する論文を発表し、この中で、「網膜症の治療に光凝固法が出現して以来、治療の適応をめぐって論議があるのは、網膜症の臨床経過の多様性と自然治癒の高率なことから当然なことである。治療適応をきめるのには、むずかしい点もある。症例によっては、自然治癒するか、進行するかの判断がつきがたいものがある。活動期病変が停止あるいは軽快するかにみえて、突如として活動性となり急速に網膜剥離にと進む例がある。」とし、光凝固法をどの段階で施行するかの判定の困難性を述べるとともに、「もし、長期間の観察で光凝固による障害がないことが明らかになったら」という表現にみられるように副作用など障害の点を顧慮した控え目の態度を打ち出し、続いて前記田淵報告に触れ、「しかし、田淵の報告にもあるように、病理組織学的には光凝固による網膜組織の障害が認められることから矢張り慎重にならざるを得ない。」として、光凝固法の施行に対し警鐘を鳴らしているところである。

以上の考察によって明らかなように、昭和四七年中の各研究者らの研究報告によっても光凝固法の有効性が証明確認されたなど到底言い得ないところであり、本件の昭和四七年当時においても、さきに指摘した「光凝固施行上の重要課題」は全くといってよい程未解決であり、まさに模索の時代であったというべく依然として実験ないし追試研究の段階にあって、学問的水準段階にも達していなかった状況にあり、したがって、一般臨床医のための診断・治療基準を示し得る情況にも立ち至っておらず、昭和四六年当時とほぼ同様の状況にあって、実地医療としての普及というには道遠しの感が深く、光凝固の有効性・安全性を客観的に担保し得るものは存在しなかったといわざるを得ないのである。

要するに、本件の昭和四七年当時光凝固法が一般臨床医レベルで治療法として定着普遍化していたなどと到底いえる状況ではなかったのである。

(五) 昭和四八年~同四九年までの知見と評価

昭和四八年中に文献的発表のあった光凝固施行の症例報告は少い。

(1) 昭和四八年二月刊の眼科臨床医報六七巻二号(乙A第三三号証の一)で新城歌子は、昭和四七年九月一〇日開催の鹿児島・大分・宮崎合同眼科集談会での「未熟児網膜症発症について」と題する研究報告を発表しているが、光凝固を含め本症の治療については全く触れていない。

(2) 昭和四八年七月刊の眼科臨床医報六七巻七号(乙A第三三号証の二)で飯島幸雄らは、「国立習志野病院の未熟児網膜症およびその治療経験」と題する研究報告を行っている。その中で、同病院で昭和四七年中に行った三例の光凝固・冷凍凝固施行結果について一例無効、一例オーエンス三度の瘢痕を残す、一例経過観察中と述べているが、その評価については一言も触れていず、試行の域を脱していないというべきであろう。

(3) 昭和四八年一〇月刊の日本眼科紀要二四巻一〇号(九州眼科学会九州地区眼科講習会特集―乙A三三号証の七)で、大島健司教授らは「最近三年間<昭和四五年~同四七年>の九大および国立福岡中央病院未熟児室の管理に対する眼科医の参加と未熟児網膜症の発生について」を発表しているが、「討論」の部において、国立大村病院眼科の本多繁昭は、「自然治癒の可能性は極めて高いのでありなるべく注意深く観察して自然治癒するものに凝固を加えることはさけたい。」と慎重論を述べ、さらに「凝固に踏切るときの基準になるような病的所見があればご教示下さい。」との質問からも窺われるように、国立病院眼科医においてさえかくのごとき知見であり、確立された診断・治療基準が全く示されていないことを如実に物語っており、昭和四八年当時の眼科医の水準的知識を浮き彫りにしているといえよう。

(4) 昭和四八年九月刊の「小児診断治療の指針」(乙A第三三号証の六)で蒲生逸夫教授(大阪大学)は、本症の治療につき「薬物療法としては、副腎皮質ホルモン剤、ACTH、手術療法としては光凝固法、凍結手術法などが行われている。」と述べているが、有効・無効については全く触れておらず、いわば受け売り的な記述に止まっているにすぎないもので実証的裏付けは皆無である。

(5) 昭和四八年一二月刊の「臨床新生児学講座」(乙A第三三号証の八)で新生児学の権威者島田信宏助教授(北里大学)は、本症に触れ、「早期に眼底所見からこの未熟児網膜症を発見して、副腎皮質ホルモンによる治療、あるいは光凝固による治療で最近ではようやく失明から未熟児を守ることが出来るようになったので、私達も出来るだけ早期発見につとめなくてはならない。」と述べ、今後積極的に対処していかなければならない問題として把握されている姿勢が窺われ、このことは実地医療として未だ定着していないことを示しているといってよいであろう。

なお、昭和四六、七年当時、薬物療法は、既に否定的に解されていたにも拘わらず、昭和四八年末当時においてなお薬物療法を取り上げている実状にあり、著名な医学者においてかくのごとくであり、一般臨床医への知見の広まりないし浸透は推して知るべしであろう。

(6) 昭和四八年八月刊の「あすへの眼科展望」(乙A第三三号証の三)で坂上英助教授(京大)もまた、本症に対する光凝固法に触れているが、永田らの追試報告の紹介に止まる記述であり、「従来適確な治療法を欠いていた未熟児網膜症の治療に大きな光明をもたらしたもので、今後さらにその発展が望まれる領域である。」と抽象的記述に止まっており、実証的データーによる有効性の確認的報告ではない。

また、植村恭夫教授は、右と同じ文献に「19小児眼科学最近の進歩」(乙A第三三号証の四)と題する論文を発表し、その中で本症の治療に触れ、「網膜症の治療に光凝固が登場して以来、治療の適応や、光凝固自体の未熟児網膜に与える影響をめぐって論議があるのは、網膜症の臨床経過の多様と自然治癒の高率なことから当然なことである。光凝固の網膜への影響もいまだ長期の観察例が少なく、こどもが成長するにつれ、どのような影響がでてくるのかもいまだ十分なデータを得るには至っていない。……しかし、実際に網膜症を多数扱ってみると、自然治癒するのか、あるいは進行するのかの判断がつきがたいものがある。たとえば前述の大島の述べた治療の時期とする三期の限定所見を示すものでも全く痕跡を残さず自然に治癒する症例もある。これと反対に、活動期病変が停止あるいは軽快するかにみえて、突如として活動性となり急速に網膜剥離にと進む例がある<まれには、発症後二~三日にて急激に剥離にと進む例がある>。このような例に遭遇すると、もし、長期間の観察で光凝固による障害がないことが明らかになったら、このような症例には、早期に光凝固や冷凍凝固を行った方が最悪の事態はさけられると思う。」と述べており、右指摘の点からも窺われるように、光凝固の安全性(副作用の有無)はいまだ確認されておらず、したがって学界の定説にもなっていないし、研究段階にあり一般的治療法の域に達していないことを示唆するものと評価できるのである。

(7) 昭和四九年五月刊の眼科一六巻五号(乙A第三四号証の三)で植村恭夫教授は、「著者らは、過去八年間にわたり未熟児の眼管理を行ってきたが、未熟児網膜症の発病、経過、眼底所見は様々であり、臨床経過の完全な分類を作ることは、至難といわざるを得ない。……可逆性、不可逆性の問題、光凝固、冷凍凝固の適応などの問題、さらに合併症、Habilitationまでを含めた一貫した臨床経過、分類を作ることが必要となってきた。」とし、さらに「時には、急激に周辺部より後極に向かって波状または円孤状の扁平剥離が起る例がある。これは発症して二~三日でこの状態に至るものがあり、光凝固に難治なことが多い。……本症の経過は前述の如く個人差が強く、二期において自然緩解するかにみえたものが突如として増悪する例もあるし、逆に剥離が予想される病変の強さを示しても、中途より軽快し治癒する例もある。また、稀ではあるが、発病して二~三日で剥離がはじまるという急激な増悪例もあり、本症を多数経験すればする程その臨床経過の多様に驚く。このような多様な状態をみていると、治療効果の判定にも難しさがあることがわかる。この臨床経過の多様性という点が網膜症の一つの特徴ともいえる。」と述べており、やがて光凝固が、混迷期に入っていくことを示唆しているように思われる。とりわけ強調しておきたいことは、右内容からして、本症の治療は相当熟練した眼科医でなければ、容易になし得ないということであり(植村自身『眼底三年といい、眼底の細部のこまかい所見まで的確につかめるようになるには、三年以上トレーニングしないとだめだというのが眼科の一般的な常識である。』と述べている―乙A第三八号証の七)、医師の教育訓練等を含む人的物的設備という、いわゆる具体的可能性ある医療水準に到達していない段階であることが理解されるということである。

永田医師自身認めているように、植村らのいうような増悪症例に遭遇しない時点で確信に満ちた報告を行ったことが、文献発表者をして盲信させ、異常な事態に導いてしまったというべきであろう。

(8) さらに、昭和四九年九月刊の産科と婦人科四一巻九号(乙A第三四号証の七)で、秋山明基(横浜市大眼科)は、本症の治療と題する論文を発表し、その中で「山下らは光凝固による瘢痕の成長しつつある眼球に与える影響を考慮して最少範囲にとどめているといっているが、著者らもそれに同意見でまず最小限度の凝固を行ない、さらに経過により必要とあれば追加手術を行なっている、このことの是非については、今後の遠隔成績、病理学的検索等の結果をまちたい。」としており、これは安全性の確認がいまだできていないことを示すものである。また普及の前提として「植村らのいうRush-Typeというか、発症後数日にして滲出性変化をおこして網膜剥離へ進む型もあり、それこそ毎日眼底をみていても光凝固の時期を失う場合もあり得るので、光凝固装置の普及も重要だが、眼底が見れて凝固装置をつかいこなせる眼科医の大量の養成も大切である。」と述べている点を重視したい。

また、植村も右「産科と婦人科四一巻九号」(乙A第三四号証の四)に「未熟児網膜症をめぐって」と題する論文を発表し、その中で「光凝固法の出現前に、著者らの眼科的検査の結果によると、不可逆性変化をおこしたもの三パーセントであり、失明に至ったものは一パーセントである。すなわち、光凝固法の適応例は極めて僅かなものであり、大部分のものは可逆性であることは常に念頭におき、光凝固が過度に用いられることを戒めるものである。さらに光凝固法がincidious typeに奏効してもRush typeに奏効するかは、著者が疑問に感じている点である。」と述べ、光凝固万能主義に警告を与えている点に注目したい。

(9) また、昭和四九年一〇月刊の小児外科・内科六巻九・一〇号(乙A第三四号証の八)において、本症の権威者の一人である馬嶋昭生(名古屋市大眼科)は、本法施行の困難性と有効性に触れ、「施行上の重要な点は、前述のごとく七五~八〇パーセントは自然寛解があるので、症例の選択、時期の決定、過不足なく行う技術を修得することである。また、眼底が透見できた時にはすでにステージⅡになっているラッシュ・タイプの症例では、数回に及ぶ光凝固法によっても進行を止め得ないで失明に至る場合もあるので、本法によって一〇〇パーセント失明を防止できると考えるのは誤りである。」と述べ、秋山同様、技術者養成の必要性を示唆していることがうかがわれる。

なお、光凝固の技術的危険性困難性につき、大島健司は、「未熟児の眼底は見にくく至難の技であり、光凝固は両刃の剣で非常に熟練を要する、病気の範囲が大きければ何十発・何百発と焼く、いろんなタイプの未熟児網膜症をみて、その状態と時期の的確な判定をなしうるには少なくとも有能な指導者の下でマンツーマントレーニングを半年から一年間一〇〇例程度を経験しないと十分とはいい難い」と述べており(乙A第三八号証の五)、技術者の養成一つを取り上げてみてもかくのごとくであり、実地医療への普及に多くの隘路が横たわっていることが知られるのである。

(10) 次に、具体的可能性ある医療水準段階の形成の有無を知る上において、次の文献上の記述は貴重である。

昭和四九年一一月刊の日本総合愛育研究所紀要第一〇集(乙A第三四号証の九)において、内藤寿七郎らは、「危急新生児に見られる未熟網膜症の問題点に関する研究」と題する研究報告を行い、その中で次の諸点を指摘している。まことに的確な問題点の指摘で普及の程度を知る上で参考となろう。

(眼科学会の問題点)

A 未熟網膜症を診断しうる専門医が少ないこと

B 専門医を教育する施設、システムが少ないこと

C 治療に必要な器具・機材がとぼしいこと

D ヘイジー・メディア(Hazy media)のため検査が行えない段階で不可逆的な網膜剥離が起こってしまうことがあること

(小児科学会の問題点)

A 一般に未熟網膜症に対する知識・関心が低いこと―産科医はなお甚しい

B 診察或いは研究の協力を依頼しうる眼科医が少いこと

C 眼科医の手を省くために未熟眼底を観察しようとしても技術が難しいこと

D 児の動脈血PO2の連続モニターの良い技術が開発されていないこと

E 酸素使用時間と濃度と未熟網膜症の関係が明らかでないこと―一時間の使用で発症した例あり

(その他の問題点)

A 未熟網膜症に対する正しいP・Rが足りないこと―未熟児網膜症に対し、前記のような問題点が残っているのに、それらをふまえない無責任な情報が流れすぎていること

B その他救急センターを含む物的設備の不足

以上の問題点の指摘からも理解されるように、医療はなんといっても実践であり、学問的発想(着想)の先走りはこれを厳に慎まなければならないと同時に、着想から実地医療への定着までの間に、いかに様々な隘路があるかが痛感されるのである。

昭和四九年当時においても実用化への道なお遠しの感が深い。ちなみに、永田医師自身、静岡地方裁判所における昭和四九年一二月三日実施の証人尋問の際「現在追試段階を終りかけていると理解している」旨(乙A第三四号証の一一)証言している。

(六) 昭和五〇年代前半(昭和五〇年~五四年)における知見と評価

次の文献上の紹介を見ても判るように、さきに述べた清水弘一教授(群馬大)らの指摘するごとく、光凝固は混迷期に入った時期といえよう。

(1) まず、昭和五〇年一月刊の産婦人科治療三〇巻一号「未熟児網膜症」(乙A第三五号証の二)で永田医師は、「この病気は自然治癒傾向の強いものであるから軽症例に対して不必要な治療的侵襲を加えることは厳に戒むべきである。……勿論光凝固ですべての未熟児網膜症が治癒するわけではなく、中には極めて急速に進行して網膜剥離を起こし、光凝固を行っても無効な場合もあり得る。」としているほか、再び適期に関する問題点の指摘を行っている点を重視したい。

(2) 昭和五〇年一月刊の眼科臨床医報六九巻一号「未熟児網膜症に対する光凝固術例」(乙A第三五号証の三)と題する論文で、瀬戸川朝一ら(鳥取大眼科)は、昭和四五年三月より昭和四九年六月までの間に試みた五例の光凝固施行結果を報告しているが、著者独自の臨床分類を示している点からも窺われるように、右は追試の報告とみるべきである。

なお、大島健司は、「Ⅱ型・混合型に対する光凝固・冷凍凝固の施行については厚生省の研究報告が出るまでが追試段階、それ以後は、追試終了で適応と決まった。Ⅰ型については光凝固して様子をみる、いわゆる試行錯誤中である。」と述べている(乙A第三八号証の五)。

また、前記馬嶋昭生(名市大)も、昭和四七年~同五〇年までを追試段階と思う旨証言している(乙A第三六号証の一八)。

(3) 昭和五〇年三月刊の日本眼科紀要二六巻三号「診断と治療の実際」(乙A第三五号証の七)と題する論文で、鶴岡祥彦(天理よろず病院眼科)は、光凝固による不成功例をいくつか経験していると述べたあと、この時期に至ってようやく「……現在では治療を念頭においた最も合理的な分類についての統一見解が出されることがのぞましく、現在その作業が進行中と聞いているので近い将来発表されることと思う。」と述べ、また、「まとめ」の項において「われわれは本症活動期病変の分類としてオーエンスらの分類を原則としてこれを修正して用いてきたが、光凝固療法の適応となる時期を考慮するとこの分類が不十分なことは明らかであり、緩徐に進行するⅠ型と急速に進行するⅡ型とに大別して診断治療の基準を設定することが合理的であると考える。」と述べ、さらに、「考案」及び「まとめ」の中で、Ⅱ型の難治性にふれ「Ⅱ型の網膜症は適期判断になお問題があり治療方法もまだ決定的とはいえない。」とし、しかし失明防止は可能であると考えるとしつつも、「その診断治療にはなお多くの問題が残されており、その解決は今後も努力を続けなければならないと考える。」と述べている点は、これまでの永田医師らの見解と対照的な姿勢といえよう。

(4) このような状況の中で、昭和五〇年三月に昭和四九年度厚生省特別研究班により「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究報告」が作成された。ただし、これが一般の臨床眼科医に文献的に示されたのは昭和五〇年八月刊の「日本の眼科」(乙A第三五号証の一七)においてである。しかし、右基準は、治療法の確立を前提としたものでは決してなく、「本症の治療には未解決の問題点がなお多く残されており、現段階で決定的な治療基準を示すことは極めて困難である。」とし、さらに「これらの治療方針が真に妥当なものか否かについては更に今後の研究を俟って検討する必要がある。」との文言からも窺われるごとく、研究途上の治療法であったといわざるを得ないのである。まして当時重症型(Ⅱ型)本症についてはその臨床経過を含め病像の把握そのものが不十分であり、加えて、当裁判所植村証言にもあるとおり、昭和五三年時点でも重症型本症に対する光凝固のやり方自体研究者間においてさえ議論が分かれていて確立した基準を示し得ない状況に置かれ、昭和五二年から三年間光凝固が果たして有効なのかどうかにつき研究を続けていくという、実状にあったのである。

(5) 昭和五〇年九月刊の「眼科手術の手ほどき」(乙A第三五号証の一三―眼科医の成書)で三井幸彦教授は、本症に対する光凝固の適応に触れているが、「もし試みるなら」との表現にみられるように積極的に評価していないことが理解される。

(6) 一方、講習会等による普及の情況をみてみるに、さきに触れたとおり、厚生省特別研究班の研究報告後の昭和五〇年五月新潟市において未熟児網膜症に関する眼科講習会が開かれ(乙A第三五号証の一二)、その際、右研究班の主任植村恭夫教授が、その研究結果を中心に診断・治療の問題点について講演している情況にあり、当時の一般臨床医(眼科)に対する普及の程度を知ることができよう。

(7) 昭和五一年一月刊の日本眼科学会雑誌八〇巻一号「未熟児網膜症第Ⅱ型(激症型)の初期像及び臨床経過について」(乙A第三六号証の一)で森実秀子医師(国立小児病院眼科)は、「眼底検査が酸素療法のガイドラインとして果たす役割はすでに過去の定説となり現在は如何にして正確に第Ⅱ型の初期像の特徴をとらえ、治療開始時期を選定すべきかということが今後の研究課題であると考える。」と述べ、なお研究継続の必要性を説いている点が注目される。

この点に触れ、植村恭夫は、Ⅱ型の今後の課題として、「Ⅱ型は今後研究班で定義も詰めなければならないし、初期病変をどう把握するかという研究が現在まだ行われている段階で、そのメンバーは、永田誠、馬嶋昭生、大島健司、森実秀子と私で、この五人でやっている。」と述べている(昭和五三・三・一七京都地方裁判所における植村恭夫の証言要旨―乙A第三八号証の七)。

(8) 昭和五一年一月刊の臨床眼科三〇巻一号「未熟児網膜症に対する片眼凝固例の臨床経過について」(乙A第三六号証の二)で馬嶋昭生らは、Ⅰ型につき一種のコントロール・スタディと目される片眼凝固の臨床試験の結果を報告しているが、八三・八パーセントに有意差を認めなかったとしている点は注目すべき結果であり、光凝固の有効性に疑問が持たれるところである。

(9) その他昭和五二年から五四年にかけて発表された本症に対する光凝固法の医学文献によっても光凝固法を積極的に評価したものはなく、むしろその有効性及び安全性はいまだ証明されていないとするもの(乙A第三七号証の一)や、懐疑的姿勢を示しているもの(乙A第三九号証の五)がみられる状況にあり、加えて昭和五二年の眼科学会宿題報告では乳児に対する光凝固は原則的に好ましいものではなく、緊急避難的治療法に留まるべきものとされていたという状況にあり(乙A第三七号証の八)、勿論アメリカにおいても治療法として評価されておらず、一般的な治療法として認められていなかったのである(乙A第三八号証の八及び第三九号証の三)。

以上の考察から窺われるように、本症に対する光凝固法は、いよいよ困難な問題点を抱え、これが解明のための研究段階に再び突入した感が深く、熟練した眼科医の養成問題を含め、本法の普及を巡り大きなジレンマに悩まされているという状況に置かれていたわけなのである。

(七) 昭和五〇年代後半(昭和五五年~五九年)における知見と評価

(1) 植村恭夫教授の知見と評価

① 未熟児網膜症は、約四〇年の研究の歴史をもつものであり、その予防治療の研究の歴史をみると、その効果の判定はすべて対照試験によって下されている。酸素療法にしても、ACTH、ステロイドホルモンの治療効果にしてもそうである。ステロイドにおいては、最初使い始めた頃は有効の報告がでたが、一群にはステロイドを投与し、他の一群には非投与で比較対照試験をした結果、無効であるとの結論がでた。光凝固、冷凍療法についても、わが国では最初は有効論が強かったが、その後批判が出て対照試験を行う必要性が論じられ、現在研究が進められているが、いまだ米国と同様、実験的段階にあって有効性については立証されていない(乙A第四一号証の八)。

② 一九六七年、永田医師らが光凝固法を初めて未熟児網膜症に応用して以来、わが国では世界中においてもっとも多くの症例にこの治療法が用いられてきた。東京都心身障者福祉センターの調査報告(原田政美「昭和五三年度厚生省心身障害研究周産期母児管理班・未熟児網膜症に関する研究報告<昭和五四年>」)によると、一九六九年以前の未熟児網膜症による視覚障害児には、光凝固法を受けている例は一例もない。その後、光凝固法をうけている例が増加し、一九七四年には約五〇パーセントに達し、現在では光凝固を受けていない例はなく、全例が治療を受けたが視覚障害児となったものである(昭和五六・九刊「産婦人科の実態」三〇巻九号 乙A第四一号証の三)。

③ 本症の治療についても、その歴史の中にいくつかの試行錯誤がみられる。

副腎皮質ホルモンについても、当初はこれによって治癒し得るかのごとき報告が多くみられたが、その後米国におけるcontrol studyの結果では、その有効性は立証できなかった。

その後、光凝固、冷凍療法が出現し、当初はこれによって小児科医が酸素を自由に使用しても、これらの治療法により失明児を出すに至らなくなるとする極論も出されたが、その後の検討により、光凝固、冷凍療法の最も適応とされるⅡ型においては、有効性はかなり低いことが研究者間において確認された。したがって、光凝固、冷凍療法は、早期に行えばすべての症例が失明から救えるという考えはまったく誤りである。

さらに本症についての古い研究、臨床歴をもつ欧米においては、光凝固、冷凍療法による治療がほとんど使用されておらず、批判的な論文が多いことはその一つには有効性が立証できないことと、あくまで予防を主体とする考え方が強いことによるのであろう。眼科医としても、このような治療法は永久的瘢痕を残す点からも眼球発達の初期に使用したくない方法であり、緊急避難的立場でやむを得ず使用しているのが現状である。また実際の凝固に際しても、どのような凝固方法を行うのが良いかという点になると、対象となる症例数が少くなってきていることもからみ、いまだ明らかにされていない。

成人の光凝固に経験をもつ眼科医なら誰でも、本症の光凝固にも良い成績を得るものでは決してない。未熟児網膜症の光凝固に相当な経験をもつ眼科医によってのみ、治療成績はあげられるということも知っておかなければならない(昭和五五・九月刊「小児科」臨時増刊号―乙A第四〇号証の二)。

④ 昭和五二年度の日眼総会の光凝固に関する宿題報告においても、本症に対する光凝固はあくまでも緊急避難的なものであるとの見解が示された。糖尿病性網膜症ではcontrol studyの結果が米国で出され、光凝固が盛んに行われてきているのに反し、未熟児網膜症では、適応例とされるⅡ型、混合型の減少のため依然として効果の判定ができないために、緊急避難的治療法として留まっている。確かに、発達途上の網膜に永久的瘢痕をもたらす光凝固は、できるなら使用しないことにこしたことはなく、止むを得ない激症型にのみ使用するに止めるべきであろう。光凝固法の出現当時、網膜症を早期に発見し、早期に治療すれば、すべての症例は治癒するかのような報告がみられたが、その後、一眼を光凝固し他眼を治療せずに比較検討した結果、殆どの症例は最終的には正常化し、光凝固例には永久的瘢痕が残ったという結果や、Ⅱ型に対する治療成績の不良をめぐる論議が出るなどして、その治療法にも批判が外国からも出され、本格的な再検討の時代になった。わが国での光凝固の適応例が少くなった事実とあわせ、結局治療効果判定ができないままにこの治療法は使用されない時代に入っていくことが予測される(低出生体重児・産婦人科MOOK九号昭和五五年刊―乙A第四〇号証の四)。

(2) 永田誠医師の知見と評価

「最近の本症による盲児は殆どが光凝固による治療にも拘らず失明しており、しかも視力障害以外の重複障害をきわめて高率に伴っていることは、重症未熟児網膜症特にⅡ型網膜症の治療に限界があることを示し、年間全国で推定五〇人程度の重度視覚障害児が発生していると推定しておりわが国の現状は欧米と比べて同程度、もしくはやや低率と考えられる。今後この数をさらに低減するには産科、小児科、眼科のより一層緊密な協力が必要である(昭和五六・七月刊日本医事新報―乙A第四一号証の四)。

また、「天理病院における過去一五年間の未熟児網膜症治療成績の総括」と題する昭和五七年論文において「然し云うまでもなくprospective studyは必要であり、今回の報告も当初より一定の方針に貫かれたprospective studyであるが、症例の規模が小さくまた一施設の成績であるので普遍妥当性に乏しいとの批判をまぬがれることができない。今後特に一五〇〇gm以下の低出生体重児における全国的規模のprospective studyの必要性が痛感される。筆者は未熟児網膜症の活動期病変、瘢痕期病変の病期分類の修正発表を持って本症治療に関するprospective studyを企画しており、関係各位の御協力を切に希望するものである。」と述べている(乙A第四二号証の七―一五二ページ)。

(3) 赤松洋医師らの知見と評価

日赤医療センターにおいて本症(Ⅱ型、混合型、Ⅰ型重症例)に光凝固・冷凍凝固したが、その殆どが失明してしまった事実を踏まえて、次のように報告している。

「ROP(未熟児網膜症)に有効であると証明された治療はないといっても過言ではない今日においては、未熟児の治療技術の進歩および生物学的研究を通して、ROPの積極的な予防法を研究することこそ最終の目標である。」(昭和五七・九月刊「小児科」二三巻九号―乙A第四二号証の一)。

(4) 山本節医師らの知見と評価

兵庫県立こども病院の山本節、田淵昭雄は、最も熱心な光凝固の追試者であり、山本節教授(現神戸大学眼科)は、昭和五〇年論文において本症による失明の発症を完全に食い止めることは、まだ困難であるとしつつ、それでもなお、光凝固への希望を色濃くみせていた。しかし、山本節が共同執筆者の一人となっている昭和五四年一〇月の論文では、こども病院で生後四八時間以内に入院して直ちに眼科管理を受けた極小未熟児について、失明例も含めた重度視力障害が多いことを告白し、「活動期病変が三ないし四期になったものはその大部分が光凝固を受けているのにも拘わらず、この結果に終っているのは、光凝固術そのものが視力障害のための完全な防禦手段とはなっていないことを物語るもので、本症に対する新しい治療手段の開発が望まれる」としている。光凝固の有効性の検討には児の成長を待って視力検査をしなければならないのであるが、その検討の結果は、光凝固そのものに対してきわめて懐疑的な立場に到達しているのである(昭和五四年九月刊「周産期医学」九巻一一号―乙A第三九号証の五)が、昭和五九年時点においては、光凝固・冷凍凝固法は根本的治療法でなく、いわば対症療法に過ぎず、これを施行しても失明を防ぐことは難しいと述べているところである(乙A第四四号証の二及び第四四号証の五)。

4 冷凍凝固法の登場―その知見と評価

本症に対する冷凍凝固法は、最初佐々木一之、山下由紀子らにより試みられた術法であり、これが臨床実験の結果について文献的発表をみたのは、昭和四六年と昭和四七年である。

すなわち、冷凍凝固療法の主唱者である山下由紀子は、昭和四七年三月刊の臨床眼科二六巻三号(乙A第三二号証の三)において、はっきり「臨床実験―未熟児網膜症の検索(Ⅲ)―未熟児網膜症の冷凍療法について」と題し報告しているごとく、永田医師の光凝固法同様、この文献的発表は研究者の追試の端緒を提供したに止まり、決して治療法の確立を意味するものでないことを明らかにしている。

ちなみに、ブリテッシュ・コロンビア大学のアンドリュウ・Q・マコーミックは、昭和五二年九月刊の「未熟児網膜症」の著書の中で冷凍凝固法に触れ、「本研究では対称的な病気を持つ一一名の小児の一方の眼のみを、増殖しつつある鞏膜と隣接する血管のない網膜を通して寒冷凝固により処置した。これら小児の一名は両眼失明した。一名は追跡不能、残りの九名では、処置した方の眼に脈絡網膜瘢痕のある他は両眼とも臨床的に同じであった。この処置法が害を付加しなかったとはいえ、何も益を生じなかったことも又同じように明らかである。」と述べ、冷凍凝固の有効性を否定している(乙A第三七号証の二)。

また、次の外国文献からも理解されるごとく、昭和五〇年代前半、後半を通じ、いまだ実験段階にあることを示している。

5 昭和五〇年代前半及び後半における外国での知見と評価

① ロバート・E・カリーナ教授(ワシントン大学)の知見と評価

カリーナ教授は、昭和五五年論文において、日本における光凝固の文献的発表について次のように述べ光凝固(冷凍凝固も含め)の有効性は証明されていないとし、本症に対する確立された治療法はないと述べている。

「R・L・F、すなわち血管増殖性網膜症は未熟児の殆どに認められ、酸素投与に対して充分な注意が払われているに拘らず、継続的に発症している。過去三〇年にわたってR・L・Fの病因や発症機転に関して数多くの研究が行われ、診療手技の開発や生物学的研究が本症の予防に結びつくことが期待される。しかしながら、血管新生の破壊を目標とした光凝固法、冷凍療法が研究されているけれども、R・L・Fの増殖期病変に対して実証的な治療法は確立されていない。

R・L・Fの相当数の症例が光凝固あるいは冷凍療法のいずれかで治療されたことが日本の文献に発表されている。

これらの報告例の治療方法の有効性は修正病型分類が用いられていることおよび多数例で両眼が同時に治療されていることなどのためにその評価が全体的に困難となっている。なぜならば、少なくとも治療された眼のいくつかに於いては自然治癒例が含まれていると考えられるからである。治療効果を予測してこれまでに行われてきた臨床実験は、R・L・Fに対する光凝固又は冷凍凝固療法の治療上の価値を結局は証明してはいない。

これらの治療法には危険を伴うこと、本症が自然治癒傾向の強い疾患であること、およびまれにしか重篤な瘢痕症例は出現しないことなどの理由により将来この研究がなされる可能性は少ないものとなっている。増殖期のR・L・Fに対しては、確立された治療法はない。」(眼科学研究二四巻四号―乙A第四〇号証の三)。

② 光凝固開発者マイヤー・シュヴィッケラート教授(ドイツ)の評価

昭和五三年一月来日の折、「本症に光凝固を一応試みたが、本症に対し光凝固は効かない。」旨述べている(昭和五六・七・二二神戸地裁における山中昭夫証人の速記録)。

③ マイケルソンの知見と評価

マイケルソンは昭和五五年論文において「光凝固・冷凍凝固法は現在実験段階にあること、そして本症は自然治癒傾向の強い疾患であるから、右治療法の実験にあたっては注意深い対照実験が必要である。」旨述べている(乙A第四〇号証の五)。

④ ジェームス・D・キンガム博士(アリゾナ大学)の知見と評価

キンガム博士は、昭和五三年論文において冷凍凝固による実験的結果をふまえ、「対照実験の結果によっても冷凍凝固法の有効性は証明されたとはいえない、本症は自然治癒経過を辿るのが最も普通の経過である。」旨述べている(乙A第三八号証の三)。

⑤ アーナル・パッツの知見と評価

パッツは、昭和五八年論文において、「本症に対する凝固療法の観察上対照臨床試験が必要不可欠であること、また本症に対しいろいろな治療法を試み検討する際には本症が非常に自然治癒の高い疾患であることの認識に立って行うことが大切である。」旨述べている(乙A第四三号証の七)。

⑥ ウイリアム・タスマンの知見と評価

タスマンは、昭和六〇年論文において、一七症例の片眼冷凍凝固治療の実験的結果に基づき、統計学上有効性の証明につき有意性ありとはいえないとし、今後の共同研究の必要性を強調している(乙A第四五号証の六)。

⑦ その他、ベン・シラやヒンドルらによる最近の報告もあるが、これによっても凝固療法(但し、外国の場合は殆どが冷凍凝固法である)が治療法として確立したとするものではなく、可能性の問題としてとらえ今後組織的なプロスペクティブスタディが必要であるとか(甲A第三九号証の五)、あるいは自然経過との比較のない点を問題としており(甲A第三八号証の一)、さらに凝固の時期や方法についての議論を展開している状況にあり、外国においても依然実験研究の途上にあることを示している。

⑧ パーマー博士(アメリカ)は昭和六二年に入った現時点においても冷凍凝固法についての有効性の証明はないとし本症に対する冷凍凝固法が有効かどうかを決定する目的で現在多施設において三〇〇名の網膜症患児に対し冷凍凝固法のコントロール・スタディ(片眼凝固)を実施するべく目下計画中である旨述べているところである(乙A第四七号証の一、乙A第四六号証の八、甲A第四四号証の五)。

6 眼底検査の意義とその普及度

原告らは、児出生当時において未熟児に対する定期的眼底検査は既に常例となっていた旨主張する。しかし、次に述べるごとく、原告らの主張は眼底検査の意義及び目的に対する考察を欠いており、またその実態の把握が不十分であり、医療の実践性を無視した議論であって失当である。

(一) 眼底検査の意義・目的とその位置付け

眼底検査は、本症発見の一つの手段に止まり、本症の臨床経過や原因、その予防法、治療法等の研究のために行うのであればともかく、そうでない限り、それ自体ではなんら意味を有しない。実際の臨床面で本症の予防、治療に対する役割という観点からみた場合、本症に対する有効・安全な予防法・治療法があり、これとの結びつきが存在していてこそ意義を有するものである。

しかし、すでに述べたとおり、本件の各患児ら出生当時、光凝固法・冷凍凝固法は、治療法として確立していなかったし、また以下に述べるごとく、全国的にも一般臨床医間に眼底検査は有効な治療法と結びついた形で、具体的に普及定着していなかったのである。

(1) まず、予防法についてみるに、昭和四二年二月刊の臨床眼科二一巻二号の「未熟児網膜症の臨床的研究」(乙A第二七号証の一)の中で、植村恭夫教授らは、「未熟眼底を呈し、酸素療法が必要とされる場合には、定期的眼底検査にて異常ない限り必要なしと考えられる迄酸素療法を継続し、眼底所見を確めつつ減圧をはじめ、もし、この際、発症の兆候があれば、再び、酸素を従来の濃度にあげて、眼底所見の改善をまって、濃度をさげ、中止する。」と述べ、眼底検査と結びついた予防法が存在するかのごとき記述がみられるが、昭和五三年三月一七日の京都地方裁判所における植村証言(乙A第四八号証の七)にもあるように、実証的な裏付けを全く欠いた、単に外国での報告をそのまま述べたに過ぎないものである。現在では、血液中酸素分圧値と網膜血管径との間には相関関係が認められないこと及び本症発生が問題となりがちな、いわゆる極小未熟児においてはヘイジィ・メディアの存在のために眼底検査を満足に行い得ないことから、眼底検査は本症の予防法としては役立たないとされ、評価されるに至っていないし、他に眼底検査と結びついた予防法を論ずる見解は見当らない。

(2) また、治療法としての冷凍凝固法、光凝固法については、既に詳細に考察した諸点から理解されるように、本件患児ら出生当時、その有効性、安全性は確認されるに至っておらず、未だ研究ないし追試段階にあり実地医療としての地位を有していなかったものである。

以上、要するに、眼底検査は、本件患者ら出生当時これと結びつく有効・安全な予防法ないし治療法は確立されておらず、それゆえに臨床的には殆ど意義を有するに至っていなかったといえる。

なお、念のため、わが国における眼底検査の普及の程度がどのような状況にあって、またどのように位置づけられてきたかを次に考察しておく。

(二) 定期的眼底検査の必要性の提唱と昭和四五年ころまでの普及度

わが国における未熟児保育は、施設の不足や保育器の未発達などから、積極的に進められるようになったのは比較的新しく、一九四五年(昭和二〇年)~一九五〇年(昭和二五年)の英米において本症が多発した時代にはいまだ普及しておらず、一九五五年(昭和三〇年)以降の酸素療法の制限以後に普及・発達したため本症に対する関心はうすく、産婦人科医、小児科医、眼科医の殆どが本症は既に過去の疾患でわが国では起らないと考えられてきた。

ところが、昭和三九年に至り、慶応大学眼科の植村恭夫医師は、弱視の研究中にR・L・Fの存在に気づき、以後、論文等により啓蒙活動を展開するにいたったが、右眼底検査に関し次々と発表した植村論文がどんな意義を持ち、また予防法・治療法との関係でどのように位置付けることができるかを以下に詳しくみることにしたい。

(1) すなわち、昭和三九年一〇月刊の眼科六巻一〇号の「小児にみられる眼底異常とその意義」(乙A第二四号証の二)の中で、植村恭夫は適度の酸素の供給、ACTHによる治療に触れ定期的眼底検査の必要性を強調したい、としているが、しかし、当時植村自身まだ活動期の病変を見たこともステロイドの治療法をやったこともなく、文献的な知識に基づく抽象的な主張にすぎなかった。

(2) 昭和四〇年六月刊の小児科六巻六号の「小児疾患と眼底所見」の中(乙A第二五号証の一)で、植村恭夫は、「R・L・Fは、活動性の可逆期に発見し、適切な処置を行うことにより、治癒せしめうるものとされ」として欧米諸国の未熟児の眼科的管理に触れたうえ、「適当の酸素供給、ACTH、副腎皮質ホルモン剤投与で治癒し得るものであり、……その鍵は、一にかかって、生後より三ヵ月迄の反復する眼底検査にほかならない」と述べている。しかし、植村自身当時まだ活動期症例を見ていない時期であり、小児科医に対する啓蒙のための綜説論文として書かれたものである。

(3) さらに、昭和四一年三月刊の眼科臨床医報六〇巻三号の「話題・小児眼科の“未熟児の眼科的管理”の項(乙A第二六号証分の一)で、植村は、「未熟児の保育成績の向上と共に、未熟児網膜症の発生も増加しており、今日、眼科的管理をなくして、未熟児室の完全な管理が行い得ないことは周知の事実である。」としたが、右植村論文は、本症に対する医療の実態を真に反映していない抽象論であり、本症発生の増加傾向にかんがみ、右(2)の論文と同様に啓蒙的見地からより強い言葉で抽象的な呼びかけをしたに止まるものであり、このことは本論文冒頭にある「例えば、未熟児網膜症(水晶体後部線維増殖症)に対しての綜合研究、対策は殆どなされておらず、また、斜視・弱視の早期発見に対する交流も十分でない。」との表情からも充分窺知される。

(4) また、昭和四一年五月刊の臨床眼科二〇巻五号の「未熟児の眼科的管理の必要性について」と題する論文(乙A第二六号証の二)の中で、植村恭夫は、本症活動期病変の眼底変化を初めて発生初期より観察し、その結果を報告している。ここで、重要なことは、「本症の成因に関しては、臨床的、実験的に、オーエンス、スチェベクチェック、キンゼイ、パッツ、ホルターマン、シルバーマン、ベッドロシアンらの欧米眼科医の多くの業績があるに拘らず、未だ未解決の問題である。」と述べ、ついで自らの初めての経験を踏まえ「未熟児網膜症の治療も、副腎皮質ホルモン剤、ACTH、蛋白同化ホルモン等の使用が有効であるとの報告がなされているが、自然寛解が多いために、どの程度有効なのか、また、他に有効な治療法がないか、今後検討すべき問題である。」と、これまでいわれてきた薬剤療法に疑問を投げかけ、かつ、新しい治療法開発の呼びかけともとれる表現がみられるという点であろう。

(5) 次に、昭和四一年七月刊の小児科七巻七号の「早期発見に小児科医の協力を必要とする眼疾患」(乙A第二六号証の三)で、植村恭夫は、本症に関し、「その治療は、活動期の早期に発見し、適当な酸素療法、ACTH、副腎ホルモン剤投与で治療しうるものであるが、……その鍵は一にかかって、危険な期間の定期的眼底検査の施行にほかならない。」と述べているが、さきに触れた論文同様に実証的な裏付けを欠いた抽象的啓蒙論文に過ぎない。当時は植村自身本症の実態把握の研究を始めた時代であり、研究者としての考え方を述べ啓蒙的に強調したものとしか受け取れないのであり、その結果具体的にどう対処するかという問題は全く手掛けられていず、未解決の状態にあったのである。

(6) 植村恭夫は、前述したような啓蒙活動を経て、昭和四二年二月刊の臨床眼科二一巻二号で「未熟児網膜症の臨床的研究」と題する論文(乙A第二七号証の一)を発表している。植村は、右論文の中で、定期的眼底検査は重要な意義をもつ、とした上、「未熟眼底を呈し、酸素療法が必要とされる場合には、定期的眼底検査にて異常ない限り必要なしと考えられる迄酸素療法を継続し、眼底所見を確めつつ減圧をはじめ、もし、この際、発症の兆候があれば、再び、酸素を従来の濃度にあげて、眼底所見の改善をまって、濃度をさげ、中止する。……眼底検査の結果を指標として、酸素療法を施行すれば、未熟児網膜症の発生、進行防止が可能であるといえる。」と述べており、このように、当時まだ眼底検査が酸素療法のガイドラインになるとの考え方を信じていた。次で、昭和四二年八月刊の国立小児病院の機関誌「医療」二一巻八号の「未熟児網膜症に関する研究」(乙A第二七号証の三)の中で、植村恭夫らは、ロミコバの「酸素療法の安全なガイドラインは眼底検査である」との考え方を支持する主張を行い、副腎皮質ホルモン療法を併用し治癒せしめたとか、本症は例え発症しても、その進行を防止できるものでありなどと述べているが、当時はまだ従来の外国文献の影響から抜け切っておらず、僅かな経験症例に基づく主観的な結論であり、高い自然治癒率との関係において必要とされるコントロール・スタディのない状況下における実証性の乏しい考え方と評し得よう。その後、植村恭夫は、昭和四三年九月刊の眼科一〇巻九号(乙A第二八号証の四)において、「未熟児網膜症について」と題する論文を発表しているが、重要なことは、治療についての考え方が、これまでの論文発表の内容と若干変わってきたという点である。すなわち、「低体重児、殊に一五〇〇グラム以下で、未熟度が強いのみでなく、呼吸系障害を主体とした全身障害の強い例に発症し易いことは確かであるが、自然及び治療による寛解例は確かにあるといえる。しかし、治療により絶対に救い得るとはいい切れない。」と述べ、この辺の事情につき、植村は、昭和五三年三月一七日京都地方裁判所における証人尋問(乙A第三八号証の七)の際、「実際に自分のところで小児科と眼科と共同管理して、しかも早期にステロイドを使ったにも拘らず失明した、当時としては眼科、小児科とも非常に完全な管理を行い早期発見、早期治療をしたにも拘らず失明例が出た、自分の経験した例で初めてそういう例があったことから、これは全てが救えるんではないと考えて出したと思う。」と証言している(乙A第二八号証の四の説明部分)。

また、植村は、右論文の「②定期的眼底検査の施行」の項で、再び酸素療法と予防に触れ、「もし発症の兆候があれば、減量前の酸素環境にもどす。著者らも減量開始により発症した例を、ふたたびもとの酸素環境にもどし、眼底変化の改善をまって徐々に減量を開始し、眼底所見を参考にしつつ正常環境にもどしたことを経験している。」とし、依然としてロミコバの説に依拠した主張を述べているけれども、自然治癒との関係が全く分析検討されていないだけでなく、実証的な裏付けとなる推計的データーも示されていず、いわば抽象論に等しいといっても過言ではないであろう。

(7) 昭和四五年一二月刊の日本新生児学会雑誌六巻四号(乙A第三〇号証の九)で植村恭夫は、「未熟児網膜症」と題する論文を発表しているが、ここで注目すべきことは、これまで繰り返し説いてきた本症の予防及び進行防止のための眼底検査と酸素療法の記述が姿を消し、薬物療法については、「従来、吾々眼科医は網膜症の発症をとらえた場合、副腎皮質ホルモンその他の薬物療法を用いており、それを比較的初期から使用しても、進行し続け失明に陥るのを防ぎ得ない例に遭遇する。治癒した例についても、これが薬物によるのか、自然治癒によるのかの判定が出来なかった。そこで、吾々眼科医の努力は、本症が発症しても確実に治癒せしめ得る治療法の開発に向けられた。」と述べており、薬物療法否定の考え方が窺われる。なお、植村は、右日本新生児学会雑誌(乙A第三〇号証の九)で、永田医師の昭和四三年及び同四五年の文献発表の六症例についての光凝固術を紹介したあと、「おわり」の項で「光凝固法の開発により、未熟児網膜症は、早期に発見すれば、失明をださずにすむことがほぼ確実となった。」とし、未熟児の眼管理の普及徹底を説いている。しかし、これは、多分に先取的な個人的評価を発表したに過ぎないものとみるべきである。

(8) そのほか、他の研究者らによる眼底検査の提唱の有無をみても、積極的治療法との結びつきで述べたものは前記永田医師の試験的報告以外にはないといってもよく、昭和四一年一一月刊の日本産科婦人科学会新生児委員会編「新生児学」(乙A第二六号証の七)の後水晶体線維形成症の「診断」の項には「可及的に眼底検査(毎週一回)を行うことが必要」との記載があるが、他方「治療」の項には「積極的治療法はない。」との記載からも窺われるように、診断のために必要という趣旨以外に出るものではなく、治療との結びつきはなかったものである。

(9) まとめ

以上、植村論文を中心に、本症の予防・治療と眼底検査の関係につき検討考察してきたが、植村による定期的眼底検査の必要性の強調、呼びかけは、未熟児保育の遅れと相俟って一般に本症について関心のうすかった我が国の当時の実状から考え、啓蒙的見地からの意義ないし価値は充分評価できる点においては疑う余地はないであろうが、医療の実践性という面からみた場合、実証性の乏しい抽象的個人的見解としてしか評価することができず、有効・安全な治療法との結びつきをもった眼底検査として行われていたとは到底考えられないのである。

(三) 光凝固法と眼底検査

永田医師の発表に触発され、臨床実験ないし追試として光凝固法を実施した研究者らがその結果につき文献発表したのは昭和四六年以降のことである。

しかし、光凝固法については、昭和四五年末当時永田医師による治験報告症例わずか一二例に過ぎず、まだ臨床試験段階にあったといってよく、他の研究者らによる追試報告は一編も発表されていず、その適応、予後、副作用、遠隔成績の検討、自然経過との比較(いわゆるコントロール・スタディ)については、すべて今後の追試による検証に待つほかはない状態にあったことは前記のとおりである。

したがって、光凝固が提唱され追試が相次いだ段階でも、有効かつ安全な治療法と結びついた眼底検査は行われていなかったのであって専ら臨床実験ないし追試のための、いわば研究目的で行われていたという状況であった。

以下に本件当時までの実情について検討する。

(1) まず、大島健司は、昭和四七年六月刊の「眼科」一四巻六号(乙A第三二号証の九)において、定期的眼底検査に触れ、一般にはまだまだ少く、全国的に普及させる必要があると説いており、ついで山本節は、昭和四七年一一月刊の「眼科臨床医報」六六巻一一号(乙A第三二号証の一二)で当時の眼底検査の実状に触れ、本症の観察・治療はまだどこの眼科でもやってもらえる状態ではないと述べている。

(2) さらに、永田医師らは、昭和四九年五月刊の「日本眼科紀要」二五巻五号(乙A第三四号証の二)において光凝固の適応をほぼ的確に判断し得る眼科医を養成するためには、指導者のもとで自然治癒症例と進行重症例を判別する訓練、光凝固に最適な時期の判定、光凝固実技の訓練などを実際の症例について少くとも半年ないし一年間マンツーマン方式で行う必要があるが、このような教育施設は全国でもごく少数に過ぎないため、現時点では本症に関し実際の診断・治療能力を有する眼科医の数は決して充分でなく、今後この数を増すべく長期にわたる努力が必要である旨述べ、また馬嶋昭生も昭和四九年一〇月刊の「小児外科・内科」六巻九号・一〇号(乙A第三四号証の八)で、右と同趣旨のことを説いている。

(3) 昭和四八年一〇月刊の日本眼科紀要二四巻一〇号(乙A第三三号証の七)に掲載された大島健司教授らによる眼科講習会の討論の中で、永田医師は、「眼科医が管理に参加できない未熟児保育施設における本症重症例をどのようにピックアップするかについて、昨年度<昭和四七年度のこと>奈良県を中心とする地域医療圏において私達の病院が未熟児眼科専門外来を設置して検診を行っていましたが、結果は成功とはいえませんでした。これについて何かよい方法があればご教示下さい。」と述べており、これは当時の眼科管理の実状と普及の遅れを示している。

(4) また、昭和四八年八月刊の「あすへの眼科展望」の<小児眼科学最近の進歩>(乙A第三三号証の四)の中で、植村恭夫は、「本報告による調査の時点では、いまだ光凝固による治療は普及されるに至っていなかった。未熟児の眼管理の普及徹底は、光凝固・冷凍凝固の登場により重要性が増加してきた。」と述べているように、この時点に至って漸く、専門的研究者の一人である植村によって、特定の治療法と結びつけた形態での眼科的管理の必要性が述べられている実状にある。さらに、植村は、当時の定期的眼底検査の実状に関し、「名市大とかを除き、未熟児の専門家のいないような各大学が定期眼底検査を始めたのが昭和四八年以降だと思う、一つには光凝固が出てそれをやるということが大きな意味だと思うが、もう一つはやはりそのころから蛍光眼底検査法が普及し未熟児にも使えるということでより詳細に病態を新たな面で研究しようという目的で眼底検査が加わったように思う。」旨証言している(乙A第三八号証の七)ように、大学病院においてさえ、右のごとき実状であり、一般臨床医への普及度は推して知るべしである。

なお、大島教授は、「昭和四七、八年当時大分地区で未熟児の定期的眼底検査及び光凝固による治療を行っていたということは全く聞いていない。」旨証言している(乙A第三八号証の五)。

(5) 次に、国立岡山病院といえば、東京の国立小児病院と並んで未熟児保育については一位、二位を争う専門病院であるが、同病院においてシステムとして定期的眼底検査を開始したのが、昭和四七、八年ころということでまた、光凝固装置を購入したのが昭和四九年で、本症が大変社会的に注目を浴びてきたことが理由であるという。

(6) また、全国的にみても定期的眼底検査の普及率は非常に低く、昭和四九年八月現在でも、医療水準が高いとみられる東京都と神奈川県下の主として指定養育医療機関を対象とした調査によっても、なお、その普及率はせいぜい五〇ないし六〇パーセントにすぎない状況にあり、個人病院にいたっては一六・七パーセントと低い。また、光凝固装置の保有率は平均二五・八パーセントで、特に国公立総合病院、その他の総合病院の保有率は大学病院と比較して極度に低率である(石塚・小宮共著・昭和五〇年四月刊小児科臨床二八巻四号―乙A第三五号証の一〇)。

(7) 永田医師は、昭和五〇年一月刊の産婦人科治療三〇巻一号の「未熟児網膜症―その予防と治療の問題点―」(乙A第三五号証の二)の中で、「……本症発症の完全な予防は今後、当分の間は困難であると考えられるのでその発症例においては適切な治療によって失明または弱視の発生を最少限に止めるよう眼科、産科、小児科の緊密な協力態勢の確立が現在の急務である。その組織作りは今漸く緒についたばかりであるが、このような協力態勢が全国的に完全となった場合……云々」と述べており、当時の眼科的管理の実態を示唆しているといえよう。

(8) 右永田見解を裏付けるかのように、鶴岡祥彦(天理よろず相談所病院眼科)は、昭和五三年三月刊日本眼科紀要二六巻三号の「診断と治療の実際」(乙A第三五号証の七)の中で、「全未熟児を眼科的に管理し治療できるだけの医療態勢の整備はまだなされていない。」と述べ、またその前年昭和四九年五月刊の日本眼科紀要二五巻五号の「地域医療における未熟児網膜症発見率向上への試み」(乙A第三四号証の二)の中で、永田とともに、同四七年三月ないし四八年九月までの期間に接した症例を対象として「医療の中心である大学付属病院、国公立病院より重症瘢痕病変児がかなりの数で出現していることは、本症の予防並びに治療の概念の普及が充分でなく早期発見適時治療の態勢がまだ確立されていないのではないかと推測される。」と述べ、さらに、未熟児眼底検査のための専門外来を開設した経験から「検査の必要な未熟児の大多数は放置されている可能性があると思われた。……未熟児網膜症による失明あるいは弱視の防止を地域的あるいは全国的規模で行うにはなお困難な問題が山積していることを熟知させられた。」とも述べているところである。

(9) 念のため、次にわが国の大学病院をはじめ各県下の眼底検査の実施時期の実態をみておきたい。

① わが国の大学附属病院の眼底検査実施時期の実態

三重大学附属病院―昭和四八年三月ころから、小児科の要請で診るようになったということで、それ以前は未熟児に対する定期的眼底検査は実施していない、という状況にあった(乙A第三九号証の九)。

日本医科大学附属病院―昭和四八年六月ころから、産婦人科より眼科に依頼して診てもらうようになった(乙A第四〇号証の一三)。

新潟大学附属病院―昭和四八年秋から、産婦人科の要請で定期的眼底検査をはじめており、しかも眼科としての体制づくりができた時期は厚生省診断治療基準のでた後の昭和五〇年後半ころからである(乙A第四〇号証の九)。

引前大学附属病院―昭和四九年三月以降に定期的眼底検査を開始している(乙A第四〇号証の一二)。

順天堂大学病院―昭和五〇年現在、同病院保育の未熟児をルーチンに全部眼底検査の対象とするシステムにはなっておらず、小児科あるいは産科から依頼があったもののみ検査していた(判例タイムズ三六四号・一五〇ページ参照)。

慶応大学附属病院―昭和四九年六月ころ未熟児の専門外来ができ、そのころから眼科医につき未熟児の眼底検査の教育訓練を実施するようになった(乙A第四〇号証の六)。

徳島大学附属病院―昭和五〇年八月当時においても未熟児全部に対しルーチンの定期的眼底検査を実施するシステムは採られておらず、小児科から依頼があったら検査するといった程度であった(前掲判例タイムズ三六四号)。

日本大学附属病院(医学部小児科)―昭和四七年以降である(前掲判例タイムズ三六四号)。日本大学医学部小児科といえば、未熟児保育の最高権威者である馬場一雄教授の勤務するわが国有数の大学附属病院であるが、同病院においてすら、定期的眼底検査の実施時期が右のような状況にあったということは、その普及度を知るうえで、注目すべき点といえよう。

② 東北地区の眼底検査の実態

山下由起子医師所属の東北大学は別として東北地区の公立病院や法人病院の実態をみても昭和四七・八年当時においてはいまだ未熟児に対する定期的眼底検査は実施されていなかった(乙A第四四号証の八)のであって、同地区のかかる実状実態からしても昭和四七・八年当時未熟児に対する眼科的管理が普及定例化していなかったことは明日というべきである。

③ 埼玉県下の眼底検査の実態

同県下の市立病院、大学附属病院及び法人病院においても昭和四七年当時定期的眼底検査は普及しておらず、未熟児全員に対し不定期又は定期的に眼底検査が行われるようになったのは昭和四九年ないし五〇年以降であることが調査の結果判明している(乙A第四四号証の九)。

④ 兵庫県下の眼底検査の実態

兵庫県下の眼底検査の実態については、同県下の未熟児の指定養育医療機関においても、昭和四八年ころまでは眼底検査は普及しておらず、昭和四九年ころから一般眼科医の未熟児の眼底検査などの研修が本格的になり、昭和四七年九月当時は県立西宮病院、県立こども病院(本症研究の権威者の一人山本節医師の在籍する病院)以外のなお多数の病院では眼底検査も施行せず、一般産科医と眼科医との提携による本症の診療体制も整備されていず、これが整備されたのは昭和四九年以降であった(判例時報一〇一三号)。

⑤ 九州大分県下の眼底検査の実態

九州の大分県下においては、昭和四七、八年当時定期的眼底検査及び光凝固法を行っている医療機関はなかったという状況が窺われる(乙A第三八号証の五)。

⑥ その他の地域における大学附属病院、国公立病院の眼底検査の実態

前述したごとく、永田医師らは、昭和四九年五月刊の「日本眼科紀要」二五巻五号(乙A第三四号証の二)において、昭和四七年三月から同四八年九月までの期間に奈良県内及び県外から転送されてきた本症患者の実態について、「医療の中心である大学附属病院、国公立病院より重症瘢痕病変児がかなりの数で出現していることは、本症の予防並びに治療の概念の普及が充分でなく早期発見適時治療の態勢がまだ確立されていないのではないかと推測される。」と指摘した上、未熟児の眼科的管理をなし得る眼科医の教育・訓練の必要性を強調しており、昭和四七・八年当時定期的眼底検査が普及定着していないこと及び本症の病変・病態を的確に診断し、これが治療をなし得る特殊専門的技術を修得した眼科医が少く定期的眼底検査が普及していなかったことを示す証左というべきである。

このように、医療の中心である大学病院においてすら治療との結びつきを念頭におきながら定期的眼底検査を始めたのが昭和四八年後半以降であり、一般の医療機関への普及の程度は推して知るべしといえよう。

そして永田医師の発表報告(昭和五〇年一月刊・「産婦人科治療」三〇巻一号―乙A第三五号証の二)によれば、眼科、産科、小児科の緊密な協力態勢の確立という組織作りが漸くにして緒についたばかりといえる時期は昭和五〇年以降という状況が窺われ、したがって、昭和四八年及び同四九年~五〇年前半においてはなお一般臨床医の間には定期的眼底検査は光凝固法などの治療法と結びついた形で普及していなかったことは明らかといえよう。

(四) 眼底検査実施の前提条件たる診断・治療基準の不存在

(1) 診断・治療基準は、どの病気についても適切な診断・治療を行うための前提として必要不可欠であり、また、一般的医療水準を定立するための内容としても重要な役割を果たすものである。しかし、昭和四七年当時、本症の診断・治療基準は存在せず、植村論文や永田論文をたよりに本症の先駆的研究者において試行錯誤を重ねつつ徐々に自らの診断・治療基準を定めていっただけであり、当時は情報交換もなく、普遍的なものとなっていたわけではない。既にみたとおり、昭和四七年三月刊の「臨床眼科」二六巻三号(乙A第三二号証の二)の永田論文の質疑応答をみても、本症の研究者である佐々木一之や田辺吉彦の光凝固の時期・方法及びその程度について種々質問し、これに永田医師自ら情報の交換が必要であるとか、かなりの経験、蓄積が必要であるなど抽象的な答弁に終始している状況にあり、結局まだ統一された形での病態・病変の捉え方なり、光凝固の時期なりがはっきり判っていないことが窺われるところである(なお、昭和五五・五・三〇浦和地裁における木村繁二郎の証言―乙A第四〇号証の六参照)。このように、先駆的研究者の主観的判断で行ってきたそれぞれの基準を討議・検討の末、統一した形でまとめられたのが、昭和四九年度厚生省特別研究班の本症の診断・治療基準に関する研究報告であり、これとて、先駆的研究者の試行錯誤の積み重ねによってできあがった一応のものに過ぎない(乙A第三五号証の一七)。なお、右基準は、昭和五七年厚生省本症研究班によって補足改定されている(乙A第四三号証の二)。

(2) 統一客観化された診断・治療基準の存在は、定期的眼底検査実施の前提条件であるが、昭和四七年~四九年当時はそれすらなく、およそ眼底検査を法的義務として設定し得る状況下になかったといってよいだろう。また、定期的眼底検査といっても、しかく容易なものでなく、これが一般医療機関に普及するためには、眼科的管理の人的・物的設備の充実、あるいは小児科と眼科との連携態勢の確立、眼底検査の意義に対する認識の向上、専門的眼科医の養成による眼底検査の技術的困難性・危険性の克服、眼底検査の時期を確定するなど、そこにはさまざまな隘路が横たわっており、昭和四七年~四九年当時における大学病院の眼底検査の実態及びその当時の本件各病院の置かれた地域的医療環境に照らしても定期的眼底検査の実施を法的義務の内容となし得ないことは明白である。

7 まとめ

以上によると、わが国では、昭和四〇年ころから、未熟児網膜症のための定期的眼底検査の必要性につき啓蒙的な注意喚起がなされ、それに伴い右検査が急速に普及し常例的になりつつあると一部で称せられていたにも拘わらず、現実には、未熟児に対するその試みは、本件発生の昭和四八年当時においては、先進的専門的研究者のいる病院、あるいは、研究機関的病院において実施されていたに過ぎず、個別的眼底検査の実施さえも充分に普及していなかったのが実情であり、極小未熟児を除けば、未熟児に対する眼底検査の手技自体は一般眼科医にとってそれほど困難なことではなかったとしても、右眼底検査による未熟児網膜症の発見、その病態の分類、及びその臨床経過の正確な診断については、その病像の多様さの故に、多くの症例に遭遇する研究の場と機会を与えられ、実際多数の症例を観察した臨床経験と自発的修練を積み重ね習得した熟練的技術とに裏打ちされた高度の能力を有するに至った医師にして初めて可能といった極めて困難な作業であったので、右の必要性の認識の滲透とは裏腹に、本件発生の段階では、その能力を有する眼科医の数は、全国的にも(国立病院を含めても)極く稀で、医学水準的にも未だ一般臨床眼科医が有すべき具体的可能性のある診断法にまで至っていなかったものといわなければならない。また、未熟児網膜症の治療法としての光凝固法・冷凍凝固法などについても、本件発生の昭和四八年当時までに、やはり、先進的専門的研究者の一部の者により専門誌などで治療法として理論的に完成したと発表され、他の一部研究者から積極的肯定的評価を受け、奏効的追試例が相次いで報告され、その限りで未熟児専門医の関心が高まり、かつ、一般的社会的関心すら持たれるようになり、同治療法の全国的規模での普及・実施態勢の確立が急務と叫ばれたものの、その有効性につき比較対照試験(コントロール・スタディ)を行うなどの学問的客観的証明過程を欠くなど新治療法確立のためのいわゆる医療の常道を踏むことなく、右のような社会的要請の先行に伴って直接的に一部先駆的医療機関への普及段階に入った結果、病態病勢・治療適応などの診断基準、あるいは治療適期・治療方法(凝固部位・範囲・回数)などの治療基準についての課題の解決もなされず不統一のまま施術者独自の基準により、ことに、真に治療を要する重症例と自然治癒不必要軽症例との区別もつかず、図らずもかなりの程度の過剰診療が行われてしまったことさえ窺われるような実情にもあったものであり、そのうち治療困難な激症例の出現を契機にひき起こされた混乱の中で、その解決のため、昭和四九年度厚生省報告により初めて未熟児網膜症の病態分類、一応の診断・治療基準が示されたが、同報告によってさえも右基準が真に妥当なものかどうかは今後の研究課題とされているのであって、本件発生の段階では、光凝固法・冷凍凝固法は、未熟児網膜症の治療法として学問的な評価も定まらず、客観化され確立されていなかったものといわなければならず、もとよりこれらが一般臨床医の間に定着していたものともいうことができない。

なお、現段階でさえ、実際上、一部の者には、Ⅰ型のうち自然治療傾向を示さない少数の重症例、異常な速度で進行し治癒困難なⅡ型、及び混合型の各症例に対して光凝固法などがある程度の有効性を有するものと信じられ、実施されているものの、不奏効例の報告も重なり、施術侵襲による永久的瘢痕の形成・手技的失敗によるとも推測される失明児の増加・過剰治療などの危険性を強調し、宿題報告などにより警告を発し、疑問を投げかける専門的研究者も少くはなく、いずれにしてもそれが治療法として実験研究の途上にあることを否定できない点では概ね一致しているものと思われ、一般的臨床医の具体的可能性のある治療法というには程遠い存在と考えられる。

五  因果関係について

1 酸素管理についての因果関係

(一) 酸素投与一般との因果関係について

本件では、未熟児網膜症による視力の障害が問題とされているのであるが、それは未熟児が宿命的に抱えて生れてくる全身的な未熟性の一つの局面であり、無制限な酸素投与の行われていない本件当時における未熟児網膜症の発生を、酸素投与によって生じた医原性疾患であると単純に考えることは許されない。呼吸障害のある未熟児の生命維持や低酸素による脳障害防止に不可欠な酸素療法が、他方において未熟児網膜症の発生の引金となり得るともいわれているが、動脈血酸素分圧を正常値に保持しても本症の発生は不可避であり、またその投与をしない場合でも発症することが、最近では、一般に認められてきている。そこから、未熟児網膜症の基本的な原因は、網膜の未熟性そのものに求められる、という見方が支配的である。

さらに、次に示すとおり、未熟児網膜症の酸素(過剰)原因説に対し、これを否定する実証データーに基づく先駆的研究者らによる説得力ある見解が述べられ、しかも今日においてさえ確実な予防法及び有効性の証明された治療法は確立されておらず、未熟児の出生防止が未熟児網膜症の最も有効な対策であると繰り返し強調されている点である。

(1) 永田誠医師の見解

永田医師は、最近血中酸素濃度を安全値に保持しても極小未熟児について発生を完全に抑止し得ないことから、酸素が本症の直接の原因でないことは明らかである、と述べている(乙A第四一号証の四―一)。

(2) 馬嶋昭生教授の見解

馬嶋教授は六六五症例を統計的に分析し、その結果を次のように報告している。

「無呼吸発作、IRDS、未熟児貧血、酸素投与期間、投与量、PaO2の最高、最低、それらの差及び比、輸血量などは少くとも単一因子として発生、進行に有意な影響を与えていないことが判った。このことは、従来から主張してきたように、本症網膜特にその血管の未熟性こそが基本的な原因であり、他の関連因子はすべて未熟性のために起るもの、あるいは投与せざるを得ないものであることを再び証明したことになるといえる。現在問題となるのは、いわゆる“oxygen induced retinopathy”ではなく、本来の意味の“retinopathy of prematurity”である。今後この傾向はますます強くなるものと予想されるが、われわれ眼科側の管理体制はこれに応ずるだけの設備の充実や増員が伴わず、本症は決して過去の疾患になったと考えることはできない。」(乙A第四一号証の一―昭和五六年八月刊行臨床眼科三五巻八号)。

(3) 赤松洋医師らの見解

赤松医師らは、昭和五三年から同五四年の二年間に瘢痕期病変を認めた瘢痕性未熟児網膜症と、活動期病変を認めたが瘢痕期病変を認めなかった非瘢痕性未熟児網膜症(いわゆる自然治療症例)の統計的解析を行い、酸素使用量に関連する因子である酸素濃度と持続時間、PaO2が異常高値を示した期間、補助呼吸の様式とその期間及び交換輸血の有無並びに輸血量と回数が瘢痕性未熟児網膜症の発生に関連するかどうかを検討した結果によっても両群間に有意差はなく、関連性は認められなかったと述べ、キンゼイの協同研究でも酸素投与期間と重症度とは関連しないことが認められたと報告している(乙A第四二号証の一)。

さらに、昭和六一年論文において、重度瘢痕期本症の危険因子を決定するための統計的解析を行った結果、全ての因子について有意差は認められず、単一の病因を決めることはできなかったが、多因子性の病因が示唆された(乙A第四六号証の一)とし、また、ルーシーらの論文を紹介し、本症の発症因子としての多数の危険因子はそのいずれをとっても単一病因とは決め難く、種々の危険因子が複雑に相互に関連しており、しかもその殆ど全ての因子は現在の未熟児医療上から避けられない旨述べている(乙A第四六号証の四)。

(4) 山本節医師(現神戸大教授)らの見解

兵庫県立こども病院の山本節医師らは、誕生直後の未熟児に本症発症の事実から本症が人工的酸素投与と無関係に発症するとし、次のごとく述べている。「出生直後に未熟児網膜症の初期像が見つかったことにより同症の発症メカニズムを考えるうえで、生後の酸素管理との因果関係を重複するこれまでの考え方を再検討する必要があると思う。……酸素過剰にならないよう十分な管理をしても未熟児網膜症は防げないようだ。発生機構そのものについてはまだわからず、これからの研究になる。」(乙A第四一号証の一〇―昭和五六・五・一五付神戸新聞)。

また、前述したごとく永田医師も動脈血酸素分圧の連続測定の時代に入ってからなお本症重症例発生の事実を踏え、酸素は本症の直接の原因ではないとし、右と同様の見解を披瀝している(乙A第四一号証の四―昭和五六・七・四刊日本医事新報二九八四号)。

(5) 奥山和男教授の見解

奥山教授は、昭和六〇年論文において、現在、未熟児網膜症の病因はいまだ不明である、とした上「本症は単純に医原性疾患とはいえず、多数の病因が関与して起るものであろう。これら因子の殆どは予防することは不可能である。したがって、極小未熟児、特に超未熟児では、現在、本症を完全に防ぐことは出来ないと考えられる。」と述べている(乙A第四五号証の四)。

(6) シルバーマン博士の見解

シルバーマン博士は最近(一九八二年―昭和五七年)のイギリスの医学雑誌に「未熟児網膜症―正当を疑われた酸素定理」と題する論文を発表し、その中で、これまで「何故、眼の障害が、長びく酸素過剰症を経験した未熟児のうち、そのように少数の者にだけ起こるのか? 何故障害が補給酸素による処置を一度も受けなかった児の或る者(死産児を含む)に起るのか?、何故、動脈血酸素分圧の値と盲目の危険との関係を確立することがそのように困難であったのか?、そして、総べての中で最も攪乱的なことは酸素の供給の技術的な方法と監視の顕著な改善があった時期に患児の数が増加しつつあるように見えるのは何故か?」という疑問が無視されてきたことを問題提起したうえ、「(1)未熟児網膜症は酸素制限の方針によっても決して完全には排除されなかった。(2)疫学的証拠は後方視的に、酸素制限の最初の一〇年間に未熟児網膜症による盲目の頻度が低かったことは、この状態を起す危険が最も大きい新生児(最も小さい児、特に呼吸窮迫症候群のある児)が生後数時間で死亡していた事実と関係があること、制限策の大いに賞めちぎられた業績は、大きな犠牲を払って引き合わない勝利であったかも知れないことを示唆した。(3)未熟児の眼の可逆的な血管の変化が時たま絶え間のない瘢痕性網膜症へと転換するように作用する因子は未だかつて理解されていない。」と述べている。さらに動物実験の結果を踏え、「網膜の障害は構造的に未熟な血管を守るための血管緊張が不適切な乳児だけに起こる。」と述べ、生体側に決定的因子の存在することを強調し、酸素供給なくして瘢痕性網膜症がなぜ起こるかを説明する機序を示唆するもの、と述べている点が注目される(乙A第四二号証の三―昭和五七年刊行Arhives of Disease Childhood)。

(7) サデアス・A・ザック博士の見解―低酸素症説の登場

ニューヨーク州立大学のザック博士は、自験症例の分析結果に基づき、後水晶体線維増殖症(RLF)は今日でも殆ど不可解なものとして残っていると冒頭に述べた上、RLFの発生率は酸素療法をより長期間必要とした病児においてより少かった、と報告している(乙A第四一号証の五)。

すなわち、同博士は、乳児四三七症例の危険因子の分析結果に基づき、未熟児網膜症の発生率は酸素療法をより長期間必要とした病児においてより少かったこと、酸素に曝されたことのない多数の低酸素症乳児に本症が起ったことなどを根拠に、本症の原因について一次性低酸素症説の新説を提唱し、未熟児網膜症例の大部分が、なぜ肺未熟が同時に存在する一四〇〇グラム未満の乳児または在胎三〇週未満の乳児に起るのか、この低酸素症説は重大な意味をもつとしたうえ、出生体重、酸素供給期間、在胎週数との関連において本症の原因を高酸素血症説によって説明することはできないと述べている(乙A第四一号証の五―昭和五六・一二刊行、ワシントンにおける未熟児網膜症研究会抄録)。

(8) マコーミック博士の見解

また、カナダのマコーミック博士は、酸素を巡る他の因子について次のように述べている。「我々は、よくも悪くも、他の因子がどのような影響でもって酸素に係わりを持つかについて全く何も知らないというのは不幸ではあるが、真実である。同じ妊娠月数、同じ酸素療法、同じPaO2レベル、同じ重い呼吸障害を持っている未熟児を診ていて、その中の一人が失明にならないのに他の一人が失明したり、ひどく機能を失うのに、他の因子が役割を演じていない、と信ずるのは難しい。」(乙A第三七号証の二)。

(9) ルーシー教授の見解

新生児医学の世界的権威者であるバーモント大学のルーシー教授は、昭和五九年一月号のペディアトリックスに「R・L・Fにおける酸素の役割の再検討」と題する綜説論文を発表し、その中で要旨次のように述べている。「酸素非投与R・L・Fの症例は当初独特な例外と考えられたが現在では無視できないものになっている。新生児のR・L・Fは避けることのできない多数の事象の複雑な相互作用の結果である。過剰な酸素投与はR・L・Fの一因に過ぎず、現在のR・L・Fの流行状態においては過剰酸素という要因は主因ですらあり得ない。現在でも安全な酸素量、酸素療法期間について正確な勧告を行うことはまだ不可能である。低体重の新生児においてR・L・Fは回避し得る医原性疾患と考えてはならない。このような児での本症の原因は不明である。」(乙A第四四号証の七)。

(10) 以上にみたとおり、現時点においても本症の発生原因及びその機序は明らかでなく、かえって酸素原因説が後退してきている現状にかんがみるとき、本件患児らに対する酸素投与が当時いわれていた四〇パーセント以下説に従い、かつ、漸減法により児の臨床症状に即応して適切に行われてきたことと、これに右(1)ないし(9)の諸報告を併せ検討するに、担当医師の酸素投与を含む全身管理と原告患児らの未熟児網膜症罹患との間の因果関係を肯定することは困難というべきである。

(二) 具体的事案について因果関係が認められるための条件

(1) 因果関係の内容

因果関係の起点は、医療契約の債務不履行または不法行為における注意義務違反であることはいうまでもない。

ところで、医療契約の債務不履行・不法行為における注意義務違反は、生命・脳の維持に必要な酸素量を明らかに超えて酸素を供給した場合にのみ生じるのである。

したがって、本件において原告らが立証すべき因果関係は、「酸素一般」と瘢痕性未熟児網膜症との因果関係ではなく、また、「供給された酸素一般」と瘢痕性未熟児網膜症との因果関係でもなく、生命・脳の維持に必要な酸素量を明らかに超えて供給された場合、その酸素供給行為によって初めて瘢痕性未熟児網膜症を惹起したことの因果関係でなければならない。

(2) 相当因果関係の証明

本件において原告らが立証すべき相当因果関係は右に述べたとおりであるが、その際注意すべき第一は、生命・脳の維持に必要な量を明らかに超えているとはいえない酸素の供給によって瘢痕性未熟児網膜症を惹き起す可能性が高度の蓋然性をもって否定されない限り、生命・脳の維持に必要な量を明らかに超えた酸素供給行為によって初めて瘢痕性未熟児網膜症が惹き起されたものとは認め得ないことになり、両者の間に相当因果関係の前提となる条件関係が存在しないことになる点である。

注意すべき第二は、相当因果関係の存否は、各個の事案ごとに些細に検討すべき問題である、ということである。酸素との一般的蓋然性・極めて高濃度の酸素との関連性などによる推認などを振りかざして事案ごとの検討を避けて通ることは許されないのである。

(3) 以上の観点からすると、本件の場合には因果関係を認めることはできない。

2 光凝固法・冷凍凝固法の実施に関する因果関係

右各治療法については、現在においてなお有効性が確立していないことは前記のとおりであり、したがって、右各治療法を適期に実施していたとしても、原告患児らの失明等の視力障害を防止できたかどうかは不明というほかない。

六  診療経過などに関する各被告らの主張(含む時効)

1 原告原山清に関する被告東京都の主張

原告原山清(以下この項において「原告清」という。)の右被告が設置し運営する東京都立豊島病院(以下この項において「被告病院」という。)における診療経過は次のとおりであり、被告病院の担当医らに過失はない。

(一) 原告清が入院していた当時の被告病院の未熟児保育体制及び保育方針について

(1) 保育体制

原告清が入院し保育を受けた被告病院では、昭和四二年五月から小児科とは別に独立した未熟児室を設置し、未熟児及び新生児で病児の成熟児を収容し、その管理は小児科で担当することとして、原告清の入院した昭和四五年当時は、小児科に勤務する医師六、七名が診療に当っていた。

さらに、右当時、未熟児室では看護婦一七名前後が三交替制で二四時間勤務する体制をとり、昼夜を問わず刻々と変化する未熟児の状態を観察し、患児に異常を認めた場合は直ちに担当医師に報告して医師の指示に従って適切な措置を講じていた。

(2) 保育方針

未熟児、とりわけ、生下時体重一五〇〇グラム以下、在胎週数三二週以下の極小未熟児(ちなみに、原告清は極小未熟児である。)の保育は極めて困難であり、極小未熟児であることそれ自体が極めて重篤な疾患である。

そこで、被告病院では未熟児の保育に当って、未熟児の諸機能の未熟性、脆弱性からくる諸症状の発生予防と治療を行い、その生命を守り脳障害等の後遺症の発生防止に努めている。この目的のために被告病院では、極小未熟児の保育に当っては全身管理・監視の必要上、児を保育器内に収容して、保温・湿度維持・栄養摂取・感染防止に充分な配慮をなしている。

極小未熟児は呼吸器系機能が未成熟であるため、時に特発性呼吸窮迫や無呼吸あるいは無酸素症などの呼吸障害を起しがちであり、また、一般的に、肺の未熟性のため大気中の酸素を体内に充分に取り入れることができない。そしてひとたび酸素欠乏による脳性麻痺等の障害が発生した場合には、事後に如何に酸素を補給しても脳の障害を除去することはできないのである。

右のように、極小未熟児は、一般的に、または多くの場合に酸素投与の適応にあるため、被告病院の担当医師は、右の点を念頭において、かつ、当該未熟児の在胎期間、全身状況、呼吸循環状態、黄疽その他の種々の臨床症成を慎重に観察・考慮した上、酸素投与の要否、投与量、投与期間を決定し、また、継続、漸減又は中止を決定していたものである。

(二) 原告清の診療経過

(1) 出生と分娩経過

原告清は、昭和四五年九月二三日午前一時三七分、訴外村山病院において出生した。原告清の出生と分娩経過等は、出生病院の土田助産婦記述の未熟児連絡票によれば次のとおりであった。すなわち、

原告清は、在胎週数二八週と二日(分娩予定日昭和四五年一二月一四日)で、分娩予定日より八二日も早く、生下時体重一三一五グラムの極小未熟児として出生した。

原告清の分娩の状況は、骨盤位で出生の二四時間前から破水(前期破水)する異常分娩であったので、仮死状態は認められなかったが、蘇生器を出生時に三分間使用し、その後被告病院に移送されるまで保育器に収容し、酸素を毎分三リットル投与した。

なお、原告清の母原告原山都は同児の出産当時二九歳の経産婦で、それまでの妊娠歴は三回で、満期産一回、人工流産二回である。

また妊娠中、頸管無力症に対するシロッカー手術を二回(昭和四五年七月六日、同九月一三日)受けていた。

(2) 被告病院における入院から退院までの診療経過

① 原告清は、昭和四五年九月二四日午後〇時三〇分、出生病院からポータブル保育器に収容して移送され被告病院に入院した。

右入院の際、原告清の担当医となった被告病院の小児科白井徳満医師(以下「白井医師」という。)が原告清を診察したが、その診療所見は次のとおりであった。

原告清は、生後三五時間で体重一二五〇グラム、呼吸数一分間八〇、心拍数一分間一二五、体重摂氏三四・二度で、新生児の呼吸障害のときに特徴的に見られるシーソー運動(胸腹の運動が逆で呼吸状態の悪い時に起きる。)及び剣状突起下部の陥没があり、シルバーマンスコア六点の呼吸困難の状態であった(シルバーマンスコアとは、呼吸状態を客観的に点数で示すもので、一〇点が呼吸状態の最悪を意味し、0点が呼吸状態良好を示す。一般に二点以上が呼吸障害のあることを示すとされている。)。

また、全身状態は、足背と上肢、下肢に浮腫があり、手足の緊張が悪く皮膚の色は暗赤色であって相当に悪い状態であった。

そこで、白井医師は、原告清の呼吸障害の程度、全身状態、在胎期間と生下時体重をそれぞれ考慮して、原告清を直ちに保育器に収容し、保育器内温度を摂氏三三度、湿度を一〇〇パーセント、環境酸素濃度を三〇パーセントと、それぞれ指示した。

② 原告清は、九月二四日には、前記のとおりシーソー運動及び剣状突起下部の陥没があり、呼吸困難の状態で、生命の危険が予想された。しかし、白井医師の適切な輸液や前記の各治療によって、原告清の状態は、九月二五日には顔面にチアノーゼがあったが、シルバーマンスコアは五点となり、翌二六日にはシルバーマンスコアは四点となった。

そこで、白井医師は、原告清の状態が安定しているようであったので、もう二、三日状態に変わりがなければ、酸素を減らそうと考え、二六日、看護婦に対し、二八日より酸素を二八パーセントに減らすよう指示した。

③ 九月二七日、原告清のシルバーマンスコアは四点となり、さらに翌二八日のそれは三点となったので、同日、酸素濃度を二八パーセントとした。この日の白井医師の原告清の診察によると、原告清には、黄疸が少しあり、足背と下腹部に浮腫があるが、呼吸数などは改善されていた。

④ ところが、九月三〇日に至るや、原告清は腹部が膨満し、吐乳があり、顔面チアノーゼも出現し、再び呼吸状態が悪化したため、酸素濃度を三〇パーセントに上げ、以後全身状態に照応して漸減法により、一〇月六日から二七パーセント、一〇月一一日から二五パーセントに酸素を減量し、一〇月一二日に酸素投与を中止した。

⑤ ところが、一〇月二〇日に至ると、原告清に再び腹部膨満が出現し、吐乳したため、翌二一日からミルクを一時止め、胃内吸引し、その後、ミルクの量を半分に減量し、水散薬を与え、点滴を開始した。

⑥ 一〇月二二日になると、原告清は、再び全身チアノーゼと無呼吸発作が出現したため、濃度三〇パーセントの酸素投与を開始した。この日、朝から原告清は、呼吸が何度も止まり、全く体動が見られなくなって腹がはり、全身色も非常に悪い状態であった。担当医師は原告清の生命が危機に瀕している状態と受けとめ、原告清の気道を確保し、人工呼吸をなし、呼吸回復に至るまでの数分間酸素五リットルを流し、原告清の呼吸を回復せしめた。

⑦ 翌二三日も、原告清は、一日数回の無呼吸を繰り返し、二四日に至っても全身色不良であったが、二五日になると、再び顔面蒼白となり、無呼吸発作を起し呼吸停止の状態となったので、担当医師は一〇月二二日の場合と同様に数分間酸素三リットルを流して原告清の呼吸を回復せしめた。

⑧ 一〇月二二日に再発した原告清の全身チアノーゼ・無呼吸状況について、担当医師は次の理由から肺炎に羅患したものであると診断した。

すなわち、原告清の臨床経過として、急に呼吸がとまり、全身状態が悪くなり、チアノーゼが出てきたこと、胸部所見において、湿性ラ音が聞かれたが、これは肺炎のときに特徴的に聞かれる音であることから、原告清の症状は肺炎であると診断した。

そして、このことは、一〇月二三日に行った胸部レントゲン検査及びその後の血液検査によって確認された。

そこで、担当医師は、その時からビクシリン(ペニシリン系抗生物質)を一日体重一キロ当り一三〇ミリグラムを一一月八日までの一八日間、静脈注射ないし筋肉注射により投与し、併せて一〇月二八日から一一月二日までの六日間にわたってセポラン(セファロポリン系抗生物質製剤)を一日体重一キロ当り五〇ミリグラムを筋肉注射により投与した。また、一一月三日から一一月一一日までコリマイシン(抗生物質)を一日体重一キロ当り二〇万単位投与した。

⑨ 前記ビクシリンとセラポンを併用して投薬している間の、一〇月二七日の血算(白血球検査)、血液像検査の結果による白血球の幼弱化と、一〇月二八日の口腔培養検査から緑膿菌及びクレブシエラ菌が検出されたこと、また、一〇月二九日に行った二回目の胸部レントゲン検査の所見などから判断して、未だ肺炎が軽快せず、呼吸状態も充分に良好ではなく、悪化も予想されたので、なお濃度三〇パーセントの酸素投与の必要を認め、全身状況から判断して肺炎が軽快したと認められた一一月四日まで同量の酸素投与を続けた。

⑩ その後、肺炎の症状が一応安定した一一月五日からは、原告清の全身状態を観察しながら状況に応じて同月二〇日まで酸素濃度を二八パーセントに減じ、一一月二三日に最終的に酸素投与を中止した。

⑪ 原告清は、前記肺炎に羅患した期間を除き順調に経過し、生後九八日目に当る一二月二八日には体重も三〇〇〇グラムに達し、生育に障害となる徴候も認められなかったので、被告病院を退院したものである。

(三) 原告原島らの主張に対する反論

(1) 全身管理上及び酸素投与上の過失の不存在

原告原島らは、原告清の保育上、被告病院の担当医師らにその全身管理及び酸素投与の点につき過失があった旨主張する。

しかし、次に詳述するごとく、昭和四五年九月当時の、未熟児保育の知識水準及びその実態に照らし、右担当医師らには、何らの過失も存在しない。

原告清は、分娩予定日が昭和四五年一二月一四日であるところ、同四五年九月二三日訴外村山病院において、在胎期間二八週と二日、生下時体重一三一五グラムの極小未熟児として出生し、直ちに保育器に収容され、出生後一二時間後、被告病院に移送されたものである。被告病院入院時の原告清の状況は、生命の危険のある重篤な状態であり、被告病院の担当医師は、原告清を直ちに保育器に収容し、保育器内温度摂氏三三度、湿度一〇〇パーセント、酸素三〇パーセント投与の保育環境下において保育を開始し、継続的な呼吸障害や肺炎の羅患等により生命の危険に曝されながらも、右担当医師らの努力によって、順調に生育するに至ったものである。

① 保温措置における診療の妥当性

本件当時、未熟児の体温の調節は、未熟児の体重を基準にし、それに応じて保育器の温度を決定するというのが一般的な診療指針とされていた。例えば、小児科領域において、当時最も水準の高い参考文献として一般的に使用されていた東大小児科治療指針によれば、体重一二〇〇グラムから一四〇〇グラムは摂氏三二度とされていた。また、未熟児は体温が摂氏三四度になっても病的なことではなく、大事なことは体温が摂氏三四度以下に下がらないようにすることであるとか、器内温度は摂氏二八~三二度とするものが多く、保育器内の温度を上げることは必ずしも推奨されていなかった。ちなみに、高温環境下での保育が一般に普及してきたのは、昭和五〇年を過ぎてからのことである。

このことを原告清についてみれば、担当医師は、右東大小児科治療指針の基準より一度高い摂氏三三度で器内温度を設定しており、この保温措置は昭和四五年当時の一般的水準からみて極めて妥当なものであったというべく、この点何ら非難の対象とはなり得ないものである。

② 酸素投与における過失の不存在

昭和四五年九月当時の未熟児に対する酸素療法は、原則として保育器内の酸素濃度を四〇パーセント以下に保持し、児の呼吸障害の程度や一般状態に即応して一分間当りの酸素流量を増減して、その濃度を制限緩和するという方法が一般的な治療基準とされていた。

しかして、原告清の担当医師は当時の一般的水準の知識と経験に基づき、原告清の呼吸障害の程度や一般状態をきめ細く観察しその状態に即応した酸素療法(濃度は三〇パーセント以下)を行ってきており、このことは白井医師の証言及びカルテ、看護記録などから明らかであり、原告清の担当医師らに酸素投与上の過失は存在しない。

ところが、原告原山らは、被告病院の担当医が原告清に対し、昭和四五年九月二四日と一〇月二二日の全身チアノーゼの発現時及び九月二五日と一〇月二三日の呼吸窮迫時を除いては、酸素投与の適応でなかったにも拘わらず酸素投与を一旦中止して様子を観察するということを一度も試みず、漫然と酸素投与を継続し原告清を本症に羅患させた過失があると主張する。

しかしながら、原告原山らの主張は、前述したとおり、原告清が生下時体重一三一五グラム、在胎期間二八週と二日という極小未熟児として出生し、原告清の身体各臓器が著しく未熟であったという事実、さらに原告清には呼吸障害や低酸素症等の臨床症状が認められたため、保育器に収容して酸素を投与せざるを得ない状況にあったという事実を無視したもので失当である。

しかも、原告清の臨床症状についての原告原山らの主張には、次のとおり重大な誤りがある。すなわち、

(A) 原告原山らは、原告清は九月二四日に全身チアノーゼがあったほか、同月二五日午前八時以降は呼吸窮迫も現れず、酸素投与の必要のない症状であった旨主張する。

しかし、原告清には、原告原山らも認めるとおり、九月二四日には全身チアノーゼが認められたが、翌二五日には認められないと記録されている。ただし、顔、口、周辺に中心性チアノーゼが認められた。

ところで、酸素投与の要否やその量及び濃度は、前述のとおり、当該未熟児の在胎期間、体重の増減状況、呼吸循環状態、活動性その他の全身状態を考慮して決定されるものである。

したがって、酸素の管理は、単に「チアノーゼ」「呼吸障害」等の外観的な症状の発生によってのみ行われるものではなく、またこのような外観的症状変化のみを念頭において行われるものでもない。そして、酸素の欠乏による症状が、体表・体内のいずれに早く生ずるかは具体的に明らかではないので、外観的に症状が認められない場合にも、体内で酸素欠乏症に陥っていることがある。したがって、これらを配慮し、かつ、個々の児のその時々の全身状態を充分考慮して酸素を投与する必要がある。特に、二五日に至って、原告清に全身チアノーゼが認められなかったのは、三〇パーセントの酸素投与を受けているからであって、その状態下での観察であることを看過してはならない。一般に、酸素投与を受けている児にチアノーゼが認められないからといって、酸素投与の必要がないということにはならない。仮に、そのようなことがいえるとすれば、酸素投与を受けている殆どすべての未熟児は、実は酸素投与を受ける必要がないという不当な結論にならざるを得ない。なぜならば、酸素投与を受けながら、なおも全身チアノーゼを示す未熟児は、特別な例外を除き殆ど存在しないからである。すなわち、酸素投与を受けながら、全身チアノーゼが認められるとすれば、それはなお酸素が不足しているか、あるいは酸素投与によっても改善されないほどの重篤な事態だからである。また、二五日のシルバーマンスコアは、四点であり、原告清に呼吸窮迫が存在していたことは明らかであるから、原告原山らの主張は事実を誤認しているものである。

(B) 原告原山らは、原告清の担当医が、九月二六日に、その日からではなく二八日午前中から酸素濃度を三〇パーセントから二パーセント落して二八パーセントにするように指示したことを非難する。

しかし、この非難は理由がない。すなわち、原告清の呼吸状態は、原告原山らがその主張の前提とするように、完全に回復していたものではなく、徐々に回復しつつあったものであり、生後五日目からシルバーマンスコアも三点となってきたので、担当医師が二六日に、わざわざ二八日から酸素濃度を落すように指示したのは、それまでの原告清の状態がやっと安定してきたが、酸素濃度の低下によってその状態が急変する危険性があったので、「状態に変わりなければ、酸素を減らそう」としたものであるから、原告原山らの右非難は当らない。

原告原山らは、右のことに関し、二六日の状態が二日間続いた場合に、酸素を二パーセント減少しようとするというのであれば、同日でも二パーセント落として担当医師が直に児の状態を観察すべきであるし、二八日に立ち会って様子をみるべきであったと主張する。

原告原山らの主張は、まずその前提において担当医師らが原告清を診察しない日があるとしているように解されるが、担当医師らは、毎日一回、しかも日によっては一日数回にわたって原告清の診察をしているのであり、原告の右主張はその前提において失当である。

ちなみに、原告原山らの主張する二八日についてみれば、当日の原告清について黄疸少し、足背と下腹部に浮腫(+)、心音清、呼気音弱いなどの担当医師の診察結果が記録されているのである。

(C) 原告原山らは、九月二九日夜から三〇日にかけて、原告清が一度ずつ吐乳をし腹部膨満となり呼吸数が下がると、直ちに酸素濃度を三〇パーセントに戻し、一〇月六日になって二八パーセントに落していると非難する。

しかし、「吐乳というのは、新生児の場合非常に注意信号、危険信号」であり、「ミルクが過ぎたのか、もっと悪い病気なのかその可能性を考えなければいけない」のである。しかも、原告清は腹部膨満となっていたので感染症の虞れも検討する必要があった。

そして、未熟児は、哺乳後に呼吸が悪化することが多いので、右病変の可能性と併せて経過観察をする必要があるため、担当医師は一〇月五日まで三〇パーセントの酸素投与を指示していたのである。

なお、原告原山らは、一〇月一日に、一〇月四日朝より酸素濃度を二八パーセントにするように指示したが実行されず、一〇月六日になってやっと酸素濃度を二八パーセントとするよう指示されていると主張する。しかし、担当医師が、児の状態を経過観察した後、酸素濃度を落とすよう指示しているのは前述のとおりであって、何ら非難される点はない。

また、一〇月四日についてみれば、原告清は、また吐乳し腫部膨満し、口周囲、四肢末端にチアノーゼが出ているため、酸素濃度三〇パーセントを継続したものである。これらのことは、担当医師らが原告清の容態変化について、いかに注意深く観察し対応していたかを示す一つの例であって、何ら非難さるべき点はない。

(D) 原告原山らは、原告清が肺炎に羅患していた一〇月二二日に、毎分五リットル、同二五日に毎分三リットルの多量の酸素が原告清に投与されたが、投与時間は記載されず、濃度も測定されていないと非難する。

しかし、右非難は理由がない。すなわち、原告原山らも認めるとおり、原告清は、肺炎に羅患しており、一〇月二二日午前九時一五分、無呼吸発作を起し呼吸停止の状態となり、全身チアノーゼが出現したものであり、同二五日にも無呼吸発作を起し、それぞれ生命の危機に陥っていたのである。右のとおり、それぞれ原告清の無呼吸状態が長く続き呼吸停止の状態になったので、一時的にごく短時間、多量の酸素を流すことによって呼吸停止及びその後の一過性の低酸素症に対処したものである。このような場合、呼吸が回復し安定すれば直ちにもとの酸素濃度に戻すので、酸素投与の時間や濃度を一々記録することはしないのである。

このように、患児が呼吸を回復した後は、直ちに元の酸素濃度に戻すので、患児が必要以上に高濃度の酸素を持続的に長時間吸入することはないのである。そして、右のような呼吸停止に対応する酸素投与の方法は、昭和五〇年代に至るまで一般的な手法であったものである。

(E) さらに、原告原山らは、無呼吸発作に対して酸素の増量投与をすることは、発作時には吸入されないため無意味であり、回復と同時に高濃度の酸素を持続的に吸入することになるので、未熟児網膜症発生の危険性が大であると主張する。

しかし、右主張は、無呼吸がどのようにして回復するかという、無呼吸からの回復過程及び脳障害発生の危険についての無理解による主張というべきであって失当である。すなわち、無呼吸発作の回復過程をみると、無呼吸からすぐに正常の呼吸に回復するものではなく、無呼吸の後、不規則で浅い呼吸が数十秒から数分間続いた後に、正常の呼吸に回復するのが普通である。そして、この間、患児の呼吸が不完全であるため、体内に取り入れられる酸素は不充分であるから、酸素量を通常より非常に多く必要とするのである。しかも、仮に呼吸停止が長びけば、生命の危険に陥るので、蘇生器を使用して一〇〇パーセントの濃度の酸素投与をして呼吸回復を図ることは、新生児医学の常識ですらある。

したがって、右のように、原告清に対して、過度的な浅い呼吸状態に対して酸素を増量して投与することは、脳の低酸素状態を一刻も早く改善しようとする目的に適っているものである。原告清も右のような呼吸回復過程を辿っていたものであるから、担当医師が酸素を増量して投与したことは当然に必要な措置であったのである。

以上のとおり、原告原山らの主張は、酸素の有害性のみを強調するあまり、生命や脳の障害に対する配慮を欠いたものであって失当というべきである。

(F) また、原告原山らは、原告清の無呼吸発作が刺激で回復して全身チアノーゼも来さなかったことは、酸素の適応がなかったものと判断されると主張する。

しかし、原告清は、この間継続して酸素投与を受けているのであり、呼吸回復までの数分間は、高濃度による酸素療法をも受けていたのであるから、その前提の条件を無視した原告原山らの主張は暴論というべきである。

さらに、原告原山らは二六日以降、原告清の活動力が良好であり、二七日にはオイルバスを受けていることが、酸素投与の必要性のない指標であると主張する。

しかし、右主張も原告清に酸素投与がなされている状況下であること、担当医師らが原告清の状態の安定に努力している成果であることを無視した主張であって、いずれも失当である。

(G) 原告原山らは、次いで肺炎自体は酸素投与の適応でなく、呼吸状態が悪化したときにのみ酸素は必要となると主張する。

しかし、肺炎は「肺が炎症を起こすわけで、酸素を体内に取り入れる効率が悪くなる」のであるから酸素投与が必要なのである。

さらに、原告原山らは、担当医師が一旦酸素を中止して状態を観察するという試みをしていないと非難する。

しかし、レスピレータによる呼吸管理、新生児モニターによる監視等といった現在の新生児医学をもってしても、すべての極小未熟児を後遺症なくして救命することは困難であるのに、まして昭和四五年当時、一旦酸素を中止して児を観察するなどということは、児の生命維持の観点からは到底考えられないことである。

昭和四五年当時は、児の一般状態や全身状態を観察しながら酸素濃度を増減し、これを中止するに際しては、数日間にわたって徐々に濃度を漸減していく方法が用いられていたのであり、かかる措置は生命の保持と脳障害防止の見地から、また、当時いわれていた未熟児網膜症の予防法として適切かつ妥当なものであったのである。

(H) 原告原山らは、この期間全身チアノーゼがないから酸素投与の適応でないと主張する。

しかし、右主張の失当であることはすでに述べたところであるが、さらに、一一月一〇日ころについてみれば、原告清に貧血があり、酸素投与の必要があったのである。また、外観上、全身チアノーゼが認められないからといって、酸素投与の適応でないということはできない。なぜならば、第一に、児の外観のみからチアノーゼの有無を正しく判断することは極めて困難なことであり、第二に、新生児期には、チアノーゼと低酸素症の存在が一致しないことがよくあるからである。すなわち、外観的にチアノーゼがないと判断されたものでも、実際に血液ガスを測定してみると、低酸素状態である児が多数存在するのである。児の外観によるチアノーゼの判断がどこまで正確であるかに関する研究によっても、外観によるチアノーゼの診断の信頼性の低いことが報告されている。特に、極小未熟児では、低酸素症の診断は困難であり、外観上、全身チアノーゼが認められず多呼吸もない児において、血液酸素分圧を測定してみて始めて低酸素症であることが判明することも稀ではないのである。

右のことを原告清についてみれば、担当医師は、その呼吸状態と全身状態に照らして酸素投与が必要であると判断していたものであるから、外観上全身チアノーゼが認められないというだけで、酸素投与の適応がなかったと断定することはできないものである。

右のとおり、被告病院の担当医師は、原告清の臨床症状に応じて適切な酸素管理をなしていたものであるから、この点につき何らの過失も存しないものである。

(2) 眼底検査義務及び光凝固実施義務の不存在

① 原告原山らは、被告病院は、原告清に対し、定期的に眼底検査を実施すべきであったのにこれを怠って放置し、また、光凝固法による治療を実施することが可能であったのにこれを怠った過失がある旨主張する。

しかし、原告原山らの右主張は、医療の本質とその実態に対する理解を欠いた暴論というべきである。医療は、あくまでも実践であるから、原告原山らが光凝固法の実施を医師の義務として主張するためには、その前提として、光凝固法が本症に対する有効な治療法として確立し、本件診療当時、いわゆる臨床医学の実践における医療水準に到達していることが必要であるところ、昭和四五年一一月ころ当時、光凝固法は当時の臨床医学の実践における医療水準としては確立されていなかったのであり(最高裁昭和六一年四月一八日判決、判例時報一一九六号)、本件当時、いまだ実験段階(それも本件当時は実験の緒についた段階)であるから、原告原山らの主張は、そもそもその前提を欠くものであって失当である。

② 本件の昭和四五年当時、一部の先駆的研究者のいる専門病院を除いて、定期的眼底検査を実施している病院はないのに等しく、定期的眼底検査は普及、定着しておらず、その実施について検討すらされていなかったのが一般的状況であった。

そもそも、定期的眼底検査は、有効な治療法と結びついてはじめてその意義を肯定できるものであるところ、本件当時、本症についての治療法は、前述のとおりその研究の緒についたばかりであり、本症に対する一応の診断・治療基準すら存在しない状態であったのであるから、未熟児に対する定期的眼底検査は、法的義務にまで高められていたとは到底いえないのである。

また、本症に対する光凝固法は、総論で詳述したとおり、本件当時は勿論のこと、現在においても、その有効性は証明されておらず、実験的段階にある治療法である以上、これの実施を法的義務として医師に強制し得ないことは明らかである。

③ したがって、被告病院において、定期的眼底検査を実施しなかったからといって非難の対象とはならないし、光凝固法の実施義務が存在しないこともまた明らかである。

(3) 説明・転医義務の不存在

原告らは、被告病院に直接の治療責任がなかったとしても、光凝固治療の可能な病院に転医させ、または、転医させるかどうかを選択する機会を患者の両親に与えるべき義務が存したと主張する。

しかし、被告病院の担当医師らに、説明・転医義務は存しない。すなわち、医師の患者に対する説明は、診療行為の一部として位置づけられるものであるから、その前提として、当該疾病に対する診断及び治療の方法が一般的医療水準に到達していなければならない。しかるに、本件当時において、光凝固法は未だ本症の治療法として確立しておらず、さらに本症の診断・治療の前提としての診断・治療基準もなく、しかも定期的眼底検査も普及は勿論、実施している施設も極めて少数の施設に過ぎなかったのであるから、被告病院の担当医師らに、原告らのいう説明・転医義務は存しないものである。

2 原告池田健一に関する被告社会福祉法人恩賜財団済生会の主張《省略》

3 原告石井久子に関する被告日本赤十字社の主張《省略》

4の1 原告高橋佳吾に関する被告医療法人社団美誠会井出病院の主張《省略》

4の2 原告高橋佳吾に関する被告東京都の主張《省略》

5 原告長島弘継に関する被告名古屋市の主張《省略》

6 原告染谷さとみに関する被告全国社会保険協会連合会の主張《省略》

7 原告鈴木春江に関する被告全国社会保険協会連合会の主張《省略》

8 原告青木康子に関する被告社会福祉法人恩賜財団済生会の主張《省略》

9 原告猪井未央に関する被告医療法人愛生会の主張《省略》

10 原告浅井一美に関する被告日本赤十字社の主張《省略》

11 原告春原健二に関する被告東京都の主張《省略》

12 原告伊藤慶昭に関する被告内野閉の主張《省略》

13 原告矢田佳寿代に関する被告日本赤十字社の主張《省略》

14 原告友田英子に関する被告秋田県の主張《省略》

15の1 原告須田裕子に関する被告医療法人社団米山産婦人科病院の主張《省略》

15の2 原告須田裕子に関する被告東京都の主張《省略》

16の1 原告奥山太郎に関する被告久保田らの主張《省略》

16の2 原告奥山太郎に関する被告東京都の主張《省略》

17 原告大場健太郎に関する被告東京都の主張《省略》

18 原告二宮裕子に関する被告国の主張《省略》

19 原告宮沢健児に関する被告加藤末子の主張《省略》

20 原告福島千枝に関する被告太田五郎の主張《省略》

21 原告林千里に関する被告旭中央病院組合の主張《省略》

22 原告仁茂田ルリ子に関する被告国の主張《省略》

23 原告植木竜夫に関する被告君津郡市中央病院組合の主張《省略》

24 原告米良律子に関する被告日本赤十字社の主張《省略》

25 原告戸祭智子に関する被告芦屋市の主張《省略》

26 原告内田麻子に関する被告日本赤十字社の主張《省略》

27 原告後藤強に関する被告日本赤十字社の主張《省略》

28 原告藤城保史美に関する被告日本赤十字社の主張《省略》

29 原告久連山直也に関する被告日本赤十字社の主張《省略》

30 原告寺西満裕美に関する被告医療法人仁寿会の主張《省略》

31 原告塩田洋子に関する被告日本赤十字社の主張《省略》

32 原告浅川勇一に関する被告国の主張《省略》

33 原告三浦由紀子に関する被告国の主張《省略》

34 原告田尻享司に関する被告国の主張《省略》

35の1 原告小松宏衣に関する被告岩倉理雄の主張《省略》

35の2 原告小松宏衣に関する被告東京都の主張《省略》

36 原告益繁康弘に関する被告東京都の主張《省略》

37 原告熊川佳代子に関する被告浦安市市川市病院組合葛南病院の主張《省略》

38 原告渡辺修二に関する被告三橋信の主張《省略》

39 原告松本純子に関する被告医療法人社団深田病院の主張《省略》

40 原告皆川広行に関する被告株式会社日立製作所の主張《省略》

41 原告川崎陽子に関する被告神奈川県の主張《省略》

42 原告池島直子に関する被告神奈川県の主張《省略》

43 原告安藤美香に関する被告医療法人慈啓会の主張《省略》

七  行政上の責任に関する被告国の主張

1 酸素の副作用についての被告国の知見について

原告らは、未熟児に対する酸素投与が未熟児網膜症の原因であること、すなわち、未熟児網膜症は酸素の副作用の結果として発症するものであることを前提として、被告国の知見を云々するが、酸素が未熟児網膜症の直接の原因でないことは、多くの専門家が認めているところであり(永田誠・乙A第四一号証の四―一四二頁、馬嶋昭生・乙A第四一号証の一―一二六二頁、赤松洋・乙A第四二号証の一―九六一頁以下、同第四六号証の一―九六頁、同第四六号証の四―五五頁以下等)、また、後述のとおり、被告国(厚生省)が酸素に使用上の注意書を添付することを指導したり、これに関して医師に指示を発することは、そもそも医療の本質から不適当なのであるから、この点に関する原告らの主張は失当といわなければならない。後に詳述する。

2 母子保健法について

(一) 原告らは、被告国は母子保健法五条に基づき、未熟児がその養育医療中に、未熟児網膜症に羅患して、失明という事態に至らないように努めるべき法的義務がある旨主張するが、右主張は、次のとおり理由がない。

母子保健法は、母性並びに乳児及び幼児の健康の保持及び増進を図るため、母子保健に関する原理を明らかにするとともに、これらの者に対する保健指導、健康審査、医療その他の措置を講ずることによって、国民保健の向上に寄与することを目的とするものであって(同法一条)、同法は、第一章において、母子保健に関する原理を明らかにし、第二章及び第三章において、母性並びに乳幼児の健康の保持、増進を図るための措置について規定しているのである。

すなわち、同法は、まず、二条において、「母性は、すべての児童がすこやかに生まれ、かつ、育てられる基盤であることに鑑み、尊重され、かつ、保護されなければならない。」と規定し、三条において、乳幼児期が人の成長過程において最も大切な時期であることに鑑み、「乳児及び幼児は、心身ともに健全な人として成長してゆくために、その健康が保持され、かつ、増進されなければならない。」と規定して、母性の尊重、保護及び乳幼児の健康の保持増進という基本理念を宣言している。同法は、右の基本理念を前提として、「母性は、みずからすすんで、妊娠、出産又は育児についての正しい理解を深め、その健康の保持及び増進に努めなければならない。」ことを明らかにし(四条一項)、さらに、「乳児又は幼児の保護者は、みずからすすんで、育児についての正しい理解を深め、乳児又は幼児の健康の保持及び増進に努めなければならない。」ことを明らかにしている(同条二項)。これは、母性の尊重・保護及び乳幼児の健康の保持増進が、母性及び乳幼児の保護者みずからの努力にかかっていることから、これらの者が、みずからすすんで母性又は乳幼児の健康の保持増進に努力しなければならないという母子保健の理念を明らかにしたものである。

そして、同法は、四条に規定した右の母子保健の理念を前提としながら、五条一項において、被告国及び地方公共団体もまた、母性及び乳幼児の健康の保持及び増進に努めなければならないと規定し、同条二項において、母性及び乳幼児の健康の保持及び増進のための施策の基本方針を明らかにしている。これは、被告国及び地方公共団体が母性及び乳幼児の健康の保持及び増進に努めるべき責務があることを明らかにしたものである。

(二) 原告らは、同法三条をもって、乳児が被告国に対して健康保持増進の権利を有しているとした上、右乳児の権利に対応して、同法五条が被告国の法的義務を定めていると主張する。しかしながら、同法三条の規定が、「乳幼児の健康が保持増進されなければならない。」という母子保健に関する基本理念を宣言したものであることは前記のとおりであって、乳幼児が他に対して何らかの具体的権利を有していることを定めたものではない。このことは、同法五条二項が「前三条に規定する母子保健の理念」と規定していることからも明らかである。

また、同法五条一項の規定は、「乳児の権利」に対応して「被告国の義務」を定めたものではない。同条一項は、前記のとおり、被告国及び地方公共団体に母性及び乳幼児の健康の保持増進に努力すべき責務があることを明らかにし、いわば、被告国及び地方公共団体の努力目標を掲げたにすぎないのである。被告国は、この規定から直ちに個々の乳幼児に対して、その健康の保持増進に関して何らかの具体的義務を負うものではない。この同条一項のような「……努めなければならない。」という形式の規定は、他の法律にも見受けられる。例えば、老人福祉法四条三項、身体障害者福祉法三条一項、 二項、精神薄弱者福祉法二条、結核予防法二条などは、いずれも国、地方公共団体等が「……努めなければならない。」という形式の規定をしているが、これらが国、地方公共団体に対して、何らかの具体的な法的義務を課したものでないことは明らかである。母子保健法五条一項についても同様に解すべきものであって、同規定は、「国は、すべての生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」とする憲法二五条二項に照応し、乳幼児の健康の保持増進についての国の責務ないし任務を宣言したいわゆるプログラム規定というべきである。

さらに、母子保健法五条二項の規定が、被告国及び地方公共団体の施策の基本方針を明らかにしたにすぎないことも前記のとおりである。

以上のとおりであるから同法五条一項、 二項はいずれも被告国に対して法的義務を課したものと見る余地はなく、原告らの主張は理由がない。

3 医師法二四条の二について

(一) 医師法二四条の二の制定の経過

医師法二四条の二の規定は、輸血による梅毒感染事件として著名な東大病院輸血梅毒事件(第一審・東京地裁昭和三〇年四月二二日判決・下民集六巻四号七八四頁、控訴審・東京高裁昭和三一年九月一七日判決・下民集七巻九号二五四三頁、上告審・最高裁第一小法廷昭和三六年二月一六日判決・民集一五巻二号二四四頁)が機縁となって新設されるに至ったものである。同事件は、子宮筋腫治療のため東大附属病院に入院した婦人が、昭和二三年二月二七日輸血を受けたところ、輸血用血液が梅毒感染者によって提供されたものであったため、梅毒に羅患したというものであるが、この事件の提供した社会問題をめぐり、昭和二三年一一月二四日及び同月二七日に参議院厚生委員会において質疑があり、厚生大臣及び政府委員から旧輸血取締規則に代わり得る取締法案を検討する旨の答弁があった(参議院厚生委員会議録第四号昭和二三年一一月二四日、同会議録第五号同月二七日)。

その後対策が検討された結果、輸血の取締りのためには、輸血に関与する医師の注意を喚起すれば充分であるということから、輸血取締りに関する特別な法律によらなくても、医師法、歯科医師法に現行のような規定(医師法二四条の二、歯科医師法二三条の二)を設け、これらの規定に基づく指示によって目的を達するであろうという結論に達した。立法に際し、規定の表現の仕方を現行のように一般的なものにしたのは、提案の際の政府委員の説明によれば、「この表現の仕方から申しますと、事柄の起こりは輸血問題に対する対策として生まれたものではございますが、規定の表現の仕方から申しますれば、もっと一般的なものに相成っております。私の方としては実はこの規定を活用しなければならないような場合は、そう度々あるとは考えておらないのでございますが、といって輸血だけを解決するだけでも足りない、将来この種の問題が起こるだろうということを予想いたしまして、表現の仕方は広くいたしたのでございます。」(参議院厚生委員会議録第一四号昭和二四年四月二三日三ページ)ということであった。

このような経過で、昭和二四年五月一四日法律第六六号により、二四条の二の規定が医師法に追加されたのである。

(二) 医療行為の特殊性と法的規制

医師の医療行為は、自覚的、非自覚的な諸症状を有する患者に対し、診断を加えることから始まる。

そのため、医師は、問診はもちろん、成書や学界における知見、自らの研究結果等から得た専門的知識により、当該患者に対し必要と判断する諸検査を実施し、必要と判断する範囲において検査結果のデータを収集したうえ、そのデータを基に専門的知識、経験を総合して専門的判断としての診断を下すのである。

次に医師は、当然のことながら、患者を疾患から救うため、可能な範囲内での治療行為を実施する。すなわち、診断の結果、その疾患を治癒ないし軽減するため、やはり成書や学界報告等に現われている当該疾病治癒についての知見や自己の専門的体験等に基づき、最も有効適切と考えられる治療方法を選択するのである。その際、いかなる方法を選択するかは、患者側各個体の年齢、性別、体力、症状の程度、特異体質の有無、その個体について期待し得る回復の限度等個体側の条件及び手段としての手術、投薬等各治療方法の有効性、危険性等の条件が相互制限的に作用する具体的状況下において、総合的に判断して決するのである。

未熟児網膜症に例をとれば、保育器内における酸素療法が必要であると判断される場合において、いかなる酸素濃度により、どれ位の期間これを継続するか、症状軽快に応じどの程度酸素濃度を減じていくかは、すべて医師の専門的判断事項であり、酸素療法の特質と前記個体側要因とのかねあいにおいて、医師の総合的判断によって決定されるのである。

医師はかように専門的判断を加えて治療方法を選択し、その実施に移るが、実施に移行した後もその実施結果を見て、その成果や新たに判明した個体側要因により療法に検討を加えることを迫られ、その結果治療方法の変更、同種治療の継続、治療の中止等の対応方策を決するのである。このように医療行為は、専門的技術的判断及び専門技量が集積されて初めて有効に実施し得るものである。

医師が、その判断の結果、生命・身体に何らかの危険を伴うおそれの絶無ではない治療方法を実施したり、何らかの副作用が発現する可能性もあり得ることを予測しながらもあえて治療を実施するという事態は少からずあるのであって、医療行為は、判断、実施のいずれをとっても、複雑、微妙な専門性をその本質とするのである。医師による医療行為の各過程に外部から制約を加えることは、かえってその専門性、技能を充分に発揮することを困難ならしめ、ひいては医学の進歩をも阻害するものであって、この意味において、医師による医療行為は、本質的には外部的制約になじまないものである。

もとより、医療一般を取り上げてみれば、医療は人の生命・健康にかかわる重要問題であるから、国は医療を全く行政のわく外に放置することはできない。そのため医師法は、専ら医業従事者の資格の面から医師資格に厳重な規制(二条から一四条まで)を加え、また、医療法は、医療機関の人的・物的な組織、設備、管理運営等に関する面から、これらの事項について必要な規制措置を講じている。しかし、医師による個々の医療行為については、医師法は最小限度の規制措置として、

(1) 診療に従事する医師は、診察治療の求めがあった場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない(一九条)。

(2) 医師は、自ら診察しないで治療したり、診断書や処方箋を交付してはならない(二〇条)。

との規定を置くに止めている。

医師法が、医師による個々の医療行為について右のような法的規制を限度としているのは、医療行為が行われる場合、医療機関の性格、患者の置かれている緊急性など前記諸事情が様々である上、それらの一様でない諸事情に制約された上での疾病に対する対応策の選択、実施は医療の専門性、自主性、裁量性を本質としていることから、法律などによる事前の画一的規制になじまないし、医療の本質からもこれを規制すべきでないということの当然の結果である。前述の医師法一九条、 二〇条の規定は、右の専門性、自主性、裁量性と全く抵触しない部分について、医師の医療行為に対し形式的に最小限度の制限を課するに止めているのであり、ほかに同法をはじめ医療法その他の法令で、個々の医療技術又は医療の内容について規制を加えているものは見当たらない。

医療行為は、診療というその出発点において、医師と患者との接触方法の差異などに応じ診療上必要と判断する資料情報収集の範囲、程度などが異なってくるし、収集した資料・情報の検討、判断に際しても、症状の評価についての学説の争いなどがあるため、いかなる結論を下すかは、その当該医師の専門的判断に委ねられている。症状について一応の判断がついたとしても、さらに処置の要否、その時期、処置の方法、手技などを選択、決定しなければならないところ、これらは、患者側要因についての判断結果に制約され、かつ、学問的水準や過去の経験に照らしても妥当なものであるところを要するなど、極めて複雑微妙で困難な判断事項であり、そこでは当該医師に高度な裁量性が認められなければ時宜を得た適切な処置は期し難いのである。その過程における医師の判断は、事後的観察により診察治療当時存在したと認められる客観的諸条件を基礎とすれば、当時の医療水準に照らして不適切と評価され、専門家としての注意義務を欠いたとして法的批判にさらされることもあり得よう。しかし、診療過程における医師の判断の過誤を防止するため診療の方法、内容その他の基準を事前に法により規制することは、流動的な諸条件が複雑・微妙に関与している医療行為の特質に鑑み、かえって適切な処置などを講じ得ない結果となることが明らかである。

このように患者に対する妥当な医学的処置の方法、手技、時期などの決定をなし得るのは、当該患者に当る医師にほかならず、それらの決定は、本質的にプロフェッショナルとしての医師の自由裁量に委ねられ、医師は、認識、判断、実施の各過程において、医師の良識に従い、その裁量を適切に行使して行わざるを得ないのである。

未熟児に対する酸素療法に例をとれば、同療法は、新生児に対する不規則呼吸の改善、ひいてはその生命の救済という観点から行われるものであるが、未熟児は、しばしば呼吸が浅く、肺胞が充分拡張するのに一週間ないし二週間を要することが多く、甚だしいときには一月間も要するので、保育器内で生後相当の期間酸素吸入をして順調に肺胞が拡大するのを助けなければならず、同療法の対象となる未熟児は、その未熟度いかんによって程度の差はあれ、常に死亡の危険をはらんでいるといっても決して過言ではないのである。また、未熟児の持つ病変はアノキシアと密接な関係があるので、未熟児に少しでも呼吸促迫やチアノーゼがみられるときは、直ちに酸素を投与することが不可欠である。この酸素療法が、未熟児の死亡率低下に大きな役割を果たしていることは顕著な事実であり、同療法の必要性やその果たしてきた、ないし果たしつつある役割は、決してこれを否定することはできない。

ところで、酸素投与によって保育器内の環境酸素濃度を一定に保ち得たとしても、未熟児の血中酸素濃度は、右環境酸素濃度に比例して維持されるわけでなく、未熟児の素因、心肺機能の程度、哺育手技などによっても容易に変動するものである。したがって、酸素療法を具体的にどのように実施するか、つまり酸素投与の要否、投与量、投与中止時期、再投与の必要性などの選択判断は、児側の素因や絶えず変動する児の状態によって左右されるため、すべて個別的に医師のプロフェッショナルとしての合理的な裁量に委ねられているのである。医療の分野においては、医師にかかる自由裁量が認められていることによって、時宜を得た適切妥当な処置の確保が図られているのであり、このように、診療に当たる医師に容認されるべき自由裁量の範囲が広範であることは、医療行為の特殊性に照らしそれが必要とされるからにほかならない。「高度に専門職業的であり、『診察の自由』をもつ医師集団は、無批判的に外在的法的規範にさらされるべきでないとともに、それだけ自己集団内で紀律保持が要求されるであろう。医師の行為規範を無媒介に法規範に依拠せしめれば、本質的に要求される高度の専門性は、法規範の遵守だけが問題となり、その専門性は、個々の医師の良心の問題に還元されてしまう」(下山瑛二「医師と患者の関係をめぐって」ジュリスト第五六八号一五ページ参照)という意見の生ずるゆえんも実にここにあるのである。

医療行為は、本質的に危険な行為であり、一般的に禁止されるべき行為であるが、それを特定の知識と訓練を受けた者に対し、特別に解除する形式で医師免許制度が設けられており、医師になるには、大学において六年の課程を修めて卒業し、医師国家試験に合格し、厚生大臣の免許を受けなければならないが、国家試験の受験及び医師免許の双方について絶対的欠格事由及び相対的欠格事由が定められている。

また、医師の資格を厳格に規制するとともに、一度資格を与える以上は、その者の良識を信頼してできるだけ自由にその技能を発揮させ、双方相まって医療の普及向上に遺憾なからしめようというのが医師法の基本的な考え方である。

このような医師法の基本的考え方ないし前述した医療の本質及び医療行為の特殊性からくる法的規制の消極性は、後述のとおり、医師法二四条の二の指示について、その内容ないし事項が専門的判断、自主性、裁量性の枠の外のものに限られるという内容的、事項的制約をもたらすことは明らかである。

(三) 医師法二四条の二の性格

同条は公衆衛生上重大な危害を生ずるおそれがあり、かつ、その危害を防止するため特に必要があると認められる場合に、医師の行為による危害をできるだけ防止しようとする政策的見地から公衆衛生の向上及び増進を図ることを一般的任務としている厚生省(厚生省設置法四条)の長たる厚生大臣に対し、医療行為について一応の訓示的指示を与え得る道を開いておく必要があって設けられた権限規定である。

同条は、「厚生大臣は、公衆衛生上重大な危害を生ずる虞がある場合において、その危害を防止するため特に必要があると認めるときは……」と規定して、「公衆衛生上」、「重大な危害」、「生ずる虞」、「特に必要」という不確定ないし多義的概念を用いており、かつ、これらの概念及びその認定は極めて行政の専門的判断を要する事項である。

更に、同条は、「必要な指示をすることができる」と規定しているのであって、指示を発する要件を認め得るかどうか、要件を設め得た場合においても指示を発するかどうかは、厚生大臣の広範な裁量に委ねられているものであり、厚生大臣が同条に基づく指示を発したこと、又は発しないことについては、当不当の問題を生ずるに止まり、法律上の義務違反を問責される性質のものではない。

(四) 医師の自律的コントロール

医師法二四条の二の一般的授権規定に基づく指示は、医師の行為のうち専門的判断、専門的技量にかかわる事項については発し得ないものであり、これらの事項の進歩、向上は医療行為の本質、性格からして何よりも医師自身の自律的コントロールによるべきものである。

このための知識・情報の獲得、技能の向上に資するように、被告国は医師の臨床研修制度を実施している。この制度は、医師が免許を受けた後、二年以上大学の医学部若しくは大学附属の研究所の附属施設である病院又は厚生大臣の指定する病院において臨床研修を行うものであって(医師法一六条の二から一六条の四まで)、この制度の目的は、医師が適切な指導責任者の下に、常に社会との関連において疾病を把握しつつ診察に関する知識及び技能を実地に練磨し、医学の進歩に対応して、自ら判断能力、技量等の診察能力を開発し得る基礎を養うとともに、医療における人間関係特に医師と患者との関係についての理解を深め、併せて医の倫理を体得し、医師としての資質の向上を図ることにあり、厚生省は、このために臨床研修に関する経費について予算上の措置を講じている。

医学の進歩は著しく、これに対応した適切な医療を行うためには、医師は、常に厳しい自己研さんを必要とするのであり、生涯にわたって必要とされるこの自己研さんは、医師という職業に課せられた社会的責務、職業倫理として考えられるべきものである。前述の臨床研修制度は、このような生涯にわたる自己研さんの最初の場を国が提供しようとするものである。

また、医師の自己研さんのため、学術団体として多数の医学会があり、医師は、それらの学会に出席するほか、地域の講習会、研修会などに出席したり、学会誌、各種の医学専門誌などによって、医学上の知見、情報の収集に努めなければならないのである。

(五) 指示の効力

「指示」という用語は、例えば新法律学辞典(編集代表・我妻栄)によれば、「ある機関が他の機関又は人に対して、ある事項について指示を与えること。指示の概念は、「指揮」又は「命令」と区別する場合は指示を受けた者が指示の内容に必ずしも法律上拘束されないことを意味するが、実際の法令上の用法は明確でなく、ニュアンスの差にとどまることが多い。ときとして、法令上に指示に従うべきことが明示されていることがある(漁業六七参照)。」とあり、その定義・効力について一義的でなく、各法令により、その用法に差異が存しているが、右の漁業法には、「海区漁業調整委員会……は、……必要があると認めるときは、関係者に対し……必要な指示をすることができる。」(六七条一項)、「第一項の指示を受けた者がこれに従わないときは、海区漁業調整委員会……は都道府県知事に対して、その者に当該指示に従うべきことを命ずべき旨を申請することができる。」(六七条四項)、「都道府県知事は、その申請に係る者に対して、異議があれば一定の期間内に申し出るべき旨を催告しなければならない。」(六七条五項)、「第五項の場合において、同項の期間内に異議の申出がないとき……は、都道府県知事は、第四項の申請に係る者に対し、第一項の指示に従うべきことを命ずることができる。」(六七条七項)と規定されているほか、例えば旧臨時石炭鉱業管理法には、「石炭局長は、……指定炭鉱ごとにその業務計画の案の作成上基準となるべき事項を定めて、これを当該指定炭鉱の事業主に指示しなければならない。」(一六条)、「前条の規定による指示があったときには、その指示に従い、……指定炭鉱の事業主は、炭鉱管理者をして業務計画の案を作成せしめ、所轄石炭局長に提出しなければならない。」(一七条一項)とあるなど、特に法律上拘束力をもたせる必要のある場合には特に当該指示に従わなければならない旨の規定を置いているので、医師法二四条の二の指示のようにこのような規定を欠く指示については、指示される者を法律上拘束し得ないものと理解され、同条新設の際の立法者の意図として、「この指示と申しますのは、命令とは違うという考えでございます。従ってこの規定から起こって参ります法律上の効果としては、……指示を受けました関係の医師、歯科医師といたしましては、これを考慮する義務が生ずる。こういう程度に解釈しているのでございます。」(前掲会議録第一四号)と述べられていることからも、同条の指示は関係者に対し規範的な拘束力を持たないものであることが明らかであり、この点については、判例においても、本条に基づく唯一の指示である昭和二七年六月二三日厚生省告示第一三八号について、「一応の基準を示したもので……本件当時、右は法的拘束力はなく、訓示的なものと一般に解されていて……」(仙台高裁昭和三六年五月二二日判決・医療民事裁判例集四六六頁)と判示されているところである。

このように医師法二四条の二の指示は、法的には訓示的な意味をもつにすぎず、その効果は、医師の注意を喚起し、その違反による事故につき過失判断の一つの基準になるという程度の事実上の効果に止まるであろう。かような意味において、厚生大臣が医師に対して指示を発する行為の実質は、行政指導と大差がないと言える。

(六) 指示の要件

医師法二四条の二第一項は、「厚生大臣は、公衆衛生上重大な危害を生ずる虞がある場合において、その危害を防止するため特に必要があると認めるときは、……」と、不確定概念を用いて、指示を発し得る要件を規定しており、その認定には裁量の幅が大きいことは前述したとおりであるが、右要件は一応次のように解釈し得る。

(1) 「公衆衛生上重大な危害の発生する虞がある場合」とは、公衆衛生上つまり国民の健康の保持を図る上で、医療行為の目的たる効果に比して不利益の方が明らかに大きいと認められ、しかもその不利益が重大な被害であり、かつ、医師の特異な不注意の有無とは関係なく、医師の行為の介在によって被害が大量に発生する危険が現在ないし急迫する場合をいうものと解される。

(2) 「特に必要があると認めるとき」とは、当然のこととして、①伝染病予防法等他の法令によって適当な措置が講ぜられていない場合であること、②多くの医師が充分な対策を講じていない場合であること、③画一的、具体的な方法による被害発生防止の方途があることの要件を満たす場合をいうものと解される。

(3) 指示を発すべき場合は、右①②に述べた必要性等種々の要件により規制される上、指示内容の面から多大の制約を受ける。つまり、前記(二)において詳述したとおり、指示は、その内容において医業の自主性、裁量性を損わないものでなければならない。更に、右(2)③とも関連するが、一定の画一的、具体的な方法を指示するには、その前提として、指示内容として具体的に特定し得るだけの確立した医学的知見が存しなければならない。厚生大臣の指示が医業の自主性・裁量性を損なわず、かつ、確立した医学的知見として行い得るかどうかの判断に資するため、医師法二四条の二第二項は、「厚生大臣は、前項の規定による指示をするに当たっては、あらかじめ、医道審議会の意見を聴かなければならない。」と規定しているのである。

(七) 未熟児網膜症と指示

原告らは、我が国において、医師の保育器の不適切な使用により、多数の未熟児に未熟児網膜症が発生したことは、個々の医師の注意義務違反に加えて、被告国の医師に対する適切な指示、指導が行われなかったことにも重大な原因があると主張する。

しかしながら、未熟児網膜症は、児の未熟性、特に網膜血管の未熟性に根ざすもので、しかも死亡、脳性麻痺という重篤な障害に対処しつつ胎内生活と同じような条件を設定して保育する過程の中で生ずる疾患であって、単純に酸素投与と未熟児網膜症という関係で取り上げるべき問題ではなく、困難な未熟児保育全体の姿の中で正しく把握する必要があるのである。

未熟児網膜症に関する研究は、長年にわたる様々な過程を経て今日に及んでおり、未熟児網膜症の発生原因、発生機序は未解明の部分が多く、これを一元的に説明することは非常に困難であるとされている。そして、現在まで次々と未熟児網膜症に関し、新しい研究成果の発表が進むにつれて、未熟児網膜症の原因、病態について、次々に新しい疑問が起こり、酸素療法の具体的実施においても、死亡、脳性麻痺、未熟児網膜症による失明の三律背反の結果回避に対する根本的な解決方法は、現在なお確立されていない実情にある。

日本小児学会新生児委員会は、昭和四三年一〇月に、特に生下時体重二、〇〇〇グラム以下の未熟児を念頭に置き、二〇床以上の新生児床を有する施設を想定し、未熟児管理の向上を期して、「未熟児管理基準」を勧告して公表した。これは、未熟児の保育医療の原則である①呼吸の確立、②体温の保持、③感染の防止について、あくまでも臨床医学の立場から、我が国における未熟児医療の実際を向上させようという指導的な意味を含めて作成されたものであるが、特に未熟児に対する酸素投与については、「酸素投与は医師の指示によって行う。保育器内の酸素濃度は定期的に測定、記録されなければならない。」と述べ、投与酸素濃度や投与期間などについて制限的な態度をとっていない。このことは、未熟児の酸素療法につき、学術団体である小児学会においてさえ、これらの事項は各担当医師の裁量に委ねなければ時宜を得た適切妥当な処置の確保を期し難いとしていることを明らかにしているもので、いわんや医業の自主性、裁量性に対し謙抑的立場にあるべき国においては、到底これらの事項、内容に立ち入って指示を発し得ないというべきである。

のみならず、酸素投与量一つをとってみても、器内の環境酸素濃度を一定のレベルに保っても、血中の酸素濃度のレベルというものは、その未熟児の状態によって変動するのであって、むしろ未熟児の状態を見ながら酸素濃度を調節すべきものであるから、一律の濃度の指示ということは考えられない。投与期間についても同様であり、画一的、具体的な方法による被害発生防止の方途は存在しないのである。

更に、失明の発生の条件としては、未熟児の状態のほかに、未熟児管理の方法、眼底検査の時期と頻度、検査技術と診断基準が関係しており、これらを画一的条件下において規制することは到底不可能なことである。

原告らはいかなる指示をなすべきであったというのか明らかにしていないが、原告らの主張する注意義務の内容によると、酸素の供給は必要最小限に止め、継続的酸素の供給を避けるべきであるという内容の指示を発すべきであったとするがごとくである。

しかしながら、酸素投与の問題を予防上の注意事項として取り上げるとしても、時代によっては若干の考え方の差異もあるが、原告ら主張のような程度の抽象的な注意事項であれば、それは未熟児に対する酸素療法が採用されるようになった当初から医師の常識とされていたものである。問題は、生命及び脳性麻痺を救いながら、未熟児網膜症を回避するにはいかなる濃度で、どれ位の期間継続して供給してよいのか、その基準はどうかということであって、それは未熟児の状態によって異なってくるのであるから、到底明確に一律の基準を設定し得るものでないことは明白である。

したがって、もし指示を発するとすれば、不必要な酸素を供給してはならないといった程度の表現に止まらざるを得ないが、その程度の指示は、酸素療法を行う医師にとって常識であって、前記指示の要件中の「特に必要があると認めるとき」という要件を欠くものと言わなければならない。

以上に説明したとおりであるから、厚生大臣が未熟児に対する酸素投与に関し医師法二四条の二に基づく指示をしなかったことをもって厚生大臣の義務違反であるとする原告らの主張は、全く理由がないものである。

4 酸素について

(一) 酸素と日本薬局方

酸素は、気道閉塞等の呼吸困難及び大出血後の強度の貧血等の治療、吸入麻酔薬使用時の窒息の予防などに必須のものであり、医療上重要かつ繁用される医薬品であるが、日本薬局方に収載されたのは、昭和七年六月二五日内務省令第二一号で公布された第五改正日本薬局方に「圧縮酸素」として収載されたのが最初である。

戦後厚生大臣は、昭和二六年三月に第六改正日本薬局方を制定公布し、その後、数次の改正を経て、昭和六一年四月の現行第一一改正日本薬局方に至るまで、「酸素」は右いずれの薬局方にも引続き収載されている。そして、その収載について、又はその安全性について、これを疑問視する意見が出されたことはこれまで、全くなかったのである。

(二) 日本薬局方について

日本薬局方は、明治一九年制定(明治二〇年七月施行)以来、九〇年以上の歴史を有し、その性格は、その時代において医療に供される重要な医薬品について、その品質、強度及び純度の基準を定めた規格書である。

ちなみに、昭和二三年薬事法(昭和二三年法律第一九七号、以下「旧薬事法」という。)は、「医薬品の強度、品質及び純度の適正を図るため」(三〇条一項)、昭和三五年薬事法(昭和三五年法律第一四五号、昭和五四年改正前のもの、以下「現行薬事法」という。)は、「医薬品の性状及び品質の適正を図るため」(四一条)、厚生大臣が日本薬局方を制定公布するものとしており、日本薬局方に収められた医薬品は、これに収められていない医薬品と薬事法上の取扱いを異にする(旧薬事法二六条一項、 三項、 四〇条二号、 四一条三号、現行薬事法一三条、 一四条、 五〇条二号、 五号、 五二条二号、 五六条一号)。

日本薬局方は、初版制定以来、その時々の学問及び科学技術水準などに即応して随時改正され、現在では第一一改正日本薬局方が公布施行されているが、その内容は、常に医学、薬学の最高水準の知識を総合して定められたものである。

日本薬局方に収載される医薬品の収載基準は、その時々の科学的水準に応じて若干の相違はあったが、およそ次のようなものであった。

(1) 繁用されている医薬品

(2) 繁用されていないが、薬効が明らかで治療上重要な医薬品

(3) 治療上重要なもので、使用に当たって危険を伴うおそれがあるため規格を作成する必要のある医薬品

(4) 医薬品の原料(製剤用)として使用されるもの

(5) 以上の条件については、いずれも規格がほぼ確立されていることを付帯条件とする。

(三) 日本薬局方収載の医薬品の安全性

前述のとおり、日本薬局方は、その時々における医学・薬学の最高水準の知識を総合して医薬品の品質及び性状を定めたものである。日本薬局方に収載された医薬品は、厚生大臣の承認を要することなく、これを製造することができる(薬事法一四条一項)のは、右の理由に基づいている。

ところで、日本薬局方は、医薬品の規格書であるから、これには原則として医薬品の用法、用量などは記載されていない。もとより、そのことは日本薬局方収載の医薬品について用法・用量が存在しないことを意味するものではない。前記収載基準に照らして明らかなように、日本薬局方に収載される医薬品は、既に充分な使用経験によってその安全性が確認されているのであり、医学、薬学上その医薬品の用法、用量が存在することは当然の前提とされているのである。そのことが逆に、日本薬局方に収載されていない、いわゆる新医薬品について、その用法、用量、効能、効果などが審査され、その製造が厚生大臣の承認に係らしめられているゆえんでもある。

(四) 酸素と添付文書

原告らは、「局方収載の一事をもってしては、被告国の安全確保義務が免ぜられるいわれが無い」と主張し、また被告国は、酸素の「用法・用量に制約を加え、この制約を医薬品添付文書に記載するよう要求することは、薬事法一四条、 五二条及び医師法二四条の二によって被告国に課せられた当然の義務」であると主張するが、根拠のない主張というべきである。

局方収載医薬品について薬事法一四条の規定を引くことが無意味であることは、前項に述べたところによって明らかである。また、同法五二条は医薬品の添付文書などの記載事項を定め、同条二号によれば、「薬局方に収められている医薬品にあっては、日本薬局方においてこれに添付する文書またはその容器若しくは被包に記載するよう定められた事項」が記載されねばならないが、酸素について日本薬局方が添付文書などへの記載を定めた事項はない。更に、原告らが引く医師法二四条の二の規定は、医薬品等に対する規制を目的とする薬事法とはその目的を異にし、原告らの前記主張を何ら理由づけるものとならないことは明らかである。

もっとも、局方収載医薬品についても、製造業者などが薬事法五二条一号に基づき当該医薬品に添付する文書などに医学・薬学上認められる範囲外の用法・用量を記載した場合において、厚生大臣が薬事法上の規制権限(例えば、七〇条一項、五五条)を発動することがあり得る。原告らは、酸素の製造業者などが「酸素は必要なとき(チアノーゼがあるとき)以外使用しないこと、四〇パーセント以上の高濃度使用は避けること」といった事項を記載した文書を添付しなかったことをもって薬事法違反であるとし、これに対する被告国の規制権限不行使を問題とするもののようであるが、未熟児に対する酸素療法の医学上の知見、水準に照らして考えてみれば、右のような事項を記載した文書が添付されていなかったからといって、それが薬事法(五二条一号、五五条)に違反するということは到底できないのである。

要するに、原告らが主張する安全確保義務なるもの、すなわちその具体的内容として主張するところの酸素の安全性審査義務、酸素に関する情報を医師に与える義務、添付文書などに酸素の用法、用量を記載させるべき義務などを薬事法上の諸規定から導くことはできないのである。

5 保育器について

(一) 保育器の規格・本質について

未熟児を保育するために保育器を使用する主な目的が(1)適当な温度と湿度を維持すること、(2)色々な病気の感染を防ぐことの二点にあることは改めて指摘するまでもない。従って、保育器の具備すべき条件も主としてこの点にかかわってくるのである。

(1) 恒温・恒湿の維持

まず第一に、恒温・恒湿の維持がなされなければならない。そのためには比較的短時間のうちに所期の温度まで上昇してその後その温度を維持することが必要である。しかし、この条件は、大きなヒーターと性能のよいサーモスタットさえ装備すれば実現するというような単純なものではない。大きなヒーターを用いると器内の温度が場所によって不均等になりがちであり、湿度の上り方も不充分なものがあるのである。

(2) 感染の予防

最近、未熟児に関する研究が進歩するにつれて、未熟児の死因としての感染症の重要性が認識されるようになり、保育器にも種々の工夫が加えられている。外部からの細菌の侵入を防ぐ目的でファンの回転を利用した強制換気式の保育器が用いられるようになり、さらに、フィルターが使用されている。一流外国製品に用いられているフィルターには、直径〇・五ミクロン以上の粒子をすべてシャットアウトし得るものが用いられている。このフィルターは、未熟児の病気の中でも最も恐ろしいものの一つであるブドー球菌感染性の原因菌であるブドー球菌(直径〇・八ミクロン)の侵入を防ぐことができるものである。しかし、フィルターなどで細菌の侵入を防ぐことができたとしても、処置窓を開閉して授乳その他の処置を行うのであるから、多少の細菌が器内に入ることは免れない。しかも、器内は恒温恒湿という細菌の増殖に適した環境にあるから器内に侵入した細菌が急速に増殖することが考えられ、これをいかに食い止めるかまた、完全消毒に便利な構造になっているかどうかが大きな問題である。

(3) 換気

保育器においては、その換気量が少すぎると呼吸に由来する水分や炭酸ガスが器内にたまり、これがために、収容児に対して好ましくない影響を来たす恐れがあるので、適度な換気を行える構造であることが必要である。しかし、最近においては、強制換気式の保育器が用いられているためこのような危険性はほとんど無くなったと言ってよい。

(4) 安全性

保育器もまた医療器械の一種である以上は収容児に対して危険のないものであることが必須の条件である。

換気用やヒーターの配線が不備で感電や過熱の危険を伴うものは論外であるが、保育器の内部に危険な凹凸のないことも必要である。器械である以上は、どんなに周到に設計されていても故障の絶無は望み難いが、故障、殊に過熱に対しては単に警報装置をつけるだけでなく、送電が自動的に途絶する装置をつけて、いわば二段構えの安全をはかるのが望ましいし、比較的故障を起こし易い電気部分は、予めスペアーを準備して、故障が起こった際に、未熟児を収容したまま、迅速に交換できれば理想的である。

(5) 右のほか、収容児の監視に便利であること及び使い易い器械であることが要求されることはいうまでもない。

以上のとおり、保育器の本質は「うつわ」であって、恒温・恒湿を維持することができ、感染予防に適し、さらに感電、過熱や内部の凹凸から生ずる危険がないことなどが必須条件となっている。

(二) 保育器の薬事法上の取扱について

保育器は、昭和二三年制定の旧薬事法から用具として指定され、昭和三六年施行の現行薬事法の二条四号に規定する医療用具として薬事法施行令一条に定める別表1の八号に引続き指定されている。

以下現行法上の取扱いについて明らかにする。

薬事法一四条一項に規定する医療用具を製造する場合においては、その物について同法一四条の規定による品目の承認を受けなければ、その品目にかかる製造業の許可は与えられない。

しかし、同法一三条及び 一四条一項によると、「厚生大臣の指定した医療用具」に関しては厚生大臣の製造についての承認なしに製造業の許可が与えられる。即ち、「厚生大臣の指定した医療用具」を除くその他の医療用具を製造する場合においては、厚生大臣の承認を受けなければ、その物にかかる製造業の許可を与えることはできないが、「厚生大臣の指定した医療用具」に関しては厚生大臣の承認を要しないというのである。そして、この「厚生大臣の指定した医療用具」とは、具体的には同法施行規則一八条により「工業標準化法一七条一項の日本工業規格(以下「JIS規格」という。)に適合する医療用具」がそれに当ると定められている。

従って、JIS規格に適合する医療用具を製造する場合においては、その物について厚生大臣の承認を受ける必要はない。医療用具はその性質上形状、構造、材質、製造方法及び製品規格などについて一定の規格を定めることが可能であって、しかもその規格に適合するかしないかによって安全性及び有効性を適切に判断し得るものであるところ、JIS規格は現に薬事法上の承認を得て一般に広く流通し、使用されているものについて、その形状、構造、材質、製造方法及び製品規格などを審査したうえ定められたものであるから、当該規格に適合する医療用具については、あらためて薬事法上の個別承認に係らしめる必要はないと考えられるからである。さらに、特定の医療用具についてJIS規格が定められているということは、全国のすべての医療機関において同一規格の医療用具を使用することができるということであって、この点からも安全性に寄与するものである。

これを保育器についてみるに、保育器のJIS規格は昭和四三年に制定されたものであるが、当該JIS規格は、それまでに薬事法上の承認を得て長期にわたって製造され、一般に流通し、かつ、広く使用されてきて、その安全性及び有効性が保健衛生上の観点から公知実証された保育器に限って、審査対象にして規格上の審査を行ったうえ、長期にわたって承認されてきた実績を有する形状、構造、材質、製造方法及び製品規格等の規格をJIS規格として定めたものであるから、当該JIS規格に適合する保育器については、個別承認を必要としないことになっても、その安全性及び有効性については何ら問題はないのである。

保育器の本質は、外的環境条件に適応し難い未熟児及び新生児を収容し、内部の温度、湿度を一定に保つとともに、外部からの細菌による感染を防止することにより、その一時的な保護を図ることにあることは既に述べたとおりであるが、大正一〇年ころ製造された日赤型保育器には既に酸素投与口が設置されており、この酸素投与口は、昭和四年ころ製造されたサクマ式保育器にも設置されており、戦後日本で使用され、保育器の大部分を占めるアイソレット型保育器及びアームストロング型保育器にも設置されている。酸素投与口は収容された児に酸素を投与する必要が生じ、医師が保育器内に収容したまま処置するのが適当であると判断した場合に、その処置が容易に行い得るように設置されているものである。薬事法上の保育器の製造承認基準は、当該保育器が保育器としての本質的機能を発揮することができるかどうかということであるが、酸素投与口については、それが設置されたことにより、保育器としての本質的機能を損なうことがないかどうかという観点から審査される。JIS規格も酸素投与口の設置を必要条件として定めているが、これはJIS規格を定める際にそれまで薬事法上の承認を得て長期にわたって製造され、一般に流通し、かつ、広く使用されてきた保育器に設置されていたことから、これが保育器としての本質的機能を損なうことがないと判断し、これを規格の一部に取り込んだものである。

(三) 酸素投与と医療行為について

保育器は前記のとおり、器内の温度、湿度を一定に保ち、外部からの細菌による感染を防止することをその本質とするものであり、また、これらの要件を満足することが薬事法上の製造承認基準となっているのであるが、酸素投与を必要とする未熟児及び新生児については、これらの児を保育器内に収容したまま酸素投与を行えるよう、一般に流通使用されている殆んどの保育器について酸素投与口が設置されているのである。しかしながら、酸素の投与という行為は、まさしく医師がその判断のもとに未熟児及び新生児のうち酸素不足の状態を来たしている児に対する治療の一手段として行われる医療行為であって、酸素投与の要否及び酸素濃度の適否などは医療行為の範ちゅうに属するものであって、保育器の本質とは何ら関係のないものであることはいうまでもない。

6 薬事法と製造承認後の安全性確保について

(一) はじめに

原告らは、薬事法を法的根拠として、被告国に保育器製造承認後における安全性確保義務がある旨主張するが、右主張は、次のとおり理由がない。

薬事法一四条は、医薬品、医療用具などを製造しようとする場合には、品目ごとに厚生大臣の承認を要する旨規定しているが、同法上、右製造承認後において、安全性確保の見地から、国が当該医薬品、医療用具などの副作用に関し情報収集、調査などの監視・追跡を行う権限を根拠づけた明文の規定はなく、ましてこれを義務付けた規定はない。同法第九章の監督に関する諸規定も、薬事法違反に対する取締規定であって、同法上適法に製造された医薬品、医療用具などにつき副作用などを理由に何らかの措置を講ずることを認めた規定ではないのである。

(二) 薬事法の性格

薬事法が、このように同法上適法に製造された医薬品、医療用具につき事後的な安全性確保措置の規定を置いていないのは、本来的には同法の性格に由来するものである。

すなわち、薬事法は、その沿革などから見て、不良医薬品、不良医療用具などの取締りを主な目的とする警察的取締法規であり、同法による薬事行政の基本的性格は行政警察の一部門としての薬事警察にある。このことは、戦後間もなく制定され、企業の自主的活動を促進して薬事に関する国の規制を最小限度に抑えようとした昭和二三年制定の旧薬事法において特に明白であったが、昭和三五年に制定された現行薬事法もその基本的な性格は同様であるといわなければならない。

これに対して、近時、医薬品などの安全性の確保が緊急の課題となり、より積極的な薬務行政の展開が社会的に要請されるに至っていることから、薬事法を単なる消極目的の警察法規としてではなく、より積極的に公共の福祉の維持増進を目的とする法の系列に位置付けるべきことを主張する見解も現われている。しかしながら、この主張は、将来の立法論としてはともかく、従来理解されてきた現行薬事法の性格を根本的に転換することになる点で解釈論の限界を越えるものである。

したがって、現行薬事法制下においては、適法に製造された医薬品、医療用具などについての副作用情報の収集、提供その他安全性確保措置に関しては、当該製品の製造販売業者の自主的かつ積極的な対応に待つべき性質のものであり、被告国は、後見的な立場から行政指導によってこれに対処するに止まらざるを得ないのである。

(三) 薬事行政のありかた

現行薬事法制下において、被告国が、このように行政指導によって対処せざるを得ないという結論は、「法律による行政」という基本原理からも肯認されるところである。

憲法二五条は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定し、基本的人権としての生存権を宣言するとともに、いわゆる福祉国家の理念を明らかにしている。同条は、個々の国民に直接具体的な請求権を付与する規定ではなく、公衆衛生などの向上増進に努めるべき国の政治的責務を宣言したものである。そして、国の行政機構上、公衆衛生の向上及び増進を図ることは厚生省の任務とされている(厚生省設置法四条)。

厚生省ないし厚生大臣の右任務は、憲法二五条に由来する責務として極めて重要であるが、そうであるからといって、厚生大臣が公衆衛生の維持増進に資すると認めるあらゆる措置を任意に行うことができるものでないことはいうまでもない。憲法は、他方において、国家権力の乱用を厳しく抑制し、国民(個人及び法人)の基本的な自由及び人権を公共の福祉に反しない限り尊重し、保障することを基本としている(一一条、一二条、一三条、二九条、三一条など)。また、憲法は、民主的に選挙された議員で組織する国会を国権の最高機関とし、内閣が国会に対して責任を負うものとする議院内閣制を採用している(四一条、六五条、六六条、七六条など)。憲法が、いわゆる「法律による行政」の原則、特に国民の権利自由を制限する行政権の行使が法律上の根拠に基づいて行われるべきことを要求していることは、前記諸規定からも疑いをいれない。いわゆる福祉国家の理念を掲げる現代国家においても、「法律による行政」はなお動かすことのできない基本原理として維持されているのである。したがって、厚生大臣は、公衆衛生の維持増進を図るための衛生行政、薬事行政にあたって、特に私人、私企業の自由に対する規制、強制にわたる措置を講ずる場合には、法律上の根拠に基づいてのみこれを行い得るものである。医薬品、医療用具を薬事法上適法に製造、販売する者に対し、たとえ安全性確保の見地からとはいえ、現行法上は、規制、強制にわたる措置は採り得ないのである。

近時、医薬品などの安全性の確保が緊急の課題となっており、この面からの規制、強制措置が、立法論としては考慮に値するとしても、この意味において、これらの措置などに関し、国の衛生行政、薬事行政の基本的方向を決定するのは、国権の最高機関たる国会であるといわなければならない。

(四) 保育器と工業標準見直し制度

次に、原告らは、被告国に薬事法上保育器製造承認後における安全性確保義務がある旨の主張の一環として、厚生大臣が、保育器に関し、工業標準化法一七条一項の日本工業規格を制定したことによって、同法一五条に基づく三年ごとの工業標準の見直しに際し、保育器の安全性についての確認をなすべき義務を負っている旨主張する。しかしながら、保育器に関する薬事行政上の規制は、薬事法の体系の下において行われるものであるのに対し、日本工業規格は、工業標準化法一条に規定するように、鉱工業品の品質の改善、生産能率の推進その他生産の合理化、取引の単純公正化及び使用又は消費の合理化を図ることを目的として制定されるものであり、同法一五条の定める工業標準の確認制度は、工業標準がその制定後三年を経過してもなお右の目的を達するため適正であるかどうかを見直すために設けられているものである。したがって、このように専ら通商産業的な目的なり視点を基本とした日本工業標準化法の工業標準見直し規定をもって、厚生大臣に対し、保育器についての安全性を確保すべき義務を課したものであるとする原告らの主張は全く理由がない。

(五) 製造承認後の安全性確保について

原告らは、「製造承認時の有効性・安全性の審査義務の中には、当然、承認後の追跡監視義務が内包されているものと言わなければならない。被告国が承認権を独占する以上、承認された医薬品、医療用具が安全なものであることを担保し続ける義務が被告国にあるのである。」と主張する。要するに、医薬品、医療用具などの製造が薬事法一四条により厚生大臣の承認に係らしめられていることから、承認後における安全性確保義務なるものを導くもののようである。右主張がもはや将来の立法論に属するものであることについては既に述べたとおりである。

ところで、本件訴訟において原告らが問題とする医薬品としての酸素は、日本薬局方収載の医薬品であり、その製造については厚生大臣の承認を要しない(薬事法一四条一項)。また同じく医療用具としての保育器は、既に述べたとおり、日本工業規格に適合するものについては厚生大臣の承認を要しない(薬事法一四条一項、同法施行規則一八条。なお、原告らは、本件保育器のうち厚生大臣の承認を経たものが存在するかどうかについては明らかにしていない。)。したがって、原告らが、厚生大臣が個々の医薬品等について審査、承認をしたこと自体から、そのいわゆる安全確保義務を基礎づけようとするのであれば、本件においては、そもそも右立論の前提を欠いているのである。原告らの措定する安全確保義務なるものは、法的には何らの根拠を有しないものといわなければならない。

なお、原告らは保育器についてもその用法、用量を記載させるべき義務を主張するが、医療用具に記載すべき事項は、薬事法六三条に規定するとおりであって、右主張の根拠もまた不明といわざるをえない。また、原告らは、同法施行規則様式第十(二)の違法性を主張するが、保育器については厚生大臣の製造承認を要しないことを前提としながら、何故、その承認申請の様式を問題とするか理解できない。

結局、原告らは、薬事法一四条一項による製造の承認を要しない医療用具を定めた同法施行規則一八条自体の違法性を主張するに至る。

日本工業規格に適合する保育器が、その有効性及び安全性について何ら問題がないことについては、既に述べたとおりである。原告らは、右主張の前提として、日本工業規格に適合する保育器は、いわば欠陥のある保育器であると考えるもののようであるが、右保育器のいかなる点にいかなる欠陥があるかについて、その主張は具体性を欠いている。結局、「保育器に使用上の注意を付けさせたり、あるいは酸素濃度計の装備を義務付けたりといった、被害発生回避のための措置を何も執らなかった」とする点にその主張の眼目があると思われるが、医療用具に記載すべき事項については、前述のとおり薬事法六三条に規定されているとおりであって、原告らがいう使用上の注意が具体的にいかなる内容を意味し、いかなる法的根拠に基づいてその記載が必要とされるかは明らかでない。また、酸素濃度計は、別個の医療用具であり、医療行為に当たる者は必要に応じてそれをも使用するのであって、酸素濃度計と一体をなしていない保育器は保育器でないというのは、原告ら独自の見解でしかない。

薬事法施行規則一八条が違法であるとする主張もまた何ら理由がないものといわなければならないのである。

7 未熟児網膜症発生の予防について

(一) 原告らの主張する安全確保義務なるものが何ら法的根拠を有しないことについては、既に述べたとおりである。原告らは、未熟児網膜症発生防止のための方法が存在することを前提とし、被告国がいわゆるその安全確保義務に従って対策を講ずれば、原告らの発症を防止し得たと主張する。ここで問題とすべきは、右主張の前提の当否である。すなわち、原告らは、被告国はその「一挙手一投足で、未熟児網膜症の頻発を防止」できたと主張する。しかし、未熟児網膜症の予防はそのように簡単なものであろうか。

未熟児の酸素療法については、現在においても、解明されるべき問題は山積している。原告らがいう血中酸素分圧の測定にしても、その経皮的測定法の開発は未だ緒についたばかりである。また、その測定が容易化されたとしても、血中酸素分圧の変化と本症発生の関連性の解明はなお将来のこととされねばならないであろう。

要するに、未熟児網膜症発生防止のための酸素投与の基準が確立されているとは現在においても到底いうことができないのである。

(二) 原告らは、未熟児網膜症の発生が酸素の過剰投与にあるとし、その予防法は酸素は必要なとき以外使用しないこと、四〇パーセント以上の高濃度使用は避けることといった点にあり、これを酸素供給の指針として設定することができたと主張するもののようである。しかし、未熟児網膜症の発生が酸素の無制限投与によるものであるとするのは、事実に反するであろう。

未熟児治療においては、患児の生命の維持、脳障害発生の防止及び未熟児網膜症発生の防止という三つの問題を解決しなければならないのであって、酸素の供給を四〇パーセントに制限するだけでは、未熟児治療における問題の全体的解決にはならないのである。その後、未熟児の酸素療法が自由裁量時代に移行したことは、前記第三、二に述べたとおりである。

(三) 未熟児に対して不必要な酸素提供をすべきでないということは、おそらく未熟児の治療に当るすべての医師がわきまえている事柄であろう。しかし、その基準について現在画一的な基準を設定し得ないことは、原被告双方の提出にかかる多数の文献を見れば明らかである。原告らのいう血中酸素分圧の測定にしても、その基準化にはなお多くの時日を要するであろう。

未熟児の酸素療法は、医療の現場そのものに深くかかわっている問題である。再言すれば、未熟児の生命維持、脳障害発生の防止及び未熟児網膜症発生の防止という問題を一元的に解決する治療法は現在においてもなお見出されてはいないのである。原告らが、未熟児網膜症の発生は国の一挙手一投足をもって回避できたというのは、問題解決の困難性を全く無視した主張というほかないのである。

第三章証拠《省略》

理由

第一未熟児―未熟児における生命の危険とその原因―

一  未熟児の死亡率

一 《証拠省略》によれば次の事実を認めることができる。

昭和四三年九月から同五一年一一月までの日本医科大学付属第二病院における未熟児の死亡率は、生下時体重一〇〇〇グラム以下の児は一〇〇パーセント、一〇〇〇グラムを超え一五〇〇グラム以下の児については五〇・八五パーセントであった。在胎週数別の死亡率は二四週で一〇〇パーセント、二五週で八五・七一パーセント、二六週で七一・四三パーセント、二七週で八七・五〇パーセント、二八週で七六・四六パーセント、二九週で四二・一一パーセント、三〇週で二二・七三パーセント、三一週で三三・三三パーセント、三二週で二四・〇〇パーセント、三三週で九・六二パーセント、三四週で一〇・〇〇パーセント、三五週で二・六〇パーセントであった。

名古屋市立大学医学部小児科においては、昭和四〇年ころには極小未熟児の死亡率は五〇パーセント近かったが、昭和四五年ころにNICU(集中濃厚治療)を導入してからは死亡率が減少し、二〇パーセント台になった。生下時体重一〇〇〇グラム以下の超未熟児については、昭和四五年から昭和五〇年までは死亡率が六六・七パーセントであったが、昭和五一年から昭和五五年における死亡率は五三・二パーセントであった。

以上のように我が国における一流の医療機関においても、また、最近においても、未熟児の救命は非常にむずかしいことである。小川雄之亮や鬼頭秀行によれば、一九四〇年から一九五〇年ころまでは外国でも「極小未熟児はたとえ救命しても重篤な後障害を残すから救命の努力は無駄である。」との考え方が一般であるとさえされていたのである。

2 証人石塚佑吾は次のように証言している。

日本全体の未熟児の死亡率についていえば、昭和五一年には生下時体重一〇〇〇グラム未満の未熟児は早期新生児死亡(生後一週間以内)が八〇パーセント、生下時体重一〇〇〇グラムから一四九九グラムまでが四〇パーセント弱、一五〇〇グラムから二〇〇〇グラムまでが一二パーセントであった。これは病院外分娩も含んでおり、病院に収容された事例だけでみると、証人石塚は生下時体重一〇〇〇グラム未満の児についても五〇パーセント程度ではないかと推測している。証人石塚が国立第二病院や神奈川県立こども医療センターなどの医療機関において実施した調査では、死亡率は、一〇〇〇グラム以下の児の全新生児期(生後四週間)では五二ないし五三パーセント、一〇〇〇グラムから一五〇〇グラムが二二パーセントであった。また、一〇〇〇グラム未満の児の昭和五一年から五三年の死亡率を、呼吸管理のできる全国の一一〇病院で調査したところ、死亡率は六〇パーセントであった。こういった点から、医師としては、未熟児であること(特に極小未熟児であること)自体から重症な患者であるとの認識を有している。

3 証人武田佳彦は次のように証言している。

昭和四六年における国立岡山病院における死亡率は生下時体重一〇〇〇グラム未満の児については六五・六パーセント程度、一〇〇〇グラム以上一五〇〇グラム未満の児については三〇パーセント程度、一五〇〇グラム以上が一〇パーセントであった。同じ体重の未熟児の中でも在胎期間の長い方が生存率は良い。

二  未熟児における生命の危険の具体的内容

《略拠省略》によれば次の各事実を認めることができ、この認定を覆すに足る証拠はない。

1  昭和三八年六月、クロスの「未熟児」が発行されたが(大坪佑二訳)、そこでは未熟児のハンディキャップと臨床症状について次のような表を示している。

ハンディキャップ

臨床症状

(呼吸)

未熟な肪、弱い呼吸筋、減少した肺のコンプライアンス

一次性及び二次性の肺拡張不全、チアノーゼ、及び低酸素症

未発達の呼吸中枢

不規則な呼吸

やわらかい胸廓

胸骨の陥没

弱い咳反射あるいは同反射の欠如

気管内吸入

(消化)

カロリー、蛋白、無機塩類、ビタミンを多量に必要とすること

体重増加が少く、欠乏性疾患が起り易い

弱い食餌反射

食餌摂取の困難

ミルクの脂肪に対する低い耐性

腹部膨満、下痢、嘔吐の傾向

噴門の閉鎖機構の未発達

胃から逆流の傾向

(肝臓)

未熟

高ビリルビン血症による黄疽と核黄疽

低プロトロンビン血症による出血

低蛋白血症による浮腫

低血糖症

(腎臓)

無機塩類の排泄機能の不良、酸塩基平行の不全

浮腫、アシドーシス

(脳)

頭骨のカルシウム沈首不全、毛細管の脆弱化傾向増大

分娩時外傷と頭蓋内出血

(眼)

未熟網膜

後水晶体繊維増殖症

(体温の調節)

熱産生が小

熱放散が大

容易に過熱または低温となる

温調節中枢の未熟

皮膚反射の不全

(血液)

未熟な血球

赤血球の新生よりも崩壊の優勢

貧血

(抗体形成)

母子抗体の不適当な移行、抗体産生不足(低血清グロブリン)

感染

(体水分含有量)

増大

脱水症

2  昭和三八年九月、新生児未熟児講習会は「新生児学」を発行したが、そこでは、呼吸障害についての典型的疾患である次の二つの疾患について次のように記述している。

未熟児死亡の大きな原因である肺拡張不全(無気肺、肺硝子様膜)については、「生後直後または生後数時間後から」チアノーゼ、無呼吸発作、表在性呼吸などの呼吸障害が持続し、呼吸数は一過性に増加することもあるが経過とともに減少するという経過を辿ってくるものである。また、呼吸窮迫症候群(RDS)についてもその多くは生後四八時間以内に死亡するが、それ以上生存し得た場合にはこれらの呼吸障害は自然に消失していくものである。

3  昭和四三年一月、日本大学の馬場一雄教授は、「未熟児の保育」において、「未熟児の保育上特に注意すべき病気」について記述している。未熟児における頭蓋内出血は分娩外傷によるものは少く、「大部分は無酸素症による頭部の鬱血と素質的に毛細管の脆いことが原因と考えられる。」とし、臨床症状は、「重症例では仮死状態で生れるものがあるが、多くは生後数時間ないし十数時間でチアノーゼがくる。チアノーゼの種類も重症例では持続的であるが、普通は間欠的で、皮膚の異常発赤を伴うことが多く、皮膚が一種特有の赤ぐろい色をしている。」としている。ついで、突発性呼吸窮迫症候群(IRDS)については、「臨床症状は生後数十分ないし数時間に現われることが多く、呼吸数は六五以上の頻数となり、吸気時には肋間腔や鎖骨上窩などが陥没し、呼気時には呻き声を発する。状態がだんだん悪化すると呼吸停止を伴うようになり、発病後三日以内に死亡することが多い。発病後五日を経過すると、呼吸障害は次第に軽くなって、数日以内に全く正常に復する。」としている。肺出血については、「生後二ないし五日の未熟児が突然肺胞内出血を起して死亡することがある。臨床症状は生後三日頃に現れる場合が多く、突然、胸骨の内陥を伴ったひどい呼吸速迫を示し、呼吸音は弱くなる。チアノーゼは通常死亡の直前まで現れず、蒼白な皮膚色を呈している。」としている。

4  昭和四八年九月、名古屋市立大学の小川次郎教授は、「生後一週間以内」に死亡した未熟児について、剖検により死亡原因を明らかにしているが、昭和二八年から昭和三九年までは肺硝子様膜症及び肺拡張不全が三七パーセント、肺出血が二四パーセント、その他が三六パーセントであり、昭和四二年から昭和四七年までは肺硝子様膜症及び肺拡張不全が四三パーセント、肺出血が二一パーセント、その他が三九パーセントであった。

5  東北大学医学部助教授の安達寿夫は、我が国においては予防的酸素投与の必要性を強く訴えていたものであるが、「新生児学入門」(昭和四四年から昭和四八年七月まで発行の第二版)において、未熟児の生命の危険が問題となる場合を四つの型に分けて述べている。すなわち、第一の型は生後数時間以内に死亡する例である。出生直後から皮膚がチアノーゼや蒼白を呈し呼吸数が少く時々無呼吸発作を混じ、高度のものは回復することなく数時間以内に死亡し、剖検で一次性無気肺、肺発育不全、頭蓋内出血などを認めるものである。主要症状は無呼吸発作である。第二の型は、生後間もなく比較的安静呼吸となりチアノーゼや蒼白は認められずむしろ赤味が強い位であるが、生後数時間ないし数十時間後より特有の胸骨陥没呼吸を伴う努力性呼吸を繰り返し、高度のものはあえぎ呼吸となり、最後に無呼吸発作を混じて生後三日までの間に死亡し、剖検で二次性無気肺、肺浮腫、肺鬱血、肺硝子様膜などを認める。主要症状は努力呼吸や胸骨下部陥没である。第三の型は、生後三日までは軽度の呼吸異常のみか、または殆ど異常なく経過したのに次で、生後六日前後に高度黄疸を呈して哺乳力がやや減弱し、高度のときは明瞭な中枢神経症状を呈して死亡し、剖検でしばしば核黄疸を認めるものである。主要症状は高度黄疸や体重増加不良である。第四の型は、生後二ないし五週ころから貧血を呈し、哺乳量が充分でも体重増加が不良のときに遷延黄疸のみられるものである。主要症状は貧血や体重増加不良である。勿論、以上はおおよそのものであり、児の状態による個体差はある。

6  証人石塚佑吾の証言内容

未熟児の死亡の原因としてあげられるのは、呼吸窮迫症候群(RDS)、肺出血、肺の病気(肺硝子様膜)、頭蓋内出血、感染症、心臓病であるが、低酸素症(肺の拡張不全、RDS)によるものが多い。RDSは肺におけるサンファクタント欠乏が原因であり、出生日かその翌日位に発症するもので、三日以降にみられることはあまりない。RDSが発症した場合にこれが直るのには一ないし二週間必要である。しかし、RDSがいわば慢性化してしまう場合があり、Wilson―Mikty病はその一つである。これは、酸素の毒性の結果もたらされたものと推定する有力な見解がある。また、RDSが慢性化してしまう場合として最近みられるようになったのがBronchopulmonary Displeasureであり、RDSに対する高濃度の酸素療法が定着してからよくみられるようになったものである。マクドナルドは酸素制限による害を報告しているが、脳性麻痺の頻度が有意的に上昇するのはチアノーゼ発作があった児についてだけであった。未熟児の場合に、生命にとって一番危険な時期は、生後七二時間である。証人石塚は、生命の危険を生後七二時間、生後一週間、生後二週間というような単位に分けてみている(期間が経過するにつれて順次生命の危険が減少してくる。)。

7  証人武田佳彦の証言内容

(一) 「機能的な未熟性」の具体的内容は次のようなものである。第一に、未熟児の場合には呼吸の確立が非常に難しい。呼吸の確立は循環系と関係している。すなわち、胎児のときには肺を使わないので、循環系も全く別なもの(武田証人はこれをバイパスと表現している。)であり、出生と同時に肺呼吸が開始され、別の循環系が確立され、従来のバイパスは閉じるということになる。呼吸の確立がうまくいかないと、循環系も胎児のときのものに戻ってしまうことになる。呼吸の確立がうまくいかない場合としては、肺拡張不全があり、それによる呼吸窮迫症候群(RDS)に代表される呼吸障害が生じる。また、最近、酸素療法の結果によって、逆に肺気管非形成が生ずることも知られてきている。第二に体温の調節ができない。胎児のうちは母体から熱を補給するが、出生後は自分で熱を産生しなければならない。大人は振せんによって熱を生み出すこともできるが、新生児はすべて化学的発熱でまかなう必要がある。第三に代謝の調節が不充分である。廃物を体外に充分排泄したりすることができない。黄疸などが代表的なものである。核黄疸になると脳性麻痺が起きてくる。エネルギー代謝も体内に蓄積がないのでうまくいかない。第四に応用反応機構が弱い。例えば、免疫機構が弱いので感染症に対して弱い。

(二) 「未熟児における呼吸をめぐる悪循環」(RDSの経過)が生ずることがあるが、その内容は次のようなものである。肺の表面活性物質の生成が未熟児の場合には不充分であり、そこで肺の拡張が充分になされない(肺拡張不全)。このように呼吸の確立が不充分だと低酸素症になる。酸素の供給が不充分だと、エネルギー代謝は酸素を必要としない嫌気性の代謝になるが、これによるエネルギー量は、好気性解糖系の代謝によるのと比較して一五分の一にしかならない。しかも代謝によって生じる乳酸の量が増加して酸血症(アシドーシス)になる。酸血症になると、特に肺血管系が収縮し、さらに酸素が不足する。そうなると、循環系が胎児型のもの(肺が使われていないときのもの)に戻るという事態が生じ、ますます酸素は不足してくる。そして、エネルギー代謝に影響して低体温が生じる。低体温になると、中枢神経に影響して呼吸中枢が抑制され呼吸状態がさらに悪化してくる。この歪循環の最も悪い結果は未熟児の死亡であり、中枢神経系の障害である。

(三) 「機能的未熟性」については、骨とか血管とかが脆弱であることに起因するが、これは機能の未熟性と係って様々な問題を生ぜしめる。頭蓋内出血はこの血管の脆弱性だけでも生ずるが、酸素不足が重なると肋長されるものであり、これが生ずると生命も危険であるが、生存したとしても脳性麻痺が残ることになる。

三  まとめ

以上の検討によれば、未熟児の生命に危険を生じせしめる疾患は多岐にわたり、未熟児であること自体が生命の危険を感ぜしめる徴候であるといえる。しかし、第一に注意すべきは、生命の危険は生後直後は極めて高いが、時間の経過とともにその危険が減少してくるものであって、時期を問わずにその程度を論ずることはできないということである。第二に注意をすべきことは、それらの疾患全てが酸素投与を必要ならしめるものではなく、また、酸素投与を必要ならしめるような疾患(代表的なものはRDS)が発症し易い時期は統計的には一定の時期に限られているということである(生後直後の一定期間に限定して予防的な意味でルーチンな酸素投与を認める見解はこのようなことを考慮したものであろう。)。第三に、酸素投与をするのはチアノーゼとか無呼吸発作といった臨床的な症状それ自体の治療を目的としているわけではなく、酸素投与を必要ならしめる疾患ないしそれによる無酸素血症を治療ないし防止するためになされるものであることに注意が必要である。そして、酸素投与の適応についての後記の見解の分れは、酸素投与を必要ならしめる疾患の存在につき、かなり高度な蓋然性を肯定できるほどに症状がみられるときにしか酸素投与をしてはならないのか(原告の立場はこのようなものであろう。)、何らかの症状に基づいて疑いが生ずる程度でよいのか(後記第五の二のホの見解)、具体的症状はなくとも酸素投与を必要ならしめる疾患についての統計的な根拠からその疑いが生ずる程度でよいのか(後記第五の二のイ、ロ)という見解の差から生ずるように思われる。酸素投与の必要性をどのような場合に肯定するかは、酸素投与による弊害がどのようなものであるか、その危険性の程度はどのようなものであるかという問題(第二以下において検討する。)と不可分である。

第二未熟児網膜症

《証拠省略》を総合すると、次の各事実を認めることができ、この認定を覆すに足る証拠はない。

一  未熟児網膜症とは

未熟児網膜症とは、発展途上の網膜血管に起る血管性疾患で、過剰な血管増殖をもたらし、進行すると網膜剥離から失明を来すものである。

二  未熟児網膜症発症の因子

1  現在、未熟児網膜症は、網膜、特にその血管の未熟性が基盤となり、動脈血中酸素分圧(PaO2)の絶対的、相対的上昇が誘因となって発症すると考えられているが、そのほかの多くの因子も関係しているものと考えられるに至っている。酸素は重要な因子ではあるが、その比重は過去において考えられていたものより、低く評価されるに至っている。以下、若干の文献を検討する。

(一) 最近は、酸素投与に当り、動脈血中酸素分圧(PaO2)を経皮的に持続的にモニタリングしているが、動脈血中酸素分圧を安全とされる値に維持しても未熟児網膜症の「発症」を確実に防止することはできない。このことから、永田医師は酸素は未熟児網膜症の「直接の原因」ではないとする(乙A第四一号証の四)。同様の報告は他にも多い(以下は甲A第四四号証の四、周産期医学一六巻八号・昭和六一年八月発行による。)。Kinsey、Kalinaらはアメリカにおける五つの指導的施設の共同研究(PaO2の安全域を探るためのもの、PaO2の測定は間欠的)の研究結果を報告しているが、未熟児網膜症の「発症」した例と、しなかった例との間には有意差はなく、この意味で動脈血中酸素分圧の安全域はないと報告している。山内らは国立岡山病院未熟児センターにおける昭和五六年から六〇年における五六一例について報告しているが、活動期の未熟児網膜症は五六一例中五五例にみられたこと(九・八パーセント)、生下時体重一〇〇〇グラム以下の児では七五パーセントにみられたが一五〇〇グラム以上の児には〇・五パーセントにしかみられなかったこと、眼科的治療を実施した重症例は六例と極めて少いこと、網膜剥離を起した例(失明例)はなかったことを報告している。神奈川県立こども医療センターの伊藤大蔵医師は昭和四九年一月から昭和五六年六月までの症例を検討し、最近、未熟児網膜症の発症はむしろ増加していること、これは生下時体重一五〇〇グラム以下の児の生存率が高くなってきたことにその原因があること、未熟性(生下時体重、在胎週数)は未熟児網膜症発症の大きな因子であること、逆に、眼科的治療(光凝固法)の実施を必要と認めた例は年々減少してきており、重症の未熟児網膜症は減少していることを報告している。前掲甲A第四四号証の四の赤松洋論文が引用するPurohitらの報告(昭和六〇年、アメリカの一三の集中治療施設の共同研究)によると、生下時体重一七五〇グラム以下の未熟児三二七例を検討したところ、活動期三期ないし五期の重症の未熟児網膜症は五三例(一・四パーセント)みられ、生下時体重一〇〇〇グラム以下の超未熟児では一二八例中二八例(二一・八パーセント)含まれていると報告している。

(二) 以前の文献にも右のような検討を行ったものが多くある。馬嶋らは昭和四五年一月から昭和五〇年までの四七〇例と昭和五二年一月から昭和五四年一二月までの一九五例を対象として未熟児網膜症の発症と進行を検討し、生下時体重一二五〇グラム以下の児が増加するにつれ重症の未熟児網膜症が増加したこと、網膜の未熟性こそが未熟児網膜症の重要な発生因子であること、眼科的治療を行う必要があった重症例は一九五例中一〇例(五・一パーセント)、三九〇眼中一五眼(三・八パーセント)であったこと、未熟児網膜症が未熟性を基盤としてその上に複雑な因子が関係して発生すること、昭和五六年当時には「oxygen induced retinopathy」ではなく、本来の「retinopathy of prematurity」が問題であることなどを報告している(乙A第四一号証の一、昭和五六年八月発行、臨床眼科三五巻八号)。さらに、昭和五〇年一月から昭和五八年一二月までの五二五例を対象として未熟児網膜症の発症と進行を検討したところ、生下時体重一〇〇〇グラム未満の超未熟児は三七例で、未熟児網膜症発症率は一〇〇パーセントであったこと(うち、中間型とⅡ型のものは一四例であったこと)、超未熟児の増加に伴って重症の未熟児網膜症も増加してきていること、二八に及ぶ全身的諸因子を検討したが、有意差を認めたのは酸素投与期間と交換輸血だけでその他の二六の因子については有意差を認めなかったこと、これは網膜の未熟性が極度に過ぎるためその影響が現れなかったためであると思われることなどを報告している。関西医科大学の岩瀬帥子らは、昭和四五年、昭和四二年三月から昭和四四年四月までの一七例の検討を通じて次のように述べている(乙A第三〇号証の一)。同人らは、当時から酸素投与については、適応を高度の呼吸窮迫症や先天性疾患などで明らかな循環障害やチアノーゼを示す場合とし、酸素濃度を測定するとともに動脈血中酸素分圧を測定し、眼底検査を実施していた。しかるに、一七例に未熟児網膜症の発症をみた。しかも、環境酸素濃度は殆ど四〇パーセント以下であり、動脈血中酸素分圧(測定は間欠的であった。)は六〇ないし七〇mmHgの範囲にあるものが大部分であった。他方、一七例のうち、瘢痕を残さなかったものは四例で、瘢痕一度が一〇例、瘢痕二度が一例、重症の瘢痕を残したものはなかった。そこで、未熟児網膜症については発生原因を一元的に説明することは困難であること、未熟児網膜症発生の原因を「直ちに血中酸素分圧に負わせることには無理がある」こと、「未熟児網膜症は、網膜血管の未熟性をもって生まれた未熟児が、胎外生活後、眼底血管の発育を遂行するときに生じる不可避の現象であって、広い意味での胎外生活への適応過程の異常と考えたい。」としている。

(三) バーモント大学のルーシー教授は、昭和五九年一月号のペディアトリックス中の「RLFにおける酸素の役割の再検討」という論文において、未熟児網膜症の最初の流行のときには酸素が明らかに主要な因子であったが、現在の第二の流行においては酸素の役割は小さいこと、したがって、酸素は確かに重要な因子ではあるが、「安全な酸素量、酸素療法期間について正確な勧告を行うことはまだ不可能である」こと、未熟児網膜症は「非常に低体重の新生児において避けることのできる医源性疾患と考えてはならない」こと、「発育途上にある網膜は酸素供給の障害に対して、高酸素にせよ低酸素にせよ、非常に敏感に反応する。新生児では、網膜循環は脳障害と同様の大きな変動にさらされる。極小未熟児や病気の未熟児は、網膜循環を障害して低灌流と虚血をもたらすような多くの病態を持っている。これらの因子(未熟、高酸素症、低酸素症、輸血、脳室内出血、無呼吸、感染、高炭酸血症、低炭酸血症、動脈管開存、プロスタグランディン合成阻害剤、ビタミンE欠乏、乳酸アシドーシス、出生前合併症、遺伝など)は一人の子供に重複して存在する可能性がある。これらの因子はお互いに作用し合って、種々の程度の網膜障害をもたらすものであろう。」と報告している。奥山和男もこのような見方を支持している(乙A第四五号証の四、小児科診療四八巻五号)。

(四) シルバーマン教授は、「未熟児網膜症は酸素制限の方針によっても決して完全には排除されなかった。疫学的証拠は後方視的に、酸素制限の最初の一〇年間に未熟児網膜症による盲目の頻度が低かったことは、この状態を起す危険が最も大きい新生児(最も小さい児、特に呼吸窮迫症候群のある児)が生後数時間で死亡していた事実と関係があること、制限策の大いに誉めちぎられた業績は、大きな犠牲を払って引き合わない勝利であったかもしれないことを示唆した。未熟児の眼の可逆的な血管の変化が、時たま絶え間のない瘢痕性網膜症へと転換するように作用する因子は未だかつて理解されていない。」と述べ(乙A第四二号証の三 昭和五七年)、さらに、「酸素により未熟児網膜症の危険がどの程度増大するかについては、一九五三年~一九五四年の対照試験の時も、また、現在においても同様に全く分っていないのです。このあたりの問題の重要性については、とくに生下時体重が一〇〇〇グラムにも満たない超未熟児において、如何に酸素投与を調節しようと未熟児網膜症の発症を予防し得ない事実に示されます。」(甲A第四四号証の四 昭和六一年)と述べている。

(五) 他方で、ニューヨーク州立大学のザック博士は、ワシントンにおける未熟児網膜症研究会において、現代のRLFの乳児と一九五〇年代のRLFの乳児との相違を討議した上で、高酸素症と関係のない一次性網膜低酸素症の事例を報告した。これは、次の四三七名の未熟児の眼底検査によって得られた結果に基づくものであり、四三七名中七七例(一七・六パーセント)に「活動性」のRLFがみられたこと、RLFを発症した児の殆ど全ての児が二週間以上の酸素投与を受けていたこと、他方、生下時体重一四〇〇グラム以上かつ在胎週数三二週以上の児の場合には二週間以上の酸素投与によってもRLFは発生しなかったこと、RLFを発症した児の七七例のうち七三例は在胎週数三〇週以下であったこと、RLFを発症した全例に存在した唯一の全身的疾患は呼吸窮迫であったことなどの調査結果に依存している。

(六) 酸素非投与事例における未熟児網膜症の発症

昭和四六年、九州大学の大島健司らは、「九大における未熟児網膜症の治療と二、三の問題」において、酸素投与をしていないのに一二例に未熟児網膜症の瘢痕期病変を認めたこと、しかも、それらは全て生下時体重一八〇〇グラム以上であり、うち九例は生下時体重二五〇〇グラム以上の成熟児であったことを報告している。昭和四七年、関西医科大学の岩瀬帥子は、非酸素投与事例において二例の未熟児網膜症発症例を報告しているが、いずれも失明には至っていない。昭和五〇年、松山赤十字病院の幸塚らは非酸素投与の児(六七例)のうち、一〇例、一五パーセントに未熟児網膜症の発症が認められ、うち、三例(いずれも双胎児)については光凝固法を実施したことを報告している。patzは酸素投与をしない事例における未熟児網膜症の発症機序について次のように述べている。網膜の血管が充分な発育を遂げないうちに出生すると、肺呼吸開始とともに動脈血中酸素分圧が上昇し、胎内におけるよりも高くなる。一方、光刺激によって網膜の代謝が亢進し、血管の収縮から閉塞に至り、組織の比較的酸素欠乏のため網膜症が発生するとみている。つまり、右の報告例の場合も「酸素投与」とは無関係ではあっても、「酸素」とは関係している可能性はある。

(七) 証人植村恭夫の証言内容

自然治癒する率は昭和四二年当時は八〇パーセント程度であったが、昭和五六年当時には九〇パーセント近くなってきており、かつ瘢痕の程度も軽くなってきている。昭和四七年から四九年ころまでには自然治癒例の中に瘢痕二度、三度の例が多かったが、昭和五六年くらいになると、殆どそのような事例がみられなくなった。また、Ⅰ型の場合に活動期三期以上に進行する例もあまりみられなくなってきている。日本における未熟児網膜症は昭和四〇年から昭和四九年までがピークで、昭和四九年から激減している。これは酸素管理を含む全身管理の進歩(NICUの導入、医師の酸素管理などに関する知識のレベルアップなど)による面が多いと思われる。他方で、人工換気法などの進歩により超未熟児の救命が可能になるに従って、超未熟児における未熟児網膜症の発症が問題とされるに至っている。

2  以上の検討によれば、現在においては、過去におけるよりも未熟児網膜症発症について、酸素の果たす役割は低いものと考えられるに至っている。最も重要な因子は未熟性であることは明確な事実であると認められる。酸素を投与しない事例においても、または、できるだけ動脈血中酸素分圧を測定して酸素投与をしても、未熟児網膜症の発症を防止できないという事実がそのことを示している。しかし、留意する必要があることは(甲A第四四号証の四の赤松洋論文の五五頁、証人植村の証言内容参照)、それらの報告のかなりのものが未熟児網膜症一般の発症(八〇パーセントないし九〇パーセント近く自然治癒するといわれている。)がみられた事例と未熟児網膜症が全く発症しなかった事例を比較しているものに過ぎないことである。しかし、本件において問題とすべきは、「発症」の因子及びその比重がどのようなものかにあるのではなく、失明の原因となる重度の瘢痕性の未熟児網膜症の因子及びその比重はどのようなものかにあるのである。また、報告例の多くが扱っている児の条件(未熟性、合併症の有無)がかつての未熟児網膜症に罹患した児とは異っていることにも注意が必要である。現在問題になっている児は、過去には成育するのが困難であった生下時体重一〇〇〇グラム未満の超未熟児であり、したがって、未熟性という因子が占める割合は当然その他の因子より相当高いことが推測されるのである。また、研究報告の多くは最近のものであり、この間の医療の進歩には大きいものがあるし、研究報告をしている医師らは一流の医師であり、したがって、未熟児網膜症発症における酸素などの外的要因はできるだけ抑えられているものと推測される。したがって、前記研究の対象となった児と本件の原告患児らとは保育環境については必ずしも条件は同じではなく、条件が異れば因子ないしその比重も異なるものと推認される。さらに、重症の瘢痕性の未熟児網膜症が現在においても完全には予防することはできず、特に超未熟児においてその困難が顕在化することが認められるが、酸素療法などの進歩によって瘢痕性の未熟児網膜症の数が激減したことは確かである(証人植村によると、我が国においては昭和四九年ころに顕著である。)。そして、後記のアメリカにおける酸素療法の歴史において述べるとおり、酸素投与と未熟児網膜症の発症との関係についてはコントロール・スタディがなされており、この価値は現在においても否定できない。したがって、本件においては、酸素投与は原告患児らの未熟児網膜症の発症、重症化にとって重要な誘因であったと推認するのが妥当である。

三  未熟児網膜症発生の機序

未熟児網膜症発生の機序については、未だに不明確な部分も多いが、酸素との関係で次のような有力な仮説が存在する。以下で述べるものはいわゆる酸素誘導型(oxygen induced retinopathy)についてのものである。

胎児の網膜は、胎生三か月ころまでは無血管の状態にあり、四か月ころに血管形成が始まる。乳頭において、硝子体動脈から発生した間葉性細胞の前衛が網膜内層に侵入し、内皮細胞性複合体は毛細血管となり、新生血管は鋸歯状縁に向って延びてゆく。五、六か月ころには血流が認められ、胎生八か月ころに鋸歯状縁に達する。この段階でも耳側血管はまだ達していない。したがって、例えば、在胎七か月で生まれた未熟児は、網膜前方が無血管の状態にあり、出生後にも血管の発達(とくに耳側)が続くことになる。植村らが、在胎三二週以前、生下時体重一六〇〇グラム以下の児の眼球について、病理学的検索を行った結果、耳側では全例に未熟性を示し、鼻側では在胎二八週以前で三三パーセント、生下時体重一三〇〇グラム以下で六〇パーセント以下のものに未熟性がみられた。このような発達途上にある未熟な血管は、酸素の過剰・不足に対してきわめて敏感に反応する。酸素に対する感受性は血管発達の初期ほど強く、六~七か月では網膜血管が全領域において感受性を示すが、八か月を過ぎると、耳側血管のしかも末梢領域のみに限局されてくる。発達途上にある未熟な網膜血管は高濃度酸素環境に置かれると強く収縮する。初めは最小動脈や動脈側の毛細血管の収縮・血流停止が起り、次で毛細血管全体の収縮、遂には動脈及び静脈の血流停止を起し、網膜に虚血状態が生ずる。この状態が長く続くと血管閉塞は不可逆となり、空気中に戻しても回復しなくなる。そして、血管閉塞による酸素不足を補うため血管増殖が起る。これは網膜が低酸素状態(hypoxia)に陥ったことによって生じたものである。このように、網膜の低酸素状態は代謝障害、網膜静脈の怒張及び血管新生を起すが、この新生血管は透過性が強く、血しょう成分の漏出、滲出を起し、また、網膜内だけに止まらず、内境界膜を破って硝子体内へも増殖してゆく。これが瘢痕収縮して網膜剥離を起し失明する。また、網膜剥離は滲出性の変化によってもたらされる(Ⅱ型の場合にそうであるとする見解がある。)。

四  未熟児網膜症の臨床経過

1  未熟児網膜症の臨床所見が多種多様であることは、未熟児網膜症研究者らが一様に指摘しているところである(証人植村は未熟児の場合には「ヴァリュエーションがありすぎる」と述べている。)。従来、我が国においては、主としてowensの分類が使用されていた。これによる未熟児網膜症の臨床経過は次のとおりである。

(一) 活動期

一期(血管期) 網膜血管の迂曲怒張をもって特徴づけられる。静脈径は正常の三倍ないし四倍に拡張し、動脈は強く迂曲することが多い。網膜周辺部には血管新生が起り、その血管の終末は細かく異常に分岐している。

二期(網膜期) 網膜周辺に限局性灰白色の浮腫が出現し、その領域には竹かご状の血管新生がみられ、出血、硝子体混濁が出現する。網膜出血も起る。

三期(初期増殖期) 限局性の網膜隆起部の血管から血管発芽が起り、新生血管の分岐が索状組織と一緒に硝子体内に突出し、周辺網膜に限局性の網膜剥離を起す。

四期(中程度増殖期) 増殖が進行して網膜の半周または全周が剥離する。

五期(高度増殖期) 網膜全剥離を起したり、時には眼内に大量の出血を生じ硝子体腔を充たすものもある。

(二) 回復期

(三) 瘢痕期(省略)

右の分類における問題は活動期二期と三期の境界が曖昧で分り難いということにある。例えば、硝子体内への滲出は右の分類でも基本的には活動期三期に入るわけだが、二期でも「周辺部の網膜の混濁」という所見は、硝子体内への滲出の所見とも考えられる。また、右の分類における活動期三期は網膜剥離が出てくる段階であるが、直像鏡で網膜剥離が確認できる時期ということになると、後記6の厚生省分類の活動期三期の中期から晩期に当るものとも理解される。

2  永田医師の分類

植村をはじめ我が国の未熟児網膜症研究者は、当初はリースやオーエンスの分類を用いていたが、倒像検眼鏡及び無収差凸レンズなどの発達、普及に伴い、より精密な眼底検査が可能となったことから、オーエンスらの眼底所見との間にズレを生ずることとなり、そのため各研究者によって各人各様の分類が作成発表されることになった。ここでは光凝固法による治療の発案者である永田医師の活動期の分類についてのみ触れる(臨床眼科二四巻一一号 昭和四五年一一月発行、産婦人科治療三〇巻一号昭和五〇年一月発行)。

一期 網膜の耳側周辺部の無血管帯と網膜血管末梢との境界に近い領域で、網膜血管が拡張蛇行し、かつ境界線に沿って血管新生や血管吻合が発生する。無血管帯とその付近の網膜は、灰白色浮腫状に混濁している。後極部の網膜血管は殆ど正常の太さで蛇行もないのが普通である。

二期 無血管帯と網膜血管末梢との境界に所々突出、湾入のある滲出性の限局性灰白色隆起(永田はこれを境界線demarcation lineと命名した。)が出現し、無血管帯との境界が明瞭となる。後極部の網膜静脈が軽度拡張蛇行し始め、境界線の近くでは時に著明となり、血管新生も著明となってほうき状を呈する。進行する場合は、境界線が幅と厚みを増して堤防状に隆起してくる。

三期 網膜周辺部の新生血管が堤防状の境界に向って硝子体中に浮かび上った形で増殖し始める。周辺網膜には限局性の網膜剥離や出血が起ってくる。また新生血管から硝子体中へ桃色あるいは灰色の滲出物が遊出し始める。一方、無血管帯の幅が増大していくに伴い、灰色の境界線は赤道部の方へ進出してくる。

四期 新生組織の増殖が更に著明となり、網膜剥離、網膜出血が次第に顕著になる。

五期 硝子体内に滲出物や出血が充満して、網膜が全剥離する。

3  その後の経過(rush typeの問題)

右の永田の分類の他、植村、馬嶋、大島らによっても分類の仕方が提唱され、光凝固法の適応時期などを巡ってさまざまな議論がなされた。さらに、従来は知られていなかった急激に進行する未熟児網膜症の存在も確認されるようになった。スツェベクチクは、一九五三年、低酸素症ショック後、わずか二四時間で大剥離を来した例を報告していたが、我が国でも、植村が、発症後二、三日で滲出性の大剥離を起した症例をrush type(急激型)と呼んで報告した(小児科一三巻四号 昭和四七年四月、小児科臨床二五巻六号 昭和四七年六月)。さらに、大島らは、通常のものとは臨床像が異り、網膜血管の強い怒張蛇行が起ると殆ど同時にほぼ全周の網膜血管帯に強い滲出性剥離が起る症例を報告し、このような症状の場合には自然治癒は望めず、従来どおりの光凝固法を行っても失明を防止することは困難であり、治療の時期選定のために早期に診断すべきであるとの見解を述べた(臨床眼科二八巻二号 昭和四九年二月)。

4  昭和四九年厚生省研究班分類

以上のような経過と未熟児網膜症が社会的関心を呼ぶようになったことから、厚生省特別研究費補助金昭和四九年度研究班(以下「厚生省研究班」という。)が組織され、次のような診断基準ないし臨床経過分類と一応の治療基準をまとめた。それまでは各研究者において抽象的に二期、三期といっても具体的にどのような所見を指しているのか必ずしもはっきりしない面があったが、早いところで昭和四六年ころから倒像眼底写真が撮れるようになり(植村医師自身がその写真を撮り始めたのは昭和五〇年からであった。)、各研究者の考えている所見を写真で比較することが可能となってきたため、厚生省研究班ではこれを持ち寄って検討した。

(一) 診断基準

臨床経過、予後の点から、未熟児網膜症を一型とⅡ型に分類した。

Ⅰ型は、主として耳側周辺に増殖性変化を起し、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、硝子体内に滲出、増殖性変化を示し、牽引性剥離と段階的に進行する比較的緩徐な経過を経るものであり、自然治癒傾向の強い型のものである。

Ⅱ型は、主として極小低出生体重児にみられ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極部よりに、耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺側の無血管帯が広いものであるが、ヘイジイメディアのため無血管帯が不明瞭なことも多い。後極部の血管の迂曲怒張も初期よりみられる。Ⅰ型と異なり、段階的な進行経過を経ることが少く、強い滲出傾向を伴い、比較的速い経過で網膜剥離を起すことが多く、自然治癒的傾向の少い予後不良の型のものをいう。

(二) Ⅰ型の臨床経過分類は次のとおりである。

一期(血管新生期) 周辺、ことに耳側周辺部に血管新生が出現し、それより周辺部は無血管帯胸囲期で蒼白にみえる。後極部には変化はないか、軽度の血管の迂曲怒張を認める。

二期(境界線形成期) 周辺、ことに耳側周辺部に血管新生領域とそれより周辺の無血管帯領域の境界部に境界線が明瞭に認められる。後極部には、血管の迂曲怒張を認める。

三期(硝子体内滲出と増殖期) 硝子体内への滲出と血管及びその支持組織の増殖が検眼鏡的に認められる時期であり、後極部にも血管の迂曲怒張を認める。硝子体内出血を認めることもある。

四期(網膜剥離期) 明らかな牽引性網膜剥離の認められるものを網膜剥離期とし、耳側の限局性剥離から全周剥離まで、範囲に拘らず明らかな牽引剥離はこの期に含まれる。

(三) Ⅱ型の臨床経過分類は次のとおりである。

Ⅱ型は主として極小低出生体重児に発症し、未熟性の強い眼に起り、初発症状は血管新生が後極部より起り、耳側のみならず鼻側にもみられることがあり、無血管領域が広く(これが特徴である。)、その領域はヘイジイメディアで隠されていることが多い。後極部の血管の迂曲怒張も著明となり、滲出性変化も強く起り、Ⅰ型のごとき段階的経過を辿らずに、急速に網膜剥離に向うことも多い。

(四) 混合型 Ⅰ型、Ⅱ型のほかに少数であるが、両者の混合型ともいえる型がある(永田医師の治療例でここに分類されたものがある。)。

(五) 瘢痕期の分類

(一度) 眼底後極部には著明な変化はなく、周辺部に軽度の瘢痕性変化(色素沈着、網脈絡膜萎縮など)のみられるもので、視力は、正常のものが大部分である。

(二度) 牽引乳頭を示すもので、網膜血管の耳側への牽引、黄斑部外方偏位、色素沈着、周辺部の不透明な白色組織塊などの所見を示す。黄斑部が健全な場合は視力は良好であるが、黄斑部に病変が及んでいる場合は種々の程度の視力障害を示す。日常生活は視覚を利用して行うことが可能である。

(三度) 網膜襞形成を示すもので、鎌状剥離に類似し、隆起した網膜と器質化した硝子体膜が癒合し、これに血管が取り込まれ、襞を形成し、周辺に向って走り、周辺の白色組織塊につながる。視力は〇・一以下で弱視または盲教育の対象となる。

(四度) 水晶体後部に白色の組織塊が瞳孔領からみられるもので、視力障害は最も高度であり盲教育の対象となる。

右の分類のうち、問題となるのは活動期の分類であるが、Ⅰ型については右の分類と永田の分類は大きな差異はなく、異る点は活動期一期において後極部の所見について明確に言及していること、活動期三期については見解の統一が得られず、簡略な定義をしてあるということである。永田の分類にはⅡ型がなかったことは前記のとおりである。また、Ⅰ型とⅡ型は全く異る病気ということではなく、それは連続的なものであり、欠陥が到達している部位が後極部寄りにあるか周辺の方にあるかによる差異である。

5  Ⅱ型についての臨床経過分類についてのその後の進展

右の厚生省研究班分類もⅡ型の診断基準についてはなお曖昧なままに留められており、その一応の臨床経過が明らかにされたのは、昭和五一年一月、国立小児病院眼科の森実秀子が「未熟児網膜症Ⅱ型の初期像及び臨床経過について」という論文を発表してからであった(日本眼科学会雑誌 八〇巻)。これによれば、Ⅱ型の眼底像の確証として、次の三点が挙げられる。

(一) 網膜血管が後極部から四象限全ての方向に向い著しい迂曲怒張を示す。

(二) 血管帯と無血管帯との境界部に新生血管が叢状をなし一周し、また多数の吻合形成が認められ、所々に出血斑が存在する。

(三) これらの病変の発現部位が極めて類型的であり、鼻側は乳頭から二、三乳頭径、耳側は黄斑部外輪付近の範囲にある。

但し、典型的なⅡ型というものは、血管の到達部位が周辺部になく後極部にあるものに生ずるもので、その原因としては強度の未熟性の他に、非常に過剰な酸素投与によって血管の退縮が強度に発生することが考えられるが、その後、酸素管理を中心とする全身管理が進歩したため、典型的なⅡ型はあまりみられなくなっていった。なお、国際分類においてはⅡ型の概念はない。

6  昭和五七年、厚生省研究班の分類も次の点で改正された(眼科紀要昭和五八年馬嶋 周産期医学一六巻八号 昭和六一年八月)。主な改正点は旧分類では活動期・瘢痕期共に四段階であったものを五段階にしたこと、光凝固や冷凍凝固法による治療の時期という問題を考慮して活動期三期を、視機能の面から瘢痕期二度を、それぞれ三段階に細分類したこと、Ⅱ型の表現や経過の解説に、その後の我が国での展開、欧米の学者の意見(昭和五六年一二月にワシントンで開催されたRetinopathy Of Prematurity Conference)を反映させたことなどであった。

(一) Ⅱ型の診断基準として、以下の点を補足する。赤道部より後極側で全周にわたり未発達の血管尖端領域に異常吻合、走行異常、出血などがみられる。それより周辺には広い無血管領域が存する。網膜血管は血管帯の全域にわたり、著明な蛇行怒張を示す。進行とともに網膜血管の蛇行怒張はますます著明となり、出血、滲出性変化が強く起り、Ⅰ型のような緩徐な段階的変化をとることなく、急速に網膜剥離へと進む。境界線形成はⅠ型のごとく明瞭なものは作らないか、あるいは進行が急速なこと、ヘイジイメディアのため確認できないことが少くない。

(二) 活動期一期を網膜内血管新生期とする。周辺ことに耳側周辺部に、発育が完成していない網膜血管尖端部の分岐過多(異常分岐)、異常な怒張、蛇行、走行異常などが出現し、それより周辺部には明らかな無血管領域が存在する。後極部には変化は認められない。

(三) 活動期二期については、従前は後極部には「血管の迂曲怒張を認める。」としていたが、これを「認めることがある。」とする。

(四) 活動期三期を三段階に細分する。

初期 ごくわずかな硝子体への滲出、発芽を認めた場合

中期 明らかな硝子体への滲出、増殖性変化を認めた場合

後期 中期の所見に牽引性変化が加わった場合

(五) 従来の網膜剥離期を二つにわけ、三期の所見に加えて部分的網膜剥離を認めたときを四期(部分的網膜剥離期)とし、網膜が全域にわたって完全に剥離した場合を五期(全網膜剥離期)とした。

(六) 従来混合型としてきたものを中間型とする(実際には従来混合型とされてきたものをできるだけⅠ型とⅡ型に分類し、その多くはⅡ型に分類されることになり、永田医師の経験した例もⅡ型に分類されるに至った。)。

(七) 瘢痕期の分類については省略

五  未熟児網膜症の発症率と自然治癒率

1  未熟児の発症率については必ずしも客観的な資料は存在しない。これはその医療機関で扱った未熟児の状態(児の未熟性により異るし、単胎児か双胎児かにより異なる。)、未熟児管理の方法(酸素管理などのあり方によって発症率は当然異なる。)、眼底検査の時期と頻度(時期があまりに遅いと自然治癒後にみることになる。)、眼底検査の技術と診断基準(未熟児の眼底を鑑別診断するにはかなりの経験が必要であり、診断の基準特に活動期一期についてどう考えるかによって発症の有無の判断に差が出る。)によって左右されるからである。以下では、右のような問題が存在することを前提として発症率と自然治癒率をみることとする。

2  馬嶋昭生によると、名古屋市立大学医学部における昭和四五年から五年間における四三三例の未熟児のうち、一三一例(三〇・五パーセント)に未熟児網膜症が発症した。大島健司によると、昭和四五年一月から一二月までの一年間に九大医学部付属病院及び国立福岡中央病院の未熟児室に入院した一五七名の未熟児のうち、五九名(三七・九パーセント)に未熟児網膜症が発症し、重症化するものと判断して光凝固を実施したのが一八例(発症例の三〇・五パーセント)であった。それ以外は自然治癒した。永田誠は、昭和四一年八月から昭和四六年七月までの天理病院における二一一例の未熟児のうち、一四・六九パーセントの児について活動期病変がみられ、活動期一期と二期まで進行して自然治癒したものが一一・八五パーセントで、活動期三期以上に達したものは二・八四パーセントである。天理病院で光凝固を実施してきたのは平均一年に一例であると述べている。奥山和男らは、国立小児病院における昭和四六年から昭和五〇年の三〇三例の未熟児(生下時体重二〇〇〇グラム以下)のうち、四四例(一五パーセント)に未熟児網膜症が発症し、そのうち、Ⅰ型は三八例(一三パーセント)であり、Ⅱ型及び混合型は六例(二パーセント)であった。Ⅰ型のうち、光凝固が実施されたのは三例であり、その他は全部自然治癒して、瘢痕を残したものは一例であった(瘢痕一度)。

3  証人植村恭夫の認識

生下時体重別の発症率については、生下時体重一〇〇〇グラム以下の場合には発症率七五ないし一〇〇パーセントと高率であり、生下時体重一五〇〇グラム以下でも三〇パーセント程度、生下時体重一五〇〇グラムを超えると三パーセント程度というのが通常であると思われる。在胎週数でいくと三二週以前が発症率が高い。植村の経験では(したがって、国立小児病院におけるもの)、昭和四七年ころまでは発症率は割に安定していたが、人工換気療法などが導入されるようになってからはやや発症率が高くなった。失明する事例は発症した例の中の四ないし五パーセントであると考えられる。重症瘢痕を残す例については随分減少してきたように思われる。

昭和四二年ころでは自然治癒率は発症した例のうちの七〇パーセント程度であったが、その後、その比率は高くなってきて、昭和五六年現在では八〇ないし九〇パーセントの例が自然治癒する。自然治癒する例のうち、昔は瘢痕二度ないし三度のものが多かったが、現在ではそのようなものはあまりみられなくなった。このように発症率や自然治癒率が変動するのは酸素管理を中心とする全身管理が進歩しているためであろうと推測される。

第三欧米における未熟児網膜症の研究及び酸素療法の歴史

我が国における酸素投与に関する方針・学説はおおむね欧米における研究の結果を参考としており、したがって、我が国における酸素投与の方針を理解するために、ここで欧米における酸素療法の歴史について触れることとする。また、酸素投与と未熟児網膜症発症の関係についてのコントロール・スタディはアメリカでなされたものだけであり、その結果は酸素投与と重症の未熟児網膜症の因果関係を考える上で重要である。

《証拠省略》によれば、次の事実を認めることができ、この認定に反する証拠はない。

一  Terryは、一九四二年、水晶体後部に線維組織が形成されて失明した極小未熟児を報告し、のちにこれをretrolental fibroplasiaと名付けた。彼は眼病変は硝子体あるいは水晶体の血管を含む胎生組織の遺残または過形成によると考えた。アメリカでは、後水晶体線維増殖症(RLF、未熟児網膜症)は一九四〇年代の後半から急激にその数を増し、Owens&Owensによれば、一九三五年から一九四九年の間に生まれた未熟児一二八例にはRLFを一例も見出すことができなかったのに、一九四四年には一一一例の未熟児の四パーセント、出生体重一四〇〇グラム以下のものに限れば、一二パーセントにRLFが発生したという。

二  一九四九年から一九五二年ごろまでに、RLFの原因として多くの因子が検討されたが、酸素以外の因子はすべて否定された。一九五〇年から一九五四年ころまでは、RLFと酸素との関係について三つの異った見解が出された。すなわち、第一は酸素投与はRLFの発生に関係がないとの見解、第二は酸素投与がRLFの原因または誘因になるとの見解、第三は酸素欠乏がRLFの原因であるとの見解である。しかして、第一の酸素投与と無関係との見解は否定されるに至っている。

1  酸素投与がRLFの原因または誘因となるとの見解を最初に明らかにしたのはCampbell(一九五一年)である。彼女はある点では酸素療法はRLFに関係があり制限されるべきであるが、他の因子も考慮されねばならないと結論づけた。Crosse&Evans(一九五二年)は、英国Birminghamにおいて高濃度の酸素を使用した一九四九年一月から一九五〇年六月までの一八か月間に、RLF(おそらく瘢痕期のもの)は未熟児の一九・二パーセントに発生したが、一九五〇年七月以降はチアノーゼの予防程度に酸素投与を制限したところ、二例の可逆性のRLFの発生をみただけで、瘢痕を残したものはなかったと報告し、また、高濃度の酸素投与が特に死亡率改善に寄与したとは考えられないと述べている。Lockeら(一九五四年)は、一九五二年二月から七月までの五か月間酸素を無制限に使用したところ、RLFは二〇〇〇グラム以下の未熟児二六例中六例に発生したが、次の一四か月はチアノーゼを消失させるだけの酸素濃度に制限したら、七八例中二例に発生しただけであり、しかも軽症であったと報告した。

しかし、当時、未熟児に対する酸素投与の制限は死亡率の増加と脳障害の増加に直接結びつくと信じられていたので、右の研究報告によって直ちに酸素投与が制限されるには至らなかった。

2  当時はむしろRLFの原因については低酸素説が有力であった。Szewczyk(一九五一年、一九五二年)は、未熟児室が混んできたために高酸素の保育器内で保育される期間が短くなった場合にRLFが増加したこと、RLFを起した未熟児は高酸素環境に置かれた期間が平均一〇日間長かったことを発見した。この二つの事実は、酸素の役割に注目すると矛盾しているかのようにみえたが、彼は酸素中に長く置かれた乳児は低酸素症にあった時期が長かったため酸素投与を長く受けたものと考えた。また、彼は、RLFの徴候は乳児を酸素の豊富な環境から取り出した後にのみ現われたこと、それら乳児を酸素の豊富な環境に再び入れると網膜の所見は即座にそして劇的に良くなることを見出したと報告した。そこで、彼は、RLFは発育しつつある網膜への酸素欠乏(相対的酸素欠乏)による破壊から起るとの見解を明らかにした。そして、RLFが発症したら再び高濃度酸素環境に戻すと病変は改善されること、酸素療法を中止するときには網膜の相対的酸素欠乏を防ぐために環境酸素濃度を徐々に下げることを提案した。Bedrossianら(一九五四年)は、一八〇〇グラム以下の未熟児をA群とB群に分け、酸素を漸減中止した場合と急に中止した場合のRLFの頻度を比較した。酸素の投与期間は一四〇〇グラム以下の未熟児は一七日間、一四〇〇ないし一八〇〇グラムのものは一一日間であった。A群の未熟児は酸素濃度五〇パーセント(±五パーセント)に一ないし七日間、四〇パーセントに五日間、三〇パーセントに五日間置かれ、そして、酸素投与を中止した。B群の未熟児は六〇パーセント(±五パーセント)の酸素を前記の期間投与した後、すぐに空気中に戻した。RLFの発生はA群で二四例中二例、B群で二五例中一三例であり、有意差が認められた。そこで、彼は、RLFの原因は低酸素状態(Hypoxia)が原因であると結論し、酸素の過剰投与がRLFの誘因になるが、酸素を突然中止することによって網膜の病変が起ると述べている。しかし、彼らの見解では、酸素の豊富な環境に残っていた未熟児に発生したRLFの存在を説明することはできなかった。事後的に考えると、A群にRLFが少いのは、酸素の漸減によるものではなく、むしろ酸素投与量が少かったためとされる。

3  RLFの原因として関係しそうな酸素過剰と酸素欠乏という二つの矛盾する要素に解決の糸口を与えたのがAshtonら(一九五三年)の動物実験であった。出生後の若い子猫での網膜発育の段階は人間の未熟児のそれと同様なものである。彼らは、子猫を六〇ないし八〇パーセントの濃度の酸素にさらすと、発育しつつある網膜の内に伸びる血管の閉塞が起ること、したがって、網膜は低酸素状態になること、未熟な網膜で認められたこれらの変化はいくつかの血管では可逆的であったが、他のものではそうでなく、硝子体及び網膜の分離部分の中へ新しい血管が成長していったことを見出した。この研究により、矛盾するかにみえた二つの観点について酸素過剰による網膜における酸素欠乏という説明が可能であることが判明した。

三  比較対照実験(Controlled Study)

結局のところ、RLFの発症に関する酸素の役割は比較対照実験によってしか明確にすることはできないとの考えが強くなり、次に挙げるような実験がなされた。

1  RLFと酸素療法の関係を調べる最初の比較対照実験(以下「コントロール・スタディ」という。)は、Patzらによって実施され、第一報は一九五二年に出され、第二報は一九五七年に出された。対象とした児は生下時体重一五〇〇グラム以下であり、制限量の酸素で生存できるという保証が得られた後(生後どのくらいの時間が経過していたか不明である。)についてのみ研究対象とした。乳児らは二つのグループに分けられたが、第一のグループは六五ないし七〇パーセントの濃度の酸素中に四ないし七週間入れられ、第二のグループは「四〇パーセント以下の濃度で」「特に臨床上必要な場合に」「二四時間から二週間の間」酸素投与を受けるようにした。第一報によると、初年度(一九五一年)には、高酸素群二八例中一七例(六〇パーセント)に瘢痕期一ないし四度のRLFが発生し、そのうち、七例は三ないし四度の重症瘢痕であった。一方、低酸素群では三七例中六例(二〇パーセント)に瘢痕期一ないし二度のRLFがみられたのみで、瘢痕期三ないし四度に進んだものは一例もなく、RLFの発生頻度には有意差があった。このときの実験では、酸素投与の中止に当っては、高濃度の酸素投与の場合には一週間かかって濃度を漸減し、低濃度の場合には一ないし三日かかって濃度を漸減した。ついで、一九五二年には、七〇パーセント酸素濃度で三二日保育され、RLFの初期変化の発生した二例について、酸素を急に中止した場合の眼底変化が観察されたが、とくに悪化することなく、RLFは自然に消退した。そこで、PatzらはSzewczykらの見解に疑問を持った。第二報によると、瘢痕期RLFの症例は、高酸素群六〇例中一二例であり、低酸素群六〇例では一例だけで、しかもこの例は一〇日間酸素投与を受けたものであった。そして、この期間中に酸素投与を制限しても、死亡率に影響を及ばさなかったとされている。Patzらは、「高酸素投与がRLFの病院の一因子であることが強く示唆されている」と慎重な見解を書いている。

2  第二のコントロール・スタディはLanman、Guy&Dancisによって、一九五二年八月に開始され、一九五四年五月に報告された。生後一二時間以内に未熟児室に入院した一〇〇〇ないし一八〇〇グラムの児を高酸素群と低酸素群にランダムに分けた。高酸素群は最低二週間以上、体重が一五〇〇グラムになるまで酸素を投与した。平均酸素濃度は六九パーセント(±六・五パーセント)であった。酸素投与を中止するときには漸減することなく急に中止した。低酸素群はルーチンに酸素を与えることを止め、チアノーゼなど臨床的に適応のあるものだけに投与した。一日一回酸素を中止して、チアノーゼが現れなければそのまま酸素投与を止め、チアノーゼが現れたものだけ酸素投与を再開して、できるだけ短期間で酸素投与を中止した。重症瘢痕を残したRLFは、高酸素群で三六例中八例であり、低酸素群では一例もなく、有意差が認められた。RLFの活動期病変は、高酸素群では六一パーセントにみられ、低酸素群では七パーセントに認められた。死亡率は低酸素群でやや高かったが、有意差はないとされた。しかし、彼らの症例が少かったため、死亡率については明確な結論を出すことはできなかった。彼らは、酸素投与を厳重に制限することによってRLFは予防できると断言した。

3  Lanmanらの研究結果の発表にも拘らず、多くの医師は酸素投与を制限しても安全かどうか心配しており、今までの未熟児養護の方法は変えないで次のKinseyらによる大規模な共同研究の結論を待っていた。

Kinseyを委員長とする統合委員会は、この病気に関する指導的研究者から構成されており、研究の目的は酸素はRLFの原因であるのかどうかとともに、酸素の制限が乳児の死亡率にどのような影響を及ぼすかにあった。この研究は一九五三年七月一日から一九五四年六月三〇日まで一八の指導的病院において続けられ、一九五四年にアメリカ眼科学会で研究結果が発表された。対象となった児は生下時体重一五〇〇グラム以下で生後四八時間生存していたものであった。つまり、すべての乳児は最初の四八時間には酸素も含めて必要な看護を必要とされた時に与えられており、そうして生存した児のみが研究に参加した。乳児らは二つの群に分けられたが、第一群(routine―oxygen group=慣例的酸素群)は五〇パーセント以上の環境酸素濃度で約二八日間保育したあと、酸素濃度を毎日三分の一ずつ減らしていき、三日間で中止するようにした。この方法は、当時一般に未熟児看護で行われていた方法であった。第二群(curtailed―oxygen group=制限酸素群)は臨床的に可能な限り酸素を制限し、環境酸素濃度は五〇パーセントを超えないようにされた(なお、制限酸素群の方が多いのは、この研究中にPatz、Ashtonらの動物実験の結果が発表され、高濃度の酸素とRLFの発症の関係が証明されたため、その後の乳児はすべて制限酸素群に入れられたためである。)。第一群では、単胎児四七例のうち三三例(七〇パーセント)に、多胎児六例中五例(八三パーセント)にRLFが発症し、第二群では単胎児四二五例中一三三例(三〇パーセント)に、多胎児一〇八例中四五例(四二パーセント)にRLFが発症した。瘢痕性のRLFの発症率は、第一群の場合、単胎児四七例中八例(一七パーセント)、多胎児六例中四例(六七パーセント)であり、第二群の場合、単胎児四二五例中二〇例(四・七パーセント)、多胎児一〇八例中一五例(一四パーセント)であった。以上から、単胎の乳児では、活動的及び瘢痕的RLFの発症率が制限酸素群よりも慣例的酸素群の方が有意的に高く、多胎児においても、瘢痕性のRLFの発症率は慣例的酸素群において有意的に高かった。酸素投与期間との関係では、RLFの発症は酸素投与期間に依存していることが判明したが、単胎児では最初の数日間に著しく増加し、多胎児では約二週間の酸素投与で発症率は増加した。また、別の実験では、酸素投与期間や酸素濃度との関係が調査された。その結果では、瘢痕性RLFの発生頻度は、同一の環境酸素濃度の場合、酸素投与期間が長くなると増加することが証明された。すなわち、酸素濃度との関係を調査する実験は次のように行われた。その平均酸素濃度が一〇パーセントの増加度で異なる八つの群が作られた。濃度との関係では、単胎児の場合、RLFの発症率は酸素の平均濃度が三五ないし五〇パーセントの間の差では比較的影響されなかった。多胎児の場合には比較的長期間(約二週間)にわたって酸素を投与されたときには、発症率と濃度は比例的関係があった。酸素濃度四〇パーセント以下でもRLFの発症は予防できないとされた(瘢痕四度のRLFが四〇パーセント以下の酸素投与によって発症した。)。また、酸素投与中にRLFの発症が認められ、酸素投与の中止による相対的酸素欠乏がRLFの原因でないことを示唆した。そして、この実験の目的の一つであった死亡率との関係については、酸素投与の制限(酸素投与時間を臨床上必要と思われる程度に制限すること)は死亡率の増加をもたらさないとされた(制限酸素群の死亡率は七一八例中一五一例の二一パーセントであり、慣例的酸素群の死亡率は六八例中一五例の二二パーセントであった。)。

4  コントロール・スタディから得られる示唆

重要なことは、コントロール・スタディが実施された目的は、酸素投与とRLFは関係があるか、どのようにすればRLFを防止することができるかということだけではなく、それ以上に、酸素制限が死亡率などにどのような影響を与えるかが重要な目的であったということである。つまり、酸素投与に当って第一に考慮すべきは、生命を救うことであることは明らかであり、それに影響がない範囲でRLFの発生を防止できる方法を探っていたのが右の各コントロール・スタディなのである。つまり、二律背反の問題への解答を得ることが一つの目的であったのである。

また、右の各コントロール・スタディの結果は、四〇パーセント以下のルーチン投与を許容する見解に根拠は与えていない。Patzの研究においては、制限酸素群は四〇パーセント以下の酸素濃度であったが、適応は「特に臨床上必要な場合」に限定されていたし、投与期間はできるだけ短期間にするようにされ、二四時間から二週間であった。

コントロール・スタディのなかで価値が最も高いと思われるのはKinseyらの研究であるが、それにおいて問題なのは、新生児の生存にとって最も大事な最初の四八時間については、治療内容は対照も記録もされなかったことにある。つまり、最初の四八時間に酸素制限をした場合には死亡率は上昇する可能性があった。しかし、また、最初の四八時間に酸素制限をしなければ、その後において酸素制限をしても死亡率は上昇しないであろうということは否定できない。また、酸素濃度に関してはそれが四〇パーセント以下であってもRLFの発生は防止できず、酸素濃度が三五ないし五〇パーセントの間ではRLFの発生に関して有意差がないという結果、また、酸素投与期間の方が重要であるという結果は今日でも有益な示唆である。

四  未熟児に対する酸素療法の変遷

1  酸素制限前の酸素療法の歴史

(一) チアノーゼ発作に対する酸素の使用

Hess(一九二二年)は、「酸素の連続的または間欠的なシャワーをチアノーゼ発作を防ぐために用いることはすすめられること」であるとした。Bakevin(一九二三年)は、出生後間もなく始まり、数日間多かれ少なかれしばしば再発し、死亡する可能性のあるチアノーゼ発作に関心を持ち、この原因が無酸素血症であるとした。Canmpbell&Poulton(一九三四年)もチアノーゼ発作に酸素を使用した。

また、このころには、周囲の空気中の酸素濃度の測定方法が開発され、ヘモグロビンの酸素飽和度とチアノーゼの関係が観察され、そしてこの両者に与える酸素投与の影響が調査された。そして、チアノーゼの徴候は皮膚の毛細血管を通して循環する不飽和ヘモグロビンの絶対量及び肉眼で見た紫色の量についての観察者の判断とに依っているが、チアノーゼの判断は観察者によって差があり、また、より重要なことは末梢循環に障害があると、組織に低酸素症があってもチアノーゼがみられないということであった。Smith&Kaplan(一九四二年)は、「新生児のチアノーゼでは常に血液の酸素測定値との関係は期待されていたものに比して正確ではなく、またより予想し難いものであること」を明らかにした。

(二) 不規則呼吸や周期性呼吸に対する酸素療法

未熟児が、チアノーゼがなくてもしばしば呼吸の速度と振幅に非常な不規則さを示すことは長年にわたって認められてきた。

Wilsonら(一九四二年)は、未熟児を高濃度酸素環境に置くと不規則呼吸や周期性呼吸が消失することを報告した。そこで、一九四〇年代には未熟児には酸素投与が不可欠であると信じられ、出生直後からルーチンに酸素投与が行われるようになった。また、強制循環式閉鎖式保育器が一九四〇年代から量産されるようになった。

(三) 一九四八年、アメリカ印刷局は児童局の援助の下に「未熟児」を発行した(著者は当時の権威者であるDunhamである。)が、そこでは、「新生児期のいかなる時でも呼吸困難のある乳児に対しては常に酸素療法が指示される。酸素は特に未熟児の看護には非常に価値がある。それは自由に用いられるべきであるが、適当量をこれら小さい乳児に適した方法で与えるように注意せねばならない。酸素使用の主な適応症は、呼吸困難、あらゆる原因によるチアノーゼ、及び全身的な弱々しい状態である。」とし、投与量については、環境酸素濃度四六パーセントは期限なく比較的安全であり、一〇〇パーセントでは二四時間程度安全であるとしている。

一九四八年、アメリカ小児科学会による「新生児の病院における看護についての基準と勧告」が出された。その中では、すべての未熟児に、出生直後から医師が中止を指示するまでは酸素を与えるべきであるとされている。その付録にはBoston Lying―In Hospitalの未熟児看護規則が添付されていたが、そこでは「未熟児は出生後できるだけ早く四〇ないし五〇パーセントの酸素の大気中に置かれ、そこに乳児の大きさと状態により一二時間から一か月の間置かれるであろう。」、「全ての未熟児及び既知の予宮内仮死に曝されたり呼吸抑制や肺拡張不全を示したすべての乳児は、生後できるだけ速やかに五〇パーセント酸素の大気中に置かれる。彼らは身体検査によりこの処置がもはや必要でないことが解るまで不定期間この環境下に置かれる。」とされていた。

Holtの「小児科学 一九五三年版」では、「原則として保育器内の酸素濃度を六〇パーセント以上にする必要はないが、それ以上の濃度にしても害はなく、無呼吸発作を消失させるのに役立つ」と記載されている。

Nelsonの「小児科学テキスト 一九五四年版」には「小さな未熟児は数時間ないし数日間四〇ないし六〇パーセントの酸素濃度において観察することが必要である。」と記載されている。

2  酸素制限(適応の制限と濃度の制限)への移行

アメリカ小児科学会の「新生児の病院における看護 一九五四年版」においては、「特に弱い未熟児、呼吸困難やチアノーゼのあるもの、そのおそれが認められるものには四〇ないし五〇パーセントの環境酸素濃度が必要である。この濃度を測定するために酸素分析器が必要である。酸素の使用は観察した臨床効果によるべきであり、ルーチンに投与してはならない。酸素投与を中止するときには数日間かかって漸減中止する。」とされていた。

Lanmanらのコントロール・スタディが終了した段階で、ニューヨーク市衛生局(一九五四年四月)は、未熟児に対する酸素投与は必要なときだけに限ること、酸素濃度は四〇パーセントを超えないこと、酸素流量ではなくて、環境酸素濃度を測定することを警告した。

Gordonは、雑誌「Pediatrics」の一九五四年一一月号において、Cororado Center Hospitalでは定期的分析で環境酸素濃度を四〇パーセントを超えないように制限することにより、二年間にわたってRLFの発症率が急激に下ったと報告した。彼はまた、「酸素の最適の使用のためには、我々は目に対するあり得べき害と呼吸機能に対するあり得べき益のバランスを取らねばならない。」としている。

アメリカ小児科学会の胎児新生児委員会は、一九五六年一月、次のような勧告を出した。「RLFの主要な因子は酸素の過剰使用であることが明白になった。過剰使用というのは酸素濃度四〇パーセント以上、あるいは適応がなくなってからも長期に投与することである。他方、酸素療法は、低酸素症、呼吸困難、チアノーゼを有する子供を救う方法である、眼障害の可能性のために適切な治療ひいては生命を人為的に否定することは賢明ではない。そこで次のことを勧告する。」。

「(一) 酸素は薬と同様に医師の指示によって与えること、緊急時を除く。

(二) 酸素はルーチンに与えず、医学的適応がある場合に限って与えること。

(三) 酸素濃度は酸素不足による症状を救うことのできる最低濃度に保つこと、できれば四〇パーセントを超えないこと。

(四) 酸素投与は適応がなくなったらできるだけ早く中止すること。

(五) 酸素投与の適応は全身のチアノーゼと呼吸困難である。」。

Guy、Lanman、Dancisは、一九五六年二月、「後水晶体線維増殖症の完全排除の可能性」と題する論文を発表したが、「我々は、酸素投与を臨床上必要の時にのみ、そして、次でできるだけ短期間、四〇パーセント以下の濃度とすることにより、後水晶体線維増殖症を完全に、またはほぼ完全に排除できると信じている。」とした。

これに対し、Kinseyは、一九五六年九月、「RLFの頻度を明らかに減少させる酸素濃度の完全限界は知られていない。単に酸素濃度を制限するだけで、投与期間を制限しなければ、RLFを予防することはできない。酸素濃度のいかんに拘らず、酸素投与期間は低酸素症のために必要とする最短の期間に制限すべきことを強調したい。」との見解を発表した。

しかしながら、酸素の限界的濃度(四〇パーセント)の概念は小児科医の心の中にしみついてしまい、誤った認識(前記のコントロール・スタディからはこのような結論は出て来ない。)がその後長く継続した。

一九五七年、アメリカ小児科学会の胎児新生児委員会による「新生児の病院における看護」においては、前記の勧告にさらに次の勧告が付け加えられた。

「(五) 全身チアノーゼと呼吸困難の治療が緊急に必要かどうかは医師の臨床的判断による。

(六) 酸素濃度は濃度を適正に安定させておくのに必要なだけ頻回に(少くとも四時間おきに)酸素分析器によって測定しなければならない。

(七) 四〇パーセント以上にならないような装置は、酸素が過剰にならないことを保証するであろうが、もっと高濃度の酸素を必要とする症例には適当でない。高濃度酸素を必要とするもののためには別の酸素供給装置が用意されるべきである。」。

Holt、McIntosh、Barnetの「小児科学」(一九六二年版)においては、「酸素はルーチンに行われないようになった。未熟児に対する酸素投与の唯一の適応は、呼吸窮迫、特にチアノーゼを伴う場合である。酸素濃度は四〇パーセントを超えないように注意深くコントロールしなければならない。チアノーゼが消失しないときはそれ以上の濃度にしても心配ないとの見解もあるが、はっきりした証拠はない。そのことは危険なアプローチとなる。」とした。

一九五六年から六〇年代の半ばまで、小さな未熟児を扱う小児科医は、無呼吸発作の予防のため全ての未熟児に自由に酸素を投与することから酸素濃度が四〇パーセント以上にならないようにし、しかも心肺症状を持つ乳児にしか与えないように変っていった。いくつかの施設ではどんな状況下でも、たとえチアノーゼがあっても四〇パーセント以上の酸素を使用するのには反対があった。これは行き過ぎた酸素制限という外ないように思われる。

3  酸素制限に対する疑問

AveryとOppenhimerは、一九六〇年、未熟児死亡率及び肺硝子膜症による死亡数は、酸素を自由に使っていた一九四四ないし一九四八年に比べて、酸素を制限するようになった一九五四ないし一九五八年には増加したと発表した。もっとも、調査の対象となったのはJohn-Hopkins-Hospitalだけであり、その病院における酸素制限の内容は不明である。

Crossらは、アメリカ及びイングランド・ウェールズにおける「出生当日」の未熟児死亡率は、酸素投与の制限が一般的になった時期にほぼ一致して増加したことを認めたと発表した。Crossは、一人の子供の視力を救うために一六人の子供が死亡したという計算になると述べている。この計算に対しては、死亡原因が特定されておらず、低酸素症による死亡率の上昇だけを取り上げなければ、酸素制限の幣害として述べることは正確でないという批判がある。また、注意すべきは、「出生当日の死亡率」が問題にされているという点であり、これは酸素投与が最も必要とされる生後四八時間におけるKinseyらの研究の欠陥を示したものということができるが、また、長期にわたる酸素投与の必要性を主張しているものではない。

McDonaldは、在胎三一週未満の未熟児で酸素投与期間が一一日未満であったもの九九例の中で、脳性麻痺は一九例(一九・二パーセント)であり、RLFは一例(二・九パーセント)であったが、酸素投与期間が一一日以上のもの八七例では、脳性麻痺四例(四・六パーセント)、RLF二一例(二四・一パーセント)であったこと、しかし、脳性麻痺の発生率の差はチアノーゼ発作を有した児では統計学的に有意差があるが、チアノーゼ発作のなかったものでは差がなかったことを報告している。つまり、チアノーゼのある児に対して、しかも、生後一〇日以内において酸素制限をすることには害があることを示している。

そして、一九五〇年代の半ばころから呼吸窮迫症候群(RDS)の研究が進み、呼吸促迫・肋間腔陥没・呻吟・チアノーゼを伴っているときには四〇パーセント酸素程度の酸素濃度ではしばしば救命することができないことが明らかとなってきた。RDSは生後二八日以内の死亡の主要原因とされ、一九六五年にRDSに羅った乳児の総数は五万人で、そのうちの二万五〇〇〇人が死亡したとされる。「一九六〇年代の初めには、この症候を示す乳児を治療する医師は、再び高濃度の酸素を注意しながら用い始めたが、実にこの医療は、テキストや州衛生局やアメリカ小児科学会によって阻止されていたものである。」(乙A第三六号証の一五、八二頁)

4  その後のアメリカ小児科学会の勧告

(一) 一九六四年の勧告内容は次のようなものであった。

酸素は、緊急な場合を除き他の薬や処置と同様に特別な診療指示に基づいてのみ処方できる。

酸素投与の適応については、全身チアノーゼ(末端チアノーゼでなく)及び呼吸困難である。これらの症状に対する治療の緊急性は、治療に当る医師の臨床的判断で決まる。

酸素濃度については、酸素の投与によって改善できる所見があるなら、それを改善するに必要な最低限の濃度で投与すること、「もし可能ならば」四〇パーセントを超えるべきではない。

酸素治療は、その適応の期間が過ぎれば直ちに打ち切られるべきである。酸素濃度はできる限り頻回に測定されるべきで、少くとも八時間毎には測定されるべきであり、かつ記録されるべきである。

時には治療のため、より高濃度が必要な場合、四〇パーセント以下の酸素では充分でないだろう。そのような特殊な例で適応がある場合には高濃度の加湿された酸素源が用意されるべきである。

(二) 一九七一年のアメリカ小児科学会の勧告

「新生児が特別に酸素を必要とする時、動脈血中酸素分圧が正常範囲(六〇ないし一〇〇mmHg)を超えるとRLFと密接な関連が発生するために注意して投与しなければならない。正常酸素分圧を超えるとRLFの危険が増大する未熟児にとって、安全な動脈血中酸素分圧の上限とその投与期間は判明していない。以前には安全と考えられていた吸気中で酸素濃度四〇パーセントの状態でも一部の新生児には危険なこともある。心肺疾患を有する新生児にとっては、動脈血中酸素分圧を正常範囲に上昇させるのに酸素濃度を四〇パーセントにしても無効のことがある。このような症例では、六〇ないし八〇パーセントあるいはそれ以上にする必要がある。このような新生児にあっては、組織の効果的な酸素化に必要な吸気中酸素濃度を臨床所見で決定するのは困難である。新生児では末梢にチアノーゼを呈していても、正常あるいはかなり高い動脈血中酸素分圧を維持しているにちがいない。そのために、高酸素濃度が必要な場合、吸気中の酸素濃度を調節するためには動脈血中酸素分圧の分析は非常に重要である。」として、動脈血中酸素分圧を測定しその値を六〇ないし一〇〇mmHgに維持するように努めること、動脈血中酸素分圧の測定が不可能なときには全身チアノーゼをめどとして酸素投与をすることなどを勧告した。この勧告の内容の詳細については、後記の中村兼次編「小児科学年鑑」(昭和四七年九月)において、松村忠樹が紹介しているので省略する。

(三) 前記酸素制限時代との差異

右のアメリカ小児科学会の勧告などをみると、酸素濃度を四〇パーセント以下とするという画一的制限が、二重の意味で危険であることが明らかにされたということができる。第一にはRDSのような重篤な呼吸障害があるときには、四〇パーセント以下の酸素では生命や脳は救えないということであり、第二には全身チアノーゼなどの明白な低酸素症の症状がないときに四〇パーセントもの酸素を与えることはRLFとの関係で危険であるということである。そして、それまでの勧告の内容からすると、酸素濃度について症状に応じて投与するという方向に変ってきたということが指摘できるが(投与量については画一的制限を徹廃した。)、酸素投与の適応については基本的には変更はなく(全身チアノーゼがめどとなる。)、むしろ動脈血中酸素分圧の測定(それによって適応を判断する。)を求めるようになってきたことは、制限が厳格になってきたというべきである。つまり、投与量についての画一的制限を止めれば生命や脳への危険が回避できるというのが基本的な考え方であると推認される。したがって、この時代を酸素投与についての「自由裁量時代」というのは不適当な表現と思われる。

5  安全な動脈血中酸素分圧を決定するための共同研究

PatzとKinseyの指導する共同研究が一九六九年から一九七二年にかけて実施された。この研究は動脈血中酸素分圧とRLFとの関係について、より明確な関係を確立することにより未熟児の失明を予防するのを目的としたものであった。対象となった七一九人の乳児(大多数がRDSの治療を受けていた。)から得た結果によると、RLFの瘢痕性に至った乳児(しかし、大部分は失明に至っていない。)と目の正常な乳児との間には平均動脈血中酸素分圧に有意差はない。これらの乳児は全て注意深く監視されており、その動脈血中酸素分圧は殆ど六〇ないし一〇〇mmHgの範囲の中にあった。Kinseyらは「この選ばれた母集団の乳児らは生きるために酸素を特に必要としたものであるから、これらの結果を一般の未熟児にあてはめることは誤解を招くことになろう。したがって、それは酸素過剰からの失明を予防するのと同じく、酸素欠乏から中枢神経損傷を予防するような動脈血中酸素分圧の理想的な程度についても勧告を作ることを保証しない。」としている。

6  以上、アメリカの酸素療法の歴史を検討すると、常に生命や脳を救うこととRLFの防止が考えられて、さまざまな研究がなされ、酸素療法の指針が出されてきたことが分かる。それは現在からみると多くの欠点も指摘でき、生命や脳への危険を回避しつつRLFを予防するということについて不完全であった。しかし、また、生命や脳に配慮しつつRLFを減少させることについて、かなりの功績があったことは明らかである。アメリカ小児科学会新生児委員会は、二律背反の問題にとって安全な道は現在でも用意されておらず、「高い死亡率、脳損傷、及びRLFの根本的原因は残るであろう」としつつ、「我々は、大きな利益をもたらした今までの研究について後知恵で判断を下すべきでない。」ともしているのである。

第四診療行為に関する責任の総論

一  医療過誤訴訟における責任追及の方法と医師の注意義務の位置付け

本件において、原告らは各被告らに対して債務不履行または不法行為に基づいて責任を追及している。ところで、診療契約の場合には通常の契約と異り、原則として結果債務ではなくて手段債務であるとされ、したがって、診療契約においては債務不履行があるというためには、一定の結果が保証されなかったり悪い結果が生じたというだけでは債務の履行が不完全であったとはいえない。そこで、当該事案において完全な債務の履行とはどういうものをいうのかが診療契約の解釈として問題とされ、これが債務不履行における医師の注意義務の問題である(すなわち、履行の不完全さで考慮されることが殆どで、それ以外に独自に責めに帰すべき事由を問題とする必要がある場合は少い。)。この契約上の債務の解釈に当っては、当該医師の能力・技術と共に患者側の合理的な期待(例えば、平均的な医師ならば、あるいはその医師ならばできるであろう治療行為をして貰えるという期待)などが考慮されて、一定の水準の医療行為を行うべきであるとの債務の内容が決定されることになる。他方、不法行為の場合には、過失ないし違法性の内容として、問題とされる悪しき結果の発生を予見でき、かつ予見すべきであったか、当該悪しき結果を回避することができる手段が存在したか、その手段をとるべきであったかが問題となり、これが医師の注意義務の問題である。この場合、何を、あるいは誰を基準としてこれらを判断するかが問題である。不法行為の場合には、一般に、当該行為者を基準としたいわゆる「具体的過失」を問題にするのではなく、一般人あるいは普通人を基準としたいわゆる「抽象的過失」を問題とすべきであるとされ、それは被害者としては、加害者の方で普通人としての標準的な注意を払うものと思って行動しているのであって、たまたま加害者が注意力が劣っていたために具体的過失がないとされ、損害賠償が認められなくては、被害者の保護に不充分であり、不公正な結果が生じるからであるとされる(例えば、加藤一郎・不法行為)。ここでも患者側の、平均的な医師ならば、あるいはその医師ならばできるであろう治療行為をして貰えるという期待などを考慮しつつ注意義務の内容ないし一定の水準が決定されることになる。

そこで、以下では、医療契約の内容を決定するときの基準となり、医師の注意義務の基準となるべき一定の水準を「医療水準」と呼ぶこととする。

二  医療水準を決定するに当り考慮されるべき事情

1  医学水準との関係

研究者がある治療方針ないしある治療法を発表した場合に、これが医療水準にまで達して責任の有無の判断基準になるためには、その前提として医学界におけるその分野の有力者ら(臨床医に影響力のある人々をいう。小児眼科の分野の事柄についていえば、小児科とか産婦人科の分野における承認は不要であり、これらは医療水準の判断に当って考慮されるに過ぎない。)によってその正しさを承認される必要がある。以下では、このような承認のあるものと評価すべき状態を「医学水準」と呼ぶこととする。そして、いまだ学会において承認されていないような見解ないし治療法は実験的段階にあるのであって、そのような見解や治療法を採用しなかったからといって、責任を問題にすることができないのは当然のことである。勿論、医学水準にまで達していない特殊あるいは高度の医学的知見・治療法などを充分に修得している医師が、患者の同意の下に、これによって診療を行うことも法律上許されないものではなく、それは当該医師の裁量に属するところである。

ある診療方針ないし治療法が医学水準に達するまでには、当該研究者による試行(理論的・経験的根拠を固め、実験などを通じてそれによる治療効果や副作用の有無の確認をする。)、当該研究者による発表、他の研究者による追試(ここでも、理論的・経験的根拠の検討のほかに、実験による治療効果や副作用の有無の確認をする。)といった段階を経て、学会における有力者の承認を得ることになる。この試行や追試の方法として、自然経過との比較、遠隔成績の検討、動物実験やコントロール・スタディ(比較対照実験)がなされることもあるが、どのような検証を要求するかは医学界の問題であり、医学界における承認がある以上、事後的にみて検証の方法に不充分な点があっても医学水準に達したものというべきである。また、医学水準を以上のように考える限り、同一疾病に対し、医学水準に達した診療方針などが複数存在することもあり得る。見解の統一がないことをもって、ある診療方針などが医学水準に達していないということはできない。さらに、一旦承認がなされたとしても医学の進歩や再評価によりそれが撤回されることもあり得る。

ところで、以上のようにして、ある診療方針または治療法が医学水準に達したとしても、それを直ちに責任の有無の判断基準となるべき医療水準とすることはできない。すなわち、現在、医学の進歩は急速であり、かつ、高度化・複雑化し、その結果一人の医師が習熟し得る医学の分野は、より専門化された狭い範囲に限られるようになり、現に学会の数はおよそ二二〇近くにもなるといわれる(当裁判所に顕著な事実である。)。また、医学に関する情報もこれに対応して専門化、複雑化し、また、その情報量が大量であることもあって(妥当とはいえないような情報も多く混入している。)、医師としてはその取捨選択や修得に困難を来たすことが充分考えられる。このような状況では、ある治療方針または治療法が医療水準に達しているかは、医学水準に達したことを前提として、その実現可能性をさらに検討する必要がある。

2  考慮されるべき諸条件

ある治療方針や治療法が医学水準に達している場合に、それがさらに医療水準に達しているというためには、それに関する知識が普及しているかどうか、技術が普及しているかどうか、それに必要な人員が確保できるか、それに必要な物的設備の確保が容易であるかなどを総合考慮して判断されるべきであるが、その判断の内容は全国一律のものであるべきではない。

医療水準は、債務不履行に関していえば当該診療契約上の債務の内容を決定する基準となるものであるから、契約当事者ないしその履行補助者である当該医師の置かれた諸条件、例えば、当該医師の専門分野、当該医師の診療活動の場が大学病院などの研究・診療機関であるのか、それとも総合病院、専門病院、一般診療機関などのうちのいずれであるのかという診療機関の性格、当該診療機関の存在する地域における医療に関する地域的特性などを考慮して判断さるべきものである。不法行為についていえば、一般の場合には、普通人を基準とした「抽象的過失」の有無を問題とするわけであり、これをそのまま医療過誤の事案にあてはめると、平均的医師を基準とするということになる。しかし、前記のような医療の専門化・高度化を考えると、専門分野・診療機関の性格・地域的特性などを考慮せずに、全体的・画一的な基準を考えることは妥当性を欠くものというべく、医療水準は相対的に考えられるべきである。また、さらに、「抽象的過失」を問題とした理由が、前記のとおり被害者側の合理的信頼を保護するということに根拠があるとするならば、患者側の医師に対する信頼というものは、医師の専門分野・診療機関の性格・地域的特性などによって異るのが通常であると考えられるから、この点からも医療水準の決定に当っては右の諸条件が考慮されるべきである。

さらに、右のような諸条件で限定された集団(当該医師が所属するもの)における平均的医師が現に行っている医療慣行は、医療水準を検討する上で参考とすべきものであるが、両者は同一のものではなく、医療水準は到達されるべき、あるべき水準として考えられなければならない。

三  診療方針ないし治療法の「有効性」との関係

ある診療方針ないし治療法が医学水準なり医療水準に達しているかどうかという判断に当って、その治療方針ないし治療法の「有効性」の問題とどのように関係するかは難しい問題であり、その原因は医学自体に内在する問題に起因するものと考えられる。

医学は科学としては常に不徹底のまま実践を行わざるを得ない。医療が科学的に行われるということは、非科学的に行われているのではないという程度の意味であって、全面的に科学的方法で覆われていることを意味するのではないとまでいわれる。医療における不確実性にはいくつかのタイプないし原因があるとされる。第一には、全ての医師が全ての医療技術、医学的知識をマスターすることは困難であることに起因する。第二には、それぞれの時代ないし時点における医学的知識の未熟さないし未完成に由来する。第三には、第一の不確実性と第二の不確実性とが分離し難いことにある。第四は、医学の対象が人間という極めて個体差の強い、ある意味では個体差の存在を人間の特徴としなければならない条件で行われるが故に絶対に避けることのできない不確実性である。したがって、医療においては不確実な部分を払拭することはできない。それにも拘らず、手をつけかねて静観することも許されないのである(中川米造、医療と人権参照)。医療水準を考えるに当っても、以上のことは考慮されるべきであり、不確実性があることから、医師には後記のとおり相当の裁量が認められなければならないし、他方、確実な治療法ないし治療方針がないからといって、医師は何らの義務を負わないということもできないのである。

ところで、診療方針ないし治療法の効果があるかどうかは、ある診療方針なり治療法を実施した場合に、どの程度の確率で悪しき結果を回避できるかによって判断され、このような効果の有無の判定の手法には様々なものがあるし(コントロール・スタディもその一つである。)、効果を認めるためにどのような条件を要求するかは、その疾病の性格、重大性、他に治療手段があるかなどによって相対的に決せられるものであり、医学界の問題である。そして、効果があると判断されたとしても、全ての場合に確実に悪しき結果を回避できるということを意味するのではないことはいうまでもない。その確率が低くとも、換言すれば、何もしない場合と比較して、あるいは従前の診療方針ないし治療法と比較して、より効果があることが判明している限り、医師は当該診療方針ないし治療法を実施する義務を負うべきである。したがって、当該治療方針ないし治療法を執ったとしても確実に結果発生を防止できたといえなくとも、そのことをもって当該治療方針ないし治療法が医療水準たり得ないと評価することはできないと考えられる。通常の不法行為の場合には、当該措置を執れば結果を回避できた蓋然性が高いことを前提として過失の有無を考えるが、医療過誤の場合には、前記医療自体に内在する不確実性のため、当該措置を執ったとしても結果回避の蓋然性は必ずしも高いものではないことがある。そして、当該措置を執った場合の結果回避の可能性の程度が低いと、医師に結果発生についての全面的な責任を負わせるのが不当な場合があり、そのような場合には、因果関係につき後記の問題が生じる。

四  医療水準の判断の基準時について

不法行為や債務不履行の成否は、行為当時の医療水準に従って判断されるべきであり、その後の事情は考慮されるべきではない。医療水準に達していたある見解が、その後の医学界における再評価によって否定された場合でも、この一般原則を変更するべきではない。もし、これを許すときには医学界における評価は二転三転することもあって再度肯定的な評価に転ずることもあり、何時口頭弁論を終結するかによって過失の有無が変るということになるからである。これに対し、因果関係は、もともと口頭弁論終結時の医学水準に従って客観的に判断されるべきものであり、したがって、医療水準に達していたある治療法が、後に否定的な評価を受けたり、その効果が不明であると評価されるに至った場合には、過失は認められるが因果関係は否定されるということがあり得るといえよう。

五  医師の裁量との関係

以上に述べたところによると、医療水準とは、当該医師と諸条件において類似した医師の集団において執るべき医療の水準ということになるが、診療方針などについての医療水準をとってみても、それは抽象的な基準であり、具体的な臨床に応用するには、臨機応変な処置が必要である。前記のとおり、医学が扱う人間は個体差の激しいものであり、したがって、医師には患者の状態に応じて治療の仕方を変える裁量が広く認められなければならない。また、前記のとおり、医療水準に達した診療方針が複数存在する場合には、その選択は医師の裁量であり、また、いくつかの見解の合理的な融合も認められるべきである。さらには、自らの経験に応じて合理的な範囲で診療方針を修正することも医師の裁量の範囲として認められるべきである。しかし、他方、何の根拠もなく医療水準から逸脱したことを医師の裁量として許容することはできない。

六  執るべき措置の内容と医療水準との関係について

医師の注意義務の内容としては、治療義務、転医義務(そのための説明をし、転医させること)、説明義務(ここで問題とするのは侵襲を加えるに当って承諾を得る前提としての説明義務ではない。)が考えられるが、医療水準の内容は問題とする注意義務に応じて異るというべきである。

まず、治療義務の場合、当該診療方針ないし治療法(医学水準に達していることは当然の前提である。)によって治療をすべきであったというためには、当該医師の前記の諸条件が、類似する集団における平均的医師を基準として、当該診療方針ないし治療法に関する詳細な知識(実践に移すことができるほど詳細なものである必要がある。)が普及していること、当該診療方針ないし治療法を実施できる技術が普及していること(高度な技術の場合には教育・訓練の場が存在したことが必要である。)、当該診療方針ないし治療法を実施するに必要な人員がいること、当該診療方針ないし治療法を実施するために必要な設備があり又は容易にその治療用具類などを入手できたことが必要である。

これに対して、転医義務の場合にはそのような条件が備わっている必要はない。すなわち、当該医師と諸条件において類似する環境にある医師の集団における平均的医師を基準として、その治療方針ないし治療法が存在すること、その内容の概略、それが有効かつ妥当なものと医学界で評価されるに至っていることを知り又は知り得べきであったこと、それによれば、悪い結果を回避することができることを知り又は知り得べきであることが必要であるがそれで足りる。ただ、転医義務を考える場合には、転医先の条件が備わっている必要があり、具体的には、転医先とされるべき各地域の中核的病院の平均的医師を基準として、その治療方針ないし治療法の詳細な知識が普及していること、当該診療方針ないし治療法を実施できる技術が普及していること、当該診療方針ないし治療法を実施するに必要な人員がおり、必要な設備があること、患者の状態が転医を許す状態であったないし転医に伴う設備があること、転医の体制がある程度確立していること(受け入れ体制が整っていること)などが必要である。

説明義務は、右の条件のうち、転医の体制が確立していないため、当該医師が転医を手配することができない場合でも、その他の右の各条件が存在するときには、医師としては、当該治療法等の存在、その効果、治療可能な病院の存在などについて説明すべき義務を負うものと解される。

七  因果関係について

酸素管理についての事実的な因果関係が肯定されるための条件に関する被告らの第三五1(二)の主張について判断する。

1  事実的な因果関係(成立要件としての因果関係)を肯定するためには、作為が問題となる場合については(本件における酸素投与がこの場合に当る。)、誤った医療行為がなされなければ当該悪い結果が生じなかったであろうという条件関係が認められる必要があり、不作為が問題となる場合については(本件における光凝固法施術がこれに当る。)、当該医療行為がなされていれば悪い結果が生じなかったであろうという条件関係が認められる必要があると考えられる。

第一の問題は、条件関係を考える場合には実際の場合と仮定的な場合との比較がなされるわけであるが、どのような場合を仮定して比較するかが問題である。作為が問題になる場合も不作為が問題になる場合でも執るべきであった行為というものが予定され、そのような行為がなされていれば悪い結果は生じなかったであろうという場合に因果関係が肯定されるべきである。通常の作為の不法行為の場合には何もしなかった場合(これが執るべきであった行為であることが多い。)との比較がなされるが、多くの医療過誤の場合には何もしないことが予定されるわけではなく、上手くやっていればということが問題となる。例えば、手術ミスの場合には何もしないで放置した場合との比較ではなく(放置した場合、多くは悪い結果が生ずるであろう。)、手術を上手くやっていた場合との比較が問題とされるべきことが多い。

本件で問題とされる酸素投与の場合には、酸素投与が当時の医療水準に照らして許容される範囲内であった場合との比較がなされることになる。投与量が問題であるとされる場合にも、酸素投与をしなかった場合との比較ではなく、当時の医療水準に照らして許容される範囲内の濃度の酸素投与をした場合との比較が論じられるべきである。また、適応ないし投与期間が問題であるとされる場合にも、当時の医療水準に照らして許容される酸素投与がなされただけの場合との比較がなされるべきである。そして、許容される範囲を広く認めると、それだけ許容される酸素投与をしただけでも瘢痕性の未熟児網膜症が発症する可能性が高くなる関係にあり、因果関係を認め難い場合が多くなり、逆に医療水準を厳格に考えるとそれだけ因果関係を肯定し易くなる関係にあるものと考えられる。

右に述べた点からすると、原因が重複した場合(Aという原因とBという原因がそれぞれ独立してCという結果を生ぜしめ得る場合)においては、条件関係の公式をそのまま適用すべきではなく、「いくつかの条件を択一的に取り除くとその結果は発生するが、択一的でなく全体的として取り除くとその結果が発生しなかったであろう場合には、そのいずれの条件もその結果との間に条件関係がある。」というように修正すべきであるとの見解があるが、これは、Aという条件もBという条件も本来あってはならないことである場合にいえることであって、酸素投与の場合のように、一定の酸素投与が生命や脳を救うために許容され、要求されている場合に、これを取り除いて条件関係を判断することはできず、必要とされる酸素投与だけで瘢痕性未熟児網膜症を発症せしめ得る場合には条件関係は否定されるべきである。また、後行するBという条件が作用する前に、先行するAという条件によって結果が生じているときに、Bという条件と結果との間には条件関係は否定されるべきであり、この理は酸素投与の場合も同様である。これに対して、原因が共働した場合(Aという条件とBという条件はそれだけではCという結果が生じないが、共働してCという結果を生ぜしめたような場合)においては条件関係は肯定され(長崎地裁佐世保支部判決昭和四八年三月二六日判時七一八号九一頁、津地裁四日市支部判決昭和四七年七月二四日判時六七二号三〇頁参照、但し、これは条件関係が肯定されるだけのことで、相当因果関係が肯定されるためには、さらに別の要件が加わることは当然である。)、この理は酸素投与の場合にも同様に考えられるべきである(この場合には寄与度に応じた減責が考えられるべきである)。そして、酸素投与のうち医療水準に照らして許容されるものと、されないものがあるとされる場合は、右のいずれかに該当するものと考えられるが、そのいずれに該当するかを科学的に立証することには困難が伴う。

2  そこで、問題となるのは因果関係の立証の問題である。通常の場合には、有責違法な行為がある場合には因果関係は推定されるべきことも多いものと考えられる。しかし、医療過誤の場合には特殊な問題がある。一つは前記のような医療の不確実性からくる特殊性である。医療の場合においてはその治療方針ないし治療法によって悪い結果を回避できる可能性が低くとも、効果がある限りそれを実施すべきとされる場合があり、そうすると、有責かつ違法な行為があったとしても、直ちにそのことをもって悪い結果を生じたものとの評価(因果関係の肯定)をすることはできない。もっとも、要求される医療水準の内容が完全に近いものであれば(酸素投与に関していえば、例えば、経皮的酸素分圧測定法によって持続的に動脈血中酸素分圧を測定し、その値を一定に保つこと。それに従って酸素投与をしていれば、瘢痕性未熟児網膜症が発症することは統計的には殆どないことは前記認定のとおりである。但し、発症自体は完全には防止できない。)、これを注意義務の内容とした場合には、有責かつ違法な行為があれば因果関係は推定されるべきである。結局、因果関係を推定すべきかは、どのような注意義務を設定するかにより、つまり、その内容となった治療方針ないし治療法に従っていたときの悪い結果を回避できる確率によって異るものと考えられる。

もう一つ問題にすべきことは、有責性ないし違法性の判断基準時が行為時とすべきであるのに対し、因果関係判断の基準時が口頭弁論終結時とされるべきであることである。その間の医学の進歩が著しいことから、医学界において有効であるとされた治療方針ないし治療法に対して、後に疑問が出て、有効性が否定されたり不明であるとされたりすることがあり、否定された場合にはもとより因果関係は認められないが、不明であるとされるに至ったにすぎない場合には、因果関係を推定すべきかどうかは問題であるが、それが医学水準ないし医療水準に達したものとされるに至った経緯(他に治療法がないなどの事情によるものであるか、効果の高い治療法として認められたのかなど)をみて判断するほかないものと考えられる。

八  いわゆる期待権の侵害の主張について

1  原告らの請求の原因八の主張について判断する。右主張の「期待権の侵害」(期待の内容は必ずしも明確ではないが、一定の治療を受ける機会が与えられるという期待として理解する。)なるものには、三つのものが包含されていると解される。第一は、そもそも注意義務の内容となる行為それ自体は問題とする身体の障害(失明)を免れることができるかどうかとは直接の関係がないものと認められる場合(結果回避の蓋然性をもたらすものでない場合)であり、このような場合において問題とされるのは純粋に医師の誠実さであり、患者側の主観的心情としての期待であると考えられる。これに該当するのは、カルテの不記載・改ざん、呼吸数の不測定、酸素濃度の不測定、全身管理上の過失(体温・体重の管理などであるが、前記のように本件当時を基準とした場合には関連性は不明)、黄疸などの他の疾患への処置の不適切、必要な酸素投与がなされなかったことなどである(これらの事実は医師の過失を判断する際の間接事実にはなる。)。第二は、注意義務違反はあり、注意義務の内容となる行為は失明という悪い結果の防止と直接関係するが(結果回避の蓋然性は認められる場合)、前記七の事情、すなわち、注意義務の内容となる治療方針ないし治療法に従っても結果回避の確率が低いため、注意義務違反と結果との因果関係(高度の蓋然性)の立証ができなかったときに、期待権の侵害ないし診療を受ける機会の喪失を主張する場合である。本件においては、酸素投与に関する主張の一部と光凝固に関する主張の一部はこれに該当するものと理解されるものもある。第三に、当該治療方針なり治療法が医学水準に達していなかったり、医学水準には達しているが当該医師の属する集団における医療水準となっていないために、注意義務違反が認められない場合において、未確立ではあっても患者側は最先端の治療方針ないし治療法による診療を受けたいとの期待(より優れた治療を受ける機会の保証)を持っており、この期待権の侵害ないし診療を受ける機会の喪失を理由とするものである。第一の場合との相違は客観的には当該治療方針ないし治療法によっていた場合には結果を回避できた蓋然性がある点にある。本件においては酸素投与に関する主張の一部と光凝固に関する主張の一部はこれに該当するものと理解される。

2  以上のことを前提として検討する。

前記のとおり、医療契約上の債務の内容を決定するに当っても、患者側の合理的期待は考慮され、不法行為の過失を決定する場合において当該医師を基準とした具体的過失ではなく一定の集団における平均的医師を基準とした抽象的過失を問題にしたのも患者側の合理的期待を考慮したためであった。しかしながら、医療において保護される法的利益として考えられるべきは、生命の安全、健康の回復などの身体的な利益であり、注意義務の設定の究極的な目的もそれにあり、患者側の期待というものは注意義務の設定において考慮されているために、間接的ないし反射的に保護されている利益に過ぎない。したがって、このような間接的ないし反射的な利益を直ちに法的に保護されるべき利益と捉えることはできないものと考えられる。

また、事実問題としても、患者側は医療に関して具体的な知識がないことが多く、医師に対する期待の内容も最善の治療をして欲しいという抽象的なものに止まるものと考えられ(医師の裁量が広く認められる所以である。)、したがって、当該治療方針ないし治療法による診療がなされること自体について具体的な期待が診療当時に存在するわけではないことが多い。本件の場合も、事後的にみて当該治療方針ないし治療法に依った診療をして欲かったという気持がその具体的な内容であると認められる。仮に、診療時において具体的に当該治療方針ないし治療法による診療がなされることを期待するならば、その旨を医師に明確に求め、実施して貰うか転医に必要な事柄を説明して貰うことができ、このような例外的な場合には、診療債務の内容は結果債務となり、当該治療方針ないし治療法による診療を受ける利益は法的な利益とみることができよう。

前記の三つの場合に即して検討すると、第三の主張については、これを認めることはできない。その理由は、右に述べた二つの理由の他に、これを認めることは実質的に無過失責任を認めることにもなりかねないからである。また、前記のとおり、注意義務の設定において患者側の期待は一度は考慮されており(衡平の理念に照らして合理的な限度で考慮される。)、通常の注意義務違反がないとされる第三の場合には右の限度での患者側の期待を侵害したものではない。第一及び第二の主張についても、前記の二つの理由から、これを採用することはできない。

第五我が国における酸素療法に関する医学水準・医療水準

一  《証拠省略》によれば、未熟児に対する酸素療法に関する医学文献の記載は次のとおりであったことが認められ、この認定に反する証拠はない。

(昭和三〇年から同三九年まで)

1 昭和三〇年一一月(発行時期を指す。以下同様)、北大教授弘好文は「乳幼児視力障碍と酸素吸入」において、低酸素症と乳幼児眼障害という項で「……新生児に見られる眼所見というものは、低酸素症によって起きる低酸素性網膜症である、これは突発的に起ることもあり漸進的に起ることもあり、軽症から重症に至るまであらゆる階段がある……」とし、その重症の場合を未熟児網膜症(以下本症という)としている。そしてスツェベクチックの説を引用し、「高濃度環境から急に低濃度に移ることをいましめ、酸素吸入の止め方に留意すべきで、漸減法、即ち五〇%~四〇%~三二%~二六%~普通空気とせよ。」と述べ、さらに、「酸素吸入は必要以外には利用をさけること。新生児の皮膚の色がPinkであればその必要はない。但し必要時には充分量の酸素を供給せねばならないが、その必要は個々により異り、酸素濃度は三〇~六〇%の間にあることが多い。」としている(乙A第一六号証の四)。

2 昭和三〇年一一月、東大教授鹿野信一は、萩原朗他編「眼科最近の進歩」において、

「本症の予防或いは治療に関して次のことが強調されている。

1) 早産児に対する酸素の適用は最少限の必要量の制限すること(酸素濃度は四〇%以下)。

2) 酸素補給の停止は徐々に濃度を下げて行う。

3) 逆に本症を早期に発見した場合は適切な酸素補給法によって治癒し得る(初期の本症の病変は可逆的である)。」としている(甲A第一三号証の二)。

3 昭和三一年九月、九州大学医学部(産婦人科)教授木原行男らは、「産婦人科の世界八巻九号」において、「英国では酸素はせめて五日だけ与えるべきであるとし、また早産児の酸素供給は酸素濃度四〇%以内で最少必要量で止むべきであるとしている。」と紹介している(甲A第一四の一)。

4 昭和三二年二月、大阪市立大学教授高井俊夫は、「欧米小児科の近況・新しき治療と研究を訪ねて」において、RLF予防のためアメリカでは酸素濃度を四〇パーセント以下とするようにされていることを報告している(甲A第一五号証の八)。

5 昭和三二年二月、賛育会病院藤井とし及び東京医科歯科大学助教授大島佑之は、「臨床小児医学五巻二号」において、スツェベクチックの見解、すなわち、「酸素の供給は必要とする例にのみ止めること、酸素濃度は必要以上に高濃度としないこと、供給期間を必要最少限に止めること、酸素供給の停止は出来るだけ徐々にすること、貧血を認めた時には輸血を行うこと、初期変化の見られた時は再び高濃度に戻すことが大切である。」と述べていることを紹介している(甲A第一五号証の六)。

6 昭和三二年三月、東京大学医学部講師斉藤正行は「産婦人科の世界九巻三号」において、「一五〇〇g以下の未熟児は……酸素を与える。以上の未熟児でもチアノーゼとか不規則呼吸のあるのには酸素を補給する。」「時々酸素分析計を用いて器内酸素濃度が三〇~四〇%にあうようにする。これ以上の高濃度が長く続くとRetrolental fibroplasiaを発生せしめる危険がある。また酸素は無制限にだらだらと長期間与えないこと、必ず供給時間を指示することが大切である。」としている(甲A第一五号証の七)。

7 昭和三二年五月、馬場一雄は、「小児保健研究一六巻二号」において、アメリカの「胎児並びに新生児専門委員会」の「成熟及び未熟新生児の病院保育のための基準並びに指針」(一九五四年)を紹介し、「酸素の供給・酸素は一般状態不良な未熟児、呼吸困難又はチアノーゼを示す例にだけに与える。環境気体の酸素濃度は直接測定により四〇~五〇%に調節し、四〇%以上の濃度で酸素を与える場合には湿度を六五%以上に高める。酸素の供給を停止する際には数日間にわたり徐々に酸素濃度を大気濃度まで下げる」とされていることを報告した(甲A第一五号証の二)。

8 昭和三三年一月、馬場一雄は、詫摩武人編著の「小児科学第一集」において、

本症の「予防法として、ビタミンEの投与をすすめる学者もあるが、唯一の確実な予防法は、酸素の供給を必要最少限に止めることと、環境酸素濃度の低下を徐々に行うことであると思われる。」としている(甲A第一六号証の四)。

9 昭和三三年六月、日本赤十字社産院長久慈直太郎は、「未熟児の取扱と某知識」において、

「この病の原因についてはいろいろの説があるが、未熟児哺育の際に於ける酸素の使用過度と関係あるものの如くである。それ故に酸素の濃度を四〇%以上に上げぬようにし且つ必要なときにのみ酸素を用うるように注意すればこれを予防し得る。」としている(甲A第一六号証の二)。

10 昭和三三年九月、坂口啓介らは「産婦人科治療の実地手引」において、酸素は、「呼吸数が四〇~五〇に安定し、チアノーゼの出没が消失して呼吸が確立するまでは中止してはならない。使用量や期間は児の成熟度に左右されるから様々となる。」、酸素の「使用量は最少必要量で留めることが望ましい。本邦では未だ報告がないようであるが高酸素環境ではRLF乃至肺硝子様膜症を誘発する恐れがあるからであり、閉鎖式保育器を使用時には大体酸素濃度は四〇%を越えないように注意すべきである」としている(甲A第一六号証の五)。

11 昭和三四年二月、慶応義塾大学医学部産婦人科中尾昭一らは、「産婦人科の実際八巻二号」において、

未熟児網膜症の成因に関する外国の文献を紹介し、「本症が未熟児環境の酸素張力に関係するという考え方が最も有力である。」とし、「予防的にも原因が確然としていない現在では難しい。しかし、未熟児に対する酸素の使用法をより合理的に行うならば本症の発生を或る程度防止し得るであろうとは大多数の学者の一致するところである。目下欧米の何れのクリニックに於ても哺育器の酸素管理には細心の注意が払われている。即ち酸素供給は長時間持続的に行わないで、必要な場合にのみ行うこと、絶えず哺育器内の酸素濃度を測定してあまり濃度を高くせず、せいぜい四〇%位に止めることなどが厳格に守られている。」としている(甲A第一七号証の四)。

12 昭和三四年三月、聖ルカ国際病院斉藤文雄は、内村良二監修の「小児治療学」において、

「原因は各方面からいろいろと検索されたが現在では大体酸素の濃度と使用期間に関係があり、未熟な眼に対する特殊な反応であるといわれている。高濃度の酸素そのものが悪いという説、高濃度の酸素環境から急にふつうの空気の酸素濃度(二一%)に移すことがよくないなどいわれている。」、「要は予防にあり、生下時体重が小さく、酸素を必要とするような場合でも酸素濃度は四〇%、即ち空気の酸素濃度の二倍をこえてはならない、それ以下の濃度にとどめ、しかも無呼吸の時、授乳後のチアノーゼ出現時の時というふうになるべく応急な時だけに使って連続使用を避けることが最善とされている。」と報告した(甲A第一七号証の一)。

13 昭和三四年一一月、世田谷乳児院院長大坪佑二らは、「未熟児シリーズ 第二集未熟児の保育と栄養」において、「酸素はチアノーゼのあるとき、および使用を中止すればチアノーゼが起るときに使用し、それ以外の場合にはなるべく使用しないほうがよい。」こと、「保育器内の酸素濃度は四〇パーセント以上にはしない。酸素濃度が高すぎると後水晶体線維増殖症を起し失明する危険がある。」ことを報告した(甲A第一七号証の三)。

14 昭和三四年四月、九州厚生年金病院産婦人科大谷善彦らは、「産科と婦人科二六巻四号」において、呼吸障害に対して「吾々は保育器内酸素濃度を四〇~五〇%としている。」、「投与期間は体重より呼吸の良否により決定すべきで、呼吸が自立し、栄養を経口投与してもチアノーゼや呼吸障害が現われなければ投与の必要はない。」としている(甲A第一七号証の六)。

15 昭和三五年三月、小川次郎は、「未熟児疾患の病理および治療、未熟児シリーズ第三集」において、

「酸素の有用性については異論はないが、予防のため幼若未熟児のすべての例にルティーンとして酸素を与えることには議論はある。ことに酸素の過剰補給が後水晶体線維症または肺硝子膜症の原因ともなるという説はしだいに広く認められてきており、従来に比べて慎重であり、多くの人々は必要最少限度にとどめるがよいとの見解をもっている。三〇~四〇%の酸素が用いられているがCrosseは続いて用いる場合は三〇%を超えぬようにすべきだという。」、「たとえ過剰な酸素であっても、頑固なチアノーゼ発作などに対して一過性に用いることは効果的であり、またその害はない。」としている。

大坪佑二は、右文献において(低酸素症の項)、

「過剰の酸素投与は肺胞上皮細胞を刺激したり酸素中毒の危険があるという人もあるが、最近問題になるのは眼の障害すなわち後水晶体線維形成症が酸素の濃度と投与時間に関係あることである。酸素濃度を四〇%以上にしたりあるいは一週間以上持続的に使用した場合に起こりやすい。」「酸素を供給するとき、その濃度は通常三〇~四〇%にし、なるべく四〇%以上には上げないようにする。二〇~三五%ぐらいが最適のようである。小未熟児でチアノーゼや無呼吸発作の強い場合には六〇%までは上げることもあるが、ごく短時間にチアノーゼがとれれば直ちに下げねばならない。酸素は必要なとき以外には使用しないことを原則として守り、単に体重が小さいからといって多量に使用することは慎しまなければならない。」

「呼吸障害も強度でなく、チアノーゼを呈しないものには酸素の投与は全く無意味であるといえよう。」「保育器内に酸素を供給するときには、毎分の流量により濃度を推測してはならない。必ず酸素分析器用いて常に濃度を測定しなければならない。」としている(甲A第一八号証の二)。

16 昭和三五年四月、新宿日赤産院鈴木武徳は、「産科と婦人科二七巻四号」において、

「酸素濃度を四〇%以上にはしない。酸素は必要時間外は用いない。徐々に低酸素にもって行く。未熟児哺育等が盛んになって(酸素を使用することが多くなって)きた現在、私はその発生をおそれている。」としている(甲A第一八号証の一)。

17 昭和三五年五月、江口篤寿は、「今日の治療指針・私はこうして治療している一九六〇年版」において、未熟児の保育法としての酸素補給は「1)著しい呼吸不整、頻発する無呼吸発作、チアノーゼがあるときにのみ酸素を使用、2)保育器内の酸素濃度は原則として三五~四〇%に保つようにする。そのためには酸素分析器で時々測定する必要がある。3)症状が改善されたら直ちに酸素の使用を中止。但し止むを得ず高濃度の酸素を長期間使用した場合は徐々に酸素濃度を下げてから止める(Retrolental fibroplasia予防のため)。」としている(甲A第一八号証の四)。

18 昭和三五年一〇月、大阪市立大学医学部((小児科))教授高井俊夫らは、「産婦人科の世界一二巻一〇号」において、「アメリカにおいては現在ルーチンとしての酸素使用は停止された。われわれの未熟児室でも酸素は適応のあるものにしか与えない。酸素濃度は、保育器に送入するときは四〇%以内にとどめる。われわれは経済的見地から、専ら鼻腔内カテーテルにより酸素を補給し、その流入速度は一分間六〇~一八〇気泡としている。」と報告した(甲A第一八号証の七)。

19 昭和三五年一一月、北海道大学医学部教授山田尚達は、後水晶体線維増殖症の項において、

「原因として未熟児に高濃度の酸素を補給すると本症が起るといわれているので未熟児に必要以上の酸素を用いることはつつしむべきである。」としている(甲A第一八号証の五)。

20 昭和三五年六月、山口県立医科大学(産婦人科)教授藤生太郎は、「産婦人科の実際九巻六号」において、「肺胞の拡張・拡大は出生後の呼吸によって漸次行なわれるもので全部の肺胞の拡大は二~三週間後になるといわれている。したがって、出生直後の未熟児は肺胞拡張不完全のため無気肺の部分も多く呼吸面積が少なく酸素の摂取も十分行なわれぬため容易にチアノーゼを来たしやすい。」「チアノーゼは生後二四時間以内に起ることが多いがこの治療には高濃度に酸素を含有した空気が有効である……。哺育器内の酸素濃度はだいたい三〇~四〇%位の範囲内で適当に調節する。」「哺育器内の未熟児に酸素を持続的に何時まで供給する必要があるか。体重あるいはその児の状態によっても種々であるが一〇〇〇g前後では一四~一七日持続的に与えた方がよいといわれている。しかし、児にチアノーゼが起らぬようになれば、そう続けてやる必要はないが、なお時々チアノーゼが起るような場合には持続的にあるいは間歇的に酸素を供給する必要がある。あまり高濃度(五〇~六〇%)の酸素環境中にて哺育すると後水晶体線維症を発生する。この防止には酸素供給は長時間持続的に行なわないで必要の場合のみに行ない、絶えず哺育器内の酸素濃度に注意し40%以下とし、中止する時にも徐々に濃度をさげ急激なる酸素濃度の変化は避けるようにする。」としている(乙A第二一号証の三)。

21 昭和三五年一二月、和泉成之ら執筆の「日本小児科全書」においては、

「酸素は多きに過ぎると未熟児ではRetrolentale fibrosisを起して失明することがある。」、「酸素吸入を行う際にはよく監視し、合理的に施行し、チアノーゼが消失し呼吸困難が解消されたならば中止し、また、呼吸困難が起ったならば重ねて吸入させる。酸素吸入の持続時間は大体二〇分前後で足りるという。」とされている(甲A第一八号証の六)。

22 昭和三六年二月、糸井一良と高野貴伊は、「産婦人科学・産婦人科看護法」(高等看護講座(19))において、

「酸素の濃度および使用度数は医師の指示により行う(濃度は最高四〇%ぐらいまで、酸素の使用量(高濃度)が高いと水晶体後方線維増殖症となり盲目、弱視をきたしやすい)。呼吸の自律が完成(生後約四~七日)するまではとくに監視が必要で、顔色、呼吸状態、うなり声、泣き方、体温、嘔吐などに注意し、チアノーゼ、呼吸停止をきたすときは直ちに酸素吸入あるいは軽く刺激を与えて泣かせる。」としている(甲A第一九の七号証)。

23 昭和三六年五月、賛育会病院小児科部長中村仁吉は、「今日の治療指針―私はこうして治療している―一九六一年版」において、酸素投与は「未熟児に呼吸異常やチアノーゼが認められれば行う。保育器に酸素を流す場合には器内の酸素濃度を四〇パーセント以下に維持する。未熟児に直接酸素を与える場合には、ネラトン・カテーテルの尖端を切断して断端を鼻腔内に挿入し、酸素コルベンの水中に現れる気泡の数が毎分六〇前後になるように酸素を流す。」と報告している(甲A第一九号証の八)。

24 昭和三六年七月、東京医科歯科大学医学部山崎恭男は、「未熟児の血中酸素飽和度に関する研究第三篇未熟児における酸素負荷および蘇生術の血中飽和度に及ぼす影響」(日本小児科学会雑誌六五巻七号)において、ジェファーソン、スツェベクチック、ローパスらが酸素投与の中止に当っての漸減法を主張していること、ローパスは酸素供給期間の目安について、「生下時体重一〇〇〇g以下は一七日、一〇〇一~一三六一gまでは一〇日、一三六二~一六五〇gは五日としている。」こと、著者は「血中飽和度の検討から一五〇〇g以下は七日またはそれ以上、一五〇〇g以上は六日間以内と考えていること、連続的に長期間使用する場合には三〇%前後の酸素濃度で充分に酸素供給の目的を達しうること、同一の酸素流量でも保育器によって酸素濃度が異っているため適正な濃度の酸素を確保するためには酸素流量に頼らず、酸素濃度を測定して判定することが必要になってくる。」ことなどを報告した(甲A第一九号証の一)。

25 昭和三六年一二月、聖ルカ病院江口篤寿は「未熟児の取扱い第二版」において、

「(1) 未熟児に対する酸素吸入の原則

ⅰ) 酸素吸入によって呼吸不整、チアノーゼが改善される場合には十分の酸素を使用する。

ⅱ) 酸素は連続的でなく、断続的に与える方がよい。

ⅲ) 酸素はrautineとしてではなく、本当に必要なときにのみ使用する。

ⅳ) 酸素は児の状態が改善されるに必要な最少限度の濃度で使用すべきである。しかし必要な場合には高い濃度で使用することも躊躇すべきでない。

ⅴ) 酸素使用は必要な最短時間に止めるべきである。

(2) 酸素吸入を必要とする場合、呼吸不整が著しいとき、チアノーゼがある時は酸素を用いる。元来、未熟児の呼吸は不整の傾向があるから、多少の呼吸不整のみで酸素吸入を行なうことは適当でない。胸壁の陥凹、著しい呼吸不整、しばしば無呼吸発作がおこるような場合には酸素吸入が必要である。もし処置(清拭、哺乳、注射等)の場合にはチアノーゼ呼吸不整がおこる時はそのつど用いる。

(3) 酸素濃度の測定、後水晶体線維形成症(R・L・F)と酸素との関係について多くの知見が得られた現在、酸素は四〇%以内の濃度で使用することが安全とされているから、酸素を頻繁に使用するときは、時々濃度を測定する。」としている(甲A第一九号証の三)。

26 昭和三七年一月、名古屋市立大学医学部小川次郎らは、「新生児呼吸障害の治療(小児科診療二五巻一号)において、「酸素濃度を40%以下に止め、極端に長期にわたらぬように注意すれば、酸素治療は大した危険を伴うものではなく、むしろ失明の危険をおそれて、酸素の投与量を制限したために貴重な生命を失うことを警戒すべきである。」という馬場一雄の見解に賛意を示し、「酸素濃度測定器は必需品である。」とした(乙A第二三号証の一)。

27 昭和三八年六月(大坪佑二による訳文発行時期)、V・M・クロスは、「未熟児」において、

「酸素がないとチアノーゼを起す児には酸素の投与が必要であるが、酸素の濃度は皮膚を良い色に保ち得る程度の最低限の濃さにする。一〇分間以上持続的に使用するときには、後水晶体線維増殖症の危険性があるから、濃度は三〇%を越えてはいけない。チアノーゼの発作から蘇生させるためには短時間なら純酸素を与えても安全であるが、八~一〇分間より長くこの濃度を必要とするときには、特別な予防策を講じなければならない。たとえば、極小未熟児が純酸素を投与したときだけピンク色であるようなときには、次のようにすれば良い結果(生存、知能発達、および後水晶体線維増殖症の回避に対して)が得られる。すなわち、まず八~一〇分間純酸素を与え、それから軽いチアノーゼが現われるまで酸素を中止し(眼の動脈を拡張させるため)、この処置を必要なだけ繰りかえす。これは時間のかかる方法であるが視力を救い、さらには生命をも救うための処置である。」、「R・L・Fの発生は酸素の使用の増加と一致しておりアメリカでは他の国より数年早く起こった。その発症率は、

(1) 投与酸素の濃度

(2) 酸素投与時間

(3) 酸素投与時における目の未熟の程度

に関係があることが今日判っている。

酸素の安全な濃度については現在なお判っていない。それは四〇%以下であることは確かのようだが(第一六回M & R. Pediatrie Pesearch Conferenceの報告一九五五)、三〇~四〇%の濃度を使用している施設から現在なおいくつかの報告がなされておるところからみると、恐らくもう少し低いのではないかと思われる。」、未熟児網膜症の予防のため、「酸素の使用は酸素がないとチアノーゼが起る児に限られなければならない。とくにこのことは出生体重二〇〇〇g以下、すなわち在胎三四週以下のものでは重要なことである。酸素が必要であるならば、皮膚の色が良好に保つことのできる最小限の濃度のものを使用し、最小限の期間にとどめるべきである。

酸素濃度は信頼性のある流量計を使い、定期的に濃度測定をしながら調節しなければならない。……酸素濃度が三〇%を越えることが許されるのは例外的の場合だけで、決して四〇%を越えてはならない。もちろんチアノーゼの児(たとえば気管内迷入後やチアノーゼの発作中)を蘇生させる目的のために高濃度の酸素を短時間マスクで投与することはあるが、ごく短時間にとどめなければならない。看護婦は、個々の児に与える酸素を一分間の流量(リットル)ではなく、パーセンテージによって記録するように教育されなければならない。看護婦は医師の指示なしに持続的に三〇%以上の酸素を決して使用してはならない。……出生体重二〇〇〇gまたはそれ以下のもの、および生後二週間以内に酸素を使用したものはすべて予防処置の結果を確かめるために退院前に眼の検査を行なう。」としている(甲A第二一号証の二)。

28 昭和三八年一二月、高津忠夫監修の東大小児科治療指針改訂第四版は、「チアノーゼや呼吸困難を示さない未熟児に対しても、全て酸素を供給すべきか否かに就ては議論があるが、われわれは現在のところ、ルーティンとして酸素の供給を行っている。出生後暫くの期間における未熟児の血液酸素飽和度は低値を示し、また肺の毛細管網の発達が不充分なために、酸素の摂取が不良であることが予想され、一度無酸素症に陥れば、無酸素性脳障害や無酸素性脳出血を起す可能性が考えられるからである。酸素を与える期間は、生下時体重に従って略々下記の如く定めている。即ち、生下時1200g以下の例には二週ないし三週、1201~1500gは一週ないし二週、1501~2000gは三日ないし七日、2001g以上は一日を大体のめやすとしている。」「また細いゴム管を鼻腔内に挿入し直接酸素を与える方法は効果の点で閉鎖方式に遜色がなく、しかも酸素の消費量を甚だしく節約しうるので便利である。この際、われわれはコルベン内の気泡数を一分間一〇〇ないし二〇〇位になるよう、酸素の流量を調節している。」「Retrolental fibroplasiaを予防するため、酸素濃度は六〇パーセント以下とし、通常四〇パーセント程度に止める。また同一の理由で、酸素の供給を停止する際には、数日間にわたって徐々に環境酸素濃度を低下せしめる。」としている(甲A第二一号証の六、乙A第二五号証の二の改訂第五版昭和四〇年でも同一の記載であった。)。

29 昭和三八年三月、日本産科婦人科学会は「産婦人科診療要綱」において、「酸素を供給する場合に、高濃度であれば後水晶体線維形成症をきたすから、その濃度は有効範囲でできるだけ低いほうがよいわけである。通常二五~三〇%で呼吸自立不全、チアノーゼ、呼吸停止の発作なども消失するから、この程度で充分と思われる。ただ高度のチアノーゼや無呼吸など緊急な場合は四〇%前後まで濃くしてもよいが、状態が回復したならばできるだけ早く30%以下に降下させるべきである。いずれの場合でも酸素の供給を停止する際には、数日間にわたって徐々に環境酸素濃度を低下させなければならない。」としている(甲A第二一号証の五)。

(昭和四〇年から同四四年まで)

30 昭和四〇年一二月、慶応義塾大学医学部教授中村文弥ら監修の「臨床小児科全書第三巻」において、未熟児網膜症「の発病原因については、未熟児の保育に用いる酸素の過剰な供給によることに意見の一致をみており、中島等の調査でも酸素使用量の多い未熟児に本症の発生がみられる。予防について、本症の活動期のⅠ~Ⅱ期に発見し保育に注意すれば、著明な瘢痕を残さずに回復し、失明を免がれ得る場合もある。従って、酸素を補供した未熟児は生後一ケ月以内から、精密な眼底検査を反復して行い初期のうちに発見しなければならない。酸素の補給に当っては、やむを得ず補給する場合にもIncubator内の酸素濃度を四〇%以下に留め呼吸困難が除かれたら直ちに濃度を漸減して補給を止めるように努力することが必要である。」としている(甲A第二三号証の五)。

31 昭和四〇年一二月、都立母子保健院小児科医長村田文也は、「未熟児に起る薬の副作用」(看護技術一九六五年一二月号)において、「未熟児に対して高濃度の酸素を長期間与えると、RLFを起すことがある。」「本症の発生防止のためには、必要のある児に限って酸素を使用すること、使用する場合にはできれば環境酸素濃度を四〇%以下にすること、は周知の事柄と思う。

保育器内に酸素を流している間は、酸素濃度測官器を用いて、未熟児の頭部の近くの酸素濃度を、一日に少くとも四回は測定する必要がある。一分間に同じ量の酸素を流しても、個々の保育器の性能によって、器内の酸素濃度が異なるから酸素の使用を開始した初めのうちは、頻回に測定しなければならない。」「米国では、未熟児の重症な呼吸障害でチアノーゼがある場合、必要ならば保育器内の酸素濃度を十分高く(場合により一〇〇%近くまでする)。そのかわり臨床症状を頻回に観察し、チアノーゼが消失したら、ただちに器内の酸素濃度を下げる方法を行っている所が少なくない。」

以上、ようするに(1)酸素を使う必要のない未熟児に対して高い濃度の酸素を与える。(2)未熟児で呼吸障害などがあって、止むを得ず高い濃度の酸素を与えた場合に、症状が好転し、チアノーゼが消失した後にも安心感の為に? ひきつづき高い濃度の酸素を与えることがよくないのである。これらを防ぐためには、未熟児保育の原則の一つである『頻回の観察』が大切である。」としている(甲A第二三号証の三)。

32 昭和四一年四月、中村仁吉は、「臨床小児科学全書第一巻」において「過剰の酸素供給でRetrolental fibroplasiaをおこす危険があるので、酸素を必要とする未熟児に、必要な期間だけ、最少の必要量を供給すべきである。酸素の適応は、無呼吸、吸引で改善されないチアノーゼ、胸骨の陥没呼吸など呼吸障害である。酸素供給の方法は、閉鎖式保育器では……濃度が四〇%以下に維持されるよう、酸素の流量を調節する。Crosse、Weintraubらは酸素濃度を三〇パーセント以下にすべきことを発表している。開放性保育器の場合にはネトラン・カテーテルの尖端を切断し、断端を鼻腔に挿入し、絆創膏で頬に固定する。酸素ボンベとこのカテーテルとの間に水を入れたコルベンを直結し、コルベンの水中に生ずる気泡の数が毎分六〇前後になるよう、酸素の流量を調節する。この方法は未熟児の眼に対して安全であるとは断定できない。」、「今日のところ、高濃度酸素の長期間使用、もしくは酸素の高濃度から低濃度への急激な変化が網膜血管を傷害するためではないかと考えられている。したがって、未熟児に対する酸素供給は四〇%以下、または三〇%以下の濃度にとどめるよう指示されている。しかしながら、実際には未熟児の血中PU2が問題となるので、チアノーゼが消失するまで十分に酸素を供給し、チアノーゼが消失すれば速かに酸素濃度を減じ、チアノーゼ発現しない最低限の酸素供給を心掛けるべきであろう。われわれはチアノーゼ、呼吸障害のない未熟児には酸素を供給しない方針をとっている。」としている(甲A第二四号証の一)。

33 昭和四一年六月、村田文也は、「今日の治療指針―私はこうして治療している―一九六六年版」において、「呼吸状態が良好でチアノーゼも無い者には、酸素の補給は不要である。

酸素の過剰投与はRLFの原因となるので、酸素を供給する場合には、酸素濃度測定器を用いて一日に少なくとも三回は保育器内の濃度を測定し、できれば環境酸素濃度を四〇%以下に止めるように調節する。環境酸素濃度を四〇%にしてもチアノーゼが消失しない場合には、より高い濃度(場合により一〇〇%近くまで)とするが、児の状態が好転し、チアノーゼが消失したならば、環境酸素濃度をだんだん低くするように調節する。」としている(甲A第二四号証の四)。

34 昭和四一年一一月、日本大学教授馬場一雄は、「未熟児の保育」において、「本症のすべてを過剰な酸素の供給のせいにするのは不当であると考えている。したがって、酸素濃度を四〇%以下に止め、極端に長期にわたらぬよう注意すれば、酸素治療は大した危険を伴なうものでないと考える。むしろ、失明の危険をおそれて酸素の投与を制限したために、貴重な人命を失なうことをこそ警戒すべきであると思う。」、「チアノーゼや呼吸困難の症状を示す未熟児に対しては酸素を供給する。しかしいかに出生体重が少さくてもチアノーゼも呼吸障害もない未熟児には酸素を与える必要はない。」、「Retrolental Fibroplasiaを予防するため酸素濃度は六〇%以下とし、通常四〇%程度にとどめる。しかし、チアノーゼ発作が頻発するような場合は、短期間一〇〇%の酸素を用いても、血中の酸素分圧が上昇しないから、Retrolentalを超す危険は少ないものと考える。」「いずれにしても閉鎖方式を用いる場合は市販の酸素分析器を用いて、一日数回環境酸素濃度を分析し、病歴または温度表に記入する必要がある。」としている(甲A第二四号証の六)。

35 昭和四一年、日本産科婦人科学会新生児委員会は「新生児学」のなかにおいて、

酸素投与の項において、「二〇〇〇g以下の未熟児では生後四八時間位、さらに一五〇〇g以下の未熟児では七二時間以上、たんに酸素投与というよりは、高湿度環境下という条件も加えて肺拡張不全を助ける意味での酸素療法が行なわれるのが一般的である。」「未熟児の酸素療法時の酸素濃度は四〇%以下とするのが常識である。」(以上三二頁)、「酸素を補給するのは一二〇〇g位以下のものは全例、成熟児でも呼吸困難、口唇周囲のチアノーゼがあるものには補給する。分娩後ある期間酸素を補給して一般状態がよくなれば酸素補給を停止するが、次のような例には二四時間以後においてもなお補給を続ける必要がある。すなわち、努力呼吸、不規則な呼吸をするもの、ときどき無呼吸aPneaの発作が起こるもの、泣き声が弱いもの、あるいはピッチの速い泣きかたをするもの、無気力なもの、蒼白あるいはチアノーゼがあるもの、「けいれん様過敏」または「けいれん発作」のあるもの、一般状態が悪いものなどである。しかし、これらが回復すれば一刻も早く酸素補給を中止する。」(一二〇頁)、「酸素の補給に際し極めて重要なことは与える酸素の濃度である。高濃度の酸素たとえば五〇~六〇%を長時間補給する場合、ことにこのような高濃度から急激に低濃度にさげる場合には後水晶体線維増殖(Retrolental fibroPlasia)を起こし、失明する危険がある。一二〇〇g程度の未熟児で自力の呼吸が不完全な場合でも二五~三〇%位の持続補給で、チアノーゼは容易に消失するものが多い。したがって呼吸停止や高度のチアノーゼが起った際に、一過性にこの危険を救うために四〇%以上の酸素を補給することはあっても、これが消失したらなるべく早く徐々に二五~三〇%までさげねばならない。」、「最近でも鼻孔内にポリエチレン管を挿入して酸素を補給する方法が行なわれている。この方法は効果的であり、経済的でもあるが、酸素の%を正確に知ることができない。……もしこれで行なう場合にはチアノーゼその他の症状が除去させられる最少流量にとどめるべきである。」、「保育器内に酸素を流す場合には流量計を使用し、分時流量を測定することが必要……」(以上一二一頁)、「低酸素症に対して酸素を投与するのは明らかに有効であるが、未熟児に対し、高濃度の酸素を投与するのはRetrolental fibroPlasiaを起すといわれている。たしかに予防的に酸素を投与するのは危険であるが、チアノーゼがある新生児に酸素を投与することに、このような危険性があるかどうかは疑問があり、少なくともチアノーゼが生じない程度の酸素投与というのは必要なことだと思う。」(一五二頁)、マクドナルドの報告内容を紹介し、「チアノーゼ発作を起した未熟児に酸素治療を行なわないで放置したり、短期間に酸素投与を中止したりすると、五七%という高頻度に脳性麻痺が発生するが、十分な長期間(一一日以上)酸素治療を行った場合には、まったく脳性麻痺の発生を見なかったという。」(二六五頁)、「したがって、保育器内で長時間O2吸入をするときは、O2濃度を四〇%以下におさえてやらねばならない。このためには正確なO2濃度測定器で保育器中のO2流量と濃度を定期的に測る必要がある。ただし、このO2濃度制限は、チアノーゼのない未熟児にむやみに長時間高濃度O2の吸入をしないようにということで、未熟児にチアノーゼがあったり、分娩直後の仮死蘇生術のときは、四〇%以上であっても差支えない。」(二八一頁)、RLFにつき「種々の原因があげられているが単一のものでなく、不明の因子を併せたいくつかの因子が一緒になって起こると考えられる。環境における酸素張力―四〇%以上の高濃度酸素とか、高濃度から急激に低濃度の酸素に下げるとか―または高度未熟性、毛細血管の脆弱性やhypoxiaなどが大きな成因とされる。」としている(乙A第二六号証の五、七)。

なお、東京都衛生局の未熟児室の設備基準として、酸素濃度分析器が必ず備えられなければならないとされていることも紹介している(甲A第二四号証の一三)。

36 昭和四二年一月、村田文也は、遠城寺宗徳監修の「現代小児科学大系第二巻」において「呼吸状態が良好で、チアノーゼもないものには、酸素の補給は不要である。」、「環境酸素濃度を四〇%にしてもチアノーゼが消失しない場合にはどうしたらよいか。」、「Crosse (1961)は未熟児のチアノーゼが一〇〇%酸素によってのみ防げる場合には、酸素マスクを用いて八~一〇分間投与したのち、わずかなチアノーゼがあっても酸素をとめ、必要なときに同様な操作をくり返す。この方法は多くの時間を必要とするが、失明を防ぎかつ児を生存せしめる方法であると述べた。

Usher (1961)が治療したrespiratory distress syndrome患児のうち53例が環境酸素濃度40%以上を必要とした。退院時に眼科医にみてもらったが、RLFは一例もなかった。接続するチアノーゼがある場合にのみ40%以上の酸素濃度を用いたからであろうという。」、「Stahlman (1964)は、動脈血PO2を測定した結果から、さらにはっきりした考えを述べた。彼は呼吸障害の治療に際して、動脈血PO2が八〇~一五〇mmHgになるように環境酸素濃度を調節した。動脈血PO2を注意深く観察しなければならないのは呼吸障害の回復期であって、患児の状態がよくなるときには、動脈血PO2は短時間のあいだに一〇〇mmHgまたはそれ以上に上昇する。動脈血PO2を測定しながら酸素を投与した患児では、以下RLFは一例もみられなかった。」としている(甲A第二五号証の一)。

37 昭和四二年三月、村田文也は、「(全改訂版)医学シンポジウム第一六集・未熟児」の「酸素の補給」において、「酸素の過剰投与は後水晶体線維形成症の一因になると考えられている。過剰投与とは酸素が不必要になった後も引き続き使用(特に酸素濃度>40%)することをいう。高濃度の酸素を短期間使用した場合、眼に障害を起こすか否かは現在不明である。

a 医学的な適応のある場合に限って酸素を使用する。すなわち、一般的には

(1) 全身チアノーゼのある場合、手足のチアノーゼだけでは酸素使用の適応とならない。

(2) 呼吸困難のある場合:酸素使用の決定は医師の臨床的な判断による。

b 環境酸素濃度:症状を好転させると思われる最低濃度にする。若しできれば四〇%より高くしない。

c 症状が好転したら速やかに酸素濃度を低くするか、または中止する。この為に症状を頻回に観察することが大切である。

d 児の頭の近くに酸素濃度をできるだけ頻回に(少くとも八時間毎に)測定する。

e 小さな未熟児が純酸素を投与した時だけ皮膚がピンク色である場合にCrosseは次のような方法を勧奨している。すなわち、まず純酸素を八~一〇分間(酸素マスクで)与え、それから軽いチアノーゼが現われる迄、酸素の投与を中止する。この処置を必要なだけ繰り返す。これは時間のかかる方法ではあるが、児の視力を救い、更に生命をも救う処置であると述べている。

f アメリカ小児科学会は未熟児に対する酸素の使用に関して次の様に述べている。

『酸素の聡明な使用は、低酸素血症・呼吸困難・チアノーゼのある児の生命を救う手段となることがある、未熟児の或者の眼に傷害を与える危険があるからといって、任意に適切な酸素の使用を(そして恐らく生命も)否定することは賢明でないであろう。』と、筆者が一九六三年に見学した米国の諸施設では、臨床的に必要な場合には酸素濃度を一〇〇%近く迄上昇させていたが、同時に、児の症状を頻回に観察することに重点を置き、症状が好転したら、直ちに減量、ついで中止していた。―」と記載している(乙A第二七号証の二)。

38 昭和四二年八月、築地産院藤井としは、「未熟児の看護」(産婦人科治療一五巻二号)において、「酸素を供給している場合は濃度を測定し、チアノーゼのない児に過剰投与を行なわないように注意する。同じ流量の酸素を供給しても保育器によって濃度は異なるゆえ、あらかじめ保育器によっておよそどの位の濃度になるかを知っておくとよい。」としている(甲A第二五号証の一〇)。

39 昭和四二年七月、前京都府立医科大学教授の三宅廉は、「新生児とその疾患」において、「酸素の使用を仮死又はチアノーゼのある場合にのみ止める。即是非必要と思われる間のみにし最小限度の使用に止める。即ち数分のみ、出生直後といえども一二時間以内に止める。又酸素の量を三〇%にとどめる。たとい四〇%を用いても3日後には二五~一〇%に下げるべきである。」としている(甲A第二五号証の三)。

40 昭和四二年九月、国立小児病院の奥山和男は、「新生児特発性呼吸障害症候群の成因と治療」(小児科診療三〇巻九号)において、「患児の動脈血PO2は少なくとも五〇mmHg以上になるように酸素を投与すべきであろう。

warley and Gairdnerは、保育器内の酸素濃度を次のようにして決定すべきことを推奨している。

すなわち、チアノーゼが出現するまで酸素濃度を低下させ、チアノーゼを示す最低濃度の1/4だけ高い酸素濃度を維持する方法である。」、RLFとの関係では、「動脈血PO2が一五〇mmHg以上になると危険であるといわれる。」としている(甲A第二五号証の一八)。

41 昭和四二年八月、関西医科大学教授松村忠樹らは、「未熟児の呼吸器疾患」(産婦人科治療一五巻二号)において、

「RDSの治療に酸素吸入は必須であるが、常に酸素濃度測定器を用意し、一日数回測定する必要がある。その濃度は四〇%以下にとどめ、Cy anosisの著明なものには持続吸入よりも一〇~一五分ずつ一過性に高酸素とし、間歇投与を施行する。

Gairdner(一九六二)は血中酸素濃度を測定し、必要量に達するまで酸素濃度をあげ、ときに九〇%の酸素を吸入させる必要があったと報告している。RDSの治療にあたって、酸素の投与を慎重に行なえば、極度に酸素吸入をおそれることは得策とは言えない。」としている(甲A第二五号証の九)。

42 昭和四二年八月、臨床眼科二一巻八号において、「小児の眼疾患」というテーマにおいて、国立小児病院副院長浅野秀二と植村恭夫の対談がなされているが、その抜すいは次のとおりである(甲A第二五号証の六)。

浅野「いなかへ行きますとインキュベーターを使っておりながら、酸素濃度計のないところがあるんです。いい加減に、たとえば一分間に三リットルを出すとか、四リットルを出すとか流量計だけで見ているわけです。非常に危険なわけですが、それが行なわれています。これは私だけでなくて、眼科の先生方みなさんそうだろうと思いますけれども、この病気を少しでも少なくするためには、少なくともインキュベーターを使う場合には、酸素濃度計が必ず付属しているものだというふうなぐらいでやっていただきたい。」(中省略)

植村「実際に小児科の先生方がRLFをこわがり、そのために酸素を制限したために、救える呼吸器障害が救えないということはないと思いますが、現状はいかがでしょうか。」

浅野「いや、必ずしも制限ということではないと思うんです。いい加減に使っているから、非常に多く使っている場合が多いんじゃないか。ご承知のようにチアノーゼがあっても、四〇%ぐらいで十分ではないかと思います。五〇%もつかわなければチアノーゼがとれないということはちょっとおかしいと思います。

それからもう一つは使い方です。別にチアノーゼなんかあまりこなくて、わりあいに元気なのでもなんでもやたらに使うということをセレクションしてきめていくというふうなことをすれば、私はずいぶん違うんじゃないかと思っているんです。」

43 昭和四二年一二月一日、大阪市立小児保健センター大浦敏明らは、「新生児特発性呼吸障害とその治療」(治療四九巻一二号)において、RDSに対する治療としての酸素投与につき、「原則として酸素濃度は四〇%以下に止める。しかし、なおチアノーゼがとれない時は、もしPaO2測定装置があればPaO2一〇〇mmHgまで酸素濃度を高めてよい。すなわちこの場合は一〇〇%酸素でも差支えない。もし装置がない場合は、Warley & Gairdnerの方法による。たとえ四〇%以下でも状態が改善され、チアノーゼが消失すれば酸素濃度を下げ、もしくは酸素投与を中止する。高濃度酸素の毒性は腰のみならず、脳、肺にもおよぶことが示唆されている。」としている(甲A第二五号証の一二)。

44 昭和四三年五月、関西医科大学教授松村忠樹は、「医学シンポジウム第三一集新生児」において、「R・D・Sの治療に酸素は必須である。……濃度は四〇%以下に止める。」「鼻腔内酸素補給は時に過剰投与の危険をともなうので行なわない方がよい。」、「チアノーゼの著明なときは、一過性に酸素濃度を高めて、チアノーゼを取り除いた方が良策であるが、その時間は一〇~一五分間とし、間歇的に施行する。Gairdnerは血中O2を測定し、必要量に達するまで酸素濃度を上げ、ときに九〇%の酸素を吸入させる必要があると報告している。」と紹介している(甲A第二六号証の七)。

45 昭和四三年一月、船川・宮崎・馬場らは、「未熟児の保育」のRLFの項において、「未熟児に酸素を与える場合には原則として四〇パーセント以下の濃度を用いるべきである。」としているが、書証として提出された部分が一部なので、どのような場合に酸素を与えると記載されているのかは不明である(乙A第二八号証の一〇)。

46 昭和四三年四月、日本大学教授の馬場一雄は、「新生児病学」において、「チアノーゼや呼吸障害を示す例に対してはもとより、たとえ臨床的には呼吸障害の症状が認められなくとも、一般に未熟児に対しては生後一定の期間は酸素の供給を行った方がよいように思われる。けだし未熟児はいわゆるPulmonary immaturityのために肺胞からの酸素の摂取が不充分と考えられるからである。」「酸素の供給期間は、……生下時体重によって一二〇〇g以下は二週、一二〇一~一五〇〇gは一週、一五〇一~二〇〇〇gは三日、二〇〇一g以上は一日を大体のめやすにしている、呼吸困難やチアノーゼを認める例に対してはこの限りではないこと……」を明らかにしている(乙A第二八号証の三)。

47 昭和四三年五月、日本小児科学会新生児委員会は、「未熟児の予後を改善するためには、完備した設備と優れた医療および看護体制による適切な管理が不可欠である」として、「未熟児管理に関する勧告」を発表したが、それには「酸素投与は医師の指示によって行う。保育器内の酸素濃度は定期的に測定・記録されなければならない。」とされている(乙A第二八号証の六)。

48 昭和四三年六月、日本産科婦人科学会新生児委員会は、「産科における新生児診療要綱」を発表し、「新生児肺不全(RDS)の未熟児でチアノーゼが高度のときはチアノーゼが軽度になるまで酸素濃度を八〇パーセント以上にしてもよいが、濃度を下げるときは徐々にするようにする。軽度になった後に酸素吸入をつづけるときは四〇パーセント以下の濃度で吸入する。」としている(乙A第二八号証の九)。

49 昭和四三年六月、大浦敏明らは、「新生児特発性呼吸障害とその治療」(産婦人科治療一六巻五号)において、「Klausはもし児がチアノーゼを示せば高濃度の酸素を使用でき、新生児の蘇生には一〇〇%のO2は安全に使用できると述べ、同時に高濃度のO2を用いる時は、PO2をしばしば測る必要があるとのべている。

Gairdnerは血中O2濃度を測定し、必要量に達するまでO2濃度をあげ、ときに九〇%を吸入させる必要があると報告した。

Warley及びGairdnerは臨床的に用いる酸素療法として、もしもチアノーゼが四〇%でなおみとめられればその1/4をあげて五〇%にする。それ以上のO2濃度は動脈血のPO2を測定して決めるべきであると述べている。」と紹介している(甲A第二六号証の六)。

50 昭和四三年九月、奥山和男らは、「未熟児管理の現況」(眼科一〇巻九号)において、「未熟児に対して酸素を投与する場合は、動脈血のPO2をめやすにすることが理想的ではあるが、動脈血の反復採取は極めて困難である。臨床的には、Gairdnerが次のような方法を提唱した。」「呼吸障害およびチアノーゼのある未熟児に対しては高濃度の酸素を与える必要があることはしばしばであるが、保育器内の酸素濃度を頻回に測定すると共に、ときどき酸素濃度を低下させて、チアノーゼが出現するかどうか観察し、不必要に高濃度の酸素を与えることのないように注意すべきである。特に呼吸障害の回復期には、酸素の過剰投与の危険があるので注意深い観察が必要である。」としている(甲A第二六号証の一二)。

51 昭和四三年一〇月、大浦敏明は、「小児科治療―私はこうして治療している―」において、「もしチアノーゼ発作のある児に酸素を充分与えなければ、死亡の危険はもとより、たとえ救命し得ても永久的な脳障害(脳性麻痺、精神薄弱、その他)を残すおそれがある。したがってわれわれは充分に酸素を与えることを重視する。」

「水晶体後部線維増殖症をおこさないPaO2の安全限界は一五〇~一六〇mmHgと考えられているので、結論としては酸素投与は、PaO2が一〇〇~一五〇mmHgに達するまでは酸素濃度を高めてよいことになる。

現在、われわれの施設ではPaO2を測定し、一〇〇mmHgに達するまで随時酸素濃度を高めている。IRDの回復期には一日二~三回PaO2を測定してPaO2が一五〇mmHgにならないよう特に注意する。

検査室の利用できない夜間、またはPaO2測定機器を有しない施設では、Warley & Gairdnerの方法を用いている。すなわち、一度チアノーゼの消失するまで酸素濃度を高め、消失したら次第に酸素濃度を下げてチアノーゼが軽く出現する濃度を見出す。そしてそれ以後は、その濃度の1/4をふやして与える。たとえば、四〇%で軽いチアノーゼが再出現したならば、その1/4(一〇%)を足して五〇%の酸素を与える。

呼吸障害が消失すれば、次第に酸素濃度を下げて酸素投与を打切る。たとえ四〇%以下であっても、回復期以後も漫然と長期間酸素を与えていると、水晶体後部線維増殖症の発現しうることをわれわれは経験している」としている(甲A第二六号証の一五)。

52 昭和四三年一一月、奥山和男は、「新生児のいわゆる呼吸障害症候群(RDS)について」アンケートに対する回答において、

「呼吸障害に対して酸素は不可欠である。投与する酸素の量はチアノーゼの有無をめやすにして決定する。すなわち、チアノーゼが消失するまで酸素濃度を高め、ついで酸素濃度を徐々に低下させて、チアノーゼが軽く出現する濃度を見出し、それよりわずかに高い濃度に維持する。

従来、未熟児に酸素を投与する場合は、RLFの発生を防ぐために、環境の酸素濃度を四〇%以下にすべきことが強調されて来た。しかし、近年RLFの発生は、動脈血の酸素張力に関係することが明らかにされ、およそ一五〇mmHg以上になると危険であるといわれている。」

「高濃度の酸素投与中は、側頭動脈血より採血してPO2を測定し、五〇~一〇〇mmHgの値を保つよう注意している。」としている(甲A第二六号証の一八)。

53 昭和四四年一月、関西医科大学教授塚原勇・松村忠樹らは、「未熟児の眼の管理」(臨床眼科二三巻一号)において、

「酸素投与との関係では、投与期間のみについていえば、網膜症を発生した群では平均一七・四日、網膜症を発生しなかった群では平均八・二日投与されており、網膜症を発生した群に投与期間が長い。濃度は網膜症を発生した児においても症例一および六で最高四二%以上に及んだことがあるが、他はいずれも四〇%以下である。すなわち、一般に普及している酸素濃度を四〇%以上に上げないという条件を守っても、軽症なものは発生してくることを示しているので、四〇%を守れば安心してよいというものでない。できるだけ濃度を上げず、短期間投与することが大切な心掛けである。」としている(甲A第二七号証の一)。

54 昭和四四年三月、大浦敏明ら(大阪の七つの医療機関の共同研究)は、「新生児特発性呼吸障害の治療」において、「かつて酸素濃度四〇%以下は安全であると考えられていたが……(中省略)……小さな未熟児だからといって、適応を考慮せず漫然と、予防的ないしルーチンとして酸素を長期間投与することは、RLFの発生に危険な処遇であるといわねばならない。」

「酸素投与にあたり、最も確実な示標となるものはPaO2である。PaO2を九〇~一〇〇mmHgまで高めることを目標にして酸素濃度を加減する。すなわちこの場合は酸素濃度を一〇〇%まで高めてよい。ただし同時に保育器内部を高湿度とする。RDSの回復期には、一日二~三回のPaO2測定を行なって、急激な上昇をチェックする。

PaO2測定装置は、高価であるので、もしこの装置がなく酸素濃度計のみの場合はWarley & Gairdnerのすすめる方法による。」としている(甲A第二七号証の三)。

55 昭和四四年五月、国立岡山病院山内逸郎は、「今日の治療指針―私はこうして治療している―一九六九年版」において、

IRDSについて「保育器中に酸素を投与し、器内酸素濃度を高く維持する。至適酸素濃度を各症例についてそれぞれに決定することは容易ではないが、臨床的にはWarley & Gairdnerの方法によるのが便利である。すなわち、酸素流量を徐々に下げ、チアノーゼがわずかに現われるところで酸素濃度を測定する。そしてその濃度より1/4高い水準に維持する。たとえば四〇%でチアノーゼが現われたとしたら、五〇%に維持するのである。高濃度の酸素を投与しているときは、状態の改善に応じて速やかに酸素濃度を落とすよう心がけていなくてはならない。状態がよくなっているのに、高濃度の酸素を与えることは、水晶体後方線維増殖症あるいは酸素による肺障害を招く危険が大きいからである。未熟児に対する酸素投与は、これまで三〇~四〇%に押えなくてはならないと強調されてきたが、この限界は合併症のない未熟児に対する持続投与の場合であって、呼吸障害を伴うときはこれにとらわれることなく、高濃度の酸素を投与してさしつかえない。なお現在酸素療法の指標として最も適しているのは、動脈血酸素分圧と考えられている。」としている(甲A第二七号証の六)。

56 昭和四四年四月、日本医科大学教授真柄正道は、「最新産科学」において、「体重一〇〇〇グラム前後のものでは一四~一七日間持続的に与えるのがよいといわれる。保育器内の酸素濃度は三〇~四〇パーセント位の範囲内で適当に調節するのがよい。……あまり高濃度(五〇~六〇パーセント)の酸素環境中で保育すると後水晶体線維増殖症を来すともいわれるが、現在のわが国の酸素供給現状ではこの心配がないという。」としている(乙A第二九号証の三)。

57 昭和四四年一一月、東北大学医学部教授安達寿夫は、「新生児学入門」において、「一〇〇〇g以上であっても二・〇kg以下の未熟児はしばしば呼吸が浅く、肺胞が充分拡張するのに一~二週を要するものが多く、はなはだしいときは一カ月も要するといわれるので、保育器内で生後一定時間酸素吸入をして、順調に肺胞が拡大するのを助けねばならない。高度未熟児でも呼吸中枢の異常がなければ、初めは呼吸も安静的で、皮膚にチアノーゼもなく真赤で一般状態も良好にみえるが、数時間後から胸骨陥没呼吸を伴う努力性呼吸が始まり肺硝子様膜を形成し、またその後ある程度生存し得たものは肺出血のため鼻腔より出血して死亡することがしばしばである。これらの病変はアノキシアと密接な関係にあるので、出生後一般状態が良好でも生後一定時間はO2吸入を行う方が合理的である。酸素吸入を予防的に行なう際には、過度をさけあらかじめ各保育器で各流量のO2濃度を測定しておき、器内を三五%前後の濃度にして吸入させる。……もし、十分高濃度の酸素を与えてもチアノーゼが消失せず、また無呼吸発作の場合は、蘇生器による陽圧O2吸入を行なうと呼吸の正常化やチアノーゼの消失に有効である。」としている(乙A第三三号証の一〇)。

58 昭和四四年一二月、高津忠夫監修の「小児科治療指針」は、「チアノーゼや呼吸困難を示さない未熟児に対しても、全て酸素を供給すべきか否かには議論がある。出生後暫くの期間における未熟児の血液酸素飽和度は低値を示し、また肺の毛細管網の発達が不充分なために、酸素の摂取が不良であることが予想され、一度無酸素症に陥れば、無酸素性脳障害や無酸素性出血を起こす可能性が考えられるので、ルーチンに酸素を行なうこともあるが、この場合には酸素濃度は三〇パーセント以下にとどめる。酸素投与の期間はなるべく短い方がよい。しかし、呼吸窮迫症候群やチアノーゼの認められる場合には更に高濃度の酸素を使用する必要がある。」としている(乙A第二九号証の三)。

59 昭和四四年七月、岡山大学医学部産科婦人科学教室は、「岡大産婦人科常用処方集(案)」を発表したが、新生児呼吸障害の診断確立までの処置としての酸素投与につき、

「a 高濃度三〇~四〇%

適応 全身チアノーゼ、呼吸数増加80/分以上、頻回の無呼吸発作更に、チアノーゼ改善が得られない場合はチアノーゼ消失を目標に純酸素投与

目標 1 チアノーゼ消失

2 PaO2100mmHg(PaO2150mmHg以上はRetrolental fibroplasiaの危険がある。)

b 低濃度 二五%

適応 1) 仮死蘇生後(特に生後五分、十分のApgar指数七以下の時)

2) 手術分娩(帝切、吸引分娩)

3) コットで保温が充分であるにもかかわらず、口唇・四肢末端のチアノーゼがとれない場合

4) 未熟児一五〇〇g以下

目標 呼吸数四〇/分に落着くまで(六~一二時間)」

としている(甲A第二七号証の一三)。

(昭和四五年から同四八年まで)

60 昭和四五年五月、国立小児病院奥山和男は

「本症(IRDS)の治療に酸素投与は不可欠であるが、酸素の過剰投与は、眼に水晶体後部線維増殖症をおこす危険があるので、投与量および期間に注意を要する。ふつう、チアノーゼが消失するまで保育器内の酸素濃度を高め、ついで酸素流量を徐徐に下げて、チアノーゼが再び出現するときの酸素濃度を測定し、それよりわずかに高い濃度に維持する。Warley and Gairdnerは、チアノーゼがあらわれたときの酸素濃度より1/4だけ高い濃度に維持することをすゝめている。すなわち、60%の酸素濃度でチアノーゼがあらわれたら、75%に維持する方法である。

従来、未熟児に酸素を与えるときには、40%以下にすべきであると強調されて来たが、水晶体後部線維増殖症の発生は、環境の酸素濃度よりもむしろ動脈血のPO2に関係があることが知られた。呼吸障害があるときには、チアノーゼが消失するまで酸素濃度を高めてよい。保育器内の酸素濃度が十分に上昇しないときには、患児の頭部にさらにフードをかぶせ、フード内に酸素を流せば80~90%の高濃度の酸素を与えることができる。

酸素投与中は、一日数回酸素濃度を下げてチアノーゼがあらわれるかどうかを観察し、チアノーゼが出現しなければできるだけ速やかに酸素を減量ないし中止する。呼吸障害の回復期に漫然と酸素投与を続けることは、水晶体後部線維増殖症の発生を招く危険が多いので慎しまなければならない。

酸素投与中は、出来れば動脈血のPO2を測定し、PO2が50~100mmHgに保たれるように環境の酸素濃度を維持することが望ましい。」としている(甲A第二八号証の二)。

61 昭和四五年二月、「今日の小児治療指針」において

国立小児病院奥山和男は、酸素投与について、「呼吸窮迫症候群では、肺胞の虚脱と拡張不全のために肺胞における換気が障害されている。また、肺血管の収縮のために肺血流量は減少し、動脈管や卵円孔をとおる右→左シャントが起こる。このような心肺系の異常に基づいて動脈血のPO2は低下し、組織に対する酸素の供給が減少して、患児は深刻なanoxiaに陥る。したがって、anoxiaを救うために、十分な酸素の投与が必要となる。酸素投与は、肺胞の換気をよくするだけでなく、肺血管抵抗を低くして肺血流量を増加させることが知られている。一方、酸素の過剰投与は未熟児の眼に水晶体後部線維増殖症を起こす危険があるので、投与量および期間に注意を要する。チアノーゼが消失するまで保育器内の酸素濃度を高め、ついで酸素流量を徐々に下げて、全身にチアノーゼが再び出現するときの酸素濃度を測定し、それよりわずかに高い濃度に維持する。酸素投与中は、一日数回酸素濃度を下げてチアノーゼがあらわれるかどうかを観察し、チアノーゼが出現しなければできるだけ速やかに酸素を減量ないし中止する。」としている。

村田文也は、低出生体重児の保育に関して、

「酸素の供給……呼吸障害がなく、チアノーゼもない者には酸素を投与しない。多呼吸、陥没呼吸があるがチアノーゼがない場合には環境酸素濃度を二五%とする。

後水晶体線維形成症を警戒して、環境酸素濃度(少なくとも一日三回測定)が四〇%をこえないようにつとめるが、全身性チアノーゼが消失しない場合には、必要な量を供給する。

すなわち、酸素濃度を上昇(チアノーゼ消失)、次いで低下させてチアノーゼが再び軽く出現したときの保育器内の酸素濃度を測定し、その1/4増の濃度増の濃度を与える。児の状態が好転すれば、酸素濃度の低下ないしは中止をしばしば試みる。また、児の動脈血酸素分圧PaO2を測定して一〇〇mmHgをこえないようにする。」としている。

永田誠は、「呼吸障害やチアノーゼがなくなった未熟児に、だらだらと酸素を使用することがもっともよくない。しかしいかに酸素使用に神経を使っても、極端な低体重児では、ある比率をもって本症が発症してくることはさけがたい。……したがって呼吸障害が強いときはチアノーゼが指標として、むしろ積極的に酸素を使用し、呼吸障害が去れば、できるだけ早期に酸素を減量中止することが望ましい。PaO2を指標として使用酸素濃度を加減できれば理想的である。」としている(甲A第二八号証の一〇)。

62 昭和四五年一一月、奥山和男は、「専門医にきく今日の小児診療Ⅰ」において、

「酸素を与える適応や方法、量はどのようにしたらよいでしょうか」という質問に対し、「以前は酸素投与によって死亡率が改善されたとか、未熟児にみられる周期性呼吸が軽快するとかいうことで、ルーチンに高濃度の酸素投与がおこなわれた時代がありましたが、水晶体後部線維増殖症と酸素投与との関係が発見されてから、酸素投与は制限されるようになり、現在は未熟児にはルーチンに酸素を与えてはならず、呼吸障害および全身のチアノーゼがあるばあいに限って酸素を投与いたします。酸素濃度はチアノーゼが消失する最低の濃度を与えるのが原則です。

医師は酸素投与を指示するときは、酸素の流量ではなく、濃度で指示しなければなりません。そして一日一回か二回は酸素を減量し、チアノーゼの有無を確かめます。チアノーゼがでなくなったら酸素を速やかに中止し、漫然と長期間酸素を使うことは避けなければなりません。」と答え、

「最高濃度はどれ位でしょうか。」という質問に対し、「四〇%以下にすることがすすめられたことがあります。しかし、酸素濃度をこのように制限すると、重症の呼吸障害があるばあいには、死亡率が高くなる、あるいは酸素欠乏による脳障害が起ってくるということが発表され、現在では必要なだけ充分な酸素を与えなければいけないといわれています。」と答え、「本症の発生には網膜血管の未熟性が根本的な役割を演ずると思われますが、酸素以外の因子についても今後再検討する必要があります。」、「水晶体後部線維増殖症の発生は、環境の酸素濃度よりもむしろ動脈血のPO2に関係することが知られています。」「未熟児に酸素を与えるときには、動脈血を採取して、PO2を測定しながら投与量をきめるのが理想的です。」「臨床的には、全身のチアノーゼをめやすにして酸素投与量をきめる方法が用いられております。」とも述べ、「チアノーゼテストを毎日一回ずつやって脳に影響を及ぼしませんか。」との質問に対し、「酸素を減量してチアノーゼがうすくでたら、すぐ増量して長時間チアノーゼのあるままにしないように注意が必要です。未熟児はたえず観察していることが大切です。」と答え、「酸素濃度の漸減という考え方は今はあまり支持されていません。むしろ酸素濃度を漸減していくことによって投与期間が長くなることになり、かえって悪影響があると考えられます。」と述べている(甲A第二八号証の一一)。

63 昭和四五年一一月、国立小児病院奥山和男は、「未熟児の管理」(臨床眼科二四巻一一号)において、「未熟児網膜症の発生は、環境の酸素濃度ではなくて網膜の動脈血のPO2に関係があると報告されている。したがって、未熟児網膜症の予防のためには、動脈血PO2がおよそ五〇mmHg以下ではチアノーゼが出現し、寒冷に対する代謝反応が障害されることから、五〇mmHg以上に保たなければならないことは明らかであるが、安全域の上限はまだ不明である。」「臨床的にはチアノーゼをめやすにして投与する酸素の量を決定する方法がすすめられている。全身のチアノーゼが消失するまで環境の酸素濃度を高めるが、酸素濃度が高すぎないように注意しなければならない。……酸素飽和度80%以上ではチアノーゼは認められず、新生児はピンク色をしている。そのときの動脈血のPO2は、60mmHgかも知れないし、あるいは三〇〇mmHgというような著しい高値を示して、網膜を障害するようなレベルに達しているかもしれない。ピンク色をしている新生児のPO2は、外観からは判定できないので、臨床的には一日数回保育器の酸素濃度を下げてチアノーゼが出現するかどうかを確かめ、チアノーゼがあらわれゝばそのときの酸素濃度よりわずかに高い濃度に維持する方法がとられている。」としている(乙A第三〇号証の七)。

64 昭和四六年五月、関西医科大学教授松村忠樹は、「今日の治療指針―私はこうして治療している―一九七一年版」において、新生児の呼吸困難に対する治療法としての酸素投与につき、「原則として患児は保育器に収容して、ただちにO2吸入を開始する。器内のO2濃度は症例によって異なるが、一般に四〇%以下とする。チアノーゼがあれば、これの消えるまで濃度をあげる。動脈血のPaO2、PaCo2、PHを測定し、PaO2は100mmHg以上あげる必要はない。PaO2を指標に吸入O2濃度を決定するのが最良であるが、もしPaO2測定が不可能な場合はチアノーゼの消退までO2濃度を上げ、再び徐々にO2濃度を下げてゆく。チアノーゼが再出現するときのO2濃度がa%であれば、(a+a/4)%濃度のO2を吸入させるようにすればよい。この様な注意はいうまでもなくretrolental fibroplasia予防のために必要である」としている(甲A第二九号証の六)。

65 昭和四六年九月、東京都立墨東病院篠塚輝治らが編集者となって、「四季よりみた日常小児疾患診療のすべて」において、国立岡山病院山内逸郎は、「仮死はなく呼吸が安定していても、チアノーゼが数時間から二四時間以上続くことが多い。呼吸循環の適応過程に相当する時期である。この間が長くかかるのが未熟児のひとつの特徴である。この時期には酸素を投与する。」「濃度は三〇~四〇%が普通である。出生後二、三時間以後に、呼吸障害があらわれればさらに酸素濃度を上げる。至適酸素濃度を各症例にてそれぞれ決定することは必ずしも容易ではないが、臨床的にはWarley & gairdnerの方法によるのが便利である。すなわち酸素流量を徐々に下げ、チアノーゼが現われるところの酸素濃度を測定する。そしてその濃度より1/4高い水準に維持する。たとえば40%でチアノーゼが現われたとしたら50%に維持する。

高濃度の酸素を投与しているときは、状態の改善に応じて速やかに酸素濃度を落すように心がけていなくてはならない。状態がよくなっているのに高濃度の酸素を与えることはPaO2の著しい上昇をまねき、水晶体後方線維化症、あるいは酸素による肺障害を招く危険が大きいからである。未熟児に対する酸素投与は、これまで30~40%に押えなくてはならないと強調されてきたが、この限界は合併症のない未熟児に対する持続投与の場合であって、呼吸障害を伴なうときはこれにとらわれることなく、高濃度の酸素を与えてさしつかえない。」、「至適酸素濃度の決定は動脈血酸素分圧によるのが最も合理的である。しかし『いつでも』『どこでも』『だれにでも』出来るといった測定法ではないので、実際的ではないうらみがある。」としている(「出生から二四時間の取り扱い」の項)。

また、関西医科大学教授松村忠樹もIRDSの治療の項において、「incubator内のO2濃度を四〇%以下にしておけば、RFの発生は少ないといわれてきたが、軽症のretinopathyはO2四〇%以下の環境でも発生している。また低濃度のO2吸入では児の生命を救うことが出来ない場合も少なくない。cyanosisの著しいときには一過性に吸入O2濃度を高めてcyanosisを取り除くことが必要であろう。この際しばしばPaO2を測定して重症のRFを惹き起こさぬようにO2濃度を加減する配慮を必要とする。実際には、PaO2を頻回測定することは困難であるから、cyanosisのなくなるまでO2濃度をあげ、その後徐々に濃度を下げてゆき、再びcyanosisが出て来た時の濃度の二五%増しに吸入をつづけるという方法がある」としている。

さらに、植村恭夫は、「未熟児網膜症」の項において、「未熟児網膜症の発生に酸素が『ひきがね』となることは異論がなく、そのために未熟児の酸素療法には、本症予防のために次の如き要請がなされている。

一 hypoxiaが明らかに出現しているか、それが強く疑われる場合にのみ未熟児に酸素を投与すべきこと。

二  高濃度酸素療法が、相当な期間必要とされるときには、哺育器内の酸素濃度の規則的な測定および記録に加えて、動脈PO2値による看視を行なう必要がある。」としている(甲A第二九号証の一二)。

66 昭和四六年六月、天理病院金成純子らは、「天理病院における未熟児網膜症の対策と予後」(日本新生児学会雑誌七巻二号)において、天理病院における未熟児管理についてふれ、「酸素供給は、当初はやはり過剰になる傾向があったが、最近では、入院時に体色、呼吸状態の良好なものには、体重のいかんにかゝわらず使用せず、酸素濃度は原則として30%以下とし、状態不良の場合は、口唇、口周、爪床のチアノーゼがほゞ消失するまで濃度を上げている。状態改善後、軽症で低濃度の場合は直ちに打ち切り、重症で高濃度に至ったものは漸減、25%内外で数時間ないし一両日観察し、体色、呼吸状態の悪化が認められなければ中止している。眼科検診は、通常、生後二~三週から開始しているが……」としている(甲A第二九号証の八)。

67 昭和四六年一〇月、国立小児病院奥山和男は、「水晶体後部線維増殖症」(小児医学四巻四号)において、「RLFの発生は、網膜の未熟性と酸素投与に関係があることは明白な事実である。RLFの予防のためには、未熟児に対してはルーチンに酸素を使用することはさけるべきで、呼吸障害やチアノーゼがある場合にのみ酸素を使用し、しかも必要最低限の量とすべきである。

未熟児に酸素を投与するときには、できれば動脈血を採取しPO2を測定しながら酸素濃度を決定すべきであろう。」「動脈血のPO2を測定して投与する酸素濃度を加減することは実際にはむずかしいので、臨床的には全身的なチアノーゼをめやすにして酸素の投与量を決定することが行なわれているWarley and gairdnerは次のような方法をすゝめている。すなわち、チアノーゼが消失するまで酸素濃度を高め、それから徐々に酸素濃度を下げて、軽くチアノーゼがあらわれるときの酸素濃度を調べ、その濃度の1/4だけ高い濃度に維持する方法である。

酸素療法中は、保育器内の酸素濃度を頻回に測定し、記録しておかなければならない。」「反復する無呼吸発作は、体重の小さい未熟児におこりやすく、したがってRLFも発生しやすいので酸素療法を行なうときにはとくに注意を要する。かかる症例に持続的に高濃度の酸素を投与することは、はなはだ危険である。すなわち酸素を与えていても無呼吸発作時には動脈血のPO2は著しく低下するが、呼吸が再開されゝばPO2は網膜を障害するほどに著しく上昇することが理論的に考えられるからである。かゝる症例には、適切な酸素濃度をきめることは極めて困難である。動脈血のPO2の測定が出来るときには、頻回の測定結果に基づき、たえず酸素の量を加減しなければならない。動脈血のPO2の測定が出来ないときには、無呼吸発作から回復したら、速やかに酸素を減量ないし中止するようにしなければいけない。無呼吸発作が頻発し、無呼吸の時間も長いときには、レスピレーターの使用が必要となる。」としている(甲A第二九号証の四)。

68 昭和四六年一一月、「現代産科婦人科学大系二〇巻B新生児各論」において(甲A第二九号証の二四)、馬場一雄・川真田裕は、「酸素療法はチアノーゼおよび呼吸障害を呈する疾患に必要なことはいうまでもないが、高濃度の酸素を長期に投与すると未熟児網膜症(RLF)の発生の危険があり、また肺実質の障害も考えねばならない。酸素濃度は一般に40%以下を使用するといわれているが、gairdnerは血中の酸素濃度を測定し、必要量まで酸素濃度を上げる必要があると報告し、またRDSでは動脈管および卵円孔に短絡を有することが多いため、100%酸素濃度でも血中の酸素濃度の上昇が少ない。血中のPaO2を90~100mmHgに保つよう酸素濃度を加減する必要がある。PaO2の測定には一般に臍帯動脈血が使用されているが、Rodeitsonらの報告ではPaO2100mmHg当たり10mmHg上膊動脈血のほうが臍帯動脈血より高いので、網膜動脈血はより高くなることを考慮しPaO2を60~90mmHgに保つのが安全であると述べている」としている。

馬場一雄・中村博志は、「後水晶体線維増殖症」において、「原因」につき、「四〇%以下の酸素濃度に置かれた未熟児でも本症の発症をみた例もあり、」とし、「治療」の項において、「早期の活動期または消退期に発見されたものは、酸素濃度を一度五〇~六〇%まで上げ、その後酸素濃度を徐々に段階的に減圧していくと同時に、副腎皮質ホルモン剤、止血剤、ビタミンB1剤B12剤、血管拡張剤などを投与する。」とし、「予後」として「できるだけ保育器内の酸素濃度を40%以下におさえるようにする。」としている。

藤井良知は、特発性呼吸障害症候群の治療として「……酸素補給は、新生児ではチアノーゼ出現前にすでにhypoxiaの状態に陥るのでPO2が50mmHg以上となるように与える。Warley & gairdnerはチアノーゼ出現防止必要量少量の1/4増量したO2濃度をすゝめている。しかし必要がなくなれば一時間以上与えないことが必要で常時監視を必要とする。後水晶体線維増殖症は動脈血PO2150mmHgが危険域で、呼吸障害症候群では酸素を高濃度に与えてもこの水準まで達せしめることはむずかしい。」としている。

69 昭和四六年一〇月、日本大学医学部教授馬場一雄は、「新生児疾患と処方」(小児科診療三四巻一〇号)において、呼吸障害に対する酸素投与につき、「PaO2が一〇〇mmHgを超えないように器内の酸素濃度を調節するが、PaO2を実測し得ない場合は、大浦の推奨するWarley & Gairdnerの手技によるのが便利である。」としている(甲A第二九号証の三一)。

70 昭和四七年五月、「今日の治療指針―私はこう治療している―一九七二年版―」において、神奈川県立こども医療センター小宮弘毅は、新生児の呼吸困難について「アノキシアを防ぐために十分な酸素を補給する。酸素投与量はチアノーゼが消失する程度にする。呼吸困難の回復期には急激に血中酸素濃度が上昇するので、酸素投与量を減らしてチアノーゼが出現しないかどうか、およびPaO2に注意する。とくに未熟児では酸素の過剰は未熟児網膜症の危険があるので、PaO2に注意することが大切である」とし、永田誠は、網膜症発生の予防として「できれば酸素供給中の眼底血管攣縮の監視や、動脈血中のPaO2を指標として、使用酸素濃度を加減できれば理想的であるが、実際上はなかなか困難であるので、呼吸障害やチアノーゼのなくなった未熟児に酸素を使用することを極力避け、酸素濃度計を使用して過剰な酸素投与を防ぐ他ないが、濃度計の誤差にも注意しなければならない。」としている(甲A第三〇号証の八)。

71 昭和四七年九月、関西医科大学松村忠樹は、中村兼次ほか監修の「小児科学年鑑」において、「新生児期にはRDSを始めとして、いろいろな場合に酸素療法を行なう機会が多い。米国小児科学会の胎児新生児委員会では、酸素療法についてのreeommendationを発表している。実地診療上非常に有用な提言と思われるので、ここにその大要を掲載しておく。

新生児に酸素療法を行なう場合には、PaO2が一〇〇mmHg以上に上昇するとretrolental fibroplasisを起す可能性がある。RLFを起こさないためのPaO2の上限、酸素療法の許容期間などはまだ良く判っていない。かつて考えられていた安全圏(保育器内酸素濃度が四〇%以下)でも、一部の未熟児には危険である。また四〇%の酸素濃度では呼吸循環に障害のある児のPaO2を正常に保つことが出来ないこともあり、ときには六〇%、八〇%あるいはそれ以上の高濃度酸素を必要とすることがある。既述したように末梢性のチアノーゼがあるにかかわらず、PaO2が正常範囲にある場合が認められている。したがって高濃度酸素療法を実施中は動脈血のガス分析をmonitorとして頻回に行なう必要があり、次の各項を遵守することがrecommendされている。

1 酸素療法中はしばしばPaO2を測定し、一〇〇mmHgを超さないようにする。六〇~八〇mmHgに保つのがよい。

2 適当なPaO2を維持するためには酸素濃度を比較的高くする必要が生じることもある。

3 もし血液ガスの分析が不可能なときは、満期成熟児で無呼吸発作がなくチアノーゼをきたしている場合はチアノーゼの消失するまで酸素濃度を上げてもよい。しかし早産児で酸素療法が必要なときは、必ず血液ガス分析を行なうことが出来、酸素濃度を調節し得る設備をととのえた病院に入院しなければならない。

4 理想的な動脈血採集場所はradialかtemporal arrteriesであるが、多くの場合Umbilical arteryからカシーターを挿入して、下行大動脈から採血すれば充分である。

5 保育器内の酸素濃度は少くとも二時間おきにO2―Analyzerで測定し、O2―Analyzerはいつも一〇〇%酸素を用いて検定しておく。

6 吸入酸素は必ず加温加湿を要する。

7 酸素療法で症状が改善されれば、あとはPaO2をみながら、出来るだけ速かに吸入酸素濃度を一〇%づつさげてゆく。

8 上記の注意を守っていても、ときに高濃度酸素は他の臓器(例えば肺)にtoxicに働くことがある。

9 RLFについては胎生三六週以前、出生体重二〇〇〇g以下の未熟児で、新生児期に酸素療法をうけたものは、退院時と、生後三か月、六か月の三回は眼底検査を行なう。」と報告している(甲A第三〇号証の二二)。

72 昭和四七年九月、群馬大学助教授五十嵐正雄は、「産婦人科最新治療指針」において、「酸素の供給・呼吸障害がなく、チアノーゼもない場合は酸素を投与しない。多呼吸、陥没呼吸があるがチアノーゼがない場合には環境酸素濃度を25%とする。

後水晶体線維形成症を警戒して、環境酸素濃度(少なくとも一日三回測定)が四〇%をこえないようにつとめるが、全身性チアノーゼが消失しない場合には、チアノーゼが消失に必要な最少量を供給する。

酸素濃度を少し上昇して、チアノーゼが消失したら、次いでO2濃度を低下させてチアノーゼが再び軽く出現したときの保育器内の酸素濃度を測定し、その1/4増の濃度を与える。児の状態が好転すれば、酸素の濃度の低下ないしは中止をしばしば試みる。また、児の動脈血酸素分圧PaO2を測定して一〇〇mmHgをこえないようにする」としている(甲A第三〇号証の二三)。

73 昭和四七年一一月、北里大学医学部産婦人科講師島田信宏は、「未熟児保育に関する諸問題」(最新医学二七巻一一号)において、「正確に酸素の投与量を決定するには、未熟児の動脈血中の酸素分圧PaO2を測定して決定する。すなわち、PaO2が六〇~八〇mmHgの間にあるように酸素を投与し、PaO2は一〇〇mmHgをこえないようにする。したがって、継時的にPaO2を測定し、それが六〇~八〇mmHgの間にあるようにO2投与量をコントロールしていく。PaO2一〇〇mmHgをこえないかぎりは、高濃度の酸素を未熟児に投与しても未熟児網膜症による水晶体後方線維増殖症のための失明は発症しないというのが最近の理論である。PaO2が一〇〇mmHgをこえると、その時は酸素投与は過剰なので酸素の流量を減少させなくてはならない。」「このような動脈血中の酸素分圧PaO2の測定ができない施設では、未熟児のチアノーゼを目標にして投与する酸素の量を決定する方法がある。まず最初は、未熟児のチアノーゼが消失するまで酸素濃度をあげていき、それから徐々に酸素濃度を下げてみる。そして、未熟児にごく軽量のチアノーゼが出現してくるような時の保育器内の酸素濃度を酸素濃度計で測定する。そして、この時の酸素濃度にその1/4を加えた%で酸素を投与する。」「酸素投与は、前述した無呼吸発作を予防する治療にもなるので、必要量だけは十分に投与する必要があるが、呼吸障害が改善されて酸素投与が不必要になったら直ちに酸素投与を中止して、不要な酸素を与えないようにする。」としている(甲A第三〇号証の三〇)。

74 昭和四七年六月、奥山和男らは、「未熟児網膜症と酸素療法―小児科医の立場から」(小児科臨床二五巻六号)において、「動脈血のPO2を測定しながら酸素の投与量を加減することは実際にはかなりむづかしく、可能な施設は限られている。したがって、臨床的には全身的なチアノーゼをめやすとして酸素の投与量を決定することが行なわれている。」としている(乙A第三二号証の八)。

75 昭和四七年一一月、国立岡山病院山内逸郎らは、「未熟児の保育―特にHigh Risk Neonateとしての取り扱いについて―」において、動脈血中酸素分圧の測定がかなり普及してきた現在では酸素療法の見直しが必要であるとし、「未熟児がcyanoticであったら酸素を与えなければならない。しかし、cyanosisの有無は判然としないことがよくあるので、ついover careの傾向が強くなる。皮膚や粘膜の紫藍色の程度から動脈血酸素飽和度SaO2を評価することは、多くの理由から定量的判定からはほど遠いものである。その理由の二、三を上げれば、局所のcyanosisらSaO2が正常であっても、血液循環の局所的遅延によって起こりうるし、cyanosisの発現は新生児期に個人差のきわめて著しい血色素濃度や皮膚色調に強く影響され、青さの認知は照明条件の差、観察者の個人差が大きいからである。」「cyanosisを酸素療法の指標とすることには実際的にも理論的にも問題がある。」「現在では呼吸障害のあるときには充分な酸素を与えるようになってきており、再び未熟児網膜症の発生の可能性が問題となりはじめた。そして、酸素投与は吸気中の酸素濃度でなく、動脈中の酸素分圧PaO2によって監視すべきであるといわれる時代になったのである。」「PaO2は一〇〇mmHgを超えてはならず、六〇~八〇mmHgに維持するのが望ましいという一般的見解となった。」「わが国ではPaO2の測定は現在十分普及しているとはいいがたい。その理由としては、測定器の高価であること、動脈血を繰り返し採血することが困難であることなどがあげられる。臍動脈留置カテーテルによる採血は技術的には最も容易であるが、血栓形成、栓塞、血管れん縮、血管穿孔、出血、感染などの副作用が報告されており、また動脈管より下流で採血するので、右左方向の短絡の影響を受けるという点も問題となる」としている(乙A第三二号証の一三)。

76 昭和四八年五月、「今日の治療指針―私はこうして治療している―一九七三年版」において(甲A第三一号証の三)、国立小児病院奥山和男は、「未熟児に対する酸素の供給は次の原則に従う。(1)未熟児に対してルーチンに酸素投与を行なってはならない。酸素は全身のチアノーゼまたは呼吸障害がある場合のみ投与する。酸素投与が必要かどうかは医師が判断し、医師の指示によって酸素を投与する。(2)保育器内の酸素は、チアノーゼを消失させる最低濃度に維持する。(3)一日に一~二回は酸素濃度を下げてみて、チアノーゼが出現しなければすみやかに酸素を減量ないし中止する。(4)酸素濃度は一日数回測定し、記録する。(5)高濃度の酸素投与中は、できれば動脈血PO2を測定し、六〇~八〇mmHgになるように酸素を与える。PO2が一〇〇mmHgをこえないように注意する。……(6)眼科医に定期的に眼底検査をしてもらう」としている。都立母子保健院の村田文也は、未熟児に対する酸素の補給は「理想的には、動脈血酸素分圧(PaO2)を六〇~八〇mmHgに保つように保育器内の酸素濃度を調節する。臨床症状によって調節する方法としては、チアノーゼが消失するまで保育器内の酸素濃度を高め、次に酸素濃度を下げてゆき、軽いチアノーゼが現われたときの酸素濃度を測定し、四分の一増の濃度を保つようにする。……回復期にはPaO2が急激に上昇するので、PaO2、チアノーゼ発現の有無、を観察しながら環境酸素濃度を下げてゆくことが大切である」としている。

77 昭和四八年六月、神奈川県立こども医療センター小宮弘毅は、「未熟児にみられる異常症状と処置」(周産期医学三巻四号)において、「酸素の補給、アノキシアを防ぐために十分な酸素を補給する。酸素投与量はPaO2を六〇~八〇mmHgに保てるようにするのが望ましい。臨床病状に頼る場合はチアノーゼが消失する程度を目安にする。呼吸困難の回復期には急激に血中酸濃度が上昇するので、酸素が過剰にならないようPaO2およびチアノーゼに注意していく。」としている(甲A第三一号証の四)。

78 昭和四八年一〇月、大国真彦編の「小児疾患の治療」において、RDSの治療として「未熟児網膜症を考慮して、呼吸障害、チアノーゼがなければ酸素を使うべきでないが、本症では酸素使用でもチアノーゼの消失は不充分で、アシドーシスの矯正を必要とする。」、「酸素治療にあたって考慮すべきことに、未熟児網膜症bzonchs pulmonary dysplasiuといった酸素による副作用と考えられる疾患がある。具体的には①呼吸障害やチアノーゼがある場合にのみ酸素を使用し、しかも最低必要量にすべきである。②できるだけ動脈血酸素分圧をチェックする。一〇〇mmHgを超えてはならず、六〇~八〇mmHgに維持する。③チアノーゼが消失するまで酸素濃度を高め、それから徐々に酸素濃度を下げて軽くチアノーゼがあらわれるときの酸素濃度を調べ、その濃度の四分の一だけ高い濃度に維持する。④酸素療法中は、ときどき保育器内の酸素濃度を下げてみる。チアノーゼがあらわれるかどうか観察し、チアノーゼがあらわれなければ速やかに酸素を減少ないし中止する。」としている(甲A第三一号証の一〇)。

79 昭和四八年一二月、北里大学助教授島田信宏は、「臨床新生児講座」において、IRDSの治療として「酸素投与、呼吸障害のある未熟児に酸素を投与する場合は、未熟児の動脈血を採取し、その中の酸素分圧PaO2を測定して投与する酸素の保育器内の濃度をきめるのが最も正確で正しい方法である。」、「このPaO2が六〇~八〇mmHgの間に維持できるような酸素濃度で保育器内を保つのが、最も正しい酸素投与の方法である。そして、このPaO2の値が一〇〇mmHgをこえないように、保育器内の酸素濃度をコントロールする。呼吸障害のある未熟児では相当に投与する酸素濃度を濃くしないとPaO2は上昇しないが、呼吸障害がないのに酸素を充分に与えていると、PaO2はすぐ上昇して一〇〇mmHgを超えてしまう。これでは酸素は与えすぎなので呼吸障害がなくなったら直ちに酸素投与は中止しなくてはならない。PaO2を一〇〇mmHg以下に保つということは、未熟児網膜症発症予防の上から非常に大切なことである。」、「これらのガス分析が不可能なところや、夜間のことでできない場合には、未熟児のチアノーゼをみて酸素濃度を決定する臨床的な方法もある。まず一度濃度を高くして酸素を投与しておきだんだんとその濃度を下げて行ってみる。そして、新生児にどのくらい酸素濃度が下降して来たところで、チアノーゼが出現してくるかをみる。新生児にチアノーゼが出現したところの酸素濃度よりも、その四分の一だけ多い酸素濃度で保育器内を維持して行くというのがこの方法である」としている(甲A第三一号証の一〇)。

80 昭和四八年一二月、遠城寺宗徳・高津忠夫ら監修の「現代小児科学大系年刊追補一九七三a)において、「酸素投与中には環境の酸素濃度を測定し記録する必要があるので、酸素濃度計は常備しなければならない。酸素療法のさいには、動脈血のPO2が六〇~八〇mmHgに維持されるように、投与する酸素の量を調節することが望ましく、一〇〇mmHgを超えると未熟児網膜症発生の危険があるといわれる。」としている(甲A第三一号証の一六)。

81 昭和四八年九月一日、大阪大学教授蒲生逸夫は、「小児科診断治療の指針」において、「酸素の補給はチアノーゼや呼吸困難を軽減する必要がある時にのみ呼吸困難を軽快させるに足る最低の酸素濃度で行う。」としている(乙A第三三号証の六)。

(学会による酸素投与の方針の発表)

82 日本小児科学会新生児委員会は、昭和五二年八月三一日、「未熟児に対する酸素療法の指針」を答申し、右学会の理事会の議決を経てこれが公表された。これは、昭和五〇年二月九日になされた答申に基づくものであった。昭和五〇年の答申は学会内部からその時点においては理想的にすぎること、公表にはいろいろな問題があることなどの意見が出て継続審議の扱いとなった。当時問題となったのは、動脈血中酸素分圧の測定は実際上困難であること、眼底検査の実施には熟達した眼科医の確保が必要であるが、これは容易ではないことなどであった。右「指針」は次のとおりである。

「1 酸素療法の適応

酸素の投与を必要とするのは低酸素血症がある場合で、未熟児に対する慣行的な酸素投与は避けるべきである。低酸素血症の存在は動脈血酸素分圧の値によって判定し、もし動脈血酸素分圧の測定が不可能な場合には中心性チアノーゼ(躯幹の皮膚や口唇のチアノーゼ)の存在によって推定する。

2 目標とする動脈血酸素分圧

正常新生児の動脈血酸素分圧は六〇~一〇〇mmHgである。低酸素血症をともなう未熟児に酸素を投与する場合は、動脈血酸素分圧が六〇~八〇mmHgに保たれるようにする。

3 投与する酸素濃度

投与する酸素濃度は動脈血酸素分圧の結果により調節することが必要である。

重症の呼吸障害では動脈血酸素分圧を正常に保つために、高濃度の酸素を必要とする場合がある。また反面、軽症の場合には酸素投与により動脈血酸素分圧が高くなりすぎることもあり、吸入気体の酸素濃度が四〇%以下ならば副作用がないという考え方は妥当ではない。

4 動脈血酸素分圧測定のための採血部位

動脈血酸素分圧測定のための理想的な採血部位は、側頭動脈、橈骨動脈、または掌側固有指動脈であるが、安静な状態で頻回に採血することは困難である。その場合、臍帯動脈を通じてカテーテルを下行大動脈に挿入、留置し、そこからの採血でもよい。ただし、臍帯動脈カテーテル法は、挿入が困難なこともあり、また感染、血栓症などの危険のあることも承知しておくべきである。

5 動脈血酸素分圧が測定不可能な場合

動脈血酸素分圧の測定が不可能な場合には、中心性チアノーゼを消失させるのに必要な最低必要限の酸素を投与する。

高濃度の酸素投与を長期間持続しなければならない場合には、動脈血酸素分圧の測定結果に基づいて投与する酸素濃度を調節する必要があるので、この検査のできる施設へ移送することが望ましい(しかし、現状においては移送および受入れ体制の不備のために実行不可能な場合が少なくない)。

6 患児の状態が好転する場合

患児の状態が改善してゆく場合には、動脈血酸素分圧を正常範囲に保ちながら投与する酸素濃度を注意深く下げてゆき、酸素療法をできるだけ短期間で中止できるよう努力する。

7 吸入酸素濃度の測定

酸素投与中は指示された酸素濃度が保たれているかどうか吸入気体の酸素濃度を一日数回定期的に測定し記録する。酸素濃度計はときどき空気と一〇〇%酸素とを測定し、正しい酸素濃度を示すように調整する。

8 吸入酸素の加温と加湿

吸入する酸素、あるいは酸素と空気の混合気体は加温加湿して投与する。」(甲A第三五号証の二)。

二  酸素投与に関する医学水準

1  酸素投与に関する医学文献の分類

前記一認定の医学文献を酸素投与の必要性(適応)、投与量ないし器内酸素濃度、投与期間についてどのように考えているかという観点から分類すると次のようになる(引用する文献の番号は前記一記載のものである。)。勿論、酸素投与を必要ならしめる疾患は前記一記載のとおりであり、ここで問題となるのは、どのような臨床症状があったときに、その疾患ないしその疑いがあるとして酸素投与をすべきかということである。また、前記一認定に係る文献の記載部分が未熟児網膜症の予防という観点からのみ記載(執筆、紹介)されたものか、肺拡張不全などの疾患に対する酸素投与の必要性との調和という観点から当該基準が主張されているのかということが問題とされる余地があるが、前記のアメリカにおけるコントロール・スタディが実施されるに至った経緯をみても分るように、どの医師にとっても生命を救うということが最も重要とされているのであり、したがって、前記の各文献の記載者(執筆、紹介者)らにおいても、生命や脳の安全を図るということは当然の前提となっていたものとみられ、ただ、生命や脳の安全にどの程度強い危惧を抱いていたかという点に差があるにすぎないものと推測される。また、古い時代には、酸素濃度を一定以下(多くの場合は四〇パーセント以下)にしていればRLFは生ぜず、他方で、生命や脳を救うためには高濃度の酸素投与を必要とせず(また、我が国における昔の保育器ではそもそも器内酸素濃度を四〇パーセント以上にすることは困難であるともされていた。)、二律背反の問題が生じないと考えられていた面も窺える(例えば、日本産婦人科学会の29の文献の記載)。なお、47の文献を根拠として、酸素投与については特に基準となるものはなく、医師の広範な裁量に委ねられているものとする向きもあるが、これは誤解である。すなわち、これに関する証人石塚佑吾の証言によれば、同証人はこの未熟児管理基準を策定したときの新生児委員会の委員であったが、右の基準は、アメリカ小児学会の未熟児の管理に関する物的・人的設備に関する基準をそのまま訳したようなものであり、具体的な診療行為の基準についての勧告ではなく、現にアメリカ小児科学会は前記(一の37f)のような酸素投与に関する基準を同時に発表していたことが認められ、この認定に反する証拠はない。なお、分類中の説明に当り、昭和四〇年から昭和四四年までを昭和四〇年代前半といい、それ以降を昭和四〇年代後半という。

イ 児の症状の有無を問わないルーチンな酸素投与を認めるが、酸素濃度を制限するものの期間は制限しないもの(器内酸素濃度が四〇パーセント以下でありさえすればよいとする見解)

これに該当する文献は見当らないが、酸素投与の必要性について抽象的に「必要なとき」としか定めていない文献(また、45の文献はRLFの項では「酸素を与える場合には」としている。)を見た臨床医が、器内酸素濃度が四〇パーセント以下であれば、特にチアノーゼや呼吸障害がなくても、生後長期にわたって酸素投与をしても、未熟児網膜症との関係で問題はないと受け取っていた可能性は否定できない。さらに、酸素投与の必要性については限定的な記述をしていても、RLFの予防の項では器内酸素濃度を四〇パーセント以下にするとだけ記載しているものもあり、臨床医がこれを読んだときに、不必要であっても器内酸素濃度四〇パーセント以下であれば害はないと受け取る可能性がかなりある。42の文献において、浅野医師は「いなか」の医療の現実としてかなり酸素投与が「いい加減に」なされている実状を紹介しているが、このような医療の現実が「いなか」に限られていたかどうかは問題である。53や54の文献の記述からすると、一般のあるいは少数の臨床医の間では、器内酸素濃度四〇パーセント以下であれば安全であるとの認識があったものとも推測される。本件における被告らないしその担当医の中には後記認定のとおりこのような認識を示すものも少なからずいる。

ロ 児の症状の有無を問わないルーチンな酸素投与を認めるが、器内酸素濃度及び投与期間(ある程度の期間)を制限するもの。

このような見解は、未熟児の場合には機能や器官の未熟性のため臨床症状のいかんを問わず肺拡張不全などの酸素投与を必要ならしめる疾患があるものと考えていたものと推測される。期間を制限したということは一般に未熟児の呼吸機能の確立にそれだけの時間が必要であると考えているためであり、予防的な酸素投与という観点によるものであろう。後記の予防的酸素投与を認める見解とは通ずるものがあるが、原則として酸素投与をし、したがって、投与期間も後記の見解より長いという点で異るものと考えられる。このようなものとして、昭和三〇年代には、24(生下時体重一五〇〇グラム以下については出生後七日またはそれ以上の期間、器内酸素濃度三〇パーセント以下での酸素投与を行う。)、28(生下時体重が一二〇〇グラム以下の例には二ないし三週間、一二〇一グラムから一五〇〇グラムの例には一ないし二週間)がある。昭和四〇年代前半のものとしては、46(生下時体重一二〇〇グラム以下は二週間、一二〇一ないし一五〇〇グラムの場合には一週間、一五〇一グラムないし二〇〇〇グラムの場合には三日間)、56(生下時体重一〇〇〇グラム前後の児に対しては一四ないし一七日間)、57(生後一定時間としているが、前後の記載から原則として一ないし二週間を考えているものを推測される。器内酸素濃度は三五パーセント前後としている。)がある。58(いわゆる東大小児科治療指針)もここに位置付けることができよう(28の改訂版)。もっとも、ルーチン投与自体についても、28では「われわれは現在のところ、ルーティンとしての酸素の供給を行っている。」としていたのが、58では「ルーチンに酸素を行うこともあるが」というようにルーチン投与を例外的に扱うかのような記載となっている(したがって、58は後記トに位置付けるのが正当かもしれない。)。また、期間については、「出生後暫くの期間」「なるべく短い方がよい」として、28において明示していた期間の記載がなくなり、28のときよりさらに短期間の投与を予定しているようにみられる。また、ルーチン投与を行うときの器内酸素濃度については、28では「通常四〇パーセント程度にとどめる」としていたが、58では三〇パーセント以下にとどめるとされている。

ハ 酸素投与の必要性については抽象的に「必要なとき」と定め、投与期間については特に触れず、器内酸素濃度について制限的な基準(器内酸素濃度四〇パーセント以下とするものが多く、以下ではそれ以外のもののみ言及する。)を設定しているもの

このような見解は、酸素投与を必要ならしめる疾患があるかどうかは臨床医の広範な裁量に委ねられていると考えているものと推測される。このような文献としては、昭和三〇年代には、2、4(但し、RLFの予防の観点から)、9、16がある。53の文献はこの見解に対する批判の文献とみることができる(期間をできるだけ短期間にするように警告している。)。

ニ 酸素投与の必要性については抽象的に「必要なとき」と定め、しかし器内酸素濃度のみならず酸素投与の期間を制限するもの

この例としては、昭和三〇年代には、3、5及び11(但し、期間の制限も「必要最少限度」と抽象的である。)、18、26(極端に長期にわたらぬように注意すればとしているが、どの程度の期間を考えているのか不明)がある。

ホ 酸素投与の必要性について、チアノーゼや呼吸障害のあるときだけではなく、広く呼吸が不規則であったり、啼泣が弱いときなどに酸素投与の必要性を認め、かつ器内酸素濃度について制限的な基準を設定するもの

この例として、昭和四〇年代前半には、日本産婦人科学会新生児委員会による35がある。これは努力呼吸、不規則な呼吸をするもの、ときどき無呼吸の発作が起こるもの、泣き声が弱いもの、あるいはピッチの早い泣きかたをするもの、無気力なもの、蒼白あるいはチアノーゼがあるもの、けいれん様過敏またはけいれん発作のあるもの、一般状態の悪いものには酸素投与が必要であるとし、酸素投与の必要性を広範に認めている。もっとも、器内酸素濃度については二五ないし三〇パーセントとし、四〇パーセント以上の酸素投与が認められるのは呼吸停止や高度のチアノーゼがあるときに限定している。さらに、生後二四時間以内は予防的な意味でルーチンな酸素投与が認められるものとしている。

ヘ 酸素投与の必要性をチアノーゼや呼吸障害の有無によって判断し、期間の制限は特に明示せず、器内酸素濃度について制限的な基準を設定するもの

このように酸素投与の必要性について制限すると、当該の臨床症状がなくなったときには当然に酸素投与は中止すべきことになるので、酸素投与の期間については、制限の基準を設定する必要はなくなる。このような文献の例としては、昭和三〇年代には、1(器内酸素濃度については必要性に応じて三〇ないし六〇パーセントとしている。)、6(投与期間については無制限にだらだらと与えないこととしている。)、7、10(但し、期間のみならず、器内酸素濃度についても児の状態に応じて様々となるとしている。)、12、13、14(器内酸素濃度については、四〇ないし五〇パーセント以下としている。)、17(酸素投与を必要ならしめる呼吸障害を著しい呼吸不整と頻発する無呼吸発作に限定している。)、21(酸素投与の継続時間は通常は二〇分前後で足りるとしている。)、23、25(酸素投与を必要ならしめる呼吸障害を陥没呼吸、著しい呼吸不整、頻発する無呼吸発作に限定する。)、29(通常は器内酸素濃度は三〇ないし三五パーセント以下とするとしている。)があり、昭和四〇年代前半のものとしては、30、32(酸素の適応は、無呼吸、羊水・ミルクの誤飲による吸引で改善されないチアノーゼ、胸骨の陥没呼吸などの呼吸障害としている。)がある。

ト 原則として、酸素投与の必要性をチアノーゼの有無によって判断し、器内酸素濃度について制限的な基準を設定するが、例外的に、予防的な酸素投与も認め、生後短期間についてはチアノーゼなどの症状がなくとも酸素投与の必要性を認めるもの。

このようなものとして、昭和三〇年代には、20(生下時体重一〇〇〇グラム前後では一四ないし一七日をめどとしている。もっとも、完全にチアノーゼがなくなったときには酸素投与の必要性はないとしている。)がある。昭和四〇年代前半には、35があり(器内酸素濃度は二五ないし三〇パーセントとする)、また、同文献は昭和四一年当時の臨床の実践における一般的なあり方として、生下時体重一五〇〇グラム以下の未熟児については七二時間以上の予防的酸素投与をしていると紹介している。39の文献の趣旨ははっきりしないが、この見解に立つものと思われる。出生直後一二時間において三〇パーセント以下の予防的酸素投与を認め、仮死などがあったときには四〇パーセントの酸素を生後三日まで継続使用することを認めるが、それ以降はチアノーゼのある場合に限定するものであろう。59もここに位置付けられるが、生下時体重一五〇〇グラム以下の児については、呼吸数が四〇台に落ち着くまで、生後六ないし一二時間の予防的酸素投与を肯定する。59によると、三〇ないし四〇パーセントの「高濃度」の酸素投与が認められるのは(例外的には一〇〇パーセント酸素の投与も認める。)、チアノーゼについていえば全身チアノーゼに限定されている。59は基準として非常に詳細である。

チ 酸素投与の必要性をチアノーゼや呼吸障害があるときのみに限定し、投与期間については特に制限せず、器内酸素濃度については、一応の基準を設定するが、特に症状が悪いときにはより高濃度の酸素を投与することを認めるもの

このようなものとして、昭和三〇年代には、15(但し、器内酸素濃度については症状が悪いときには六〇パーセントくらいまで上げることがあるとしている。期間については、一週間以上使用したときに発生し易いとしている。)、27(一〇分間以上の持続的な酸素投与のときには器内酸素濃度は三〇パーセント以下とするとしている。)、31、33、34(チアノーゼが頻発するような場合は短期間一〇〇パーセントの酸素を用いても危険はないとしている。また、本症による失明の危険をおそれて酸素の投与を制限したために貴重な人命を失うことをこそ警戒すべきであると思うとしている。)がある。昭和四〇年代前半には、36があり(動脈血中酸素分圧の測定値を酸素投与の基準とする見解を紹介している。)、37(但し、チアノーゼについては全身性のものだけが酸素投与を必要ならしめるとしている点では後記リの見解に近い。)、41及び44(酸素投与の必要性についてRDSの場合に限定する趣旨なのかは不明である。)、48、62、66、72(陥没呼吸はあるがチアノーゼはない場合には器内酸素濃度を二五パーセントとするとしている。)、81がある。

リ 動脈血中酸素分圧を測定し、その値が一定の範囲におさまるように酸素投与をするのが理想的であるが、これができないときには全身的なチアノーゼ(人によっては呼吸障害も)を目安として酸素投与をするという見解をとるもの(この一つの方法としてワーレイ・ガードナー法がある。したがって、症状が悪く動脈血中酸素分圧が低いときには器内酸素濃度が四〇パーセントを超えても何ら問題はないという見解になる。)

このような見解をとるものとして、昭和四〇年代前半には、40があり(動脈血中酸素分圧は五〇mmHg以上一五〇mmHg以下とする。)、49(但し、紹介に止まる。)、50、51(動脈血中酸素分圧を一〇〇mmHg以下とし、一五〇mmHgを超えないようにする。)、52、54、55があり、昭和四〇年代後半には、60、61、62、63、64、65(山内執筆部分及び松村執筆部分の双方ともこの見解であるが、山内の書き方では出生後二四時間以内については予防的酸素投与も認めているかにもみえる。)、67、68(川真田ら執筆部分と藤井執筆部分)、69、70(執筆者の小宮は被告神奈川県の医師である。)、73(六〇ないし八〇mmHgをめどとする)、74、75(但し、動脈血中酸素分圧の測定の困難さやチアノーゼを目安とすることの不正確さを指摘している。)、76(奥山は、動脈血中酸素分圧の測定ができないときの酸素の適応は全身チアノーゼまたは呼吸障害をめどとしている。)、77、78、79、80がある。昭和五二年に公表された82の基準は日本小児科学会新生児委員会によるもので、その原案は昭和五〇年二月の段階でできており、したがって、その内容は昭和五〇年二月の段階で専門家たる学者の間では一致した見解となっていたものと推認される。また、その原案が継続審議になった原因は前記のとおりであるが、酸素投与の適応を限定すること(ルーチン投与の否定)については何の異論も出ていない。

2  右の分析

右の分類の結果からすると、酸素投与の必要性については、少くとも昭和四〇年代中頃までは医学会において大筋においても統一した見解はなく、酸素投与の適応を厳格にし、チアノーゼ(人によっては中心性のもの又は全身性のものに限定)や呼吸障害があるときにのみ酸素投与を認める見解(ヘ、チ、リの見解)、酸素の適応について原則として右のように考えるが、生後直後については予防的な意味で低濃度の酸素投与の必要性を認める見解(ト)、酸素投与の適応につき広く一般状態の悪い場合に酸素投与を認め、呼吸停止や高度のチアノーゼがないときには器内酸素濃度について二五ないし三〇パーセント、期間を限定する見解(ホの見解)、器内酸素濃度が四〇パーセント以下ないし三〇パーセント以下とすれば、児の症状を問わずにルーチンに酸素投与をすることを認めるという見解(ロの見解)が存在した。酸素投与の適応については、ヘ、チ、リの見解が有力であったというべきではあるが、しかし、ロは文献の数としては少いが、28や58の文献はその影響力は相当あるものと推測され、ホの見解もそれが産婦人科学会新生児委員会によるものであるだけに、相当の強い影響力をもったものと推測される。昭和五〇年近くなって、酸素の適応を厳格にすることで見解の統一が図られるようになったのである。器内酸素濃度については、昭和四〇年前後までは四〇パーセント以下とするものが多かったが、それには二重の意味で問題があることが明らかにされてきた。すなわち、四〇パーセント以下であっても未熟児網膜症が発症し得ること、他方で、児の状態が悪いときには四〇パーセント程度の酸素では児の症状を改善させることができないことが問題とされた。そこで、児の状態に応じて、症状を改善せしめる最低濃度の酸素を投与するということになってきたが、症状は個体差が大きいので明確な基準は出し難くなり、せいぜい症状が軽いときの酸素濃度を三〇パーセント以下なり四〇パーセント以下にするという制限を設けることができるに過ぎなくなった。投与期間は、ルーチン投与ないし予防的酸素投与を認める見解や酸素投与の適応を広く認める見解では問題となり得るが、これもより短期間にするという方向にはあったが、統一した基準はなかった。

漸減法についていえば、これを採用するものが、1、2、7(数日間)、16、20、24、28(数日間)、29(数日間)、48(数日間)であり、その他は採用していない。ただ、漸減法といっても、未熟児網膜症の発症原因についてのスツェベクチックらの見解(第三参照)を採用したためのものが本来の漸減法であるが、これはキンゼイらの共同研究によって否定されており、我が国においても62が述べるように四〇年代中頃までには否定されるに至っていたものと考えられる。しかし、それ以外に酸素投与を急に中止すると児の呼吸状態に悪い影響を与えるのではないかとの考えから、児の状態をみるという観点から減量して様子をみるということには根拠があり、例えば、66は器内酸素濃度二五パーセント程度として数時間ないし一両日様子をみるとしている。この点については、後に医療水準を検討する際に触れる。

酸素濃度については四〇パーセント以下であっても安全でないことについての文献の記載は前記のとおりであるが、それではさらに低濃度であればどうかという問題がある。キンゼイらの共同研究では三五ないし五〇パーセントでは濃度による有意差は認められないとしており、それ以下で発生しないとしているわけではないものの、発症の可能性が減少するということは示唆しているものと考えられる。大気中の酸素濃度(約二一パーセント)を考え、器内酸素濃度が二〇パーセント台の場合には発症の危険性は低いものと考えられていたようにも理解される。例えば、27のクロスの文献が持続的に使用する場合の器内酸素濃度を三〇パーセント以下としたり、29の日本産婦人科学会の文献が症状が重くないときに三〇パーセントを目安としたり、35でも同様の立場が維持され、予防的酸素投与を認める見解において器内酸素濃度を三〇パーセント以下に限定するものが多いことは前記のとおりである。

鼻腔カテーテルによる酸素投与については、18(水を通して気泡で測定し、一分間六〇ないし一八〇気泡とする。)、23(一分間六〇気泡前後)、28(一〇〇ないし二〇〇気泡)、32(一分間六〇気泡前後)、35(積極的に認めてはいない。)があるが、その後は、44などのように否定的な見解が一般的となった。

ところで、ある治療法ないし診療方針が医学水準に達しているというためには、前記のとおり、それが一応の理論上ないし経験上の根拠を持ち、各種の実験、他の医学者の追試などを経て、医学会における全部又は一部の有力者(臨床医に影響力を有する者)によって承認されていることを必要とする。このような観点からすると、ある診療方針が医学水準に達しているというためには、医学会において見解の統一がなされている必要はない。酸素投与に関していえば、少くとも昭和四〇年代中頃までは複数の医学水準として承認された見解が存したものと認められる。

三  酸素投与に関する医療水準と医師の裁量

前記の医療水準及び医師の裁量に関して述べたところからすると、これらは個々の事案ごとに検討すべき事柄ということになるが、共通する問題について検討しておくこととする。以下で前提とする事実は前記認定に係る事実のほかは、《証拠省略》によって認められるもので、この認定を覆すに足る証拠はない。

1  医療水準を決定する上で考慮されるべきこと

医師の専門との関係でいえば、産婦人科医の場合には、学会が29と35の文献を出しており、この影響はその後においてもかなり強いものがあったと推測される。文献の一般的な傾向としては、小児科医を対象とする文献の方が多く、内容においても進んでいることが多い。

文献の理解の仕方についてはイ説のところで述べたような問題があり、一般の臨床医の間では、必ずしも文献の正確な理解ができておらず、四〇パーセント以下の器内酸素濃度であれば未熟児網膜症はほぼ防止できるとの考えも根強かったし、また、そもそも未熟児網膜症の存在ないしその具体的内容を知らない医師も多く、したがって、文献において酸素投与の適応を限定している記述をみたとしても、不必要であっても害がなければよいという受けとめ方をした医師も多数いたものと推測される。

酸素投与に関する診療方針を実施する場合に問題となる技術的困難さとしては、チアノーゼの有無の判断の困難さ、チアノーゼによって低酸素状態の有無を判断することの困難さがある。すなわち、動脈血中酸素分圧が正常でも局所の循環障害があるときには局所のチアノーゼがでるし、チアノーゼの中には保温によって消失するものもあり、チアノーゼの中には低酸素症のためではなく脳や心臓の病気によるものもあり、他方、チアノーゼがなくても動脈血中酸素分圧が低いこともあるから(《証拠省略》によると、チアノーゼを指標として酸素投与をしたときに並行して動脈血中酸素分圧を測定してみると、その二五・四パーセントの場合は低酸素の状態になっていたという。)、チアノーゼから動脈血中酸素分圧を推定することには困難がある。また、児によって血色素の濃度には著しい差があること、判断者の主観に左右されること、児の皮膚色の基調によって異ること(貧血や黄疸があるとみにくい。)、照明などにも影響されることなどから、チアノーゼの判断自体に困難な点が多い。したがって、酸素投与の適応についてチアノーゼの有無を目安とするとの立場に立つ医師でも、チアノーゼの有無によって厳格に投与の要否を決することができないということが充分に考えられ(例えば、チアノーゼが消失してからも短期間は酸素投与を継続して様子をみる。)、これは医師の裁量の範囲内のことであることも多いと考えられる。

無呼吸状態についても同様の問題がある。すなわち、無呼吸はRDSの症状としてみられることも多いが、代謝障害・低血糖・中枢神経の障害によっても惹き起されるが(これらの場合には本来その原因疾患の治療が試みられるべきであり、むやみに酸素投与がなされるべきでないというのが理論的ではある。)、その区別は臨床的には困難であり、また、無呼吸状態の短いものは生理的なものであり問題はないとされるが、臨床医としてはそのように割り切ることは困難であり、結局、他の臨床症状や無呼吸状態の頻度を総合して判断するほかなく、この判断は医師の裁量に委ねるほかないものと考えられる。

酸素投与に関する診療方針を実施する場合に、物的設備からくる困難さもある。物的設備についていえば、動脈血中酸素分圧を測定するには微量測定器がないと困難であるし(旧のアストラップ分析器では一・五ないし二ccの量の血液が必要であったが、これは成人に換算すると五〇ないし六〇ccにもなるもので、このように一回の採取量が多いと児に与える侵襲が大きくてあまり何回も測定することができなかった。)、採血の手段たる羽毛状針の改善なくしてはできなかった。また、測定器の価格が高かったことから購入自体も困難であった。証人石塚が動脈血中酸素分圧を測定したのは昭和四〇年代の初めからであったが、微量測定器が国立第二病院に入ったのは昭和五〇年のことであり、経皮的酸素分圧測定器が入ったのは昭和五二年のことであった。酸素濃度計についても、旧の化学的測定法による場合には濃度計の扱いが困難であり、また、測定値の正確さにもかなりの疑問があった。電磁式の酸素濃度計が出回るようになったのは、昭和四二、三年からのことであり、それは高価なものであった。

人的設備に関する困難さとしては、第一に看護体制の問題を挙げることができよう。チアノーゼなどを目安としてきめ細かく酸素投与の要否・量などを決定しようとすると(その一例がワーレイ・ガードナー法である。)、看護婦のきめ細かな観察が必要とされるわけであり、そのためには経験豊かな看護婦が相当数配置されていなければ実施できないのであり、その確保がなかなか難しいことは当裁判所に顕著な事実であり、観察がきめ細かくできないときには必然的に酸素投与は予防的に多めになされざるを得ない。現在では無呼吸発作の警報機があるが、当時は普及していなかった。第二に未熟児の医療は本来それを専門とする医師が担当することが理想的であるが、本件当時にはそのような医師の数が充分でなく、産科医などに診療を担当させている例も多かった。第三に動脈血中酸素分圧の測定などは検査技師の存在を必要とするが、特にその夜間における確保には困難がある。

未熟児の診療のように高度な診療が要求される場合には、地域に中核となる病院を設け(こども医療センターのようなもの)、ここに専門医と必要な数の看護婦を集め、最新の医療機器を備え、他の医師はそこに転医・転送するというのが理想的である(アメリカではそのようにされている。)。我が国においても、昭和五二、三年ころから、東京や大阪を中心として、このような体制の整備が急速に進んだとされるが、本件当時には転医・転送の体制は一般的には確立してはいなかった。

2  医師の裁量を考える上で考慮されるべきこと

酸素投与に関する診療方針が統一されたのは、82においてであり、それまでは複数の見解が存在しており、医師は裁量としてそのいずれを採用するかを決定することができず、その本質的な部分を損なわない限り、これを修正することができるものと考えられる。例えば、ルーチン投与ないし予防的酸素投与をする期間について、自己の経験(自己の経験において死亡例が存在する期間)に照らしてやや長くすることなどは許される。また、35のような見解によるときに、「一般状態が悪いとき」の内容について文献に列挙されているもの(制限列挙ではないと考えられる。)以外のものを考慮することも許されよう。この点で、かなりの医師が考慮するのが機能的未熟性を示す徴ひょうの一つである体重の動向であり、35の見解の修正としてこれをも一つの要素として考慮すること自体は許されるものと考えられる。

医師の裁量を考える上で最も重要なことは、生命や脳に対する危険と未熟児網膜症発症の危険の比較考量の問題であろう(第一、第二に認定した内容を参照)。この場合にまず注意すべきは、未熟児網膜症の発症の頻度はそう高いものではなく、特にそのうち約八〇パーセント以上が自然治癒するとされており、また、後記のとおり眼底検査は充分に普及していなかったのであり、したがって、多くの臨床医にとって未熟児網膜症は経験したことのない疾患として位置付けられ(失明児が出ても本件のように訴えられなければ、その存在を医師が知らないままで終ることも多かったと推認される。)、したがって、これに対する警戒感は薄かったものと推測され、他方、未熟児の死亡や低酸素脳症は臨床医にとって日常的な出来事であったことである。したがって、医師が臨床的に診療方針を考えるときには、医療水準となった医学的見解における酸素制限を多少なりとも緩和ないし修正して応用しようとする傾向があり、この修正が合理的根拠を有する限り医師の裁量として認められるべきである。

しかしながら、そのような裁量を認める根拠は、一般に医療の対象となる人間は個体差が激しく、医学的見解というものは、もともと症状に応じて臨機応変の修正が加えられることを内在的に予定していることにあるのであり、児の症状に拘わらず(この点で合理的根拠がなく)医療水準となった医学的見解から逸脱してよいというものではない。未熟児の場合には一般に生命の危険が高いことは明らかであるが、問題は当該児について当該医師がどのような症状・根拠によって、どのような生命の危険となる疾患を疑ったかにある。生命の危険の原因となる疾患は、第一で判示したとおり多数あるが、酸素投与を必要とする疾患はその全てではなく、したがって、未熟児の一般的な死亡率を根拠として酸素投与を正当化することはできない。また、第一で判示したとおり、酸素投与を必要とする疾患の代表的なものは肺拡張不全とかRDSであるが、それは生後直後にみられることが多く、次第にその危険が低くなっていくものであり、時期の如何を問わずにその危険性の有無・程度が同じであるものではないことにも注意が必要である。東大小児科治療指針や安達教授などのルーチン投与を認める見解において、投与期間を制限するようにしているのは、この肺拡張に必要な期間を考えているためである。結局、医療水準となっている医学的見解(前記のとおり複数あるので自己が選択したものということになる。)を修正ないし超えることが医師の裁量として認められるのは、当該医師が当該児の症状をみて酸素投与を必要とするような疾患の存在を認め(原告らはこの場合に限定するかのようであるが採用できない。)、又はその合理的な疑いを持った場合であり、何の根拠もなく、したがって、具体的な低酸素症の疑いをもたずに抽象的に生命の危惧から酸素投与をすることは認められない。

第六未熟児に対する全身管理についての医学水準・医療水準

《証拠省略》によれば、我が国においては未熟児の全身管理(保温・栄養補給のみを取り上げる。)について、おおむね次のとおりの文献が発表されていたことが認められ(以下年月は発行された時期を指す。)、これに反する証拠はない。

一  保温関係

昭和三二年三月、東京共済病院小児科医長吉松駿一らは、「小児科疾患及び看護法」において、保育器内の温度は生下時体重一五〇〇グラム以下の場合には摂氏二九・五度ないし三二・二度とし、生下時体重一五〇〇グラム以上の未熟児については温度を摂氏二三・八度ないし二六・〇度とするようにしていること、湿度は五五ないし六五パーセントとしていることを明らかにした(甲A第一号証の一)。

昭和三二年四月、大阪市立大学医学部病理学教室教授馬場為義らは、「医学シンポジウム第一六輯未熟児」において、保育環境の目安として生下時体重一二〇〇グラム以下の児については温度を摂氏三四度、湿度を七〇パーセント、一二〇〇グラムから一四〇〇グラムまでの児については温度を摂氏三二度、湿度を七〇パーセント、一四〇〇グラム以上二〇〇〇グラム以下の児については温度を摂氏三〇度、湿度を六〇パーセントという考え方を提示した後、著しい低体温にある児の場合には「急激に体温を上昇せしめようとするとショック状態を起したり、体温の動揺が著るしく、無意味に体力を消耗することが多いから、より以上の体温喪失を来さないことを目安に気長に保温して、例え低体温であっても体温を安定せしめる方が良い。」としている(甲A第一五号証の四の二)。

昭和三二年九月、東大小児科学教室馬場一雄は、「医学のあゆみ」において、生下時体重二〇〇〇グラム以下の未熟児は比較的低温で保育した方が予後が良いとのKintzelの説を紹介している(甲A第一五号証の三)。

昭和三四年一一月、世田谷乳児院院長大坪佑二らは、「未熟児の保育と栄養」において、未熟児の低体温の理由は体表面積が体重に比して大きく皮下脂肪が少く体温調節中枢が未熟などのために体温の発散が大であり、一方において筋肉活動が少く基礎代謝も低いために体温の産生が少いことにあること、小さい未熟児では著明な低体温を示し摂氏二四度台になるものも少くなく、体温が摂氏三三度以下になれば生命の危険が増大すること、低体温のものに対しては保温に努めるべきではあるが、無理に摂氏三六度以上になるまで暖める必要はないこと、過温は未熟児の新陳代謝を高め、脱水症状を来たすおそれがあることなどを明らかにした(甲A第一七号証の三)。

昭和三五年、大阪市立大学医学部小児科教授高井俊夫らは、保育器内の温度について、摂氏三二度以上の環境では過熱のおそれがあるので、最高でも摂氏三二度とし、入院時の体温が摂氏三五度以上のときには保育器内の温度を摂氏三〇度とし、それ以下のときには摂氏三二度とするようにしていること、湿度については六〇パーセントないし七〇パーセントとしていることを報告した(甲A第一八号証の七)。

昭和三六年、賛育会病院小児科部長中村仁吉は、「今日の治療指針1961年版」において、保育器内の環境について、生下時体重一四〇〇グラム未満の児に対しては温度を摂氏三二度、湿度を七〇パーセントとし、生下時体重一四〇〇グラム以上二〇〇〇グラム以下の児については温度を摂氏二八度、湿度を六〇パーセントとしていることを報告した(甲A第一九号証の八)。

昭和三四年一一月、世田谷乳児院院長大坪佑二らは、「未熟児シリーズ 第二集」において、生下時体重一五〇〇グラム以下の児については摂氏三二度にすること、生下時体重一五〇〇グラムから二〇〇〇グラムの児については摂氏三〇度から三二度にすること、「低体温のものは、……無理に摂氏三六度以上になるまで暖める必要はない。過温は未熟児の新陳代謝を高め、脱水症状を来たすおそれがあって、かえって危険である。」と報告した(甲A第一七号証の三)。

昭和三八年一二月、高津忠夫監修の東大小児科治療指針改訂第四版は、保育器内の環境につき、生下時体重一二〇〇グラム未満の児については温度を摂氏三四度、湿度を七〇パーセント、一二〇〇グラムから一四〇〇グラムまでの児については温度を摂氏三二度、湿度を七〇パーセント、一四〇〇グラムから二〇〇〇グラムの児については温度を摂氏三〇度、湿度を六〇パーセントとすることを指針としていた(但し、極小未熟児については生後五日間は肺硝子様膜症を予防するためにできるだけ高い湿度の環境に置くように指示していた。甲A第二一号証の六、乙A第二五号証の二の改訂第五版昭和四〇年でも同一の記載であった。)。

昭和四一年四月二〇日、中村仁吉は、臨床小児科学全書第一巻において、保温につき、「未熟児は成人に比して体重当りの体表面積が大きく、皮下脂肪が少いので、熱放散が大である。また呼吸・血液循環の緩徐、運動量の僅少、食餌の少量などにより熱産生が少い。このように未熟児では熱産生が少く、熱喪失が大きいため、体温が下降し易い。低体温ではかえって基礎代謝が増大することも知られている。特に生後間もなくの間、保温に注意しないと著しい低体温となり、硬化性浮腫、肺炎などを合併して死亡する場合がある。」「現在の保育器や湯タンポを用いて、未熟児の低い体温を急激に上げようとすることは避けた方がよい。」「わが国の現状では、環境温を維持して、ごく間接的に未熟児の体温保持に努力しているわけである。生下時体重一〇〇〇グラム前後の未熟児の体温を摂氏三〇度に維持しようとすれば、環境温は三〇~三二度に保たねばならないが、体重一五〇〇グラムくらいならば環境温三〇度で体温を三六度に維持することができる。」「相対湿度八〇~九〇パーセントの高湿環境では、未熟児の体温も高く、死亡率も低い。最近では、生下時体重の小さい未熟児、呼吸障害のある未熟児には、生後数日間飽和濃度とし、肺からの水分蒸泄を軽減することが奨められている。」とした上で、賛育会における保育環境の設定について紹介したが、それは、生下時体重一五〇〇グラム以下の児については温度を摂氏三二度ないし三四度、湿度を八〇パーセントないし九〇パーセントとし、一五〇〇グラムを超え二〇〇〇グラム以下の児については温度を摂氏三〇度、湿度を六〇パーセントとするというものであった(甲A第二四号証の一)。

昭和四二年一月、村田文也は、遠城寺宗徳監修「現代小児科学大系」の第二巻「新生児疾患」において、保育環境については生下時体重一二〇〇グラム程度の児については温度を摂氏三四度、湿度を七〇パーセント、一四〇〇グラム程度の児については温度を摂氏三二度、湿度を七〇パーセント、二〇〇〇グラム程度の児については温度を摂氏三〇度、湿度を六〇パーセントとするものとし、生下時体重一〇〇一グラムないし一五〇〇グラムのものでは初期の体温は順調な例でも摂氏三六度前後であるから、小さな未熟児の場合、当初の体温を無理に摂氏三六・六度前後に保とうとして環境温度を上げ過ぎることは良くないとしている(甲A第二五号証の一)。

昭和四二年七月、神戸大学医学部小児科教授平田美穂は、「ゲッチンゲン大学のキブト・シェファー氏の実験によれば、未熟児を摂氏三四度以下に下らないようにしたところ、以前の三四度以上に保温するより死亡が1/2になった。」「未熟児が三四度になっても病的なことではなく、大切な事は、三四度以下に下らないようにすることであります。」としている(乙A第二七号証の四)。

昭和四三年四月、日本大学教授馬場一雄は、「新生児病学」において、低温保育の考え方を紹介しつつ、これに疑問を呈し、生下時体重一二〇〇グラム以下の児については温度を摂氏三四度、湿度を七〇パーセント(生後五日間は一〇〇パーセント)、生下時体重一四〇〇グラム以下の児については温度を摂氏三二度、湿度を七〇パーセント(生後五日間)としていることを明らかにしている(乙A第二八号証の三)。

昭和四四年一一月、東北大学医学部教授安達寿夫は、「新生児学入門」において、「高度未熟児がしばしば体温摂氏三二~三四度位になるので、それより高温環境に置くことはかえって児に悪影響があるのではないかと考えられること、また低体温でも三二度位でなら、無理に暖めなくても殆ど心配なく三~四日で常温に回復しているからである。」としている(表の部分は書証として提出されていない。この文献は昭和四八年まで増刷されていた。乙A第三三号証の一〇)。

昭和四三年五月、大阪市立小児保健センター大浦敏明らは、腹壁温度を摂氏三六度台に維持すれば未熟児の死亡率は湿度に左右されないから高湿度環境は不要で、四〇パーセントないし六〇パーセントの湿度が適当であること、保育器内温度は生下時体重一〇〇〇グラム以下では摂氏三五度ないし三六度、一〇〇〇グラムから一五〇〇グラムでは摂氏三四度ないし三五度が適当であること、一旦低体温に陥った児に対して急速な過熱を行うことは新陳代謝の急激な攪乱をもたらすから、このような児の場合、温度を、高くとも体温より一・五度以内の差に保ち、三時間毎に体温を測定して徐々に上昇させる方法がよいと提案している(甲A第二六号証の五)。

昭和四四年五月、関西医大教授松村忠樹は、生下時体重一二〇〇グラムの児については温度を摂氏三三度ないし三四度、湿度を八〇パーセントとし、一二〇一グラムないし一五〇〇グラムの児については温度を摂氏三二度とし、湿度を七〇パーセントないし八〇パーセントにした方がよいとし、湿度については、もし呼吸窮迫症候群が認められ、肺硝子様膜症の疑いがあれば、生後数日間は九〇パーセント以上に保つことにしていることを明らかにした(甲A第二七号証の四)。

昭和四四年一二月、高津忠夫監修の「小児科治療指針」は、保育環境につき、生下時体重一二〇〇グラム以下の児については温度を摂氏三四度、湿度を七〇パーセント、一二〇〇グラムを超え一四〇〇グラム以下の児については温度を摂氏三二度、湿度を七〇パーセント、一四〇〇グラムを超え二〇〇〇グラム以下の児については温度を摂氏三〇度、湿度を六〇パーセントとしていること、出生時一六〇〇グラム以下の未熟児は生後五日間は肺硝子様膜症を予防する意味でできるだけ飽和に近い高湿環境に置くことなどを明らかにしている(乙A第二九号証の三)。

昭和四四年四月、日本医科大学教授真柄正道は、「最新産科学」において、「出生直後の保育器内の温度は、一二〇〇グラムの児では摂氏三四度、一四〇〇グラムでは摂氏三二度……がよいという。」としている(乙A第二九号証の三)。

昭和四五年一一月、「今日の小児科治療指針」において、村田文也は前記の現代小児科学大系におけるのと同様の見解を示している。

昭和四五年一一月、奥山和男は、「専門医にきく今日の小児科診療」において、前記小児科治療指針(昭和四四年)の基準を採用した上、未熟児の場合には皮膚温が摂氏三六度ないし三六・五度に保たれると酸素消費量が最低となること、保育器内の温度は摂氏三四度がだいたいの限度で摂氏三五度になるとブザーがなって警報を発するようになっていたことなどを明らかにしている(甲A第二八号証の一一)。

昭和四六年九月、山内逸郎は、篠塚輝治編集代表の「四季よりみた日常小児疾患診療のすべて」において、生後二四時間以内における低体温の取り扱いとして、保育器内の温度は摂氏三四度ないし摂氏三六度とすること、出生体重の特に軽い未熟児に生じた著しい低体温のときには急激な加温は呼吸停止を生ぜしめるので、急激な加温を避けるべきであるとしている(甲A第二九号証の一二)。

昭和四七年一一月、北里大学医学部産婦人科講師島田信弘は、「最新医学二七巻一一号」において、児の直腸温度を摂氏三七度に保つことが必要であり、そのためには従来いわれてきた基準より高温保育の方が望ましいと考えられるようになったとし、出生直後、体重一〇〇〇グラムの児の場合は保育器内温度を摂氏三五度とし、さらにふく射熱を考慮して室温が保育器内温度より七度低ければ、保育器内の温度をさらに一度高くしたり、フードを使用したりするとしている(甲A第三〇号証の三〇)。

昭和四七年一一月、山内逸郎らは、「未熟児の保育―特にHigh Risk Neonateとしての取り扱いについて―」において、保温の意義について、「低体温は、未熟児の予後に重大な影響を及ぼす。新生児が寒冷刺激に曝露されるとノルアドレナリンが分泌され、褐色脂肪織に作用し、非振せん性熱生産が促進される。しかし、未熟児では褐色脂肪織の発達が良くないので、この面での熱産生は効果的ではない。しかもゾルアドレナリンは肺毛細管の収縮を招き肺の灌流低下そして左右短絡を増大し、代謝性・呼吸性アシドーシスを増強する。また、低体温は呼吸中枢の昂奮性を著明に低下させる。さらに低体温は細胞の基本的な酵素活性を低下させ、細胞の集団としての生態のVital levelを著しく障害する。すなわち、低体温は出生直後の適応過程に極めて大きな障害を与えるものである。」としている。そして、保温の目安については、生下時体重一〇〇〇グラムの児については、出生日は摂氏三五度程度、五日目からは摂氏三四・五度程度、一〇日目以降は摂氏三四度程度、二〇日目以降は摂氏三三度程度、三〇日目以降は摂氏三二度程度とし、二〇〇〇グラムの児については、出生日が摂氏三四度程度、五日目以降は摂氏三三度程度、一〇日目以降は摂氏三三度程度、二〇日目以降は摂氏三二度程度、三〇日目以降は摂氏三二度程度としている。また、湿度については、高湿度環境における問題を指摘し、「新生児に対する至適湿度環境は、おそらく中程度の湿度域であろうと理解されるようになった。」としている。例外的に、高濃度酸素療法を行っているときと気管切開がなされたときには高湿度環境が必要になるとしている(乙A第三二号証の一三)。

昭和四八年六月、神奈川県立こども医療センター小宮弘毅医師は、体温を摂氏三六度ないし三七度に保てる温度にすること、それは具体的には摂氏三〇度ないし三五度であること、湿度は環境酸素濃度を高めるときには八〇パーセント程度とすることとしている(甲A第三一号証の四)。

昭和四八年九月一日、大阪大学教授蒲生逸夫は、「小児科診断治療の指針」において、保育環境につき、生下時体重一二〇〇グラムの児については温度を摂氏三四度、湿度を七〇パーセント、生下時体重一四〇〇グラムの児について温度を摂氏三二度、湿度を七〇パーセントとするとしている(乙A第三三号証の六)。

二  栄養補給(輸液も含む。)関係

昭和三五年、大阪市立大学医学部小児科教授高井俊夫らは、「産婦人科の世界一二巻一〇号」において、「われわれは、一般状態がよければ、生下時体重一・〇~一・五キログラムのものは四八時間、一・五キログラム以上のものは二四時間の飢餓期間を置き、授乳開始後最初の一二時間は、三時間毎に五パーセントブドー糖を与え、それが受容されれば、授乳に移行する。授乳間隔は全て三時間おき、一日八回行っている。」こと、授乳の量については、生下時体重一〇〇〇グラムの児については生後一二日から一四日ころには一回一六ccないし二〇ccを投与することにしていたことを報告した(甲A第一八号証の七)。

昭和三六年、賛育会病院小児科部長中村仁吉は、「今日の治療指針1961年版」において、飢餓期間は生下時体重一・〇キログラムでは四八時間、二・〇キログラムでは三六時間としていること、授乳はカテーテルを使用し(以下この点はいずれの文献でも同様であるので省略する。)、一回の授乳量は日を追って増量すること、量は児の状態に応じて増減することなどを報告している(甲A第一九号証の八)。

昭和四〇年、高津忠夫監修の東大小児科治療指針改訂第五版は、飢餓期間について、生下時体重一〇〇〇グラム以下の児については四日間、一〇〇〇グラムないし一五〇〇グラムの児については三日間、一五〇〇グラムないし二〇〇〇グラムまでの児については二日間を目安とし、初日の授乳量は右の区分に応じて、それぞれ二cc、三cc、四ccとし、以降、毎日増量していくこととしていた(乙A第二五号証の二)。

昭和四一年四月二〇日、中村仁吉は、臨床小児科学全書第一巻において、「未熟児は一般に吸啜力が弱い。特に生下時体重一五〇〇グラム以下の未熟児では吸啜力はなく、嚥下反射も不完全か、あるいは全くこれを欠如している。また、未熟児は嘔吐し易い上、咳嗽反射不全により、授乳後にしばしばチアノーゼ、呼吸困難を起す。」とし、飢餓期間を生下時体重一〇〇〇グラムの児については四八時間、一五〇〇グラムの児では三六時間を目安としていることを明らかにし、栄養補給については、当初は一〇パーセント糖(初回四cc)を与え、ついでミルク(初回四cc)を与えることにしていることを明らかにしている(甲A第二四号証の一)。

昭和四二年一月、村田文也は、遠城寺宗徳監修「現代小児科学大系」の第二巻「新生児疾患」において、授乳については、生下時体重一〇〇一ないし一五〇〇グラムの児の場合、飢餓期間を三日間としたうえ、以後、初日は一回三ccとし、翌日からは順次増量していくのが適当であるとしている(甲A第二五号証の一)。

昭和四三年四月、日本大学教授馬場一雄は、「新生児病学」において、栄養補給について、飢餓期間については、生下時体重一〇〇〇グラムの児については七二時間、生下時体重一五〇〇グラムについては四八時間を目安とし、初回の授乳の量については、一〇〇〇グラムの児の場合には一回二ccないし四cc、一五〇〇グラムの児の場合には一回四ccとすること、飢餓期間が四八時間以上になるときには脱水を予防するために皮下輸液を行うことなどを明らかにしている(乙A第二八号証の三)。

昭和四四年一二月、高津忠夫監修の「小児科治療指針」は、「未熟児に対する授乳開始を急ぎ過ぎたり、食餌の増量をあせったりすることは、嘔吐を誘発し、嘔吐の吸引が窒息や吸引性肺炎の原因となることが多いから、厳に慎むべきである。」とし、飢餓期間については生下時体重一〇〇〇グラム以下の児については四日間、一〇〇〇グラムから一五〇〇グラムまでの児は三日間とすること、授乳の量は初回が一〇〇〇グラムの児については二cc、一〇〇〇グラムから一五〇〇グラムの児については三ccとしていること、飢餓期間が四八時間以上に及んだり、体重の減少量が生下時体重の一五パーセントを上回ったときには輸液を考慮することなどを明らかにした(乙A第二九号証の三)。

昭和四四年五月二〇日、馬場一雄は、「未熟児の保育」において、生下時体重一〇〇〇グラム未満の児については飢餓期間を七二時間とし、一〇〇〇グラム以上一五〇〇グラム未満の児については飢餓期間を四八時間とすること、初回の授乳の量は一〇〇〇グラム未満では二cc、一〇〇〇グラム以上一五〇〇グラム未満の児の場合には三ccとし、その後毎日増量していくこと、飢餓期間が生後二四時間以上の長時間に及ぶ場合、体重減少が出生体重の一〇パーセントを上廻るとき、明らかな脱水症状を認める場合には輸液を行うことなどを明らかにした(乙A第二九号証の五)。

昭和四六年九月、山内逸郎は、篠塚輝治編集代表の「四季よりみた日常小児疾患診療のすべて」において、「出生体重の小さい未熟児によくみられる無呼吸発作は、血糖値の低いものに特に多い。呼吸障害のあるものでは、血糖の測定は重要である。……一般に二〇パーセントブドー糖液を静脈内に投与したり、一〇パーセントブドー糖液を点滴輸液することによって無呼吸発作を著しく減少させることができる。」としている(甲A第二九号証の一二)。

昭和四七年一一月、北里大学医学部産婦人科講師島田信弘は、「最新医学二七巻一一号」において、飢餓期間については生下時体重一〇〇〇グラム以下では七二時間、一〇〇〇グラムから一五〇〇グラムまでは四八時間、一五〇〇グラムから二〇〇〇グラムまでは三六時間としていること、生下時体重一五〇〇グラム以下は全例早期輸液を生後四日ないし五日までは継続していること、初回授乳は五パーセント糖水で二、三回目からミルクを投与することなどを明らかにしている(甲A第三〇号証の三〇)。

昭和四八年九月、大阪大学教授蒲生逸夫は、「小児科診断治療の指針」において、飢餓期間は、生下時体重一〇〇〇グラム未満の児については七二時間、一〇〇〇グラムの児については四八時間、一五〇〇グラムの児については二四時間とし、初回の授乳量はそれぞれ右の生下時体重に応じて二cc、三cc、四ccとしている(乙A第三三号証の六)。

三  証人石塚佑吾の証言

「チアノーゼと低体温の関係」については、低体温は呼吸障害を悪化させ(酸素の消費量を増加させる。)あるいは循環障害をもたらしてチアノーゼの発生をもたらすことがある。保温によって全て低体温が解消されるわけではなく、児によって異る。保育器内の温度な国立第二病院では体重一〇〇〇グラム以下位の児については摂氏三五度とし、体重一五〇〇グラム位の児については摂氏三四度としている。児の体温として一応のめどとなるのが摂氏三六度(直腸温)であり、摂氏三五度以下は問題である。保温のためのフードを国立小児病院で使い始めたのは昭和四七年ないし昭和四八年であった。現在のような高温保育がなされるようになったのは昭和五二年からかそれ以降ではないかと思われる。

「RDSと全身管理」については、保温と輸液(電解質)によるアシドーシスの矯正(アルカリ療法)が必要となる。特に、アルカリ療法によってRDSの症状はかなり改善されることがある。国立第二病院でPHが測定され始めたのは昭和四〇年代の初めからであった。一般に測定されるようになったのは昭和五〇年ころからではないかと思われる。また、国立第二病院でアルカリ療法が導入されたのは昭和四五年ころ(証人石塚は昭和四六年か昭和四七年からかも知れないとも供述する。)からである。

「低血糖の関係」については、低血糖があると、呼吸障害やチアノーゼが起き易い。そこで、国立第二病院では昭和四五年ころよりルーチンに血糖値を測定するようになった。これは栄養補給と関係する。

「栄養補給」については、昔は飢餓期間を長くとる傾向にあったが、現在ではできるだけ早く授乳するというように変ってきている。国立第二病院では呼吸確立ができるまでの間に栄養輸液(水分とブドー糖)をやるようになったのは昭和四九年ないし昭和五〇年ころからであった。この輸液(アシドーシス矯正のためのものを含む。)については最近反省も出てきており、あまり大量にやると血液の浸透圧が高くなり、頭蓋内出血の原因となると指摘されるに至っている。脱水症状はそう起るものではないが、嘔吐などの場合には考えられる。成熟児の場合には一〇パーセントないし一五パーセントの体重減少があったときには脱水があると判断される。脱水があるかどうかは血液中の電解質を調査すると判断できる(ナトリウムが多くなる。)。栄養補給のめどとして用いられるホルトの曲線はその基になった症例が少いので実証性がないが、他にないのでこれが用いられていた。したがって、体重増加のあり方がホルトの曲線を外れたといっても問題はないが、大きく外れた場合には問題がある。体重の増加に問題があるときの原因はいろいろあり、心臓病とか慢性の消化器障害などのときもある。

「保育器内の湿度」についての見解は大きく変り、高湿度が必要とされた時代もあったが、現在では五〇パーセントないし六〇パーセントが妥当とされている。

四  まとめ

以上によると、未熟児網膜症の発症予防のための具体的・直接的な方法の一つとして保温や栄養を取り上げた文献はみられず、したがって、発症責任における過失ないし責めに帰すべき事由の内容として、保温や栄養補給に関する義務違反を問題とすることはできないものと認められる。保温や栄養補給についての全身管理が確りしていたならば、未熟児網膜症の発症の危険を減少せしめ、あるいは自然治癒力を増大させるということは推論としては考えられても、本件当時及び現在において実証されたものとはいえないというべきである。

次に、低体温や低血糖がチアノーゼや無呼吸発作と関連することを示している文献は昭和四〇年代後半からみられたが、一部の文献に過ぎず、また、証人石塚の証言によれば、そのような措置によって改善されるものは一部に過ぎない。そして、一般の臨床医において、そのような関係を認識可能であったとは必ずしもいえないものと認められる。また、証人石塚の証言内容からすると、臨床的にチアノーゼや無呼吸発作が起ている場合にこの原因を探ることは容易ではなく、臨床医としてはそれらを一応酸素投与の適応と判断するのが慎重な態度である。したがって、保温や栄養補給が充分でないときにおけるチアノーゼや無呼吸発作は本来酸素投与の適応でないとする原告らの主張は採用できない。

第七光凝固法・冷凍凝固法についての医学水準・医療水準

《証拠省略》を総合すれば、次の事実を認めることができ、この認定を覆すに足る証拠はない。

一  光凝固法・冷凍凝固法の意義

一般に、光凝固法とは、眼球外周組織に何ら傷害を与えることなく、単に屈光中間体を通して射入される検眼鏡の光束を網膜のある個所に集光してその熱で当該部分を蛋白凝固するという方法である。光凝固法の未熟児網膜症に対する奏功機序は必ずしも明確ではないが(「奏功」の意味についても自然治癒を早めるだけなのかという後記の問題がある。)、一応、次のように考えられている。すなわち、紡錘型細胞(血管の原基となる未分化細胞であって、血管の内皮細胞や壁細胞へと分化してゆくもの)が異常に増殖し、これより視神経乳頭側に内皮細胞が帯状に増殖して堤防上に盛り上り、境界線(いわゆるdemarcationline)が形成されるが、その境界線の中に異常増殖した内皮細胞とその先端部(無血管帯)にある紡錘型細胞を光凝固によって破壊して、その数を減じ、血管増殖に対する生化学的な異常刺激を鎮静することによって網膜血管発育過程中での狂いを矯正するものである。

冷凍凝固法の場合には、光凝固法における光のかわりに、摂氏マイナス五〇度~マイナス六〇度に冷却した網膜用ペンシルを用いて、冷凍凝固を行うもので、原理は光凝固と同じであると解されている。

二  他の症例に対する光凝固法の適用

1  アシュトンは、成人の病気である糖尿病性網膜症、網膜中央静脈閉塞症、イールス氏病などと未熟児網膜症の発症機序は同じではないかと推定し、したがって、右の病気に対する治療法は未熟児網膜症に対する治療法となるのではないかと予言していた。

すなわち、血管の閉塞が生じ、次で、その閉塞した領域の網膜が低酸素状態に陥り、そこから血管増殖に対する何らかの刺激物質ができて、その結果、血管増殖が促されるという点では、未熟児網膜症も右の各疾患も同様であるとされる。

イールス氏病は、何らかの細菌とかビールスとかによって血管の炎症が起り、その結果、血管の閉塞が生じて低酸素状態に陥り、そこから血管の増殖ないし新生が起ってきて、それが一部硝子体の中に侵入してきて出血を繰り返すという疾患である。

網膜中央静脈閉塞症は、動脈硬化により血管の閉塞が生じ、毛細血管のない網膜の部位ができて、低酸素状態が生じ、そこから血管の増殖ないし新生が生ずるというものである。

糖尿病性網膜症は、糖尿病の異常な代謝が原因で、血管の壁の細胞がやられて血栓ができ(血管は閉塞する。)、低酸素状態が生じ、そこから血管の増殖ないし新生が生ずるというものである。これについても病変の寛解性があることが認められている(例えば、大阪大学別所健夫「光凝固法―病巣凝固」眼科Mook八号、北野病院菅謙治「光凝固療法―広汎凝固」前同)。また、名古屋大学小嶋一晃・鈴木万里子らは、昭和五四年の段階においても糖尿病性網膜症についての臨床経過分類について、光凝固の適期を判断する上でなお議論があることを報告しており(「網膜症分類の歴史と現状」前同の文献)、琉球大学福田雅俊は新たな分類を提唱している)「新しい分類の提唱」前同の文献)。

その他、コーツ病やヒッペル病にも光凝固は適用されているが、これらの疾患については自然治癒は殆どなく、発見できることも稀である。

2  我が国において、これらの病気に光凝固が適用されるようになったのは、一九六〇年代からであり、永田自身も昭和四三年七月にはイールス氏病に対する光凝固の適用について報告し(眼科臨床医報六二巻七号)、糖尿病性網膜症についても昭和四五年六月に報告し(日本眼科紀要二一巻六号)、網膜静脈枝血栓症についても昭和四八年八月に報告している(臨床眼科二七巻八号)。糖尿病性網膜症に対する光凝固の適用については、我が国では多くの報告があり、昭和四六年当時には「糖尿病性網膜症に対して光凝固療法が有効であることは、現在では一般的な常識となっている感がある」と評価され(東京大学医学部助教授清水弘一「糖尿病性網膜症の光凝固とその奏功機転」眼科一三巻一一号、昭和四六年一一月)、アメリカでは、なかなか有効性が承認されなかったが、昭和五〇年ころコントロール・スタディが実施されて有効性は確立している。しかし、前記の別所は「光凝固は確かに優れた方法である。しかし、あらゆるstageの網膜症に万能的に効果のある方法ではない。その効果は、初期病巣では的確に作用するが、進行したものでは有効性は低く、逆に進行を促進する場合もある。」としている。前記の菅も有効であることは確認されているとしながらも、広汎凝固(光凝固の方法)に伴う副作用として、視野狭窄、暗順応の低下、瘢痕収縮を促進する効果、硝子体出血の発生、球後麻酔に起因すると考えられる視力神経萎縮発生の可能性を挙げている。

イールス氏病や網膜中心静脈閉塞症については、コントロール・スタディは存在しない。後者は自然治癒が多い疾患であるが、治癒期間を早めるという目的の面ではコントロール・スタディの必要はない。治癒期間を早めると網膜の視細胞の障害が少なくて済むかという点では問題は残る。

3  右の各疾患と未熟児網膜症の間には次のような相違点がある。

未熟児網膜症の場合には、未熟児の眼は発育途上の眼であり(血管が新生していくのは当然のことであり、その伸び方が異常になったのがこの疾患である。)、光凝固による瘢痕によって将来悪影響が出てくるのではないかという問題があったのに対して、右の各疾患の場合には発育が終った眼(血管が新生すること自体が異常である。)についての病変であり、そのような心配はいらない。また、自然治癒の問題については、未熟児網膜症の場合には自然治癒の率が非常に高く(但し、自然治癒の中には瘢痕を残すものがあるので、一律に自然治癒の方が良いとはいえない。)、これに対し、糖尿病性網膜症の場合には自然治癒の方が少く、網膜中心静脈閉塞症については自然治癒が多いが重症化することは余りない。

三  未熟児網膜症に対する治療法としての光凝固法に関する本件当時までの医学文献

《証拠省略》によれば、次の事実を認めることができ、この認定を覆すに足る証拠はない。以下ではその文献の対象となる専門医によって三つに区別した。

1  眼科関係

(一) 天理よろず相談所病院永田誠医師による未熟児網膜症に対する光凝固法の開発と発表

永田らは、昭和四二年三月に我が国で初めて未熟児網膜症に対して光凝固法を施行し、昭和四三年四月、この結果を発表した(臨床眼科二二巻四号)。未熟児網膜症に光凝固を適用するに至った理由について、Eales氏病などの「網膜血管病変に光凝固治療を行い、網膜血管病変のあるものに対して光凝固が真に偉大な効果を発揮することを驚異の念をもって観察してきた」ことからであるとしている。実施例は二例で、実施時期はオーエンス二期から三期に進行したことを確認した時点(限局性の網膜隆起部の血管から血管発芽が起り、血管新生の成長が硝子体内へ進出し始めた時点)であり、凝固部位は異常な増殖を起した血管のやや中心側より網膜の滲出性隆起部にわたる部分(症例一)あるいは血管新生部であった。自然治癒との関係については、キンゼイの報告では活動期一期ないし二期では八七・五パーセントが、三期ではさらに半数が自然治癒するが、重症化すると失明などの悲劇を生ずる。「活動期三期病変がさらに観察を続けるうちに寛解してくる可能性はKinseyらの報告によれば五〇パーセントであるが、もし血管新生がさらに進み、網膜剥離が進行し、あるいは硝子体出血を起してきた場合は光凝固はおそらく不可能となるおそれがある。」そして、「われわれは現在本症活動期症例をみて、その症例が進行性か非進行性かを的確に判定する基準を持っていない。」ので、「光凝固施行時期には問題があると思われるが」、光凝固法は「重症の未熟児網膜症に対する有力な治療手段となる可能性がある。」と報告した。そして、植村からの質問に対し、実施時期については「活動期三期に入れば、たとえ寛解してもかなりの瘢痕を残し、少くとも牽引乳頭などの変化を起して視力障害を残すと考えられるので」活動期三期が妥当であるとし、光凝固が発育途上にある未熟な網膜に何らかの悪影響を与えないだろうかとの質問に対しては、光凝固の施行を最小限に抑えたつもりであり、(その時点では)障害はみられないと回答している。

昭和四三年一〇月、永田らは、未熟児網膜症に対する光凝固の方法を紹介した(眼科一〇巻一号)。光凝固の実施時期と自然治癒の関係については、「我々が光凝固を施行した二症例では、たとえこの時点で自然寛解が起ったと仮定しても放置すれば恐らく不可能となるであろうと想像される。これが我々をして網膜症が三期に突入した時に光凝固法を決意させるに至った根拠である。」とし、過剰侵襲とならないかとの問題については、「日常我々は網膜剥離における予防的光凝固に際して光凝固による網膜瘢痕はジアテルミー等に比し比較的軽度でこれによる牽引性網膜皺襞形成は起らないことを知っている。したがって、網膜症が進行してさらに強い瘢痕形成悪くすると水晶体後部線維増殖に至る可能性を考えれば、たとえかなり広範囲の瘢痕が生じてもこの取り引きは引き合うのではないかと考えたのである。但し、発育途上にある網膜に、たとえ1/4周とは言えかなり広範囲の人工的瘢痕を作って今後の眼球の発育に影響がないかどうかは今後の経過観察に待つ他ない。」としているし、「我々はこの様な手段が本症の治療問題を全て解決するとは決して考えていないし、これが果して正当な手段であるか否かについての尚批判の余地がある事を認めている。」としている。

昭和四五年五月、永田らは、光凝固法を施行した四例(昭和四三年一月から昭和四四年五月までの症例)の追加報告を行った。自然治癒例との鑑別につき、「Owens二期で網膜周辺部の灰白色限局隆起を生じ、その後自然治癒していく症例をみていると、この隆起部を越えて網膜血管が鋸歯状縁に向って延び始めるとともに、この滲出性隆起は低く薄くなり、まもなく消失する。これに反して光凝固を施行した症例では、灰白色隆起が次第に高くなり、これに向って新生血管が這い上るように増殖し、この部より鋸歯状縁に向って、全く血管を認めぬ無血管帯が存在し、この灰白色隆起が有血管帯と無血管帯とのdemarcation lineを形成しているのが分かる。」とし、「勿論、このような時期でも自然寛解があり得ることはKinseyも認めるところであるが、Kinseyらの報告でも、それは症例の半数に過ぎず、植村らの報告ではOwens二期で治癒に向かっても、何らかの瘢痕を残すことは免れ難い上述べている。」として、活動期三期では自然寛解があったとしても、光凝固法を実施した方がよいとの判断を示している。「以上の治療経験から、重症未熟児網膜症活動期病変の大部分は、適切な時期に光凝固を行えば、その後の進行を停止せしめ、高度の自然瘢痕形成による失明または弱視から患児を救うことができることはほぼ確実と考えられるようになった。しかし、この治療法を全国的な規模で成功させ、わが国から未熟児網膜症による失明例を根絶するためには幾多の困難な事情が存在する。」と述べた。その困難の内容は、未熟児網膜症の病態についての知識の普及が充分でないこと、眼底検査の技術を修得するためにはかなりの訓練が必要であること、光凝固法実施のためには病院間の密接な連絡・協力体制の確立が必要であることなどであった(臨床眼科二四巻五号)。

昭和四五年一一月、永田らは、一二例に対する光凝固法の実施を報告し、未熟児網膜症の臨床経過につきオーエンスらの分類の不備な点について詳細に説明した。凝固部位については「demarcationlineを中心にその周辺の無血管帯、中心側の血管増殖部を三~三列に凝固するが、血管増殖部を凝固しても出血を起すことはなく、むしろ無血管帯を凝固した時に出血の起ることが時々ある。しかしこれが大出血を招いた経験はない。demarcation lineが見える範囲は全部凝固すべきであって、無血管帯は全幅鋸歯状縁まで凝固する必要はないが、広い場合は二列ほどは凝固しておいた方がよい。」としている。そして、「光凝固は現在最も確実な治療法ということができる。」「現在光凝固装置は既に相当台数全国的に設備されている。これを各地区ごとのブロックに分け未熟児網膜症による治療のネットワークを作れば本邦から未熟児網膜症による失明例を根絶することも夢ではない。」とした(臨床眼科二四巻一一号)。

昭和四七年三月、それまでの五年間に光凝固を実施した二五例についての成績を総括し、「二五例中一七例が完全に治癒し、三度以上の重症瘢痕を残した二例は他よりの転院患児で治療の適期を過ぎており、光凝固実施時、すでに生後八〇日を超えていたもの、他の六例は二度の瘢痕を残した。本症による失明や弱視の発生を防止するためには、生後三週間より始まる定期的眼底検査と、進行重症例への治療が最も実際的な対策である。」旨の報告をした。実施時期については「光凝固の治療経験を積むに従って、生下時体重、酸素使用日数、眼底所見などを総合すれば網膜症進行の予後をある程度予測できるようになる。われわれは現在他院から光凝固治療のために紹介されてきた症例のうち、自然治癒を営む症例をかなりの正確さで選別できるようになった。このことは誤った判断による過剰侵襲を行う可能性が殆どなくなったことを意味するもので、最近はOwens二期の初めから観察できる症例で上述の総合判定が明らかに三期への移行を予測させる症例においては二期の終り頃、すなわち、従来よりやや早期に光凝固を施行する方針を採るようになった。」「しかし、この際、各症例における光凝固実施の要不要に関する判別はきわめて厳重なものでなくてはならず、そのためにはかなり早い病期からの継続的経過観察と的確な判断を下すための知識と経験の蓄積が必要である。」としている。凝固部位については「無血管帯が広ければ広いほど、光凝固による軽快後の網膜血管の発育に障壁が存在することとなる。このような障壁を除き、網膜血管の正常な発育を促すためにわれわれは光凝固実施に際して……無血管帯との境界線のみならず無血管帯を散発的に光凝固することを試みている。」としている。そして、「今や未熟児網膜症の実体はほぼ明らかとなり、これに対する治療法も理論的には完成したということができるので、今後はこの知識を如何に普及し、如何に全国的規模で実行することができるかという点に主なる努力が傾けられるべきである。」と述べている。普及に関しては、「光凝固を必要とする病期にある眼底所見には、症例によってかなりの相違があり、これを的確に判定できるようになるまでにかなりの経験を必要とする」こと、「多くの人々の経験を総合して適切な判定基準を確立することが望まれる」こと、眼底写真なども利用する必要があることなどを指摘している。このときの質疑応答において、九州大学大島医師から急速に進行する型の存在について報告がなされている。また、東北大学佐々木医師からの自然治癒の問題や過剰侵襲の問題の指摘については、「自然治癒の傾向を正しく見極め、過剰侵襲を避け、また真に光凝固の必要な症例で時期を失わないようにするためには、かなりの経験の蓄積を必要といたしますので、このような意味での情報交換が必要と思います。」と回答している。(臨床眼科二六巻三号)。

(二) 未熟児網膜症に関する光凝固法についての追試報告

昭和四六年四月、関西医科大学上原雅美・塚原勇らは、五例(昭和四四年一一月から昭和四五年九月にかけてのもの)についての光凝固法の実施について報告し、関西医科大学の未熟児センターにおいて未熟児網膜症の発症率は九・二パーセント(二四例)であったこと、そのうち光凝固実施前にオーエンス三期にまで進行したものは一例であったこと、光凝固法を実施することにしたのは永田の発表と種々の網膜血管症に対する光凝固の有効性についての経験からであったこと、「時期を選んで光凝固法を行えば、放置すれば重症な瘢痕を残したと推定される症例に対しても確実にその進行を阻止し得る」こと、重症例においてはおどろく早さで進行して時期を失することがあるので、重症例についてはなるべく早い時期に光凝固を実施しなければならないが、未熟児網膜症が発症したときに果して重症な経過をとるものであるか否かを判定することは容易ではないこと、そこで、「われわれは経験からOwens二期のものは大部分あとに重症な瘢痕を残さずに自然治癒するが、Owens三期に入ると重症な瘢痕を残す可能性が大きいのでOwens三期に入れば速やかに光凝固を行うように心掛けることとした。」と述べている(臨床眼科二五巻四号)。

昭和四六年九月、九州大学大島健司らは、二三例(昭和四五年に実施したもの)に光凝固法を実施したこと、このうちオーエンス四期の二例三眼には著効は得られなかったが、三期の初めまたは二期の終わりのものでは有効であったこと、三期とは永田のいう時期であり、網膜耳側周辺の無血管領域に境界線が出現して堤防状に隆起し、それに向って怒張した網膜の新生血管が硝子体中に浮び上りつつ増殖し、次で、それら新生血管から硝子体中に桃色又は灰白色の滲出物が遊出し、灰白色の境界線が赤道部へ移動し始めたときであること、治療の実際については永田の報告に従ったこと、それで良好な成績をあげたことを報告した(日本眼科紀要二二巻九号)。

昭和四七年六月、大島健司は、右の実施例の検討から、「光凝固法が有効であることを永田が発見し、その後の追試によっても確認されている。」とし、未熟児網膜症の臨床経過について詳細に説明し、眼底検査のやり方についても詳細に説明し、実施時期は活動期の三期の初期がよく、凝固部位は境界線を中心に血管増殖部とその周辺の無血管帯で、無血管帯の幅が広いときには更に周辺近くまで凝固した方がよいことを明らかにし、「光凝固は最も有力で、それが適当な時期に施行されれば、後極部網膜に影響を及ぼすことなくこの網膜症を確実に治癒に赴かせることができる。しかしその反面、……光凝固の時期を逸することを懸念して自然治癒の可能性のあるものにまで、本法を実施するということも起こりかねない。」「未熟児の眼底検査を定期的に行い、近くの光凝固器を備えた病院と連絡を保つような態勢を作る必要がある。既にこのような眼の管理の行われているところもあるが、一般にはまだまだ少く、全国的に普及させる必要がある。」と報告した(眼科一四巻六号)。

昭和四六年八月、名鉄病院田辺吉彦らは、一八例に光凝固を実施し、活動期三期までの一六例は総て劇的な寛解をみたことを報告し、「光凝固は目下未熟児網膜症に対する唯一の確実な方法である。本症は病理組織的に網膜血管とmesenchymal cellの硝子体中への異常増殖で、糖尿網膜症やEales氏病との類似が指摘され、Ashtonはこれらの治療法が本症の治療になろうと予言している。光凝固はまさにそれであり……。ただ未熟眼への光凝固が以後の眼球発育にどう影響するかはまだ不明で、自然寛解の多い本症では適用時期が大切である。われわれのみた限りでは光凝固の瘢痕一よりきれいである。それゆえ活動期三期に施行するのが、もっともよいと思われる。また瘢痕期以後の最大の脅威である網膜剥離に関してはまだ資料がないが、光凝固の瘢痕は癒着のある点で、自然瘢痕より剥離が起り難いと考えている。」としている(眼科臨床医報六五巻八号)。

昭和四六年一一月、名鉄病院田辺吉彦は、二五例(昭和四四年三月から昭和四六年一一月)に光凝固を実施した結果の報告をし、無効であったのは二例であり、未熟児網膜症に対して適当な時期に光凝固を施行すれば「略々確実に失明を防ぐことが可能になった今日、眼科、産科、小児科が緊密に提携し合ってこれに対処することが望まれる。」、「確実な治療法とは永田によって考え出された光凝固及び同じ考えに基づく冷凍凝固である。」としている。また、実施時期については「私達の経験ではオーエンスの三期までなら大部分が光凝固の瘢痕を残すのみで治癒するが、時に乳頭牽引を来すことがある。それ故stageⅢに入った時点を狙うのが最も妥当と思われる。しかし経過をみていて経験的にstageⅢに行くと思われるケースにはstageⅡに於いて施行することも許されると私は考えている。」としている。さらに、「未熟な眼への侵襲が成長するにつれてどのような影響を及ぼすかデータはない。永田の最初の症例は目下四才で〇・九の視力を有し、格別の異常は認めないという。今後共経過追跡が大切である。」としている(現代医学一九巻二号)。

昭和四七年五月、名鉄病院田辺吉彦は、二三例(昭和四四年三月から昭和四六年六月)に光凝固を実施し、このうちオーエンスの活動期三期までの二〇例につき有効であり、「良好な成績を得たので追試の意味で発表した。」と報告した。実施時期については原則として活動期三期に入った時点で行うとしながらも、「経過を観察していて経験的にstageⅢに進むと予想される症例は、早期に凝固した方が少い凝固数ですむ。」とし、副作用との関係では、「発育途上の未熟な眼球に光凝固を行うことが将来の発育にどのような影響を及ぼすかはまだ観察がなく、自然寛解の可能性のある眼に光凝固を行うことに疑問がなくはないけれども、新生児の網膜はOraserrataの部に成長の余地があること、及び光凝固の瘢痕は自然治癒の瘢痕よりきれいで脈絡膜と癒着しているので牽引に抵抗が強いことから、症例によってはstageⅡでも光凝固を行うべきだと著者は考えている。」としている(日本眼科学会雑誌七六巻五号)。

昭和四六年一一月、兵庫県立こども病院田渕昭雄・山本節は、五例(昭和四五年五月から昭和四六年七月まで)について光凝固を実施し、その結果は良好であったこと、実施時期は活動期二期から三期であったことを報告した(眼科臨床医報六五巻一一号)。

昭和四六年一二月、兵庫県立こども病院田渕昭雄・山本節は、「永田氏の開発した光凝固術は、これら進行例のうち網膜症活動期二期~三期のものに対しては極めて有効な治療法で、私たちもこの手術を行っている」とし、実施時期については「活動期三期に入るおそれがあるもの、すでに活動期三期に入ったもの」に対して実施するとしており、「この手術の適応などについてはさらに検討を加える必要があると思われる。」としている(眼科臨床医報六五巻一二号)。

昭和四七年七月、兵庫県立こども病院田渕昭雄・山本節らは、同病院における眼科的管理について述べ、眼底検査は「よほど熟練していないと本症の進行程度、活動性の有無を判断できないので……出生後できる限り早く眼底検査を行い……全体の経過から判断した方が安全である」とし、光凝固を一〇例に実施した結果では、八例については進行を阻止し得たが活動期四期の一例と急速に進行した一例については進行を阻止できなかったと報告した。また、実施時期については活動期二期の後期であったが、それはこの時期に行うと成功率がよく、凝固斑による網膜の障害が少くて済むからであるとしつつ、光凝固を実施した眼の病理学的検索の結果から「現在のところ光凝固による治療が最も有効な治療であるが、光凝固による網膜の組織学的変化が著しいことから、こういった網膜の器質的変化を来たさない治療をさらに検討する必要がある。」と報告している(臨床眼科二六巻七号)。

昭和四六年八月、関西電力病院盛直之は昭和四六年五月の光凝固研究会の様子を報告し、当時で光凝固装置の台数は全国で約六〇台に達していること、広島県立病院野間が未熟児網膜症に対する光凝固法の適用について発表したことを報告した。それによると、野間は、一〇例一九眼(一例を除いては活動期三期の中期に実施)に光凝固法を実施したが、瘢痕期一度が一眼、二度が一六眼、三度が一眼、四度が一眼であったと報告し、これに対して兵庫県立こども病院田渕は分類の判定にずれがあるのではないか(そのために実施時期が遅れたのではないか)との疑問を提出した(臨床眼科二五巻八号)。

昭和四六年一一月、野間らは、昭和四五年三月から同年六月までに一〇例の未熟児網膜症を認め、うち、二例にオーエンス活動期三期から四期に移行する様子が窺われたため、光凝固を行い、一例は進行を食い止め得たが他の一例はオーエンス瘢痕期四度の変化を残したと報告した。また、ステロイドホルモンについては効果がなかったと報告した(眼科臨床医報六五巻一一号)。

昭和四七年一一月、野間らは、昭和四五年一月から昭和四六年八月までの一二例(殆どが活動期三期のもの)に光凝固を実施し、瘢痕期二度の瘢痕を残して治癒したと報告した(眼科臨床医報六六巻一一号)。

昭和四七年一月、国立大村病院本多繁昭・増本義らは、一〇例(昭和四五年七月から昭和四六年六月まで)について光凝固または冷凍凝固法を実施し、進行を停止し、九例については完全に治癒し、一例については瘢痕期一度であったと報告している。実施時期については硝子体への血管の増殖の直前(オーエンスの分類にはこの時期が明示されていない。)、オーエンスの活動期二期から三期に移行する時期が最適としている。また、光凝固実施の困難さについて、光凝固の実施は未熟児の場合については技術的に難しいこと、光凝固器が高価であること、全身状態との関係で転送について困難があることを挙げている(眼科臨床医報六六巻一号)。

昭和四七年五月、国立大村病院本多繁昭・増本義らは、右と同様の報告をし、実施時期については「硝子体への血管の増殖が始まる直前が妥当と考える。自然治癒が望み薄となることを確かめた後に凝固に踏み切るべきである。」としている(眼科臨床医報六六巻五号)。

昭和四七年一月、名古屋市立大学松原忠久は、種々の眼疾患に対して光凝固法を実施した結果について報告したが、そのうち、未熟児網膜症は一〇眼であり、いずれも治癒せしめ得たことを報告し、「未熟児網膜症の光凝固は永田等が一九六八年に初めて報告して以来……重症未熟児網膜症に対する唯一の治療手段として次第に普及している。」と述べた(日本眼科紀要二三巻一号)。

昭和四七年七月、名古屋市立大学馬嶋昭生は、光凝固による二六例の治癒例の経験から、進行が予想される例は活動期二期で凝固した方がよいとした(眼科臨床医報六六巻七号)。

昭和四八年二月、松戸市立病院丹後康雄医師らと関東労災病院深道義尚は、昭和四五年度において活動期三期以上に進行した五例と他院からの紹介例の二例合計七例に光凝固を実施し、六例は瘢痕一ないし二度で治癒し、「未熟児網膜症に対し、光凝固は有効な治療法であることが分かった。またこの六例は、約二年間の経過観察では、白内障、斜視、そのほかの異常は認められない。」と報告した(眼科臨床医報六七巻二号)。

昭和四八年三月、京都府立医科大学岩瀬文治は、昭和四四年一〇月以来、一三例について光凝固及び冷凍凝固を実施し(九例は光凝固、二例は冷凍凝固、二例は併用)、他病院からの紹介患者の四例は実施時期が遅れてしまって網膜剥離になったが、「他の九例は現在経過観察中であるが、他覚的に経過良好である。」と報告した(眼科臨床医報六七巻三号)。

昭和四八年七月、国立習志野病院飯島幸雄は、昭和四七年の三例の未熟児網膜症の例に光凝固及び冷凍凝固を実施し、一例はオーエンス四期に光凝固・冷凍凝固を実施して無効であり、一例はオーエンス二期の晩期に光凝固を実施しオーエンス瘢痕期三度の瘢痕を残し、一例はオーエンス二期から三期にかけて右眼に光凝固を実施し、左眼に冷凍凝固を実施し、経過観察中であることを報告した(眼科臨床医報六七巻七号)。

昭和四八年一二月、大阪北逓信病院浅山亮二は、昭和四四年三月からそれまでに北野病院眼科から紹介された未熟児網膜症六例一二眼中一〇眼について光凝固法を実施し、うち七眼については瘢痕一度で治癒し、一眼はdraggeddiscとなり、一例二眼については追跡ができず効果は不明であると述べ、「Owens一期は自然治癒もあり得るので、経過観察期とし、進行が認められた時には、その経過が極めて速い例には直ちに光凝固を実施すべきであり、四期に至れば光凝固も無効であることが分かった。」と報告した(逓信医学二五巻一二号)。

(三) 未熟児網膜症に対する光凝固に対する追試報告以外の評価と普及の文献

昭和四四年一〇月に第一回光凝固研究会が開催され、その報告が昭和四五年二月に出されたが、そこで、深道義尚・清水弘一らは、「これまであまり治療法のなかった中心性網膜炎や未熟児網膜症などに対しても画期的な治療法となっている。」「光凝固装置は開発されてもまだ日も浅く、使用範囲も多岐にわたるため、疾患ごとの適応基準や使用方法に関する情報の集積が充分ではない。各人がそれぞれ試行錯誤を繰り返して行方を模索しているとの感が深い。」と報告している(臨床眼科二四巻二号)。

昭和四五年三月、名鉄病院池間昌夫は、未熟児網膜症に対する光凝固の適用について紹介している(現代医学一七巻二号)。

昭和四五年一〇月、大阪小児保健センター湖崎克は、未熟児網膜症につき「最近は永田により光凝固術がすすめられている。」と紹介している(最近の眼科治療)。

昭和四六年二月、植村恭夫は、「永田は最近一~二期の活動期症例に光凝固を用い有効な成績を報告している。現在は失明を阻止し得る治療法は光凝固以外にはないのであり、この治療法の普及が急がれている。」としている(「眼科 最近の進歩)」。

昭和四七年九月、兵庫県立こども病院田渕昭雄は、「永田が光凝固術を本症に初めて導入して以来、本術は有効な治療法として高く評価されている。しかし、光凝固術にしても冷凍凝固術にしても網膜の一部に損傷を残して治癒するものであるから、本症の根本的予防、治療という点からは程遠い。」としている(日本眼科学会雑誌七六巻九号)。

昭和四七年九月、名古屋市立大学馬嶋昭生らは、「遅くとも活動期三期の中期には光凝固による治療を行ったので、四、五期まで進行した例はない。」と報告した(日本眼科学会雑誌七六巻九号)。

昭和四七年一一月、愛媛県立中央病院宮本博亘は、二例についての光凝固法の実施(徳島大学に転医して実施した。)について報告し、いずれも瘢痕期一度で治癒したと報告した(眼科臨床医報六六巻一一号)。

昭和四八年九月、国立福岡中央病院山口国行らは、昭和四七年ころの一例に未熟児網膜症の発症を認め、光凝固法の実施のため九州大学の大島のところに転医させて治療を受けさせたところ、瘢痕形成もなく眼底が回復したことを報告した(麻酔二二巻一〇号)。

昭和四八年八月、「あすへの眼科展望(現代医学シリーズ一七二~一七三)」において、坂上英は「今や未熟児網膜症は適当な時期において、新生血管を含む異常網膜部位に光凝固を加えることによって、完全に治癒せしめ得ることが明らかとなった。」「今後さらにその発展が望まれる領域である。」とし、植村恭夫は、「本報告による調査の時点では、未だ光凝固による治療は普及されるに至っていなかった。未熟児の眼管理の普及徹底は、光凝固、冷凍凝固の登場により重要性が増加してきた。未熟児網膜症の予防、早期発見、早期治療は小児科、産科、眼科が緊密な連係をもって当らねばならない。光凝固、冷凍凝固装置を持たない病院、診療所においては、これらの装置を有する病院との平素からの連絡準備をしておく必要がある。これらの体制の確立によって、未熟児網膜症による失明率が低下することは確かであろう。」と報告している。

2  小児科関係

昭和四三年七月、関西医科大学塚原勇は、未熟児網膜症についての治療法について「最近、光凝固法……により網膜周辺の血管新生、網膜病巣を熱凝固することにより病勢の進行を阻止し得た症例がある(永田1967)。着想は興味深いが症例数も少く、術後の観察期間も短いので治療法としての価値の判定はさらに今後の問題である。」としている(新生児学叢書)。

昭和四五年二月、関西医科大学岩瀬帥子らは、光凝固法の存在について紹介した(小児外科内科二巻二号)。

昭和四五年五月、植村恭夫は、「本症の治療法としては活動期一期、二期のものに副腎皮質ホルモンの全身投与を行うか手術的に光凝固を行なう方法があるが、三期以上の進行例には無効である。また、この治療法も確実に進行を阻止するものでもない。」としている(今日の治療指針 一九七〇年版)。

昭和四五年七月、国立小児病院植村恭夫は、活動期二期までに薬物療法か光凝固を行う方針が採られていると紹介した(小児科一一巻七号)。

昭和四五年一一月、永田誠は、「今日の小児治療指針」において、光凝固法による未熟児網膜症の治療の要点につき紹介し、「小児科医、産科医、眼科医、麻酔医の緊密な協力、光凝固装置の設備がある病院との緊密な連絡などの条件が満たされてはじめて達成できることである。」としている。

昭和四五年一二月、植村恭夫は、「最近各地で光凝固法による治験例が出されており、この方法によって、未熟児網膜症は早期に発見すれば、失明または弱視にならずにすむことがほぼ確実となった。」「未熟児の眼管理を普及徹底するとともに、光凝固による治療を可能ならしめるための麻酔医、産科医、小児科医と眼科医の密なる連係を作るように努力すべきである。」と述べた(日本新生児学会雑誌六巻四号)。

昭和四六年二月、植村恭夫は、治療すべきかどうかの決定は「網膜症の自然軽快が多いことから困難なことも多い。また、治療効果の判定についても困難な一つの理由ともなる。網膜症の経過も固体差があり、徐々に進行するものと急速に進行するものがあり、三期以上に進んだ場合には薬物療法も光凝固法もともに無効である。現在は二期になれば薬物療法、光凝固法を施行し、それ以上進行しないようにする方針がとられている。永田の光凝固法は現在では有効な治療法であり、これが普及発達すれば失明を防ぐことが可能となるように思われる。」としている(現代小児科学体系補遺Ⅱ)。

昭和四六年二月、永田誠らは、第一五回未熟児新生児研究会において、一五例に光凝固を実施したこと、そのうち二例を除き病勢の進行を阻止したことを報告した(小児科臨床二四巻三号)。

昭和四六年六月、永田誠らは一五例の光凝固実施例を詳細に紹介し、「光凝固術によっても網膜周辺部は瘢痕化するが、通常この瘢痕は比較的軽度で、これによるけん引性網膜皺襞の形成は起らない。発育途上にある網膜に1/4周~全周にわたる人工的瘢痕を作ることにより、今後の眼球発育や視力に影響がないかどうか、また、放置して自然軽快にまかせた場合に比べて瘢痕形成率が高くなる可能性がないかなどは、今後の経過観察にまつ他はない。しかし、……現在までの光凝固術施行例はいずれも追跡調査で良好な眼科的予後を得ているので、光凝固術が現在最も確実な治療法であると思われる。」「今後、小児科、眼科の協力の下で、全国的な規模による治療の試みが行われるべきである。」としている(日本新生児学会雑誌七巻二号)。

昭和四六年六月、馬場一雄は、「小児科学年鑑一九七一年版」において、「永田ら、植村らによる光凝固療法の開発と確立とは、近年における大きな収穫の一つである。」などと紹介している。

昭和四六年八月、関西医科大学塚原勇は、未熟児網膜症についての治療法について「最近、光凝固法……により網膜周辺の血管新生、網膜病巣を熱凝固することにより病勢の進行を阻止し得た症例がある(永田1967)。着想は興味深いが症例数も少く、術後の観察期間も短いので治療法としての価値の判定はさらに今後の問題である。」とし、昭和四三年のときと同様の記載が維持されている(新生児学叢書)。

昭和四六年九月、植村恭夫は、光凝固法は現在最も有効な治療法であるとしている(四季よりみた日常小児疾患診療のすべて)。

昭和四六年一〇月、国立小児病院奥山和男は、適切な時期に光凝固法を行うことによって失明を救えるようになり、光凝固法が有効な治療法であることが各施設で確認されていることを報告した(小児医学四巻四号)。

昭和四七年一月、神奈川県立こども医療センター秋山明基は、「治療としては、二例にステロイド内服を試みたが、有効とは断じ難く、発症早期の光凝固法による治療がのぞましい。」との判断を示した(こども医療センター医学誌一号)。

昭和四七年四月、植村恭夫は、「現時点において光凝固、冷凍凝固が有効な治療法であることは確認されても、治療の適応、凝固部位やこれらの治療が乳児網膜に与える障害などについては未だなお研究の段階にある。それに加えて、眼科医による定期的眼底検査の施行、光凝固装置、冷凍手術装置の普及については、全国的にみて充分な態勢がとられているとはいえない。」とし、さらに、rush typeの存在も紹介し、なお問題のあることを指摘し、「しかし、光凝固法や冷凍凝固法の登場は未熟児網膜症の予後を大きくかえたことは事実である。」としている(小児科一三巻四号)。

昭和四七年五月、永田誠は、「今日の治療指針―私はこうして利用している―一九七二年版」において、未熟児網膜症に対する光凝固法の治療の要点について紹介している。

昭和四七年六月、植村恭夫は、「最近、未熟児網膜症に対する治療法として、光凝固法、冷凍凝固法が登場し、これらによりかなり有効な成績が得られている。」、しかし「治療の適応をめぐって議論があるのは、網膜症の臨床経過の多様性と自然治癒の高率なことから当然なことである。」「症例によっては、自然治癒するか進行するかの判断がつき難いものがある。」「病理学組織学的には光凝固による網膜組織の障害が認められることからやはり慎重にならざるを得ない。」とし、また、そうであるにしても「現在の治療法として光凝固や冷凍凝固にまさるものはない。」としている(小児科臨床二五巻六号)。

昭和四七年六月、国立小児病院奥山和男らは、「未熟児網膜症に対する光凝固法は、永田らによって初めて開始されたが、有効な治療法であることが各施設で認められている。」「本症の早期発見、光凝固法の適応とその時期の決定のために、未熟児の管理に眼科医が関与することが望まれる。光凝固装置は高価であり、すべての未熟児施設に備えることは困難であるが、永田も提唱しているように、各地区ごとに本装置を備えている病院を中心とした、未熟児網膜症の治療のための組織づくりが必要である。」としている(小児科臨床二五巻六号)。

昭和四七年七月、第一六回未熟児新生児研究会において、兵庫県立こども病院田渕昭雄らは、「網膜症活動期二期以上の発症をみたもの一四名のうち一〇名に対して光凝固術を行い、八名はその進行を阻止し得たが、二名は更に進行がみられ著効を示していない。」「増殖起点を阻止する方法として現在のところ光凝固術が極めて有効であることは確かである。」とし、国立大村病院本多繁昭らは、一〇例に対する光凝固と冷凍凝固の実施経験から「凝固した例は全て瘢痕期一度以内で強い視力障害は残らないものと思われる。」と報告した(小児科臨床二五巻六号)。

昭和四七年八月、「最新小児医学」ではRLFの項において「発症したら光凝固法を行う。」とされている。

昭和四七年九月、本多繁昭・増本義らは、光凝固法について「凝固術による治療結果は満足すべきものであった。」、「活動期の三期になったものでも半数は自然治癒するといわれるが、……かなりの瘢痕を残したり、凝固術が不可能なほどに網膜剥離が起ることが考えられ、三期になれば即刻凝固術を行うべきであろう。」と報告している(日本新生児学会雑誌八巻三号)。

昭和四八年五月、植村恭夫は、「活動期の進行病変に対しては、光凝固・冷凍凝固を行なう。自己の病院の眼科にこれらの治療装置をもっていない場合には、平常より、この装置を有する病院と緊密な連絡をとっておき、発症を認めたらその病院に転院させ、眼科医の管理下に置くのが安全である。」と紹介している(「今日の治療指針―私はこうして治療している―一九七三年版」)。

昭和四八年六月、聖マリア病院新生児センター橋本武夫らは、昭和四七年六月から同年一一月までの半年間に未熟児網膜症一一例に光凝固を実施し、「現在失明と思われる症例は出ていない。」と報告している(周産期医学三巻四号)。

昭和四八年九月、蒲生逸夫は、「手術療法としては光凝固法、冷凍手術法などが行われている。」としている(「小児診断治療の指針」)。

昭和四八年一二月、北里大学島田信宏は、「光凝固による治療で最近はようやく失明から未熟児を守ることができるようになった。」としている(臨床新生児学講座)。

3  産科関係

昭和四三年一一月、植村恭夫は、「我が国でも、最近ようやく眼科医が小児科医、産科医と共同して、未熟児の管理に当るようになってきており、網膜症の治療にも、薬物治療の他、光凝固法という新しい治療法も登場し、失明を防ぐ努力が続けられている。」としている(産婦人科の実際一七巻一一号)。

昭和四五年九月、植村恭夫は、「光凝固法の登場、普及につれ、今後、弱視、失明の救われる可能性もでてきたので、是非未熟児室には、光凝固装置を備えつけるとともに、小児眼科医をおくべきであろう。」と紹介している(臨床婦人科産科二四巻九号)。

昭和四五年一二月、「現代産科婦人科学体系 二〇A 新生児学総論」において、「ことに網膜症の活動期初期例に光凝固法という新しい治療法が登場して以来、……定期的眼底検査の施行は必須のものとなってきた。」と軽く触れられている。

昭和四八年一〇月、「産科学新書」においては「未熟児網膜症の治療は最近進歩し、ビタミンE、ACTH、副腎皮質ホルモン投与のほかOwens三期までは光凝固法(永田)が有効である。したがって、未熟児においてO2吸入を行ったときは、眼科医と協力して定期的に眼底検査を受け、その発生を監視せねばならない。」とされている。

四  冷凍凝固法の未熟児網膜症への適用

1  冷凍凝固法の開発

東北大学佐々木一之・山下由紀子らは、永田の光凝固法の未熟児網膜症への適用の報告に接した後、昭和四五年一月から未熟児網膜症に対する冷凍凝固法の適用を試みた。

2  冷凍凝固法に関する文献の記載

昭和四六年五月、第二回光凝固研究会において、佐々木一之は五例の活動期三期の症例に冷凍凝固を実施して良い結果を得た旨を追加報告した(臨床眼科二五巻八号)。

昭和四六年一二月、佐々木一之・山下由紀子らは、北日本眼科学会において「最近、未熟児網膜症の活動期症例に対し光凝固法による治療が試みられているが、我々はこれに対し冷凍処置を施してほぼ満足すべき結果を得ている。」「六ケ月以上経過観察の現在、五症例中二例がオーエンスの瘢痕二度、三例が一度で治療の状態にある。」と報告した(日本眼科紀要二二巻一二号)。

国立大村病院本多繁昭らが、昭和四五年七月から光凝固法と共に冷凍凝固法も実施したことは前記のとおりである。

昭和四七年三月、山下由紀子は、昭和四五年一月から報告時までの八例の未熟児網膜症の症例に冷凍凝固法を実施し、いずれの症例も瘢痕一ないし二度で治癒しており、「将来重篤な視力障害は残さないものと思われる。」とし、実施時期については、「厳重な管理の下では、活動期三期に入ってできるだけ自然治癒を待ってから施行することが妥当である。」とし、冷凍凝固法の詳細について報告した。但し、「手術効果の決定に関しては、さらに長期のfollow upが必要である。」としている(臨床眼科二六巻三号)。

昭和四七年七月、佐々木一之・山下由紀子・安達寿夫らは、活動期三期に至り、自然治癒は望めないと判断した一〇症例に対し冷凍手術を施行したこと、いずれも瘢痕一ないし二度で治癒し、重篤な視力障害を残さないものと思われる。」と報告した(小児科臨床二五巻七号)。

五  本件以降における光凝固法・冷凍凝固法の問題点の指摘(有効性に関する問題点)

1  我が国における文献の記載

昭和四九年二月、福岡大学大島健司らは、「光凝固法はその後広く追試されてその有効性が認められるに至っている。」としながらも、本症の中には通常の臨床経過と異り、急激に増悪し失明に至る例があることを報告し、「昭和四五年一月から昭和四八年四月までに光凝固を行った一五二例のうち一八例につき急激に増悪し滲出性の剥離を来す本症を経験したが、この症例は段階的な臨床経過をとらないため治療時期を逸しやすく、また、従来どおりの光凝固を行っても五度の瘢痕に至ってしまうので、滲出性剥離の起り始める前に予防的に全周の無血管帯にできるだけ多くの光凝固を行う必要がある。」と指摘した(臨床眼科二八巻二号)。

昭和四九年五月、永田誠・鶴岡祥彦は、奈良県内の病院(養育医療指定機関)に眼底検査のため天理病院の外来を受診するように呼びかけて、昭和四七年三月から外来での眼底検査を実施するようになったが、その結果を検討して、「医療の中心である大学付属病院、国立公立病院より重症瘢痕期病変児がかなりの数で出現していることは、未熟児網膜症の予防ならびに治療の概念の普及が充分でなく、早期発見、適時治療の体制がまだ確立されていないのではないかと推測される。」「重症未熟児網膜症となる児は生後三〇日頃には入院中のことが多いであろうし、まだ保育器に入っている可能性も大きい。そのような条件下で本症を早期発見するためには、未熟児収容施設に眼科医が常勤していて、しかも熱心に眼科的管理を行うか、眼科医が勤務してない施設には、眼科医が定期的に往診して眼底検査を行わなければならないように思われる。しかしこのような態勢がもし取れたと仮定しても問題はそれだけでは解決しない。われわれの体験では未熟児の眼科的管理をはじめた眼科医が光凝固の適応をほぼ的確に判断しうるようになるためには指導者のもとで少くとも半年ないし一年の経験が必要であり、このような教育は光凝固装置を設備した病院で経験者と共に眼底を検査することにはじまり、自然治癒症例と進行重症例を判別する訓練、光凝固に最適な時期の判定、光凝固実技の訓練などが実際の症例についてman to man方式で行われなければならない。実際問題として現在このような教育の可能な施設は全国でごく少数に過ぎないので、現時点では未熟児網膜症に関して実際の診断、治療能力を持っている眼科医の数は決して充分とはいえず、今後この数を増やすべく長期にわたる努力が必要である。」と報告している(日本眼科紀要二五巻五号)。

昭和四九年九月、名古屋市立大学馬嶋昭生は、「rush typeの予後は多くの場合悪く、数回にわたる光凝固、冷凍凝固による必至の努力にもかかわらず失明にいたるも稀ではない。」「眼科医としては、いかに早期に網膜症を発見したとしても、その経過、予後に関してはそれ以前の未熟児の身体的条件、管理の方法などによって運命づけられているという点を強調したい。現在、われわれにできることは経過を観察して適切な時期に光凝固などの治療を行うことだけである。」としている(産科と婦人科四一巻九号)。

昭和四九年九月、横浜市立大学秋山明基は、光凝固法につき、「今のところこの適用の時期、方法をあやまらなければ、本症に対する最善の方法といわれている。」「また植村らのいうrush typeというか、発症後数日にして滲出性変化をおこして網膜剥離へ進む型もあり、それこそ毎日眼底をみていても光凝固の時期を失う場合もあり得るので、光凝固装置の普及も重要だが、眼底が見れて凝固装置をつかいこなせる眼科医の大量の要請も大切である。」「産科、小児科、眼科の緊密な連絡のもと、未熟児の眼科的管理が更に普及して、失明児が減少することを期待する。」としている(産科と婦人科四一巻九号)。

昭和四九年九月、名古屋市立大学馬嶋昭生は、光凝固法について「この方法によって失明から救われた未熟児は全国的にはかなりの数にのぼっているものと思われる。著者もすでに数十例の経験があり、本症の治療の第一の選択として行うべきすぐれた方法であると信ずる。」とし、しかし、rush typeについては光凝固法にも限界があるとし、治療の前提となる眼底検査について「未熟児の眼底検査は眼科医に課せられた責務とはいっても、設備、介助者、経験などの点で、すべての眼科医がこれに参加することは不可能である。そのうえに、周知のごとく眼科医、特に本症の管理に最も関係が深い眼科勤務医の不足ははなはだしく、一部の眼科医の努力のみに頼るにも限度がある。われわれの所でさえも他の医療機関からの眼底検査依頼には責任をもって応じきれない状態に追いこまれている。」と報告している(小児外科・内科六巻九・一〇号)。

昭和四九年九月、日本総合愛育研究所内藤寿七郎・宮崎叶らは、「光凝固療法が開発され、非常に有効なことが認められて以来、……」とした上で、眼科学会側の問題として、未熟児網膜症を診断し得る専門医が少いこと、専門医を教育する施設、システムが少いこと、治療に必要な器具、機材が乏しいことをあげている(日本総合愛育研究所紀要第一〇集)。

昭和五〇年一月、鳥取大学瀬戸川朝一らは、活動期三期の症例に光凝固法を実施した四眼はすべて治癒に赴いたと報告している(臨床眼科医報六九巻一号)。

昭和五〇年一月、永田誠は、「失明児の家族の間に大きな衝撃と不満をひき起し、治療の開発即失明児の根絶でなければならないという短絡的思考が横行し、その間に介在しなければならない未熟児診療態勢の整備や、治療設備の充実、新しい治療法に関する医師の教育訓練などに要する時間と努力を無視した無体な要求がわれわれ医師に突きつけられているのが現状である。しかし、一面この非常識ともいえる社会の性急な要請に答えて、日本の医師がこれに対応する態勢を異常な速度で実現しつつある事実を無視することはできない。」「眼科、産科、小児科の緊密な協力態勢の確立が現在の急務である。その組織作りは今漸く緒についたばかりであるが、このような協力態勢が全国的に完全となった場合、わが国における未熟児網膜症失明児が世界のいずれの先進国よりも少くなるであろうことは疑いないことと思われる。」としている。

昭和五〇年三月、天理病院鶴岡祥彦は、昭和五〇年三月、「この治療法が真に有効に実施されるためにはいくつかの条件が満足されなければならない。すなわち、自然治癒傾向の強い未熟児網膜症患児の中から治療を必要とする重症例を選別し、これらの重症例に最も適切な時期に必要にして充分な治療を施すことができる医療体制を作り上げることがまず実行されなければならない。また一方各地での未熟児網膜症治療経験が蓄積されるにつれ、植村、大島らが指摘するように極めて急速に進行するいわゆる急速進行型の本症の存在が注目されるようになり、この型の網膜症には光凝固を施行しても進行を止め得ないこともあり得ることが報告されている。このような急速進行型を含め本症の病状には症例による緩急軽量の差がかなり大きく、画一的な判断によって処理できない点が多く含まれている。従って今後なすべきこととして最も重要なことはできるだけ多くの本症活動期病変の実際についての情報を蓄積してこれを整理して未経験の人にできるだけ分かり易く伝達し、診断治療のネットワークを最も能率的に機能させることでなくてはならない。」、凝固の範囲については「Ⅰ型の場合には活動期三期において明確な境界線を必ず凝固し、重症の程度により密に凝固することもやや散発に凝固することもある」とし、「Ⅱ型については活動期二期において網膜の有血管帯と無血管帯の境すなわち先端の血管吻合に沿った部分あるいは薄い境界線を必ず凝固する、いずれの場合も無血管帯をできるだけ網膜周辺まで散発的に凝固する、無血管帯が広ければ広いほど入念に周辺まで凝固し鼻側に及ぶこともある」とし、「有血管帯には凝固を行わない。」とし、「現在では治療の念頭においた最も合理的な分類についての統一見解が出されることがのぞましく……」「Ⅱ型の網膜症は適期判断になお問題があり治療方法もまだ決定的であるといえないとしてもⅠ型よりも早期に必要にして充分な治療を行い失明防止に全力をつくすべきであると考える。」としている(日本眼科紀要二六巻三号)。

昭和五一年一月、名古屋市立大学馬嶋昭生は、光凝固法や冷凍凝固法によって「失明から救われた例や重篤な後遺症を残さずに進行が防止された例もかなりの数にのぼっていると思われる。しかし、本法実施の時期、方法などについては多くの症例を長期に観察してなお検討の余地がある。」、実施時期を考えるに当って考慮すべき事項について、「自然瘢痕によるgrade一の晩発性合併症を考えた場合、(自然治癒の場合に)障害がないとしてよいかということの方に議論があろう。事実、筆者らは追跡調査を続けている他のgroupの多数の中に、4例ではあるがgrade一の自然瘢痕より周辺に小さいが明らかな円孔を発見した。」こと、他方、「瘢痕を全く残さずに自然治癒する症例に病期を短縮するだけの目的で永久的な人工的瘢痕を残すような治療には賛成できない。」ことを指摘して、Ⅰ型の未熟児網膜症について実施時期、凝固部位について検討を加えている(臨床眼科三〇巻一号、その内容については後記のコントロール・スタデイの項を参照)。

昭和五一年二月、神奈川県立こども医療センター伊藤大蔵・秋山明基らは、昭和四九年度における光凝固の実施状況について、一二例に実施してその予後が正常であったのが三例であってその余は牽引乳頭(七例)ないし網膜剥離(二例)を生じたこと、凝固実施時期は症例によりOwens活動期二期の終りから三期の初めであったこと、急速に進行するⅡ型の場合には、光凝固の実施の「時期の判断は非常に困難で、常にその時、その時の状態を基準とした主観的判断に頼らざるを得ない。」ことを報告している(眼科臨床医報七〇巻二号)。

昭和五一年三月、名古屋市立大学馬嶋昭生は、光凝固法は「現在では最も確実な治療法となっている。ただ治療後の長期観察結果に乏しいこと、術者の考え方、使用する凝固装置、凝固の方法の違いなどによって、本法を施行する時期についての基準が確立していない。」と指摘した(日本新生児学会雑誌一二巻一号)。日本新生児学会雑誌一二巻一号でも同様の見解を示している。

昭和五一年一一月、永田誠は、馬嶋やキンゼイの報告からすると、「Ⅰ型三期中期まで進行した例のうち五分の四ないし六分の五は自然治癒して検証瘢痕を残すものであることが推定される。」、「私達は初めから自然治癒例を包含していたことを覚悟して光凝固を行っているので、その立場から見た問題点は馬嶋らによって片眼光凝固の他眼のすべてに残ったと報告されている一度の自然瘢痕と光凝固によって形成された人工的網膜瘢痕のどちらが将来の視機能にとってより望ましい状態であるかという点にあり、これは今後更に長期に亘るfollow―upの成績が明らかにならないとどちらとも決しかねる所である。」、Ⅱ型の未熟児網膜症について「網膜血管の退縮があまりにも著しい場合などには光凝固によっても救い難い症例が出現する可能性が充分考えられ、ここに光凝固治療の明らかな限界が存在する。」、「未熟児網膜症の光凝固による治療はその最初から小児の失明という劇的且つ深刻な事態と直接関連していた為に、これに対する社会的要請が先行し、その結果として、試行、追試、遠隔成績の検討、自然経過との比較、治療効果と副作用の確認、治療法としての確立とその教育普及という医療の常道を踏まず、直接普及段階に入り、現在では不必要な軽症例にまで乱用される傾向があるのではないかとの危惧が生れている。」としている(日本眼科学会雑誌八〇巻一一号)。

昭和五一年一一月、植村恭夫は、光凝固法については「再検討の段階に入った感がある。」「Ⅰ型ではうつ血が除かれ、血管の迂曲怒張の軽快、周辺への発達阻害の除去という極めて明確な臨床効果が示される。……それをみると網膜浮腫、うっ血の除去に有効性があると考えられる。しかし反面、瘢痕を防止し得たという有効性の証明は極めて難しい。逆に永久的瘢痕を人工的に残したことは明らかである。Ⅰ型の一部にみられる境界線領域の著明な滲出、出血は、上述のごとく網膜硝子体癒合を招き、牽引網膜、襞形成という結果を招くので、光凝固によってこれを防止することが強調されている。しかしこの予測はかなり経験のある眼科医でも難しい。また、同一検者が発病時より連続的に観察していることが、その判定に必要なことは永田も述べているとおりである。」「Ⅰ型に関して光凝固が牽引、あるいは剥離を防止し得たという積極的証明はなく、その機序は不明といわざるをえない。」としている(日本眼科学会雑誌八〇巻一一号)。

昭和五二年八月、群馬大学清水弘一らは、光凝固法は「当初急速な普及を見、すべての未熟児網膜症に対する確実な治療法とすらみなされるようになったのである。近年もち上ってきた反省は、光凝固で治療せしめ得る未熟児網膜症は、元来放置しても自然治癒したはずであり、光凝固は単にその治癒過程を短縮しただけに留まるのではないかという点にある。肝要なのは放置すれば失明または重篤な視機能障害に至ったであろう網膜症に果して光凝固が有効であり得るかという問題であり、元来このような重篤例に遭遇する機会は著しく稀であるために、われわれのこの問題に対する経験はきわめて限られているといわざるを得ない。一方、光凝固を行った患児のやや長期にわたる観察では半年以上経過すると、凝固斑は網膜・脈絡全層を貫通する組織欠損となり、凝固斑の中に真白な強膜が露出している事実がしばしば観察されるのである。未熟児網膜症に対する光凝固の是非や適応については将来の問題として残されるであろうが、上のような事実から、われわれは無差別に本症を光凝固で処理するという暴挙は行うべきではなく、放置すれば非可逆的な障害の予見される場合のみに限って侵襲を加えるべきである。」、「光凝固を実施したことにより、合併症がおこったり、悪影響が現われたような事例は知られていないようである。」、「問題となるのは、発育途上の眼に光凝固を加える結果、眼球そのものの発育が阻害されるのではないかの危惧と、強膜・脈絡膜・網膜・硝子体それぞれの微妙な発育のバランスが光凝固により干渉され、遠い将来に現在は予想もできない形での合併症がおこるのではないかという可能性である。」「重症化しつつある未熟児網膜症を前にして、このままでは予後の不良であることが強く疑われて、はじめて光凝固が行われるという、緊急手術的な意味で行われるのが本筋であろう。しかもそのような重症型にそもそも光凝固が奏功し得るものかどうかはまだ証明されていない。」としている(「光凝固」)。

昭和五二年一〇月、右の清水弘一らは、「光凝固の効果判定に当っては、自然寛解と治療効果とを明確に分けて判断すべきであるというのが原則である。本来自然治癒の傾向が強かったり、停在性である疾患に対して光凝固を実施すれば当然のこととして、好成績の治癒率が得られる。よしんば不必要な侵襲であっても無害であればよいのであるが、少くとも有害であってはならない。この点に関してわれわれが強く危惧するのは、未熟児網膜症の光凝固である。」「網膜・脈絡膜・強膜の相互間の位置関係を固定することにより、将来大きな問題の生ずる可能性がつよく危惧されるのである。この問題に対する解答は、すでに治療を受けた患児らが成人になる一〇年から一五年以上経過した将来に得られるであろうが、……乳児への光凝固は原則的に好ましいものではなく、未熟児網膜症による失明を免れるために緊急避難と考えられる。」としている(日本眼科学会雑誌八一巻一〇号)。

昭和五六年九月、植村恭夫は、未熟児網膜症の現況について報告しており、それによると、我が国における未熟児網膜症による視覚障害児は一九五九年以降増加し始め、一九六五年ないし一九七四年の間にピークに達し、その後減少傾向を示し現在に至っていること、東京都心身障害者福祉センターの例では昭和四九年出生の児の約五割が光凝固法による治療を受けており、昭和五七年では受けていない例はなかったことを報告している(産婦人科の実際三〇巻九号)。

昭和五六年一二月、永田誠らは、未熟児網膜症に関するワシントン・カンファレンスにおいて、光凝固法について発表したが、その中で、「光凝固治療の初期には、我々は光凝固術で増殖性血管組織を破壊するつもりであったが、光凝固術治療を行ったいくつかの症例からみて、この考えを変えた。というのは、光凝固術の目立った効果は境界線と浮腫のある無血管網膜の凝固によって得られるとわかったからである。」「新生血管の凝固あるいは、血管性と無血管性の境界の後極側(視神経側)の網膜部位の凝固は、不要であり、むしろ有害となる。」と報告している(乙A第四一号証の六)。

昭和五七年八月、馬嶋昭生・鎌尾憲明らは、晩発性の網膜裂孔または網膜剥離を合併した一七症例(昭和五〇年八月から昭和五六年一〇月までに発見したもので発症時年令は八才から一九才であった。)について報告しているが、一例を除いては光凝固法による治療は受けていない自然治癒例であったこと、剥離を生じた二三眼の瘢痕期の比率は瘢痕期一度が五三・六パーセントで瘢痕期二度が四六・四パーセントであったこと(母集団の数からすると瘢痕期二度のものに発症し易い。)を報告している(臨床眼科三六巻八号)。

昭和五七年九月、永田らは天理病院における過去一五年間の未熟児網膜症治療成績の総括をし、自家症例では五四四例中七九例に未熟児網膜症が発症し、うち、Ⅰ型活動期三期の九例、混合型七例、Ⅱ型一例の合計一七例に光凝固法を実施し、Ⅱ型の一例の右眼が瘢痕期四度になったほかは殆ど瘢痕期一度の瘢痕を残して治癒したこと、紹介例一二〇例のうち、九九例(Ⅰ型が六六例、混合型が二七例、Ⅱ型が六例である。)に光凝固を実施し、瘢痕期三度以上の重症瘢痕を残したものはⅠ型で五例、混合型で二例、Ⅱ型で二例であったこと、光凝固の実施時期が活動期三期の早い時期において実施されたものの方が瘢痕期病変の程度が軽いこと、森実の典型的なⅡ型は稀であること、Ⅱ型網膜症でもかなりのものにつき治療によって視力を保全することが可能であること、昭和五二年以上は瘢痕期三度以上の重症瘢痕例が皆無となったこと、光凝固のための紹介例は昭和四九年の二七例をピークとして減少し昭和五六年にはゼロであったこと、これは酸素管理などの全身管理が進歩したためと考えられることなどを報告している。また、「未熟児網膜症活動期病変に対する光凝固治療の有効性については既にわが国において多数の追試により確認され、昭和四九年度厚生省未熟児網膜症研究班によりその診断及び治療基準が発表され、これ以後多くの施設において、この基準に基づいて診断治療が行われるようになり、これが周産期医療の進歩とあいまって最近五年間の本症重症瘢痕例の減少傾向となって現われているのであろう。」としている(日本眼科学会雑誌八六巻九号)。

昭和五九年六月、大阪北野病院菅謙治は、光凝固法の有効性について検討し(凝固群と非凝固群を対照したりしている。)、「現段階では凝固治療を有効と断定することはできないと考えられる。しかし、凝固によって頓挫的に網膜症が軽快する症例が多数存在することは事実であり、治療成績は凝固の仕方や凝固時期などによって大きく変ることも確かである。また、無効報告をしているKinghamやHarrisの行った凝固法が適切であったか否かも確かではない。したがって、今後、適切な時期に適切な凝固が行われた症例のみによる成績の出現が待たれる。」としている(眼科二六巻六号)。

昭和六一年八月、永田らは、天理病院における光凝固治療の結果を総括し、治療例の追跡調査では、「光凝固治療そのものが網膜機能に悪影響を与えるかもしれないとの当初抱いた懸念は杞憂であったことが明らかとなった。」こと(網膜の所見は自然瘢痕より「遙かに正常に近い所見」であった。)、極端なⅡ型(森実型、網膜血管の退縮が著しいもの)については光凝固は無効なことがあるが、現在では酸素管理を中心とする全身管理が進歩したため、このような症例は極めて稀になってきたこと、永田自身も昭和五七年以降天理病院において一例も光凝固を実施すべき症例をみていないこと、現在のⅡ型(新分類によるもの)は昭和四九年度厚生省研究班分類(旧分類)でいう混合型とされたものとかⅠ型に近いものが多いこと、「国際分類の決定に際してⅡ型網膜症が採用されなかったのは、欧米ではこのような極端なⅡ型網膜症が殆ど起っていないことを示唆している。」こと、凝固部位は「無血管帯境界及びその周辺無血管帯」であること、「治療の成否はもっぱら治療適応例の正しい診断と適応時期のタイミング、さらには適切なタイミングに治療ができるか否かを支配する未熟児自身の全身状態にかかっている。」こと、外国でも最近冷凍凝固による治療がかなりされるようになったことなどを報告している(周産期医学一六巻八号)。

昭和六一年八月、神奈川県立こども医療センター伊藤大蔵は、「一〇〇〇グラム以下の未熟児の生存率が高まり網膜症の発症率は必ずしも減少していないといわれている。ただし、視機能に著しく影響を与える重篤な症例は減少しているといわれている。」、光凝固例の大半は他施設で保育されたものであること、「光凝固の適応は、Ⅱ型と混合型は全症例にⅠ型はstage三の後記まで進行すると予測される症例に行い、時期はstage三に移行した時点で行った。」しかし「晩発性網膜剥離が光凝固非施行例に多いといわれることを考えれば、stage三中期以上に進行が予測される症例には光凝固を行った方が無難であり、特に他施設で保育された症例の場合には網膜症進行の状況を予測しきれないことも少くないので、光凝固の適応の範囲を広げた方が無難であると思われる。」、効果については「Ⅰ型の症例は視力的には強い影響を残さない範囲で抑えられるという結果が出た。Ⅱ型及び混合型の症例は視力的には強い瘢痕を残す症例が多く治療成績が良いとはいえないが、これらの症例も光凝固施行後Ⅰ型の進行過程に近い状態に移行する例が多く光凝固の効果を疑わせるものではない。」、一五年間に自然瘢痕例に網膜剥離を二例三眼、網膜裂孔を四例四眼認めたことなどを報告している(周産期医学一六巻八号)。

2  昭和四九年度厚生省特別研究班の「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究(執筆者植村恭夫)とその位置付け

この報告がなされた経緯について「診断・治療面において医師間においてその基準に統一を欠く点があり、そのために社会的にも問題を起すに至った。」としている。治療基準については「未熟児網膜症の治療は本疾患による視覚障害を可及的に防止することを目的とするが、その治療には未解決の問題点がなお多く残されており、現段階で決定的な治療基準を示すことは極めて困難である。しかし進行性の本症活動期病変が適切な時期に行われた光凝固又は冷凍凝固によって治癒し得ることが多くの研究者の経験から認められているので……病型別に現時点における治療の一応の基準を提出することとする。」としている。

瘢痕期の診断については次のように述べる。「未熟児網膜症の瘢痕期病変は、検眼鏡的にも、病理学的にも特殊性を欠いており、活動期よりの経過をみていない場合には、鑑別すべき多くの眼疾があり、未熟児網膜症による瘢痕を確定診断を下すことは甚だ困難である。例えば、白色瞳孔を示すに至ったものでは、網膜芽細胞腫、第一次硝子体過形成遺残、13―15Trisomy(網膜異形成症候群)、コーツ病などとの鑑別を必要とする。鑑別には、出生時体重、在胎週数、酸素療法などの既応は、参考とはなるが、確診を下すことはむずかしい。牽引乳頭、網膜襞形成も先天性鎌状剥離や胎生期あるいは周生期における種々の眼疾によってもたらされることが多く、白色瞳孔以上に、未熟児網膜症の瘢痕と診断することは困難といえる。」「自ら活動期の経過を観察していたものか、あるいは他の眼科医が活動期病変を見ていたことが明らかな症例については未熟児網膜症の瘢痕と診断し得るが、そうではなく、初めて外来を訪れたような症例については、『疑い』の域に止まらざるを得ない。」としている。

治療の適応については、「Ⅰ型においては治療の不要な症例に行きすぎた治療の施さないように慎重な配慮が必要であり、Ⅱ型においては失明を防ぐ為に治療時期を失わぬよう適切迅速な対策が望まれる。」とされている。

治療時期については「Ⅰ型の網膜症は自然治癒傾向が強く、二期までの病期中に治癒すると将来の視力に影響を及ぼすと考えられるような瘢痕を残さないので、二期までの病期のものに治療を行う必要はない。三期に入って更に進行の徴候が見られる時に初めて治療が問題となる。……Ⅱ型網膜症は血管新生期から突然網膜剥離を起こしてくることが多いのでⅠ型のように進行段階を確認しようとすると治療時期を失う恐れがあり、治療の決断を早期に下さなければならない。……無血管領域が広く全周に及ぶ症例で血管新生と滲出性変化が起こり始め、後極部血管の迂曲怒張が増強する徴候が見えた場合は直ちに治療を行うべきである。」

凝固部位については「Ⅰ型においては無血管帯と血管帯の境界領域を重点的に凝固し後極部付近は凝固すべきではない。無血管領域の広い場合には境界領域を凝固し、更にこれより周辺側の無血管領域に散発的に凝固を加えることもある。Ⅱ型においては無血管領域にも広く散発凝固を加えるが、この際後極部の保全に充分な注意が必要である。」

今後の検討課題として「Ⅰ型における治療は自然瘢痕による弱視発生の予防に重点が置かれているが、これは今後光凝固治療例の視力予後や自然治癒例にみられる網膜剥離のごとき晩期合併症に関する長期観察結果が判明するまでは適応に問題が残っている。Ⅱ型においては放置した際の失明防止の為に早期治療を要することに疑義はないが治療適期の判定、治療方法、治療を行う時の全身管理などについては、尚今後の検討の余地が残されている。」

3  外国の文献

イギリスのハリスとマコーミックは、一九七七年、「未熟児網膜症活動期三期の一〇人の未熟児の一眼(片眼)に光凝固や冷凍凝固を行い、一ないし六年の経過を観察した。この治療の長期の観察の結果、特に網膜剥離の予防などについては分らないが、短期間の観察は、「この治療は有害でもなければ特に有効でもない」ということを示している(乙A第三七号証の一〇、訳文が一部しかないので「結果」がどうであったのか不明である。)。

アメリカのキンガムは、一九七八年、一二例の一四眼について冷凍を実施したが、確実に治癒できたのは一眼、可能性があるものを入れると二眼に効果があったが、一二眼については無効か、かえって悪化させたものであったと報告した(訳文が不充分なため、何をさして「効果」としているのか不明である。活動期三期のものについて失明したのは三例のようである。乙A第三八号証の三)。実施時期は一四例中七眼については活動期四度以上のときであり、七例については活動期三期であった。証人永田は、実施時期が生後かなり経過しているので活動期三期といっても厚生省研究班分類でいう三期なのかには疑問があり、三期であるとしても晩期ではないかとしているが、この批判が妥当するかはっきりしない。また、キンガムの場合には治療の適期を過ぎてからやっているので、効果がなかったのは当然であると考えている。トピローは、キンガムの治療は新生血管形成そのものに向けられており、その外側の虚血網膜には向けられていなかったこと、七例については活動期四期以上になってから実施しているので、効果がなかったのであろうとしている(甲A第四三号証の二)。

イスラエルのベン・シーラらは、一九八〇年、活動期三期以上の病変を認めた九例一八眼(一九七六年から一九七八年の症例)に冷凍凝固を実施し、良好な結果を得たこと、「たんに害がないというだけではなく、全く無治療に放置した場合やキンガムのように活動期四期になってから治療する場合に比して良い結果をもたらすということ」を報告した(甲A第三八号証の一)。

イスラエルのベン・シーラらは、一九八五年、一〇七〇例中二一一名に活動期の病変を認め、そのうち四八例は活動期三期に達し、四五例について冷凍凝固術を実施し、どの症例にも瘢痕期二度を超える重症瘢痕はなく、殆どの症例が瘢痕期一度であったこと、凝固部位は無血管網膜であること、活動期三期の症例の七五パーセントは活動期四期に進むし、視力結果もよくないのでこの時期のものは治療の適応となることを報告し、「このように多数の失明の高いリスクを負った子供の治療において失明や眼の重症病変が発生しない理由は他のどのファクターをもっても説明できない。従って、我々の治療手段が重症瘢痕病変を防止したように思われる。」「残っている問題は、治療された子供のどの子が治療しないで放置したら自然寛解したかということである。」としている(甲第三九号証の七)。

カナダのヒンドルは、一九八一年、未熟児網膜症に関するワシントン・カンファレンスにおいて、合計一七眼に冷凍凝固を実施し、活動期三期の進行性の未熟児網膜症の一一眼については「明瞭な視覚改善効果は生じなかった。しかしながら、予期した結果に比較すれば、治療による視覚の損耗も生じなかった。」、「治療による改善効果についてはその有無は何ともいえない。」、「冷凍凝固の瘢痕は自然治療瘢痕二度に勝るのか、時が語るだろう。」とし、活動期四期ないし五期の眼に関しては予想された結果より良好であることとした上で、「これら冷凍凝固法で治療された眼の所見と治療経験に基づいて、私は活動期四期と五期の未熟児網膜症については治療の適応があり、活動期三期の進行性の未熟児網膜症に対しても十中八、九まで適応があると無条件に断言する。」「我々の諸結果は技術的な失敗、治療の不適切なタイミング、重症例の診断が遅れたこと、考え方などの点で誤っていた。つまり、もっとうまくできると私は信じている。」(Ⅱ型についてはうまくいかなかった。)、「我々にとって必要なことは、北米の多組織のプロスペクティブスタディである。このような研究に対する基礎的で必要欠くべからざるものは共通の言語を話す必要である。即ち、専門用語と共通の分類法に関する合意である。この病気の自然経過に関するデーターは存在しており、また、そのデーターが我々の対象として役立つようなものに容易に改善できるのである。活動期三期の症例をみたとき、それが悪化して活動期四期へ進行する前段階であることが確認でき、我々が臨床的観察だけで決断を下すという苦悩から免れ得るようなテスト方法を発見するために懸命の努力を払うべきである。」としている(甲A第三九号証の五)。ちなみに、国際分類ができたのが昭和五九年である。

アメリカのトピローらは、一九八五年、九例一七眼の急性増殖性未熟児網膜症に対して冷凍を実施した結果を報告し、「冷凍凝固治療は、全ての治療された患児において、硝子体内への血管新生を退縮させるのに一律に成功を収めた。」「急性増殖未熟児網膜症の進んだステージの治療における冷凍凝固の有効性に関してなされる議論は、この治療様式の固有の欠点というよりは、患者選択の不適当さ、治療のタイミングの不適当さや病期のステージに対応すべき治療方法の不適切さに関連がある。」「何らかの病因による網膜の虚血状態が網膜から血管増殖性の物質を放出することになり、次には、硝子体内血管増殖を惹き起すという考え方は糖尿病における増殖性網膜症に対するレーザー光凝固の有効性ばかりではなく、未熟児網膜症におけるキセノン光凝固や冷凍凝固の有効性も同じようにうまく説明している。」、「冷凍凝固治療が最も有効でそれをしないと進行する可能性が最も高い眼というのはグレード一や二の初期から急速にグレード三に進んだケースである。」、「長期間の追跡調査によっても、冷凍凝固による晩発性の合併症の徴候は未だに発見されていない。」としている(甲A第四三号証の二)。永田によると、無血管帯を焼くときに当然境界線も焼くことになるとしているが、トピロー自身は無血管帯だけを目標としているかに書いている。

タスマンは冷凍凝固のコントロール・スタディを実施し、二回にわたって報告した(乙A第四五号証の六、甲A第四四号証の五、その内容については後記のとおりである。)。第一回の報告ではタスマン自身が有効である可能性はあるが、症例が少いので、統計的に有意差はないとした。第二回の報告では、タスマンは有効性が認められるとしたが、これに対しては、パルマーが症例が少いのでまだ有効性・安全性を肯定することはできないと指摘している。

六  光凝固法・冷凍凝固法についてのコントロール・スタディ

《証拠省略》を総合すると、次の各事実を認めることができ、この認察を覆すに足る証拠はない。

1  コントロール・スタディの必要性

未熟児網膜症に対する光凝固法・冷凍凝固法の効果が単に自然治癒を早めるだけなのか、それとも、瘢痕期三度以上の重症瘢痕の発生を防止する効果があるのか、あるとしてもどの程度の確率で防止できるのか、Ⅰ型と混合型やⅡ型で効果にどのような差があるのかなどの問題点について確実な証拠を得るためには、コントロール・スタディを実施する必要があることは今日では異論をみない(しかし、そのような計画はない)。

2  我が国におけるコントロール・スタディの定着

我が国においても薬物の効果を測定するためには、早くからダブルブラインドスタディやコントロール・スタディによって効果が測定されなければならないという主張がみられたが、外科的治療法について、そのような主張が出てきたのは昭和五〇年以後のことである。我が国において外科的治療法についてコントロール・スタディが実施された例は見当らない。糖尿病性網膜症に対する光凝固の効果についても我が国においてはコントロール・スタディは実施されず、しかも、アメリカで実施される以前から有効性が認められていたことは前記のとおりであり、未熟児網膜症に対する光凝固の効果に関しても、コントロール・スタディを経なければ効果の判定はできないとの主張がでてきたのは相当後のことであり、昭和四〇年代にはそのような指摘は全くみられない。したがって、薬物の効果判定以外の分野でコントロール・スタディの必要性についての認識が我が国の医学界において定着した時期は、かなり後になってからであると推測される。

3  コントロール・スタディの限界

コントロール・スタディにも次のような限界がある。すなわち、コントロール・スタディを片眼凝固という形で実施したとしても、未熟児網膜症の進行については右眼と左眼の病変の程度が同じとは限らず、そうすると、片眼凝固によって得られた結果についても必ずしも完全な客観性を認めることはできない。植村恭夫は、昭和四七年四月、九〇例の自然治療瘢痕を検討して、左右の瘢痕の程度が同じであったものは九〇例中五六例であり、九〇例中三四例は左右の瘢痕の程度に差があったと報告しており(小児科一三巻四号)、これはかなり広範に存在する問題であることが分かる。証人湖崎克もコントロール・スタディには右の問題が存在することを指摘する。後記のタスマンのコントロール・スタディの場合にはできるだけアンシメトリカルなものは除外したとされており、後記の馬嶋昭生の場合にも二五例中左右の進行に差を認めなかった一二例のみを検討対象としているが、なお、問題は残るものと考えられるし、相当数の症例を集めることに困難が生ずるものと考えられる。また、証人植村恭夫、同永田誠が一致して述べるところでは、最近は重症化する未熟児網膜症が減少してきており、永田医師においても最近五年間(昭和六一年時点)はそのような症例(光凝固を実施すべき症例)をみていないという状況であり、それは、酸素管理を始めとする全身管理の進歩によるものと推測されるものであるが、そうであるとすると、保育条件ができるだけ同じような児を集めてコントロール・スタディを実施しなければ、結論に疑問がでる可能性もある(タスマンの場合には最近の進んだ保育条件の下での児を対象としており、保育条件はほぼ同一かと思われる。)。さらに、コントロール・スタディは人体実験の一種であり、それを実施するためには患児の両親の同意が必要であるが、混合型やⅡ型については重症瘢痕を残す危険が高く、したがって、充分な説明をした場合には、それを知った両親としては両眼とも凝固するように求めることが必至であり(両親にとってはその治療法が実験段階にあるかどうかは問題にはならないであろう。)、混合型やⅡ型については実際上コントロール・スタディの実施はむずかしい面もあったと推測される。証人永田誠もそれを指摘する。

4  これまでになされたコントロール・スタディなど

(一) 馬嶋昭生の片眼凝固(昭和五一年一月、臨床眼科三〇巻一号)

馬嶋は、昭和四七年六月以来、Ⅰ型の活動期三期の中期に入りさらに進行の傾向を示し、視神経乳頭から動脈の蛇行、静脈の怒張が著明な場合にのみ光凝固を実施することとし、二五眼に片眼凝固を実施し、そのうち左右の眼の症状に差がなかったもの一二眼につき、その結果を検討した。片眼凝固で他眼が自然寛解したものは一〇例(八三・三パーセント)であり、結局両眼共に凝固しなければならなくなったのが二例(一六・七パーセント)であった。凝固部位は、無血管帯上に一・五~二spotの間隔でできるだけ広範に、また、間葉系細胞の増殖した部に接した後極部を一~一・五spotの間隔で原則として一列凝固するという方法でなされた。その後の眼底所見は、凝固眼・非凝固眼共に瘢痕期一度の瘢痕を残しただけであり、眼位、屈折、血管蛇行度のいずれにおいても異常は認められなかった。そして「一九六八年永田らが光凝固法を本症に対する局所療法として応用し成功をおさめたことは画期的な発見であったといえる。」、「失明から救われた例や重篤な後遺症を残さずに進行が防止された例もかなりの数にのぼっていると思われる。しかし、本法実施の時期、方法などについては多くの症例を長期に観察してなお検討の余地がある。」、「最小限の人工的瘢痕に止めしかも視機能障害を残さない凝固時期、凝固法を確立すべきであると考えた。このことは同時に、視機能障害を起さない自然寛解、自然瘢痕の限界は活動期のどのstageまでであるかを知ることにもなるわけである。」とし、「以上の結果から、Ⅰ型ではstage三の中期に入りさらに進行の傾向がある時期に光凝固による治療を行っても遅くないと考える。」としている。つまり、馬嶋のコントロール・スタディ類似の研究の目的は、光凝固法そのものの効果の有無を検討するためのものではなく、その結果、二例については最終的には両眼共凝固したし、研究の対象はⅠ型のみで、Ⅱ型については「可及的早期にしかも充分な凝固が必要である」として、検討の対象としていない。したがって、この研究を根拠として、光凝固法や冷凍凝固法の効果(重症瘢痕の発生防止)の有無を論ずることは不適当であろう。

(二) タスマンによるコントロール・スタディ(オフサルモノロジー九二巻八号、昭和六〇年八月)

タスマンが一七の事例について冷凍凝固法を片眼にのみ行う実験をしたが、その結果は次のようなものであった。

治療眼が改善 非治療眼も改善 七例

治療眼が改善 非治療眼は悪化 五例

治療眼が悪化 非治療眼も悪化 五例

治療眼が悪化 非治療眼は改善 〇例

冷凍凝固法を受けた一七眼中一二眼(七一パーセント)に改善がみられた。しかし、治療眼と非治療眼で異なる結果(治療眼が改善し非治療眼が悪化したもの)が出たのは五例だけであった。他の七例については自然治癒し得るものであったとみられる。タスマン自身も統計的に有意であるとまではいえないとしている。

(三) タスマンの第二の報告(オフサルモノロジー九三巻五号昭和六一年)

タスマンが前記の一七例に加えて一一例についてコントロール・スタディを実施し、二八の事例についての冷凍凝固法の止眼にのみ行う実験の結果を報告したが、それは次のようなものであった。

治療眼が改善 非治療眼も改善 一一例

治療眼が改善 非治療眼は悪化 一一例

治療眼が悪化 非治療眼も悪化 五例

治療眼が悪化 非治療眼は改善 一例

治療眼のうち、六眼(二一パーセント)では進行が認められ、うち五眼は網膜剥離に至った。しかし、治療眼のうち、最近に行った一一眼では一例も網膜剥離の例は無かった。タスマンらは、この原因について、前の治療例よりも後の治療例のほうが無血管帯の凝固がより完全に行われたためと考えている。以上の結果から、タスマンらは未熟児網膜症に対する冷凍凝固法の有効性を承認したが(「治療を加えないことよりも冷凍凝固を行う方が望ましいことを示唆している。」)、パーマーはなお症例が少い点で問題があるとしている。タスマンらの研究結果については、確かに症例が少いという問題点はあるが、そこから光凝固法・冷凍凝固法が重症瘢痕の防止に一定の確率で効果があることは推認できるように思われる。しかしながら、その確率がどの程度のものかによって、結果回避の可能性についてかなりの差が生じ、法的判断に影響があるものと考えられるが、この点については現在でもなお不明であるというほかなく、コントロール・スタディの症例がなお蓄積されるのを待つほかはない。

七  光凝固法・冷凍凝固法に対する昭和四八年ころまでの医学的評価とその検討

右二ないし五に認定した事実に基づき、光凝固法・冷凍凝固法の有効性に対する医学的評価、光凝固法・冷凍凝固法の問題点などについて論ずることとする。

1  光凝固法・冷凍凝固法の有効性ないしその確立を検討する上で問題となる点

まず、問題とすべきは「有効性」の概念のあいまいさである。科学的にはある治療法が効果があるかどうかは、その治療法を実施した場合としない場合を比較して(比較の方法にはいろいろなものがある。)統計的に有意な差を生ぜしめたかによって決せられるものと考える。ところで、この奏功する確率がどの程度であれば法的にみて「有効」であると扱うべきかは問題であり、この点が右の治療法の「有効性」を判断する上で重要である。本件の原告らは右の各治療法を適期に実施すれば、「確実に」失明を免れ得たことを前提としているようであり、被告らはこれを争っている。また、「確立」の概念もあいまいであるが、ここでは、医学水準に関して前に述べたとおり小児眼科の分野の有力者らによって光凝固法や冷凍凝固法が承認されたかどうかで決することを前提に論を進める。このような「承認」が得られるかどうかは、その治療法の効果、副作用の有無、具体的な治療の仕方が確定しているかなどを総合考慮して決せられるものであろう。

次に、「効果」の内容も問題である。光凝固法や冷凍凝固法によって得られるとされる効果の第一はうっ血が除かれ、血管の迂曲怒張が軽快し、周辺への発達阻害が除去されることであるが、これは眼底をみれば臨床的に明確に確認できることであり、この点の効果があることは争いがない(自然治癒するものについても治癒を早める効果はある。)第二に自然治癒した場合でも瘢痕が残ることがかなりあり、これと光凝固や冷凍凝固による瘢痕を比較した場合にどちらの予後がよいかという問題があり、晩発性の網膜剥離との関係では光凝固の方がよいとするとこの点での効果もあることになる。しかし、本件において問題とすべき効果は、生後まもなく失明(網膜剥離)したことを防止できるかという点での効果である。

右の各治療法の効果を判定する上で問題となるのは、治療を実施しない場合の自然経過との比較であり、前記第二で認定したように、未熟児網膜症の場合には一旦発症したとしても自然治癒する確率が高く(植村によると八〇ないし九〇パーセントに上る。)、そこで、光凝固法や冷凍凝固法を実施して効果があったとされた事例は、もともと自然治癒する例を治療しただけではないのかという疑問が提起されている。これは自然経過との比較の方法としてどうあるべきかという問題(コントロール・スタディは必須のものかという問題)と関連する。また、自然治癒による瘢痕と光凝固法や冷凍凝固法による瘢痕のいずれの方がよいかという問題もある。さらに、右の自然治癒率というのはあくまでもⅠ型の未熟児網膜症についていえることであって、Ⅱ型の未熟児網膜症の場合にはその大部分が重症化するのであるから、右の問題はないということになる。もっとも、Ⅱ型の場合には奏功する率との関係で有効性を肯定できるかが問題となる。さらに、右の各治療法には副作用がないのかということも問題となる。副作用の具体的な内容は、凝固によって瘢痕が生じ網膜に器質的変化が生じたときに網膜の視機能に直接的な障害ないし合併症が生ぜしめないかということ、凝固瘢痕によって眼球の発育が阻害されないかというと、凝固瘢痕によって将来において晩発性の網膜剥離を惹き起さないかということであった。そして、これらの点が確認されない限り、法的な義務として右各治療法を実施する義務を負わないのではないかということが問題とされてきた。この関係で、他の疾患に対して光凝固法・冷凍凝固法の適用がなされていることが安全性の保障となるかということも問題とされてきた。

そして、右の二点と関連して、仮に光凝固法・冷凍凝固法が有効であるとして、Ⅰ型の場合にそれを実施すべき場合とは自然経過にまかせると重症化する症例についてであるが、それを重症瘢痕を残さずに自然治癒する症例とどのようにして区別するかにつき診断基準(実施時期が問題とされてきた。)が確立されている必要があるかということも問題となる。この点は、光凝固法や冷凍凝固法に副作用があるか、自然治癒による瘢痕とどちらが予後が良いかという問題とも関連する。

前記の昭和五六年の植村の報告などをみると、昭和四九年ころからの失明児の多くが光凝固法を受けているにも拘わらず失明しているという事実は否定できない。そうすると、これは一方で光凝固法が無効であるか又は奏功率が必ずしも高くないことを示しているかにも思われるが、他方、キンガムらに対する批判がそうであるように、光凝固法の実施時期や凝固部位などが適切でなかったためである可能性も否定できない。しかし、仮に後者であるとした場合、光凝固法が確立された治療法となるためには光凝固法の実施時期や凝固部位についてある程度の治療基準が確立されている必要があるということになり、実施時期や凝固部位についての検討が必要になる。また、共通の基準があって初めて相互に研究結果の評価を正当になし得るという点でも必要性が認められる。

以下、右の各問題点について論じていくこととする。

2  自然経過との比較など

前記の各文献においてこの問題がどのように考えられていたか、どのような手法で検討されていたかを検討する。

(一) 永田の昭和四三年四月、一〇月、同四五年五月、同四七年三月の各報告においても、この点は問題として認識されており、永田は活動期三期の未熟児網膜症についてはキンゼイらの報告からすると五〇パーセントしか自然治癒しないが、光凝固法によれば大部分が失明から救われるということ(従来の自然経過の症例に関する統計的報告との比較)、また、自然治癒するものも活動期三期に至ったものは瘢痕を生じて視力障害を残す例が多いこと(自然治癒するとしても光凝固を実施した方がよいとの判断)などの理由を挙げて、自然経過と比較して効果があると主張している。また、血管増殖性であるという点で、発症機序が類似するものと考えられる他の疾患に対して光凝固法が効果があるとされつつあったことも、未熟児網膜症に対する効果を根拠づける一つの理由として挙げていた(前記第七二、三参照)。さらに、光凝固の効果のうち、臨床的に視認が可能である前記Ⅰの第一の効果(うっ血が取り除かれ迂曲怒張が軽快し、周辺への発達障害が取り除かれるという効果)が目覚ましいことも効果を肯定した理由となっているものと推測される。

追試者も同様の根拠を挙げている。例えば、関西大学上原や塚原が光凝固を実施することにしたのも、類似の血管性の網膜症についての経験と活動期三期に入った例については重症瘢痕を残す可能性が高くこれを治癒せしめ得るということは未熟児網膜症にも効果があることを示すと判断したものと受け取れる。九州大学大島の場合もそれまでの自然経過に関する経験ないし統計的報告との比較から効果を認めたものであろう。名鉄病院田辺も臨床的に視認可能の効果が目覚ましいこと、他の類似する疾患についての光凝固法の効果などから効果を肯定したものと考えられる(勿論自然経過についての経験との比較は当然考慮されているものと考えられる。)。兵庫県立こども病院田渕や山本は光凝固法の有効性を肯定しつつも、光凝固による網膜の組織学的変化が著しいことを問題点として挙げていた。

また、急速に進行する未熟児網膜症が存在することや、それに対する光凝固法の奏功率には問題があることが昭和四〇年代後半では大島教授らから指摘されていた。

そして、未熟児網膜症についての先駆的研究者である植村医師は、昭和四三年四月の永田の学会における発表において種々の質問をしており、自然治癒との関係で効果判定に問題があることを認識していたようであるが、昭和四五年当時から効果があるとの判断を公表していた。ただ、昭和四五年五月の「今日の治療指針」において述べられているように、「この治療法も確実に進行を阻止するものではない。」との認識ではあったようである。

(二) 右の各文献の検討結果からすると、永田医師もその他の研究者らも自然治癒との関係が問題になることは当初から認識しており、ただ、厳格な効果判定には依らず、未熟児網膜症の活動期三期に至った症例の予後や重症瘢痕の発生率についての従来の経験や統計的報告との比較によって効果を判断していたように見受けられる。その際、比較の考えられていた自然治癒率は光凝固を実施しようとする活動期三期に至った場合のものであり、未熟児網膜症全体についての自然治癒率ではなく、五〇パーセント程度のものとして把握されていた(光凝固法に対する批判的な見解を示すものが援用する自然治癒率は未熟児網膜症全体についてのものである。)。勿論、そのような手法を効果判定に用いることも一つの合理的な考え方である。しかし、そのような手法によって効果判定をするためには症例の数がかなり多くないとその正確性に疑問を生ずることも事実であろう。すなわち、永田医師も他の研究者らも光凝固を実施した症例の中に自然治癒すべきものを含むことを当初から予定していたものと認められ(永田医師の場合活動期三期の症例についても五〇パーセントは自然治癒することを前提としていた。)、そうすると、右のような手法によって効果判定をするためには相当数の症例の蓄積が必要であるというべきである。永田医師による報告のうち、昭和四五年の報告では症例数は一二例に止まっており、昭和四七年の報告でも二五例であるから、これをもって効果を肯定するには未だ不充分であると考えられる。その他の追試者の報告を総合して相当多数の症例が蓄積された段階で一つの根拠を提供するに至るものと考えられ、追試が出揃った昭和四七年後半の段階で検討の対象が揃ったという状態であったと評価できる。

さらに、永田医師が肯定する効果の中には二つのものが含まれているように思われる。勿論、失明をもたらすような重症瘢痕の予防が第一のものであるが、第二に、活動期三期に至ったようなものが自然治癒したとしても瘢痕を残し、視力障害(弱視など)をもたらすことが多く、それよりは光凝固法を実施した方がよい(光凝固による瘢痕の方が予後がよい)という意味で効果があると判断したものと認められる。奏功の機序が同じであれば、第一の効果と第二の効果は区別する必要がないとも考えたのかもしれないが、後に極端な重症例であるⅡ型について効果に疑問が生じている以上、同じ未熟児網膜症の症状であっても重症な症状については効果に疑問が生ずることがあり得る。そして、本件において本来問題とすべきは第一の効果であり、さらに、第二の効果を肯定するためには長期の予後の観察も含めて検討する必要があったように思われる。

次に、発症機序が似ているとされる他の疾患への光凝固法の効果を根拠とすることには一応の合理性があるように思われる。しかし、前記第七、二に認定したところによれば、それらの疾患についても昭和四三年当時に効果が認められていたわけではない。例えば、糖尿病性網膜症についてみれば、我が国においても有効性を肯定する見解が多くなったのが昭和四六年のことであり、アメリカにおいて効果が認められるに至ったのは昭和五〇年ころになってコントロール・スタディが実施されてからであるとされる。本件当時までには必ずしもその根拠となし得るほどに他の疾患についての効果が確定されていたわけではない。また、第二に、他の疾患と未熟児網膜症の間には類似する点も多いが、前記二3において認定したとおり大きな差異もあるのであり、他の疾患について光凝固が効果があるにしても、それをもって直ちに未熟児網膜症についても同様の効果があるとする一根拠とまでは評価できない。

なお、自然経過との比較の手法としてコントロール・スタディを経ていなければ効果判定はできないとの見解は本件当時までにはなかった。

3  副作用の問題について

(一) これについても永田医師も他の追試者も当初から問題があることは認識していた。最初の学会での発表において植村医師から既にこの懸念が表明されていた。永田医師自身も、昭和四三年一〇月の論文において、眼球の発育など長期的な予後については今後の経過観察に待つ他ないとしていた。しかし、他方、活動期三期までに至った症例においては、自然治癒した場合にもかなりの瘢痕が残るから、光凝固による瘢痕が残るとしても光凝固によって新たな害を生ぜしめるということにはならず、活動期三期に至った症例のうち重症化するのは五〇パーセント程度もあり、それらが失明につながる可能性を考えれば、自然治癒する例をも含めて凝固することになったとしても「取り引きは引き合う」と考えていた。また、凝固瘢痕自体を直後において観察した結果では問題はないと判断していた。追試者らも同様の判断に立ったものと考えられる。その場合に礁実に「取り引きが引き合う」状態にするためにはできるだけ自然治癒例と重症化する例との区別をする必要があるとの判断から、光凝固の実施時期について様々な見解が出されることになり、また、進行性や活動性を判断するための継続的な眼底検査の必要性がより強く主張されるようになったものと理解される。確実に重症化していく症例を鑑別することができるのであれば、副作用があったとしても失明や強度の弱視よりはましであるとの見解は肯認し得るから、副作用があっても問題とならないであろう。なお、名鉄病院田辺は光凝固瘢痕の方が自然瘢痕より晩発性の網膜剥離が起き難いのではないかとの推定を述べているが、他方で、光凝固による侵襲の予後については長期的な観察が必要であるともしていた。兵庫県立こども病院田渕や山本は、光凝固法の有効性を承認しつつもそれによる侵襲に強い懸念を表明していた。

なお、追試の実施時期は昭和四四年とか四五年であったりしたが、それ以降昭和四八年ころまでの経過観察では問題は発生してはおらず、ERGなども正常であり、短期的に発見されるべき合併症などの危険はないことは確認されていたとみてよい。

(二) 以上の検討からすると、永田が指摘するように副作用の問題は結局は比較衡量の問題であり、得られる利益と失う利益と比較して、得られる利益が大きければ副作用があっても治療法として承認されることになるというべきであろう。そして、この問題は真に重症化していく症例と、さほど瘢痕を残さずに自然治癒していく症例の鑑別がどこまで可能かという問題と不可分である。完全な鑑別が不可能であるとすると、その比較は全体的な見地においてなされるべきであり、一定の鑑別を経てある程度限定されたグループに対して光凝固法・冷凍凝固法を実施した場合に、得られる利益が弊害よりも大きいと認められるときには、個々の児について不必要に光凝固法が実施されることが不可避であっても治療法としては認められるであろうし、個々の児に着目すれば利益がありこそすれ弊害は考えられないということがあっても(原告の児らは失明しているのであるから副作用があってもやって欲しかったというのが原告らの心境であろう。)、全体的見地からして弊害が多ければ治療法としては否定されよう。この点からすると、Ⅱ型や混合型の未熟児網膜症の場合には副作用のことは問題とならないというべきであろうし、Ⅰ型の場合には相当重要な問題であり、一定の鑑別をするための診断基準の確立がⅠ型に対する光凝固法の適用を肯定するかどうかに大きな影響があるものというべきであろう。

(三) このような比較衡量について、多くの研究者は、追試が出揃った昭和四七年後半においては、各自の診断基準と実施時期による限りにおいて、光凝固法のⅠ型への適用に肯定的な評価をしていたものと考えられる。しかし、このように専門家らが光凝固法に効果があることについて承認していたとしても、これはそれらの先駆的医師の経験や鑑別技術を前提としてのものであったと認められ、臨床に直ちに応用すべき治療法としての承認を得ていたかにはやや疑問がある。すなわち、重症化するかどうかの鑑別の技術は医師によって大きな開きがあり、植村医師や永田医師のような先駆的な医師ではかなりの確率で鑑別ができ、仮に自然治癒する例が含まれるとしても相当の自然瘢痕を残す例であろうから、比較衡量の問題として光凝固法を実施することも肯定されるであろう。しかし、先駆的研究者以外の眼科医には経験や鑑別技術がなく、また、本件当時の状況では活動期の判断についても適切にできたかどうか疑問があり、したがって、これらのものがⅠ型の未熟児網膜症に対して光凝固法を実施したときには、かなりの自然治癒例を含めて治療することになり、しかも、あまり瘢痕を残さないような自然治癒例がかなり含まれることにもなり兼ねず、そのような場合をも考えると、本件当時においては副作用の問題はなお軽視できない問題であったというべきである。そして、このような懸念は昭和四九年以降昭和五〇年当時には顕著になり、植村医師を始めとする多くの医師から過剰治療の危険が叫ばれるようになり、他方で統一的な診断基準(ある程度の鑑別の基準)の必要性が主張され、副作用の問題が再度注目されるようになったものと考えられる。

4  実施時期や凝固部位などの治療基準について

(一) 実施時期について

永田医師の報告をみると、実施時期について、昭和四三年四月の報告では前記の比較衡量の観点から活動期三期としており、昭和四七年三月の報告では自然治癒例との鑑別能力に自信を深めたため、継続的観察と知識と経験の蓄積を条件として「明らかに三期への移行を予測させる症例においては二期の終り頃」とするようになった。追試者の多くは前記のあまり瘢痕を残さずに自然治癒する例を除くという観点からオーエンスの活動期三期を基本とするという見解が多い。この中で田辺医師は活動期三期において実施するのを原則としつつも「経過をみていて経験的にstage三に行くと思われるケースにはstage二に於いて施行することも許される」と永田医師と同様の見解を示し、光凝固瘢痕と自然治癒瘢痕との比較をして詳細な検討をしている。兵庫県立こども病院田渕らも実施時期については同様の見解かと思われる。国立大村病院本多らは「活動期二期から三期に移行する時期」、「自然治癒が望み薄となることを確かめた時期」としている。馬嶋も昭和四七年七月の報告において「進行が予想される例は活動期二期」としている。

仮に自然治癒することなく重症化する症例を完全に認定できるのであれば、できるだけ早期に治療を実施した方がよく、その意味で実施時期は極端にいえば活動期一期であってもよいはずである。この鑑別が完全にできないから実施時期が問題となるのであり、実施時期を定める基本は「自然治癒が望み薄となった段階」というのは正当であろう。したがって、永田らが実施時期を基本的には活動期三期としながらも「進行が予想される症例については活動期二期の終り」とすることは当然のことであり、そこに矛盾はない。ただ、鑑別は「予測」の域を出ず、主観性が入り込む可能性が多く、当該医師の経験と知識によってこの「予測」正確性には大きく差が生ずるのだから、永田を始めとする先駆的医師の場合はそれでよくても、一般の臨床医がこの記述をみて充分な経験がないままに予測を立てて早期に実施した場合には問題が生ずる。臨床において一般の臨床医らが適切に治療を実施できるためには、未熟児網膜症の活動期の病変の詳細が眼底写真などによって明らかにされ、進行を予測させる眼底の症状とはどのようなものかが「ある程度」は具体的に提示されるか、平均的な眼科医を基準としておおむね妥当な画一的な基準を提示することが必要であったものと考えられる。ここである程度としたのはこのような予測といった問題については酸素療法の適応判断におけるのと同様に裁量が認められるべきだからである。

また、本件当時までに眼底写真による検討は充分になされておらず、研究者間においてさえ、どのような眼底の状況を活動期三期としていたのかについて共通の基盤は必ずしもなかったと認められる。研究者らが眼底写真を持ち寄って検討したのは昭和四九年度厚生省特別研究班においてなされたのが初めてであったのである。また、オーエンスの分類は未熟児網膜症の進行を判断する上で不充分な点があり、活動期の分類についてもこれに替わる共通の分類が必要であったと考えられる。

(二) 凝固部位について

永田医師の見解は、報告の表現をみる限りでは必ずしも明確ではないように思われる。昭和四三年四月の報告では「異常な増殖を起した血管のやや中心側より網膜の滲出性隆起部にわたる部分あるいは血管新生部」とし、昭和四五年一一月の報告では「demarcation lineを中心にその周辺の無血管帯、中心側の血管増殖部を二~三列に凝固するのが血管増殖部を凝固しても出血を起すことはなく、むしろ無血管帯を凝固した時に出血の起ることが時々ある」とし、昭和四七年三月の報告においては「無血管帯との境界線のみならず無血管帯を散発的に光凝固することを試みている。」としている。そして、昭和五六年一二月、永田医師は、「光凝固治療の初期には、我々は光凝固術で増殖性血管組織を破壊するつもりであったが、光凝固治療を行ったいくつかの症例からみて、この考えを改めた。というのは、光凝固術の最も目立った効果は境界線と浮腫のある無血管網膜の凝固によって得られるとわかったからである。」、「新生血管の凝固あるいは……境界の後極側(視神経側)の網膜部位の凝固は不必要であり、むしろ有害になる。」としており、凝固部位についての見解の変更があったことを示しているが、見解の変更がいつなされたのかは文献上では明確ではない。厚生省研究班報告では、ほぼ右の昭和五六年の文献と同様の凝固部位が示されているように思われるので、それ以前に変更されていたもの、すなわち、昭和四七年の文献のころから変更がなされたとみてよい。いずれにしても、第三者にとって明確なものが示されていたとは言い難い。

植村医師も新生血管については、病理学的な検索によると、これを凝固したとしてもよほど強く凝固しない限りは焼けることはないとしている。そこで、永田は、血管増殖部を焼こうとして結局は内皮細胞の固まりである境界線を焼いていたことになり、結果としてみれば焼くべきところが焼けていたとしているが、凝固部位という重要な事項において問題があったことは重視すべきであろう。先駆的な研究者であれば、眼底をみながら臨機応変に凝固していくであろうが、一般の医師はとかく画一的に治療をする恐れがあり、あくまでも新生血管を凝固しようとして強く凝固すると問題が生ずる懸念があったのである。

追試者のうち、大島は「境界線を中心に血管増殖部とその周辺の無血管帯で無血管帯の幅が広いときには更に周辺近くまで凝固した方がよい」としていた。

5  まとめ

以上に検討したところによると、昭和四七年後半ころには光凝固法・冷凍凝固法はⅠ型の未熟児網膜症の治療(失明をもたらす重症瘢痕の予防)に効果があること自体は多くの研究者の承認を得ていた状況にあったといってよい。しかし、他方、副作用の有無の確認が充分にはできていなかった。その結果、重症化する症例の鑑別が重要な問題となり、具体的には診断基準や実施時期をどうすべきかが問題となり、この点について本件当時までに共通の基盤において充分な意見の交換が充分になされていたわけではなかった。さらに、凝固部位についても見解に変動があったのであるから、本件当時においては、一般の眼科医が実施することを法的義務とすべきほどに光凝固法・冷凍凝固法が完成したとはいえない状態であったというべきである(先駆的医療機関については別に考える余地はあろう)。Ⅱ型の未熟児網膜症については治療の前提となる診断基準がなかったといってよい。

八  光凝固法・冷凍凝固法に対する疑問点の現時点での評価

1  診断基準(自然治癒例との鑑別の基準など)・治療基準(実施時期や凝固部位など)の共通の基盤での検討と明確化については、昭和四九年度厚生省研究班報告において実現されたこと、しかし、Ⅱ型に関しては未だ不充分な点があってその後に修正がなされたことは前記のとおりである。

副作用の問題については、現在に至るまで光凝固や冷凍凝固による瘢痕によって眼球の発育が阻害されたり、合併症や晩発性の障害が生じたとの報告はみられない。かえって、前記五の認定によれば、晩発性網膜剥離との関係では自然治癒例における瘢痕よりも光凝固瘢痕の方が晩発性網膜剥離が生じ難いことが明らかとなってきている。したがって、自然治癒するとしてもかなりの瘢痕を残す例については積極的に治療の対象として含めてよいということになり、少くとも活動期三期の晩期に至るような症例については鑑別の必要性がなくなってきているものと考えられる。例えば、前記の伊藤大蔵医師の見解はこのことを明確に指摘している。そして、光凝固瘢痕による障害が殆どないとすると、鑑別が問題になるのは全く瘢痕を残さず自然治癒する例とのそれであり、実施時期はより早まることも予想される。

2  効果(自然経過との比較)

前記のとおり、現時点における光凝固法・冷凍凝固法の問題で最も重要なことは、光凝固法や冷凍凝固法に「効果」があるかどうかである。そして、未熟児網膜症に対する光凝固法・冷凍凝固法の効果に関する問題点について厳密で確実な証拠を得るためには、コントロール・スタディを実施する必要があること、未熟児網膜症におけるコントロール・スタディの状況については前記第七、五2ないし4認定のとおりである。

しかして、右コントロール・スタディについての認定事実を検討すると、第一に医学的に有効性を承認されるためにコントロール・スタディが必要であるとするかどうかは医学界に委ねられた問題であり、本件当時においてはこれが必要とされていたとはいえない。第二に、効果についてであるが、タスマンらの研究結果については、たしかに症例が少い問題点はあるが、そこから光凝固法・冷凍凝固法が重症瘢痕の防止に一定の確率で効果があることは推認できるように思われる。しかしながら、タスマンらが治療の対象としていたのはⅠ型であると認められ、Ⅱ型についてはなお明確ではないように思われる。さらに、効果があるとしてもその確率がどの程度のものかによって、結果回避の可能性についてかなりの差が生じ、これは法的判断に影響があるものと考えられる。この点をも考慮すると、法的に全面的に失明の責任を問える前提としての効果・確率が認められるかは現在でもなお不明であるというほかなく、なお、研究結果が蓄積される必要があるように思われる。

九  前提としての定期的眼底検査について

被告らの治療責任・転医義務違反を認める前提としては、定期的な眼底検査を実施して早期に未熟児網膜症の発症を発見する義務がその前提となっているので、以下においてこの点を検討する。

1  眼底検査の目的との関係

植村医師は、我が国において早くから未熟児網膜症の発症の危険についての警告と眼底検査実施の必要性を説いていた。ただ、その目的は、当初は、活動期症例の実体把握、未熟児網膜症が発症しないための漸減法や未熟児網膜症が発症した場合の逆酸素療法(いずれもベットロシアンやスツエベクチクの見解、前記第三参照)が有効であるかを確認することにあった。その意味で研究的な意味あいが強いものであった。光凝固法の実施の要否や実施時期を決定するために眼底検査を実施するようになったのは、永田の発表やその追試が出るようになってからである。

ところで、原告らは児の失明についての責任を問題としているのであるが、そうすると、眼底検査をすることが児の失明を回避するための手段をもたらすものでなければ、失明についての責任を問う根拠する義務違反の内容として眼底検査の懈怠を問題とすることはできないというべきである。したがって、それまでに植村医師が啓蒙的な論文において眼底検査の必要性を説いていたとしても、そのことから右眼底検査を臨床に取り入れるべき法的な義務があったとは直ちには考えられず、また、眼底検査義務は光凝固または冷凍凝固による治療義務の前提としての意味を有するに過ぎないものというべきであるから、独自の義務違反として問題とすることはできないと考えられる。

2  眼底検査の実施に伴う困難さについて

眼底検査についての知識の普及は光凝固についての知識の普及とほぼ軌を一にしていたものとみられるが、眼底検査も知識さえあれば実施できるというものではない。以下では眼底検査を実施するために必要な条件などについて述べる。

(一) 眼底検査のために必要な人的設備

昭和四〇年ころの眼科医の数はおそらく約四〇〇〇名であり、このうち勤務医は約一〇〇〇名程度であり、あとは開業医か大学に残っている医師であったと思われる。したがって、一般の病院では眼科医がかなり不足していた状態であり、昭和五六年に至ってもなお充足していない状態であったし、眼科医は一般に非常に多忙であった。さらに、医療の専門化が進んでいるため眼科学も一五、六から二〇の分野に細分化されており、医師はそれぞれ自分の専攻した分野しか研究ができないという状態であった。そして、昭和四〇年代前半は大人の眼はみるけれども小児特に新生児については診察していない医師が圧倒的に多い時代であった。慶応義塾大学医学部において未熟児の眼底検査について教育するようになったのは植村医師が昭和四八年六月に教授として右大学に戻ってから後のことであった。

(二) 眼底検査のために必要な教育・訓練

未熟児の眼底検査は後記のとおり技術的にも難しく、さらに未熟児網膜症の病態は千変万化であり、そのような条件において、Ⅰ型、Ⅱ型、混合型を見分け、さらにどこまでが自然治癒するかを見極めることができるような知識・経験を得るためには未熟児網膜症について詳しい指導者の下で教育を受けることが望ましく、とても本をみたり人から聞いただけでは充分な眼底検査を実施することはできないとされる。特に、未熟児網膜症が発症した場合にそれが自然治癒するものか重症化するものかを判断するためには活動期三期の病変について充分に知識経験を積む必要がある。未熟児網膜症の活動期三期の症例は非常に少いことから、そのような症例が集る施設において一年ないし二年の経験を積む必要があるとされる。このような形での教育訓練ができるところは少く、次善の方法を考えるならば、カラーアトラスをみながら経験を積むという方法も考えられるが、本格的なものは昭和四九年度厚生省研究班が発表するまではなかった(昭和四九年二月発行の馬嶋教授の「未熟児網膜症の眼底写真と診断基準」において馬嶋はカラー写真を使用して説明してはいる。乙A第三四号証の一〇)。そして、このような方法で経験を積むことにより活動期の何期に該当するかということは判断できるようになるかもしれないが、重症化していくかどうかの予後を予想することは熟練しないと甚だ困難である。もとより、光凝固法や冷凍凝固法を実施するために必要な眼底鑑別の能力は、カラーアトラスによっては充分には養えない。小児眼科の権威者の一人である湖崎医師の場合でも、すでに何百と症例をみてきているが、現在でも予後の判定は迷いながら行っているというのが実情であるとされる。先駆的研究者である植村医師の場合でも、活動期の病変かどうかを判定できるようになるには一年位かかったし、さらに進行の予測ができるには四年ないし五年の経験が必要であった。植村医師自体が最初の段階の眼底を少しみて予後の予測ができるようになったのは六年位の経験を経てからであった。

(三) 眼底検査のために必要な物的設備

未熟児の眼底をみるためには倒像鏡によることが望ましく(周辺部をみるため)、これによらないと未熟児網膜症の病変を把握することはできないという者までいる。もっとも、先駆的研究者である植村医師の場合には、はじめは倒像鏡が購入して貰えず直像鏡でやっており、昭和四四年になってようやく倒像鏡(ボンノスコープ)を購入して貰うことができた。そして、双眼立体倒像鏡を購入して貰ったのが昭和四八年初めであった。また、検査をする室は暗室ないしそれに準ずるところである必要がある。その他の物的設備として、開眼器として乳児用デマル鈎、乳児用開眼器ボンノスコープなどの器具が必要である。

(四) 眼底検査の困難性

手技的危険性として眼底検査のために患児を押さえつけると、体力を消耗させ、時には呼吸障害の発作を惹き起す危険を伴い、また開眼器によって血膜炎を起す場合があることが挙げられる。

(五) 眼底検査ができるための児側の条件

全身状態が眼底検査を許す状況であること、散瞳が充分にできること、ヘイジイ・メディアがなく眼底が透見できることが必要である。未熟児網膜症の発症し易い一二〇〇グラム以下の未熟児では、生後一カ月以上もヘイジイ・メディアが続き、眼底検査が満足にできないものがかなりみられる。

(六) 各科の連係

眼底検査を実施するためには各科の連係が必要なことはいうまでもないが、これもなかなか困難なことであった。そもそも、未熟児医療についての各科の連係というものは、東京の国立小児病院(昭和四〇年発足)と大阪の小児保健センターが発足し初めてそのような体制の病院ができたといってよいほどであった。それでも各科間において相手の専門の内容についての理解度が充分でないため、例えば、植村医師の国立小児病院でも眼底検査についての小児科と眼科の協調体制ができるのに半年以上かかった。小児科としては眼底検査のために機械を持ち込んだりすることにより児に感染の危険が増加することには当然のことながら抵抗があった。右病院においても、当初は退院後の児をみるだけであったが、片眼が全盲の例が出たことによって、昭和四一年になって協力体制ができるようになり、生下時体重二〇〇〇グラム以下で酸素投与を受けた児全部について眼底検査を実施するようになった。眼底検査の時期については、小児科の方で全身状態に問題がないと判断したときに依頼票を出して貰って、これに応じて実施していた。したがって、植村医師や奥山医師という各分野における権威者がいた病院においても直ぐに「定期的」眼底検査を実施するには至っていなかったのである。

3  先駆的な施設における眼底検査の実情

右のような困難さがあるため、先駆的な施設においても医師が知見を有していたからといっても眼底検査は直ぐに実施されたわけではなかった。

植村医師の場合でも、昭和三〇年代には未熟児網膜症の活動期病変をみたことはなく、昭和三九年の日本眼科学会における宿題報告で弱視に関する報告をすることになり、それで未熟児網膜症に興味を持つようになった。昭和三九年には慶応義塾大学医学部付属病院眼科外来において一〇例程度の瘢痕期病変をみた(但し、瘢痕期の病変のうち、白色瞳孔がみられるものは網膜芽細胞質との鑑別が難しい)。

湖崎医師は昭和四一年から実施していた。しかし、当初は直像鏡を使用して眼底の後極部を主としてみていた。永田医師の発表があってから網膜の周辺部もみるようになり、昭和四三年か四四年には倒像鏡による眼底検査を実施していた。

石塚医師の勤務する国立第二病院において眼底検査を実施し始めたのは昭和四四年であったが、そのときには症例を選んでやっており(生下時体重が少く酸素を大量に投与したものなどであった。)、また倒像検眼鏡もなかったし、担当の眼科医である大沢医師にはそれまでに未熟児の眼底検査の経験はないという状況であった。そして、常例的に生下時体重一八〇〇グラム以下または在胎週数三五週未満の児について倒像検眼鏡による眼底検査を実施するようになったのは昭和四五年秋ころからであった。

武田医師が勤務していた岡山大学産婦人科では昭和三九年から国立岡山病院と提携して眼底検査を実施してきた。これは発見と診断のためではあったが、治療のためのものではなかった。昭和四七年に岡山大学にNICUができてからは自分のところで眼底検査を実施するようになった。

国立習志野病院(医師は飯島幸雄らである。)は光凝固法による治療を昭和四七年に実施していたが、眼底検査については未熟児六三例中九例にしか実施できておらず、これは多忙なため時間的制約があって生下時体重一八〇〇グラム以下のものを中心に限定せざるを得なかったためであった(眼科臨床医報六七巻七号)。

4  その他の大学付属病院における眼底検査の実施時期

三重大学付属病院では、昭和四八年三月ころから、小児科の要請で眼底検査を実施するようになった。

日本医科大学付属病院では、昭和四八年六月ころから産婦人科からの依頼で眼底検査を実施するようになった。

新潟大学付属病院では、昭和四八年秋から産婦人科の要請で定期的な眼底検査を実施するようになった。

弘前大学付属病院では、昭和四九年三月ころから定期的な眼底検査を開始した。

5  一般的な医療機関における眼底検査の実情

先駆的な医療機関を除いた他の施設において眼底検査が普及したのはさらに後のことになる。

植村医師の認識では、眼底検査が普及し始めたのは光凝固法が発表されてからであり、特に永田医師が昭和四七年に二五例の総括的報告をしてから普及し始めたものである。大学における卒後教育において眼底検査を採り入れるようになったのは昭和四八年以降である。

湖崎医師によると、昭和四七年から四八年ころは大阪市内においても眼底検査は充分になされていなかった。昭和五〇年当時で国立病院ですら眼科医の欠員のところが多く、まして開業医のところまで出向いて眼底検査する余裕などはなかった。しかも、仮に引き受けたとしても大部分の眼科医には未熟児の眼底検査の経験はなかった。

また、被告ら側で調査した東北地方及び埼玉県における眼底検査の実情は次のとおりであった。この調査結果では、一定の規模を有する病院においても定期的な眼底検査が定着したのは昭和四八年後半ないし昭和五〇年位であることが窺われる。

一〇  光凝固法・冷凍凝固法に関する昭和四八年当時における臨床応用に関するその他の問題点

光凝固法・冷凍凝固法を一般の眼科医が臨床へ応用できる程には診断基準や治療基準が完成していなかったことは前記六において説示したとおりであり、光凝固法による治療を実施するための不可欠の前提である眼底検査についても前記八説示のとおり問題があるが、右各治療法が医療水準に達するためにはさらに様々な問題点を克服する必要があったことについて以下に論ずる。

1  光凝固法・冷凍凝固法に関する知識の普及について

右各治療法を児に対して実施するためには、何よりもその養育を担当している小児科医や産科医に対して右治療法に関する知識が普及していなければならない。このような知識の普及がなされたといえるためには、前記第四において説示したとおり、単に光凝固法なり冷凍凝固法という治療法の名前を聞いたことがある程度では不充分であり、右各治療法が実験的段階を終了して医学界の承認を得た状態にあることを知り得る状態にあることが必要である。しかし、まず、産科医についてみれば、前記三に認定したように、光凝固法を扱った文献が少いし、しかも、それを紹介しているのは眼科医である植村であることが多い。このような状況をみると、一般の産科医の間では昭和四八年当時までは、右各治療法についての知識の普及が充分になされていたと認められる事情は窺われない。小児科に関しては文献はかなりあるが、光凝固法などを推奨しているのは植村医師、永田医師などの眼科医であり、小児科側からの応答は当初は窺われないが、昭和四八年後半位からは普及しつつある段階にあったとみられる。

次に右各治療法を担当するべき眼科医については、第四に説示したとおり、治療法の詳細(診断基準・治療基準)についての知識が普及している必要があるが、前記六において認定したように、昭和四七年後半からは効果があるということについての承認がなされ、右治療法の存在・概略とその効果に関する知見は普及していったものとみられるが、診断基準や治療基準は一般の眼科医が臨床に応用できる程に明確なものとはなっていなかったといわざるを得ず、この点での知識の普及は未だ充分ではなかったと認められる。

2  光凝固法・冷凍凝固法の実施に必要な技術と経験

仮に、原告らが主張するように診断基準

東北地区の各県下の医療機関の未熟児に対する定期眼底検査の実施状況の調査結果

病院名

定期的眼底検査の実施時期及びその内容

市立三沢病院

1 昭和四九年一〇月より必要と思う症例に対し、不定期の眼底検査(退院時)を

行っている。

2 非常勤眼科医による退院時の眼底検査。

3 従って、昭和四七年当時は未だ定期的眼底検査は実施していない。

石巻赤十字病院

1 昭和五〇年五月より未熟児全員に対し、直像鏡による不定期の眼底検査を行

っている。

2 非常勤眼科医による出生後一か月以内の眼底検査で、経過観察の必要があ

れば二週毎に行う。

3 従って、昭和四七年当時は未だ定期的眼底検査は実施していない。

八戸市立市民病院

1 昭和四六年六月より、未熟児全員に対し直像鏡による不定期眼底検査を行っ

ている。

2 非常勤眼科医による酸素投与を必要としなくなった時点及びその後一~二週毎

の眼底検査。

3 永田医師の説く倒像検眼鏡による定期的眼底検査ではない。

秋田赤十字病院

1 昭和五〇年より倒像検眼鏡による定期的眼底検査を行っている。

2 常勤眼科医による未熟児全員に対する眼底検査で、生後一~二週目に第一回

施行し、以後眼底の状態により三~五回施行。

仙台赤十字病院

1 未熟児に対し最初の眼底検査を実施したのは昭和四八年八月からで、一四日

間隔の定期的眼底検査である。

2 常勤眼科医による未熟児全員に対し、強膜圧迫子使用の双眼倒像検査法によ

って施行している。

3 従って、昭和四七年当時は全く眼底検査を実施していない。

福島赤十字病院

1 未熟児に対し最初の眼底検査を実施したのは昭和四八年一〇月からで、生後

一四日目から週一回の定期的眼底検査である。

2 常勤眼科医による「必要と思う未熟児のみ」に対する倒像検眼鏡、直像検眼鏡

による検査である。

3 従って、昭和四七年当時は全く眼底検査は実施していない。

埼玉県下の法人病院、市立病院、大学付属病院の未熟児に対する定期的眼底検査の実態調査結果

病院名

(及び未熟児保育担当診療とその年度)

定期的眼底検査の実施時期及びその内容

医療法人丸山病院

(昭和四〇年一月から産婦人科担当)

1 昭和四九年六月より、月四回の定期的眼底検査を未熟児全員に対して行

っている。

2 非常勤眼科医師による週一回の眼底検査。

3 昭和五四年(調査時点)まで上記同様の内容である。

社会保険埼玉中央病院

(昭和三四年一〇月から小児科担当)

1 昭和五〇年一二月より、月平均四回の定期的眼底検査を未熟児全員に対

して行っている。退院後も月一回実施。

2 常勤眼科医師による週一回又は月四回の検査。

3 昭和五三年一二月まで上記同内容の検査施行している。

埼玉県厚生連熊谷総合病院

(昭和四七年五月より産科から小児科に担当変更、それ以前は産科)

1 昭和四八年七月より退院前に不定期の眼底検査を行っている。

2 非常勤眼科医師による(週三回来診)。

草加市立病院

(昭和四二年四月から産婦人科担当)

1 昭和五二年六月より、月二回の不定期の眼底検査を行っている。

2 生後三~四週間目又は退院前に行う。

3 常勤眼科医師による月二回の検査。

春日部市立病院

(昭和三七年から小児科担当)

1 昭和四七年一月より、不定期の眼底検査を行っている。

2 未熟児全員に対し不定期の眼底検査を行うようになったのは、昭和四九年

四月から。

3 常勤眼科医師による検査で、昭和五四年三月まで同内容。

蕨市立病院

(昭和四〇年一月から産婦人科担当)

1 昭和四九年一月より、月二回の不定期の眼底検査を未熟児全員に対し行

っている。

2 常勤眼科医師による月二回の検査。

3 昭和五三年一二月まで同内容の検査。

川口市立病院

(昭和三八年三月から小児科担当)

1 昭和四九年三月より、生後一〇日頃からの定期的眼底検査を未熟児全員

に対し行っている。

2 常勤眼科医師による検査で、必要なとき随時行う。

埼玉医科大学附属病院

(以前から小児科担当)

1 昭和四九年一〇月より、月二回の定期的眼底検査を二、〇〇〇g以下の

未熟児全員に行う(進行しそうな場合は週一回又は二回行う)。

2 昭和五一年四月より、月四回の定期的眼底検査をO2投与例に対し生後

一〇日~一四日頃から行っている。

や治療基準の不明確な部分は医師の裁量に委ねられるとしても、知識だけでは治療は実施できない。光凝固法についていえば、光凝固術に精通していることと未熟児網膜症についての経験が充分であることが必要である。また、後記の眼底検査ができることは当然の前提となる。経験が必要とされるのは、未熟児網膜症の病型に応じて凝固の仕方ないし部位などを変える必要があり、病変は多様で画一的なものではないので、相当の経験が必要である。このような経験を昭和四八年当時までに有していたのは先駆的研究者だけであったのではないかと思われる。

光凝固の手術についてみれば、成人の疾患への光凝固術を実施できる技術があればよいともされるが、未熟児の場合には眼球が小さく困難が伴う。例えば、未熟児網膜症の知見に関して第一人者である植村医師の場合でも、自らが実施するようになったのは昭和四九年位からであった。それまでは、眼底検査の結果、治療が必要であると認めた事例については東京厚生年金病院などに転医させて光凝固法による治療を受けさせていたのである。

また、未熟児網膜症の病態についてかなりの経験を有しないと適切な凝固時期や凝固部位を選択することができないのであり、この点で成人について光凝固法をやった経験があったとしても未熟児網膜症への応用が上手くできるとはいえない。

したがって、全国的に光凝固を実施するためには、治療を担当する眼科医の養成(教育・訓練)が必要となるのである。最も早い天理病院を例にとると、昭和四五、六年ころから鶴岡医師を永田医師が教育し始めたが、鶴岡医師以外の一般の医局員に責任をもって診断させたり、治療させてみたりするようになったのは昭和五〇年ころになってからのことである。永田医師は未熟児の眼科的管理を始めた眼科医が、光凝固の適応をほぼ的確に判断し得るようになるためには、指導者のもとで少くとも半年ないし一年の経験が必要であり、このような教育は光凝固装置を設備した病院で経験者と共に眼底を検査することに始まり、自然治癒症例と進行重症例を判別する訓練、光凝固に最適な時期の判定、光凝固実技の訓練などが実際の症例についてman to man方式で行われなければならないとしている。そして、永田医師は、昭和四九年五月の段階において、このような教育の可能な施設は全国でごく少数に過ぎず、未熟児網膜症に関して実際の診断、治療能力を持っている眼科医の数は決して充分とはいえず、以後この数を増やすべく長期にわたる努力が必要であると報告していたのである。

3  光凝固に必要な物的設備

光凝固装置も高価なもので、国立小児病院でも購入できたのが昭和四八年であり、大阪市立小児保健センターで購入したのが昭和五三年のことであった。昭和五六年時点で光凝固装置は一式一〇〇〇万円を超えるようなものであった。この装置が各県に整備されてきたのが昭和四七年から四八年であったようであり(特に未熟児網膜症のためではない。)、昭和四五年当時では各県に一台がやっとという状況であった。

4  転医体制の整備

光凝固法を実施できる病院があるとしても、ここに実際に転医させるためには、児の状態がこれを許すことの他に転医体制が整備されている必要がある。奈良県の場合には、永田らが県内の養育医療指定機関に呼びかけて、外来での眼底検査を受け付け、問題のある例については光凝固法を実施できる体制を整えたが、当初は転医の時期が遅れがちであったとされる。しかし、全体からみると数は不足しており、天理病院でも未熟児網膜症が社会問題化してからは一時は転医の依頼を受け入れられない事態があった。未熟児網膜症への光凝固法を実施していた病院は全国的にみても少く、昭和五〇年当時で十数ケ所であったとされる。

一一  まとめ

以上に検討したとおり、未熟児網膜症への光凝固法・冷凍凝固法を適用するには多くの問題があり、昭和四八年までにはこれらの治療法を臨床の実践において実施することを法的義務とすべき程には前提条件が満たされていない状況にあったというべきであり、一般の医師を基準として医療水準に達していたとは認め難い。先駆的研究者以外で、一部の病院で光凝固法による治療が実施されてはいたが、それも試行錯誤の段階にあったものが多いものと認められる。東京心身障害センターに収容された児をみると、光凝固法が実施されるようになったのは昭和四九年から昭和五〇年ころであり、失明児を調べると昭和五〇年ころ以降の児は光凝固の治療を受けているものが殆どであるという。光凝固法は未熟児網膜症の社会問題化と厚生省研究班報告によって初めて急速に定着していったものと認められるのである。

第八被告らの各診療経過(各論)

一  原告原山清に関する被告東京都の診療経過

1  原告原山清(以下この項において「原告清」という。)に関する請求の原因二1のうち、(一)、(二)の各事実、同(三)の事実のうち、九月二五日、午前にチアノーゼが顔・口周囲・四肢末端にみられたこと、午後四時以降にチアノーゼが口周囲と四肢末端にみられたこと、呼吸が不整であったこと、陥没呼吸がみられたこと、同(四)の事実、同(五)の事実のうち、九月三〇日、原告清に吐乳がみられたこと、環境酸素濃度を三〇パーセントにするように指示したこと、一〇月一二日に原告清に対する酸素投与が中止されたこと、同(六)の事実のうち、一〇月二二日、原告清には早朝から無呼吸発作が継続したこと、午前九時ころにも無呼吸発作があって、これに対して毎分五リットルの酸素が投与されたこと、同(七)の事実のうち、担当医が原告清の症状は肺炎であると考えて、これに対して酸素投与が必要であると判断したこと、一一月四日まで三〇パーセントの酸素投与の継続を指示したこと、同(八)の事実、同(九)の事実、以上の事実は被告東京都との間で争いがない。

2  以上の事実に、《証拠省略》を総合すると、次の各事実を認めることができ、この認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 原告清は、昭和四五年九月二三日午前一時三七分、埼玉県朝霞市所在の訴外村山病院において、在胎週数二八週と二日、生下時体重一三一五グラムで出生した。原告清の分娩の状況は、骨盤位で出生の二四時間前から破水(前期破水)する異常分娩であったので、仮死状態は認められなかったものの、訴外村山病院では、蘇生器を出生時に三分使用し、その後保育器に収容し、酸素を毎分三リットル投与した。原告清の母原告原山都は、右出産の時二九才の経産婦で、それまでの妊娠歴は三回で、満期産一回、人工流産二回であった。また、頸管無力症に対するシロッカー手術を二回受けていた。

原告清は、訴外村山病院から被告東京都が設置し運営する都立豊島病院(以下この項において「被告病院」という。)への入院依頼に基づき、昭和四五年九月二四日午後〇時三〇分、訴外村山病院からポータブル保育器に収容されて搬送され、被告病院に入院した。

(二) 昭和四五年当時、被告病院には未熟児室があり、小児科がこれを管理し、小児科に勤務する医師六、七名(白井徳満医師もその一人である。)、看護婦約一七名(三交替制)が診療・看護に当っていた。

(三) 原告清のような極小未熟児に対する被告病院の当時の診療方針は、次のようなものであった。白井医師らは、主に東大小児科治療指針(第五版)を基礎として治療方針を定めていた。まず、極小未熟児は、酸素投与ばかりではなく保温・湿度維持・栄養摂取・感染防止などの観点からも保育器(被告病院では当時アトムの閉鎖式保育器を使用していた。)に収容することにしていた。保温については、一二〇〇グラムから一四〇〇グラムの児については保育器内の温度を摂氏三二度程度にするようにしていた(シルバーマンの研究でも同様な考え方がとられている。)。酸素投与の要否・適応については、在胎期間と生下時体重(児の未熟性)、呼吸状態(とくに呼吸障害があるかどうか)、全身状態(黄疸の有無、循環器の状態、発育の状況)などを考慮して決定していた。また、酸素の投与量については、呼吸障害があるときには、原則として、環境酸素濃度を三〇パーセントとするようにし、児の状態に応じて増減するようにした。酸素投与を中止するに当っては、急に切って児の状態が悪化してはならず、また、急に中止することがかえって未熟児網膜症を発症せしめることがあるとの考えから、いわゆる漸減法を採用し、三〇パーセント、二八パーセント、二五パーセントと漸減していく方針を採っていた。白井医師は、当時、酸素投与と未熟児網膜症の関係については、未熟児に高濃度の酸素を長期間投与すると未熟児網膜症が発生することがあると認識していたが、未熟児網膜症に対する治療法としての光凝固法は知らなかった。しかし、眼底検査の必要性が主張されていることは知っていて、眼科の医師らと話し合ってはいたが、眼底検査の体制は整っていなかった。

(四) 昭和四五年九月二四日に原告清が入院した際、白井医師が同人を診察したところ、原告清の体重は一二五〇グラムであり、呼吸数は一分間八〇と多呼吸の状態であり、心拍数は一分間一二〇で、体温は摂氏三四・二度で低体温であった。また、呼吸時に新生児の呼吸障害のときにみられるシーソー運動(呼吸時に腹と胸の運動が逆になる状態を指す)。及び肋間や剣状突起下部の陥没があり、シルバーマンスコア(〇点が呼吸状態が良好な状態を指し、一〇点が最悪の状態を指す)。は六点という呼吸困難の状態にあった。さらに、足背に浮腫が著明であり、四肢に浮腫がみられた。なお、白井医師が診察したときには、皮膚色は暗赤色であったが、チアノーゼは爪にみられたのみであった。しかし、携帯用保育器で搬送中には全身にチアノーゼが認められ、とくに顔面・四肢のチアノーゼは著明であった。

そこで、白井医師は、右のような原告清の状態を総合考慮して、原告清を直ちに保育器に収容し、保育器内の温度を摂氏三三度、湿度を一〇〇パーセント、環境酸素濃度を三〇パーセントとするように指示した。栄養については九月二六日の午前九時までは飢餓期間とすることにしたが、ビタミンやブドー糖の点滴を行うこととした。また、呼吸中枢を刺激するためテラプチクを、感染予防のためビクシリンを注射することとした。

この日のその後の原告清の状態は、黄疸が認められ、呼吸は不整で、チアノーゼは全身に認められた。浮腫は全身にみられ、特に左下肢に著明であった。四肢の振せんがあったが、啼泣力は良好であった。酸素は毎分一リットルから〇・九リットルを投与し、環境酸素濃度は三一パーセントから三〇パーセントであった。保育器内の温度は三三度であり、湿度は八五パーセントであった。

(五) 九月二五日、原告清には、なお顔面・四肢にチアノーゼがみられ、浮腫が四肢にあり、呼吸は不整で、シーソー運動や剣状突起及び肋間腔の陥没呼吸がみられた(シルバーマンスコアは四点であった。)。呼吸数は最低四九、最高六五であった。黄疸は、昼間イクテロメーターで測定したときは三の状態であったが、夜になると見られなくなった。体動は活発であった。酸素投与は、毎分〇・五リットルから〇・七リットル投与し、環境酸素濃度は三〇パーセントから三一パーセントであった。白井医師は、原告清の呼吸数が正常になってきていること、「呼吸困難」の状態がなくなってきたこと、浮腫の状態もやや良くなってきていることなどから、原告清の症状は好転しつつあると判断した。

(六) 九月二六日の原告清の症状は、チアノーゼについては鼻・口周囲・四肢末端にみられる程度になった。呼吸状態については、呼吸不整がみられ、陥没呼吸やシーソー運動も継続していたが、その程度は軽減され、呼吸数も四〇から五〇となり、シルバーマンスコアは、三ないし四点になった。しかし、黄疸は著明になり、イクテロメーターによる黄疸計は三・五になり、総ビリルビン値は八・六ミリグラムになった。治療内容は前日とほぼ同じであり、酸素は毎分〇・四リットルから〇・五リットルを投与し、環境酸素濃度は二八パーセントから三〇パーセントであった。白井医師は、呼吸状態がさらに改善されつつあると判断して、二八日から環境酸素濃度を二八パーセントになるように指示した。そして、この日からカテーテル(管)によるプレミルクの投与が開始された(一回二ミリリットルを一日八回投与した。)。

(七) 九月二七日の原告清の症状は、チアノーゼや呼吸状態については前日とほぼ同様であったが(シルバーマンスコアは四点であった。)、黄疸はやや軽減し、浮腫は下肢にはなお著明であったが、その他の部分の浮腫は軽減してきた。酸素は毎分〇・四リットルから〇・五リットルを投与し、環境酸素濃度は二九パーセントから三〇パーセントであった。プレミルクは、四ミリリットルが四回、六ミリリットルが四回に増量された。

(八) 九月二八日の原告清の症状は、チアノーゼや呼吸状態に関しては前日とほぼ同様であったが、黄疸については著明になり、総ビリルビン値が一二・四ミリグラムになった。体重は、一一五五グラムであった。酸素は毎分〇・四リットルから〇・五リットルを投与し、環境酸素濃度は二八パーセントから三〇パーセントであった。プレミルクは、八ミリリットルが四回、一〇ミリリットルが四回に増量した。同日の白井医師の診察時には、原告清の呼吸音は弱く、腹部の膨満がみられた。九月二九日の原告清の症状も二八日の状態とほぼ同様であって、イクテロメーターによる黄疸計は五となった。また、体動や啼泣が弱くなってきていた。酸素は毎分〇・四リットルを投与し、環境酸素濃度は二八パーセントであった。プレミルクは、一回一二ミリリットルに増量した。

(九) 九月三〇日の原告清の症状は前日に比して悪化した。チアノーゼは鼻・口周囲・四肢末端のみならず、顔面全体にみられるようになった。また、黄疸が著明であって、呼吸状態が不整であることは前日と同様であるが、シーソー運動や肋間腔の陥没呼吸の程度が強くなったためにシルバーマンスコアは五点になり、浮腫が顔面にもみられるようになり、体動や啼泣が殆どみられなくなった。さらに、嘔吐もみられるようになった。嘔吐の原因としては、感染症、酸素濃度が低いこと、黄疸などが考えられた。そして、白井医師は、右のような原告清の全身状態を考慮して、まず、環境酸素濃度を三〇パーセントとし、ついで、プレミルクの量を一〇ミリリットルに減らし、浣腸をすることにし、感染症に対する措置としてビクシリンを注射した。

(一〇) 一〇月一日になると、原告清の顔面のチアノーゼは軽減し、四肢の運動もみられるようになってきた。しかし、呼吸不整は継続し、シルバーマンスコアは四点であった。黄疸については、イクテロメーターによる黄疸計が二・五、総ビリルビン値が九・三ミリグラムという状態であった。この日、白井医師は、吐乳の原因は便秘であったかもしれないと判断しながらも、なお、感染症の有無を調べるため血液検査を指示した。体重は生下時体重を上回る一三三五グラムであった。酸素は、毎分〇・六リットルを投与し、環境酸素濃度は三〇パーセントであった。白井医師は、原告清の症状が好転しつつあると判断して、酸素を漸減していくべく、一〇月四日から環境酸素濃度を二八パーセントとするように指示した。また、プレミルクも翌日以降増量していくことにした。

(一一) 一〇月二日と三日の原告清の状態は、一〇月一日の状態とほぼ同様であったが、三日には黄疸がみられなかった。また、体動は活発になってきたが、啼泣は殆ど聞かれなかった。酸素は、毎分〇・五リットルを投与し、環境酸素濃度は三〇パーセントであった。プレミルクは、二日には一回一五ミリリットルに、三日には一七ミリリットルに増量された。

(一二) 一〇月四日の原告清の状態はチアノーゼや呼吸状態については前日と同様であるが、浮腫が軽減してきて夜にはみられなくなったし、ときどき啼泣も聞かれるようになった。酸素については、一〇月一日の指示の実施が見送られ、毎分〇・五リットルの酸素を投与し、環境酸素濃度は三〇パーセントから三二パーセントであった。プレミルクは一回二〇ミリリットルに増量した。

(一三) 一〇月五日の原告清の状態はほぼ前日と同様であった。活動は良好であり、体重は一二八〇グラムであった。酸素は、毎分〇・五リットルを投与していたところ、夜になって環境酸素濃度が一時三七パーセントにもなっていたため、午後九時から毎分〇・三リットルに減量し、環境酸素濃度を三〇パーセントにした。

(一四) 一〇月六日の原告清の状態も前日同様であり、チアノーゼが鼻・口周囲・四肢末端に残っていて、呼吸不整も残っていたが、呼吸状態もかなり改善し、活動力も良好であったため、白井医師は、酸素投与につき環境酸素濃度二八パーセントとするように指示した。この日は、毎分〇・五リットルの酸素を投与し、環境酸素濃度は二七パーセントから二八パーセントであった。

(一五) この後の環境酸素濃度は、一〇月七日が二七パーセントから二八パーセント(一時三五パーセントになったが酸素投与量を〇・一リットルにして調節された。)、一〇月八日が二五パーセントから二八パーセント、一〇月九日が二五パーセントから二六パーセントであった(この間の目安は二八パーセントであった。)。この間、チアノーゼはさらに軽減してきて、一〇月一〇日は殆どみられなかった。また、一〇月八日に体重が一三三〇グラムになっていた。そこで、一〇月一〇日、白井医師は、酸素投与の目安とする環境酸素濃度を二五パーセントとすることにし、二日後には酸素投与を中止してみることにした。そして、一〇月一二日、酸素投与を中止した。この日の原告清の体重は一四八〇グラムであり、一〇月一五日には一五二〇グラム、一〇月一九日には一六三〇グラムになっていた。

(一六) ところが、一〇月二一日、原告清の症状が悪化した。すなわち、腹部の膨満が著明になり、嘔吐もみられ、体温は降下し、活動力もなくなってきた。そこで、ミルクの投与を中止した。一〇月二二日早朝になると、全身にチアノーゼが著明になり、一二秒から一五秒の無呼吸状態が三〇分にわたって頻発し、体動は殆どみられなくなった。そこで、午前一時四五分ころ、毎分〇・五リットルの酸素を投与して環境酸素濃度を二八パーセントにした(医師の指示に基づくものかどうかは不明である。)。その時の保育器内の温度は摂氏三一度、湿度七〇パーセントであった。その結果、午前五時ころには少し四肢の活動もみられるようになった。次で、志村医師は、ミルクを中止して点滴を行うこと、保育器内の温度を摂氏三三度、湿度を七〇パーセントから八〇パーセントにすること、環境酸素濃度三〇パーセントになるように酸素を投与すること、テラプチクやビクシリン(抗生物質であるが、この後、一一月九日の午前まで投与された。)などを注射すること、胃の内容物を吸引することなどを指示した。また、中嶋医師は、レントゲン撮影をするように指示した。医師らは、敗血症や肺炎などの感染症を一番疑っていた。その後も無呼吸発作がみられ、午前九時一五分には、四肢のチアノーゼが特に著明になり、呼吸が停止した。そこで、看護婦の判断で、呼吸を回復させるため、原告清を刺激すると共に一時的に毎分五リットルの酸素を投与した。その後、全身チアノーゼは軽減し、チアノーゼは鼻と口周囲に限定されるようになったが、皮膚色は不良で四肢の冷感が認められた。その後、酸素は毎分〇・九リットルを投与し、保育器内の環境酸素濃度はほぼ三〇パーセントであった。

(一七) 一〇月二三日もチアノーゼが残っており、呼吸は不整で、無呼吸発作が一日中みられ、呼吸数は五二から六八であったが、少しずつ活動がみられるようになってきた。酸素は毎分〇・九リットルを投与し、環境酸素濃度は二九パーセントから三〇パーセントであった。また、この日にレントゲン撮影を実施した。

(一八) 一〇月二四日の状況も前日とほぼ同様であるが、無呼吸発作がみられなくなった反面、左下肢に浮腫が著明になった。酸素は、毎分〇・九リットルから一リットルを投与し、酸素濃度は二七パーセントから二八パーセントであった。この日の午後三時から再びミルクの投与を開始した。

(一九) 一〇月二五日、チアノーゼ・浮腫の状態は前日とほぼ同様であったが、午前三時ころには原告清の顔面が蒼白になって無呼吸発作が生じたので、原告清を刺激すると共に毎分三リットルの酸素を投与して呼吸の回復を図った。この日の夜には、体動や啼泣もみられるようになった。そのほかの時には、毎分一リットルから一・五リットルの酸素を投与し、環境酸素濃度は三〇パーセントから三二パーセントであった。

(二〇) 一〇月二六日になるとチアノーゼは殆どみられなくなり、体動も活発になってきた。この日の胸部所見で、はっきりはしないがラッセル音らしきものが認められた。体重は一五九〇グラムであった。酸素は毎分一リットルを投与し、環境酸素濃度は三〇パーセントであった。

(二一) 一〇月二七日、再びチアノーゼが鼻・口周囲・四肢末端にみられるようになり、皮膚色も不良であり、昼ころは体動もあまりみられなかった。酸素は毎分〇・七リットルを投与し、環境酸素濃度は二九パーセントから三〇パーセントであった。この日になされた血液検査の結果、白血球が一万七六〇〇と多く、白血球の核が幼弱化していることが判明し、原告清が肺炎を起していることが裏付けられた(感染が起ると、これに対応して白血球が増加し、その際に新しい白血球が作られ、この白血球はできたばかりだから幼弱であるということになる。)。

(二二) 一〇月二八日、原告清の状態は前日とほぼ同様であったが、体動は活発であった。この日の胸部所見で、吸気時のラッセル音(小水泡性のもの)が認められ、これでいよいよ肺炎の疑いが強くなった。そこで、ビクシリンのほかにセポラン(抗生物質)も投与することとした(セポランは一一月二日まで継続的に投与された。)。酸素投与は前日と同様であった。

(二三) 一〇月二九日には、チアノーゼはみられなくなり、体動は活発になったが、なお呼吸は不整で皮膚色は不良であった。この日、原告清の肺の状態をみるためレントゲン撮影が行われた。一〇月三〇日と三一日、一一月一日の状態も同様であった。この四日間の環境酸素濃度は、二八パーセントから二九パーセントであった。一〇月三一日にはカテーテルを取って自己哺乳を開始した。

(二四) 一一月二日の胸部所見では、なお、右上肺部に水泡性ラッセル音が聞かれた。その他の状態は前日と同様で、環境酸素濃度は二八パーセントから三〇パーセントであった。一一月三日、四日もほぼ同様の状況であった。なお、一一月三日からはセポランにかえてコリマイシン(抗生物質)を投与することにした(これは一一月一一日まで継続された。)。

(二五) 一一月五日から二三日までの症状は、ほぼ同様であり、呼吸は不整で、チアノーゼはときに鼻・口周囲にみられることもあったが殆どなく、浮腫もときに瞼にみられる程度であり、体動は活発であった。

この期間における処置・所見等の主なものは次のようなものであった。一一月五日、医師は酸素投与の目安とすべき環境酸素濃度を二八パーセントにするように指示した。一一月六日、一〇月三〇日に採取された原告清の胃液の検査が行われたが、緑膿菌とクレブッシェラ菌が発見された。一一月九日、肺のラッセル音がなくなり、ビクシリンの投与を中止した。一一月一一日にはコリマイシン投与も中止された。そして、一一月一〇日血液検査を行ったが、血色素量が六・六ミリグラムでヘマトクリットが一九パーセント(通常の未熟児の場合には三〇パーセント位である。)であり、貧血の症状が重いことを示した(なお貧血のときは赤血球が不足しており、その結果、一方で酸素の運搬能力が下がることになり、他方で還元ヘモグロビンも当然減ることになるからチアノーゼが発現し難くなる。)。そこで、白井医師は、一一月一三日、原告清に輸血をするように指示した。また、原告清にはチアノーゼは殆どなかったが、貧血の状態からするとチアノーゼがないからといって酸素が不要であるとはいい難い面もあるので、なお慎重を期することにした。一一月一六日、原告清の肺の状態をみるためレントゲン検査を実施した。そして、白井医師は、一一月二一日に環境酸素濃度を二五パーセントにするように指示し、一一月二三日に酸素投与を中止するように指示した。一一月二三日の原告清の体重は二〇〇〇グラムであった。

(二六) 原告清は、生後九八日目に当る一二月二八日に退院したが、被告病院の医師らは、それまでの間、眼底検査は行わなかった。

(二七) 原告清は未熟児網膜症に罹患し、両眼とも失明するに至った。

二  原告池田健一に関する被告社会福祉法人恩賜財団済生会の診療経過《省略》

三  原告石井久子に関する被告日本赤十字社の診療経過《省略》

四  原告高橋佳吾に関する被告美誠会井出病院及び被告東京都の各診療経過《省略》

五  原告長島弘継に関する被告名古屋市の診療経過《省略》

六  原告染谷さとみに関する被告社団法人全国社会保険協会連合会の診療経過《省略》

七  原告鈴木春江に関する被告社団法人全国社会保険協会連合会の診療経過《省略》

八  原告青木康子に関する被告社会福祉恩賜財団済生会の診療経過《省略》

九  原告猪井未央に関する被告医療法人愛生会の診療経過《省略》

一〇  原告浅井一美に関する被告日本赤十字社の診療経過《省略》

一一  原告春原健二に関する被告東京都の診療経過《省略》

一二  原告伊藤慶昭に関する被告内野閉の診療経過《省略》

一三  原告矢田佳寿代に関する被告日本赤十字社の診療経過《省略》

一四  原告友田英子に関する被告秋田県の診療経過《省略》

一五  原告須田裕子に関する被告医療法人社団米山産婦人科病院、同東京都の各診療経過《省略》

一六  原告奥山太郎に関する死亡前被告久保田梧楼、及び被告東京都の各診療経過《省略》

一七  原告大場健太郎に関する被告東京都の診療経過《省略》

一八  原告二宮裕子に関する被告国の診療経過《省略》

一九  原告宮沢健児に関する被告加藤末子の診療経過《省略》

二〇  原告福島千枝に関する被告太田五郎の診療経過《省略》

二一  原告林千里に関する被告旭中央病院組合の診療経過《省略》

二二  原告仁茂田ルリ子に関する被告国の診療経過《省略》

二三  原告植木竜夫に関する被告君津郡市中央病院組合の診療経過《省略》

二四  原告米良律子に関する被告日本赤十字社の診療経過《省略》

二五  原告戸祭智子に関する被告芦屋市の診療経過《省略》

二六  原告内田麻子に関する被告日本赤十字社の診療経過《省略》

二七  原告後藤強に関する被告日本赤十字社の診療経過《省略》

二八  原告藤城保史美に関する被告日本赤十字社の診療経過《省略》

二九  原告久連山直也に関する被告日本赤十字社の診療経過《省略》

三〇  原告寺西満裕美に関する被告医療法人仁寿会(財団)の診療経過《省略》

三一  原告塩田洋子に関する被告日本赤十字社の診療経過《省略》

三二  原告浅川勇一に関する被告国の診療経過《省略》

三三  原告三浦由紀子に関する被告国の診療経過《省略》

三四  原告田尻享司に関する被告国の診療経過《省略》

三五  原告小松宏衣に関する被告岩倉理雄及び被告東京都の各診療経過《省略》

三六  原告益繁康弘に関する被告東京都の診療経過《省略》

三七  原告熊川佳代子に関する被告浦安市市川市病院組合葛南病院の診療経過《省略》

三八  原告渡辺修二に関する被告三橋信の診療経過《省略》

三九  原告松本純子に関する被告医療法人社団深田病院の診療経過《省略》

四〇  原告皆川広行に関する被告株式会社日立製作所の診療経過《省略》

四一  原告川崎陽子に関する被告神奈川県の診療経過《省略》

四二  原告池島直子に関する被告神奈川県の診療経過《省略》

四三  原告安藤美香に関する被告医療法人慈啓会の診療経過《省略》

第九被告らの診療行為に基づく責任についての結論

第八に認定した事実及び第一ないし第七に説示したところに基づき、各原告らに対する各被告らの責任について判断する。

一  治療義務違反、治療のための転医義務違反、治療法などに関する説明義務違反の主張について

第七において認定したとおり、光凝固法・冷凍凝固法は、未熟児網膜症の治療法として、昭和四七年後半に至るまではその効果についての承認がなされていたわけではない上、昭和四八年に至っても一般の医師が治療法として臨床に応用するために確定する必要があると認められる診断基準や治療基準についても未確定の部分が残っており、これらの問題に一応の統一的な指針が得られたのは昭和四九年厚生省研究班の報告においてであった。また、右報告があった当時においても現実の治療として光凝固などの手術を実施するにはその他にも設備面、手技面などにおける多くの制約や障害があったことからすると、一部の先駆的研究者以外の臨床医が光凝固法・冷凍凝固法を通常の治療として実施することは困難な状況にあったとみられる。したがって、少くとも、本件の被告担当医師らの各診療当時においては、仮に、担当医師が実際に行うべき未熟児網膜症の治療法として光凝固法などを念頭に置くことなく、診療に当り、これを実施しなかったとしても治療義務違反があるとして法的責任を問うことはできないというべきである。この点に関する原告らの主張は理由がない。

なお、原告らは被告担当医師らが眼底検査を実施しなかったことを義務違反として主張する。しかし、眼底検査は、光凝固法などの治療の前提となる行為であるから、本件当時、未熟児網膜症の治療法として、光凝固法などを実施しなかったことをもって法的な治療義務違反があるといえない以上、たとえ、眼底検査を実施しなかったとしても義務違反を認めることはできない。この点に関する原告らの主張は理由がない。

また、転医義務、説明義務についても、担当医師が、ある治療法を受けさせるための転医措置、治療法の存在などについての説明を行わなかったことについて法的な責任を問い得るのは、当該治療法が臨床医学上治療法として確立されていることが前提となる。しかし、少くとも本件各診療当時に、光凝固法が未だその段階にあったと認められないことは前示のとおりであるから、この点に関する原告らの主張は理由がない。

二  全身管理義務違反の主張について

前期第六において認定したとおり、原告らの主張する未熟児の全身管理実施の適否も未熟児網膜症の発症との因果関係を認めることができないからこの点に関する原告らの主張は理由がない。

三  発症責任(酸素管理義務違反)などの主張について

(以下の説示において、略語の用い方は第八における各原告の診療経過の認定に用いたものと同様であるので、これらを引用する。なお、以下においても未熟児網膜症を問題とする場合には瘢痕性のそれを指し、また、以下で「過失」の有無について言及している部分は不法行為責任に限らず債務不履行責任についても判断するところであるが、便宜上そのように表示する。)

1  原告原山らに対する被告東京都の責任について

被告病院(担当医は小児科医)における昭和四五年当時の診療方針は、前記第八の一記載のとおりであり、前記第五の二の分類でいえば、ホに近い見解ということができ、なお、漸減法を採用していた。原告清は、生下時体重は一三一五グラム、在胎週数は二八週と二日で未熟性が強く、九月二四日に被告病院に転院してきた際の症状は多呼吸、低体温、シーソー様呼吸、陥没呼吸、爪のチアノーゼ(まもなく全身にみられるようになった。)などの症状がみられるなど重篤な状態であった。そのため、被告病院の担当医師は器内酸素濃度を三〇パーセントとする酸素投与を開始し、一〇月一〇日に至るまでこの指示は維持し、その後は、チアノーゼ、呼吸状態などを観察し、これに応じて器内酸素濃度を調節するため酸素投与量を増減し、さらには、投与の中止、再開を行い、一一月二三日に最終的に投与を中止した。以上の酸素投与は、前記の被告病院における診療方針に合致していることは明らかであり、また、前記の診療方針も本件当時の医療水準の内容となっている医学的見解に根拠を有するものと認められる。なお、一〇月二一日以降の酸素投与は、感染症が疑われる症状の悪化(さらに貧血の症状も加わっていた。)が認められたので再開されたものであるが、右の症状の悪化が突然のものであっただけに医師が慎重を期して行ったものであり、臨床医の判断として、逸脱があったものと認めることはできない。

したがって、被告病院の担当医師の酸素投与につき過失を認めることはできない。

2  原告池田らに対する被告社会福祉法人恩賜財団済生会の責任について

被告病院(担当医は産婦人科医)における昭和四七年当時の診療方針は前記第八の二記載のとおりであり、前記第五の二の分類でいえば、ロの見解に近いが、酸素を過剰投与しないように留意しているものの投与期間と器内酸素濃度については必ずしも明確な準備を設けていなかった。酸素の投与量は最初は毎分五リットルであることが多く、漸減法が採用されていた。原告健一は、生下時体重一二九〇グラム、在胎週数二九週で未熟性が強く、出生時には仮死状態がみられ、チアノーゼもみられたが、三月二六日に被告病院に転医した以降も生下時体重を回復した四月一四日までの間に、チアノーゼ、呼吸停止・多呼吸等の呼吸異常、胸部雑音などの症状を示していた。そのため、被告病院においては転医すると直に毎分五リットルの酸素投与を開始し、以後、三月三一日午後二時ころまでは毎分五リットル、四月一日午前一時ころまでは毎分四リットル、四月二日午前〇時ころまでは毎分三リットル、四月八日午前〇時ころまでは毎分二リットルと減量しつつ投与し(この間の器内酸素濃度は、三〇パーセント台を推移している)、その後四月二〇日午後四時ころまでは毎分一リットルを投与した。右のような酸素投与は前記の被告病院における診療方針には合致している。ところで、前記の診療方針は昭和四七年当時のものであることを考えると、被告病院における担当医が産婦人科医であることを考慮したとしても、酸素投与の期間の限定の明確性などに欠ける嫌いがあるといわざるを得ない点があるが、本件当時においてなお一般の産婦人科臨床医の間で指針とされることが少くなかったと思われるロやホの見解によったとしても、生下時体重を回復した四月一四日ころまでの酸素投与は許容され得るものと考えられるし、同日以降四月二〇日までの酸素投与については、その必要性は必ずしも明確ではないが、投与量が少く環境酸素濃度をそれ程上昇させるものではなかったと推認されることからすると、右の酸素投与が当時の医療水準を逸脱したものであると認めることはできない。

この点に関する右原告らの主張は理由がない。

なお、治療義務違反などについては、前示のとおりであるが、被告病院の治療態勢との関係において若干付言する。

被告病院は昭和四一年から症例を選んで眼底検査を実施しており、眼底検査において発症が認められると国立小児病院の植村医師のところに転医させており、植村医師は、昭和四五年ころからは重症化する徴候のみられた児についてはさらに東京厚生年金病院に転医させて光凝固法による治療を受けさせるという態勢を執っていたことが認められる。しかし、右はいわば二重の転医態勢であるため、必ずしも適期に治療を受けさせることができる状況にはなく、本件当時においては光凝固法なども治療法として確立した段階にはなかったから、右の転医態勢をつくった点は極めて先進的な試みであったと評価できるものの、被告病院においても東京厚生年金病院においても試行錯誤の段階にあったものと評価される。そうすると、原告池田健一について、仮に退院時に通常はなされている眼底検査受診の説明がなされていなかったとしても、この点について責任を問うことはできないというべきである。

3  原告石井らに対する被告日本赤十字社の責任について

被告病院(担当医は小児科医)の昭和四〇年当時における診療方針は前記第八の三記載のとおりであり、前記第五の二の分類でいえば、ホの見解に近いもので、発育状態(体重)をも考慮していたものである。原告久子についてみれば、生下時体重は一四〇〇グラム、在胎週数は三〇週であり未熟性が強かった。被告病院においては一〇月九日から二五日まで毎分三リットルの酸素を投与したが(漸減法を採用していたというのであるが、本件について実施したのかは不明である。)、この間、チアノーゼ、多呼吸などの呼吸異常などの症状がみられ、生下時体重を回復したのは一〇月二五日であった。右の診療経過に照らすと、右の酸素投与は右の診療方針に合致しており、右の診療方針も体重を未熟性の指標として重点を置きすぎているとの批判もあり得ようが、医師の裁量を逸脱する不適切なものと認めることはできない。

したがって、被告病院について過失を認めることはできない。

4  原告高橋らに対する被告医療法人美誠会井出病院及び被告東京都の責任について

(被告医療法人美誠会井出病院の責任について)

被告病院(担当医は産婦人科医で未熟児養育の経験はあまりなかった。)における診療方針は前記第八の四記載のとおりであり、前記第五の二の分類でいえばイの見解に属するものと認められる。原告佳吾についてみれば、生下時体重一四二〇グラム、在胎週数二七週であって未熟性が強かった。そのため、被告病院では毎分三リットルの酸素投与を開始した。酸素の投与量は五月三日の正午まで毎分三リットル、その後毎分一・五リットルであり、五月四日の正午に一旦投与を中止したが、六月九日午後一時から午後七時まで毎分三リットルを投与した。五月四日までの間の症状としては、四月三〇日に軽度な仮死状態があり、一時的な末梢性のチアノーゼがみられ、不規則呼吸がみられた。六月九日には、急激な体温の上昇から肺炎などを疑ったため酸素投与したものであった。ところで、被告病院における前記の診療方針自体は被告病院の担当医が産婦人科医であることなどを考慮しても、昭和四六年当時における医療水準に照らすと、後れている面があることは否めないが、前記の診療方針のもとに現実になされた右の診療行為は当時の医療水準に達していたと評価すべきロの見解などからすると妥当なものである。

したがって、被告病院の酸素投与につき過失を認めることはできない。

また、被告病院における情報提供に誤りがあったとする原告らの主張について判断する。被告病院において、被告豊島病院に転院に際して作成した連絡票に症状、治療の内容などについて誤った記載があったことは第八の四記載のとおりであるが、本件当時未熟児網膜症の治療法としての光凝固法などは未だ確立したとはいえないこと、右記載の誤りが被告豊島病院の担当医の診断と治療に実質的な影響を与えるものであるとは認めることはできないから、少くとも原告佳吾の失明との間に因果関係は認められない。

(被告東京都の責任について)

治療義務違反などについては前示のとおりである。

なお、被告病院においては第八の四に認定したとおり、鈴木医師が眼底検査を実施し、必要に応じて国立小児病院へ転医させ光凝固法を受けさせるという本件当時においては先進的な態勢を執っていたが、これはいわば試行的な態勢としてなされていたものにすぎないと認められる。右原告らは担当医の眼底検査に基づく判断に誤りがあり、もっと早期に転医せしめるべきであったとするが、右に説示したところからして、被告病院の措置に過失を認めることはできない。

5  原告長島らに対する被告名古屋市の責任について

被告病院(担当は小児科医)における昭和四〇年当時の診療方針は前記第八の五記載のとおりであり、第五の二の分類でいえばホの見解に近いものと認められ、漸減法を採用していた。原告弘継についてみれば、生下時体重一四〇〇グラム、在胎週数二九週と四日と未熟性が強く、被告病院では器内酸素濃度が三〇ないし四〇パーセントとなるように毎分二リットルの酸素投与を直ちに開始し、七月二日以降同月二一日まで酸素投与を継続した。この間の酸素の流量は少くとも七月七日までは毎分二リットルでありこの間の器内酸素濃度は三三パーセント程度、それ以降の投与量は正確には不明であるが、七月一六日以降は減量され、器内酸素濃度が四〇パーセントを超えたことはなかったものと推認される。投与期間中には、多呼吸、陥没呼吸などの呼吸障害、低体温、黄疸などがみられ、生下時体重を回復したのは八月二日であった。右のとおり、被告病院における酸素投与は前記の診療方針に沿って行われている。また、前記の診療方針についてみれば、昭和四〇年当時の医療水準から逸脱するものとは認められない(生下時体重の回復が遅れ、かつ、前記の症状を示している患児に対し、器内酸素濃度が三五パーセント程度に保った酸素のルーチン投与は否定されていなかったと認められる。)。

したがって、被告病院の酸素投与について過失を認めることはできない。

6  原告染谷らに対する被告社団法人全国社会保険協会連合会の責任について

原告さとみが未熟児網膜症であったと認めるに足る充分な証拠がないことは前記第八の六記載のとおりである。

したがって、その余の点につき論ずるまでもなく右被告の責任を認めることはできない。

7  原告鈴木らに対する被告社団法人全国社会保険協会連合会の責任について

被告病院における昭和四〇年当時における診療方針は前記第八の七記載のとおりであり(担当医は同一であり、原告染谷さとみの項において認定したものと同様である。)、第五の二の分類でいえばロに属するものと認められる。原告春江についてみれば、生下時体重は一二一〇グラム、在胎週数は三〇週と未熟性が強く、被告病院では毎分〇・五リットルの酸素投与を開始した。酸素の投与量は二月九日から一六日午前一一時二〇分までは毎分〇・五リットル(一時的にマスクを利用して一〇〇パーセント酸素が投与された。)、三月二日まで毎分〇・一リットル(経鼻流送による投与)、同月三日から一四日までは毎分〇・三リットル、同月一五日から三月二五日まで毎分〇・五リットル(三月二四日には一時投与を中止)、三月二六日午後二時まで毎分〇・三リットル(投与を一時中止)、同日午後三時から三月三〇日午後一時まで毎分〇・三リットル(投与を一時中止)、三月三一日午後四時五五分から四月二日午前七時四〇分までは毎分〇・五リットル、同日午後三時までは毎分〇・三リットルと、症状をみながら投与量を調節していた。この間、チアノーゼ、多呼吸、呼吸停止などの呼吸障害、低体温などの症状がみられた。右のとおり、右の酸素投与は前記の診療方針に合致し、かつ、本件当時の医療水準に達していたいずれの見解によっても合理的なものと評価されるべきものである。

したがって被告病院における酸素投与について過失を認めることはできない。

8  原告青木らに対する被告社会福祉法人恩賜財団済生会の責任について

被告病院(担当医は産婦人科医)における昭和四一年当時の診療方針は前記第八の八記載のとおりであり、前記第五の二の分類でいえば、ロの見解に近いが、酸素の過剰投与には留意しているものの、投与期間、器内酸素濃度について必ずしも明確な基準がない。なお、漸減法が採用され、酸素の投与量は最初は毎分五リットルであることが多かったが、器内酸素濃度は測定されていないが、原告池田の場合(被告病院の昭和四七年の患者)と同一の機種の保育器を用いていたことからすれば器内酸素濃度が四〇パーセントを超えることはなかったものと推認される。原告康子についてみれば、生下時体重は一三〇〇グラム、在胎週数は三〇週と六日であって未熟性が強く、出生直後にチアノーゼがみられ、仮死Ⅰ度の状態で出生した。そのため、一時蘇生器を使用して酸素投与をし、引き続いて毎分五リットルの酸素投与を開始した。その後の酸素の投与量は、一一月二六日は毎分五リットルの二時間、その後は毎分三リットル、一一月二七日は毎分二リットル、二八日から三〇日午前四時ころまでは毎分一リットル、一二月二日午後一時三〇分までは毎分三リットル(しばしば蘇生器を使用している。)、一二月一二日までは毎分二リットル、一二月一三日から昭和四二年一月四日までは毎分〇・五リットル以下であった(未熟児網膜症発症後の酸素投与は除く)。この間、チアノーゼ、呼吸停止、浮腫、黄疸などの症状がみられ、生下時体重を回復したのは一二月一三日であった。

ところで、前記の診療方針はややあいまいな点があるが、昭和四一年当時の産婦人科医の間ではイのような見解が未だ一般的であったと推認され、それからすると、被告病院の担当医は明確な基準はもたないが、児の症状を観察しその変化に応じて酸素投与の量を調節する方針を執っており、本件当時の医療水準を逸脱するものとは認められない。そして、被告病院における本件診療は、前記方針に沿って行われており、原告康子の症状に照らしてみると、被告病院の酸素投与は、適切さを欠くものということはできない。

したがって、被告病院の酸素投与について過失を認めることはできない。

9  原告猪井らに対する被告医療法人愛生会の責任について

昭和四七年当時における被告病院(担当した宮本みつ医師は小児科医)の診療方針は前記第八の九記載のとおりであり、第五の二の分類でいえばロの見解に属するものと考えられるが、投与期間の限定は必ずしも明確ではない。なお、鼻腔カテーテルを利用して酸素投与をしていた(毎分〇・一五リットルで器内酸素濃度は三〇パーセント以下、毎分〇・二リットルで四〇パーセント以下であると判断していた。)。原告未央についてみれば、生下時体重一一五〇グラム、在胎週数二九週であって未熟性が強く、被告病院に入院した際の症状は全身チアノーゼや下顎呼吸がみられるなど重篤な状態であったことから、直ちに鼻腔カテーテルを利用して毎分〇・一五リットルの酸素投与を開始した。酸素の投与量は、七月二六日午後九時三〇分ころから七月二八日午前九時ころまでは毎分〇・一五リットル、七月三一日午前九時ころまでは毎分〇・一リットル、八月六日午前九時ころまでは毎分〇・一五リットル、九月二一日までは毎分〇・一リットルであった。この間、九月六日ころまで日によってチアノーゼがみられ、八月三一日ころまで数回にわたる無呼吸発作があり、低体温が続くなどの症状がみられ、生下時体重を回復したのは九月九日であった。右の診療経過に照らすと、右の酸素投与は前記の診療方針に沿ったものと認められる。しかし、前記の診療方針は昭和四七年当時において医療水準に達していた医学的見解とは必ずしも符合するものとはいえない面がある。例えば、同医師が参考にしていた文献である小児科治療指針(第五の一の58の文献)がルーチン投与を認めているといっても生後の短い期間だけで(前記第四の二のロ参照)、長くても三週間程度までとされていることからすると、被告病院における酸素投与は延べ五八日に及び、投与期間が長すぎ、また、鼻腔カテーテルによる方法も適切さを欠くのではないかという疑問がある。しかしながら、本件当時は経時的に血中酸素濃度を測定しつつ酸素投与量を調節する方法が未だ一般的に実施されていない時期であり、当時の投与基準は、要は未熟児の症状に応じて酸素の投与の必要性を見極めていくというもので、投与量、環境酸素濃度、投与期間などの限定は一義的に明確なものではなく、いわば一つの目安として提示されたものであるといえる。被告病院における酸素投与は、昭和四七年当時におけるものとしては、投与期間、投与方法などの点で疑問とすべき点がないわけではないが、担当医師らは、当初重篤な症状を示していた極小未熟児である原告未央の症状変化を注意深く観察し、自らの経験に基づく指針に従った判断により、投与量を調節しつつ酸素投与を継続していたことからすると、本件当時に医学水準に達していた医学的見解と必ずしも符合しないとしても、臨床医として、重篤な症状を呈し、全身症状の安定しない未熟児を救命するために行った診療における判断は医療水準に照らし著しく不合理な選択であると認められない限り、充分に尊重されるべきである。このようなことからすれば、被告病院における酸素投与が医師としての合理的判断を逸脱し、法的な責任を問われるべきものに当たると認めることはできない。

したがって、被告病院の酸素投与について過失を認めることはできない。

10  原告浅井らに対する被告日本赤十字社の責任について

被告病院(担当医は小児科医)における昭和四四年当時における診療方針は第八の一〇記載のとおりであり、第五の二の分類でいえばホの見解に近いもので、漸減法を採用していた。原告浅井についてみれば、生下時体重一〇〇〇グラム、在胎週数二七週であり、未熟性が極めて強く、転院時には多呼吸、シーソー様呼吸、陥没呼吸、チアノーゼ、浮腫などの症状がみられるなどRDSの存在が疑われ、被告病院では酸素投与を開始した。酸素の投与量は二月四日から三月五日途中までは毎分三リットル(器内酸素濃度は四〇ないし五五パーセントであった。五五パーセントとなったのは一時的であった。)、三月七日途中までは毎分一・五リットル(器内酸素濃度は三九ないし四〇パーセントであった。)、三月三一日までは毎分一リットル(器内酸素濃度は三〇パーセント程度であった。)であった。この間に、チアノーゼ、陥没呼吸、多呼吸などの呼吸障害、浮腫、全身の硬直などの症状がみられ、生下時体重(一〇〇〇グラム)を回復したのは三月一〇日であった。そして、多呼吸の存在や発育の状況と器内酸素濃度が三〇パーセント程度であったことからすると、右の酸素投与は前記の診療方針に合致し、かつ、この診療方針は昭和四四年当時において医療水準にあったホの見解に準拠しているものと認められる。

したがって、被告病院における酸素投与について過失を認めることはできない。

11  原告春原らに対する被告東京都の責任について

被告病院(担当医は小児科医)における昭和四二年当時における診療方針は前記第八の一一記載のとおりであり、第五の二の分類でいえばイの見解をも採用したもので(児の症状を基本とはする。)、漸減法を採用し、ルーチン投与の場合の投与量を毎分一リットル(換算表による器内酸素濃度は三〇ないし三五パーセント)としていた。なお、黄疸があるときに酸素投与の必要があると考えていた。原告健二についてみれば、生下時体重一四四〇グラム、在胎週数二九週であり未熟性が強く、入院時に全身にチアノーゼがみられ、呼吸は不規則で呻声様啼泣も聞かれた。そこで、毎分二リットルの酸素投与が開始された。酸素の投与量は一月一二日から二〇日の途中までは毎分二リットル、三一日の途中までは毎分一リットル(器内酸素濃度はほぼ三六パーセントで、一時二八パーセント)、二月一〇日午後一時四五分ころまでは毎分〇・五リットル(二月五日の器内酸素濃度は二七パーセント)、二月一七日午後四時一五分ころまでは毎分一リットル、二月二一日までは毎分〇・五リットルであった。この間に、チアノーゼ、不規則呼吸が継続し(右の投与期間中継続していた。)、多呼吸、無呼吸状態などの呼吸障害、黄疸、けいれんなどの症状がみられた。そして、右の酸素投与はこのような症状などに応じて調節されており、被告病院における酸素投与は前記の診療方針に合致していることは勿論、昭和四二年当時に医療水準を形成していたと認められるいずれの医学的見解によっても許容される酸素投与であったと認められる。

したがって、被告病院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

12  原告伊藤らに対する被告内野の責任について

被告病院(個人医院で担当医は産婦人科医)における昭和四二年当時における診療方針は前記第八の一二記載のとおりであり、第五の二の分類でいえばイないしロの見解に近いものと考えられるが、ルーチン投与のときは流量を毎分一リットル(換算表によると器内酸素濃度は二四ないし二五パーセント)とするという以外は必ずしも明確ではない。原告慶昭についてみれば、生下時体重一六〇〇グラム、在胎週数三〇週と四日と未熟性の強い児であり、被告病院では呼吸障害のおそれがあると判断し、七月二八日から八月二日まで毎分一リットルの酸素投与を継続した。右の酸素投与は前記の診療方針に沿うものと認められ、また、この間の原告慶昭の症状については、一時黄疸がみられたほかは問題とすべき点はなかったが、一週間程度の低濃度の予防的酸素投与を実施することは当時の医療水準を形成していた一つの見解であるロの見解によっても許容されるところであると認められる。

したがって、被告病院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

13  原告矢田らに対する被告日本赤十字社の責任について

被告病院(担当医の一人である中嶋医師は産婦人科医であるが新生児保育の専門家である。)における昭和四四年当時の診療方針は前記第八の一三記載のとおりであり、酸素投与の適応については、全身状態の変化を観察して投与し、特に数値を明示した基準はもたなかったが、第五の二の分類でいえば、イ、ロ、ホ、トの各見解と通ずるものがある。原告佳寿代についてみれば、生下時体重は一二九八グラム、在胎週数は二八週で未熟性が強く、被告病院では酸素投与を開始した。酸素の投与期間は一月一三日から二月一七日までであり、この間、一月一四日から二二日までと、一月二三日ないし二月一〇日まではフェイステントが使用された。この間、一月一四日から二七日にかけてたびたびかなり強度のチアノーゼが、一月一三日より二月一二日にかけて不規則呼吸、無呼吸状態(中嶋医師は二〇秒以上継続するものだけを無呼吸と呼んでいた。)、陥没呼吸などの呼吸障害がほぼ継続的にみられ、その他にも呻声、黄疸、低体温などの症状があった。以上によれば、原告佳寿代は、かなり重篤な呼吸障害の症状を示しており、被告病院の担当医師らは、右症状を観察し、酸素の投与量、投与方法を調節していたものと認められる。確かに、器内酸素濃度はやや高目であり、呼吸状態が安定してきた二月一三日以降においても器内酸素濃度が四〇パーセントを超えていた点は被告病院の診療方針に照らしても高すぎる面があるが、前記診療経過からみると被告病院では原告佳寿代の症状は重篤であったができるだけ器内酸素濃度を低くしようとして投与量を抑制するように努めていたものであり、二月一二日以降も急に酸素投与を中止することにはそれまでの症状から躊躇が感じられ、酸素投与を継続した方が適当であると判断したものと推認され、これをもって直ちに酸素投与において適切さを欠くと認めることはできない。

したがって、被告病院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

14  原告友田らに対する被告秋田県の責任について

被告病院(地域の中核的病院で七月八日からの担当医は小児科医)における昭和四三年当時における診療方針は前記第八の一四記載のとおりであり、第五の二の分類でいえばロの見解に準拠したものであった(東大小児科治療指針を参考としていた。)。原告英子についてみれば、生下時体重が一一七〇グラム、在胎週数が二九週と未熟性が強く、チアノーゼがみられたため、被告病院では酸素投与を開始した。酸素投与の期間は七月七日から七月二二日正午までであり、医師の指示は七月八日から七月一〇日午後八時までは器内酸素濃度を四〇パーセントとするようにとの指示であり(実際の器内酸素濃度は三五ないし四二パーセントであった。)、七月一〇日午後八時からは器内酸素濃度を三〇パーセント(実際の器内酸素濃度は二三ないし三〇パーセントであった。)とするようにとの指示であった。この間、七月八日から七月一一日までの症状は重篤で強度の無呼吸状態やチアノーゼがみられたほか、七月一二日以降は症状は落ち着いてきたものの七月二一日ころまで、呼吸の不規則、低体温などの症状が継続していた。以上のように、酸素投与期間中原告英子には呼吸障害の症状がみられ担当医師は、原告英子の症状に応じて環境酸素濃度を調節しており、かつ、症状が改善してきた後の酸素投与も昭和四三年当時の有力な見解である東大小児科治療指針が示すルーチン投与の場合の期間を参考にして合計で二週間程度に止められており、酸素濃度も高くなく、前記の診療方針に合致しており、適切さを欠く点を認めることはできない。

したがって、被告病院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

15  原告須田に対する被告医療法人米山産婦人科病院、被告東京都の責任について

(被告医療法人米山産婦人科病院について)

被告米山病院(産婦人科医が担当医)における昭和四七年当時における診療方針は前記第八の一五記載のとおりであり、極小未熟児については前記第五の二の分類のイの見解に属する考え方を持っており、ルーチン投与の場合の投与量については毎分二リットル(器内酸素濃度は三〇パーセント程度)としていた。原告裕子についてみれば、出生直後の症状に異常はなかったが、生下時体重は九五〇グラム、在胎週数は二八週と四日と未熟性が極めて強く、被告病院では毎分二リットルの酸素投与を開始した。酸素の投与量は四月一一日から四月一五日午前一〇時ころまでは毎分二リットル、同日午後二時までは毎分一・五リットル(同時刻酸素投与を一旦中止)、同日午後四時から四月一七日の転院時までは毎分一・五リットルであった。器内酸素濃度は毎分二リットルのときに三〇パーセント程度で、毎分一・五リットルのときに二八パーセント程度であった。この間の症状は、四月一二日から一三日にかけてチアノーゼがみられ、四月一五日の酸素投与中止直後や四月一六日にも全身チアノーゼがみられ、また、呼吸は不規則であった。右の経過に照らすと、被告病院の酸素投与は前記の診療方針に合致しているばかりでなく、期間が一週間程度であって症状に応じて投与量や酸素投与の中止が検討されており、ロやホの本件当時において産婦人科の開業医の間において医療水準となっていたと認め得る見解によっても支持されるものであると認められる。

したがって、被告病院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

(被告東京都について)

被告乳児院(担当医は小児科医)における昭和四七年当時における診療方針は前記第八の一五記載のとおりであり、前記第五の二の分類でいえばロ、ホ、トの各見解を総合したようなもので、漸減法を採用していた。原告裕子についてみれば、前記のとおり未熟性の強い児であって(被告乳児院ではそれまでに生下時体重一〇〇〇グラム以下の児で生存した例はなかった。)、転院時の状態は体重が七三〇グラムであり、チアノーゼ、黄疸、浮腫、低体温などの症状がみられ、呼吸は不規則で陥没呼吸もみられ、被告病院では器内酸素濃度三〇パーセントをめどとする酸素投与を開始した。酸素投与に関する医師の指示は四月一七日から六月九日までは三〇パーセントをめどとするというものであり(実際の器内酸素濃度は二五ないし三七パーセントであり、三七パーセントとなったのは一日だけであり殆ど三一パーセント以下であった。)、六月九日から六月一六日までは二五パーセントをめどとするというものであった。この間の症状は、チアノーゼ、陥没呼吸、多呼吸ないし不規則呼吸は右の期間中ほぼ継続していたが、六月九日になると多呼吸は一回しか観察されず呼吸数は安定し、一六日にはそのような状態がみられなくなった。無呼吸状態は四月一七日ないし二〇日、二三日、二八日にみられた。体重については生下時体重を回復したのは五月六日で、一五〇〇グラムを超えたのは六月六日であった。右の経過に照らすと、被告病院における酸素投与は児の状態に応じてなされたものであり、かつ、器内酸素濃度がほぼ三〇パーセント程度以下に調節されており、前記の診療方針に合致し、かつ、前記の診療方針は本件当時において医療水準を形成していたと認められる前記のロ、ホ、トの各見解に準拠したものと認められる。

したがって、被告乳児院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

16  原告奥山らに対する被告久保田ら、被告東京都の責任について

原告太郎が未熟児網膜症に罹患して失明したと認めるに足りる充分な証拠がないことは前記第八の一六記載のとおりである。

したがって、その余の点について論ずるまでもなく右被告らに責任を認めることはできない。

17  原告大場らに対する被告東京都の責任について

被告乳児院(担当医は小児科医)における昭和三九年当時における診療方針は前記第八の一七記載のとおりであり、第五の二の分類でいえばロの見解に属するもので、漸減法を採用していた。器内酸素濃度については通常は四〇パーセント以下とするようにしていたが、器内酸素濃度は測定してはおらず、保育器に添付されていた換算表によって器内酸素濃度を推定し、流量によって指示していた(毎分二リットルで三五ないし四〇パーセントであり、毎分一リットルで三〇ないし三五パーセント、毎分〇・五リットルで二五ないし三〇パーセントであった。)。原告健太郎についてみれば、生下時体重は一五六〇グラム、在胎週数は三〇週で未熟性が強く、被告病院に転院してきたときの症状は全身チアノーゼがみられ、呼吸は不規則で多呼吸もみられた。そこで、被告病院では毎分三リットルの酸素投与を開始した。以後の酸素の投与量は、一〇月三〇日午後四時四〇分から午後五時までが毎分三リットル、一一月一四日午前一〇時までは毎分二リットル、一一月五日午前一〇時までは毎分一・五リットル、一一月七日午前一一時までは毎分一リットル、一一月一七日午前一〇時までは毎分二リットル、一一月二一日午後三時までは毎分一リットル、一一月二二日午前一〇時までは毎分〇・五リットルであった。この間、チアノーゼが継続し、呼吸は不規則であった。多呼吸、無呼吸状態陥没呼吸などの症状がしばしばみられ、特に、一一月七日ないし一四日にみられた無呼吸などの症状は重篤であった。なお、一一月二〇日ころ落陽現象がみられるようになった。右の経過に照らすと、被告病院における酸素投与は、かなり重篤な症状を示していた原告健太郎の症状に応じてきめ細かくなされたものであり、前記の診療方針に合致しているばかりでなく、昭和三九年当時における他の医療水準を形成していた医学的見解によっても支持されるものであると認められる。

したがって、被告病院における酸素投与について過失を認めることはできない。

18  原告二宮らに対する被告国の責任について

被告病院(担当医は産婦人科医)における昭和四〇年当時における診療方針は前記第八の一八記載のとおりであり、第五の二の分類でいえば、ロに属する見解であった。ルーチン投与の場合の期間は一応三週間をめどとし、器内酸素濃度は三〇パーセント程度に抑えるようにしており、保育器に添付されていた換算表により毎分一・五リットルで三〇パーセント以下、毎分二リットルで三五パーセント以下と推定していた。原告裕子についてみれば、出生時に特に異常な症状はなかったが、生下時体重一〇〇〇グラム、在胎週数二八週と二日で未熟性が極めて強く、被告病院では毎分一・五リットルの酸素投与を開始した。酸素の投与量は、三月二二日から四月二一日の正午までは毎分一・五リットルであり、同日で酸素投与を一旦中止した。この間、チアノーゼがみられたのは四月一一日だけであったが、低体温が四月一一日ころまで継続し、多呼吸の状態もしばしばみられた。また、生下時体重を回復したのは四月一一日であった。前記の診療方針との関係では四月一一日が三週間目に当ったが、同日にチアノーゼがみられたためしばらく様子をみたものである。その後、四月二五日に全身チアノーゼがみられ、四月二五日午後九時から四月二六日正午まで毎分二リットルの酸素投与がなされ、五月二日にもチアノーゼがみられ、五月二日の午前九時から五月三日の正午まで毎分二リットルの酸素投与がなされ、五月七日にも全身チアノーゼがみられ、五月七日から一一日までは毎分二リットル、同日から一四日まで毎分一リットルの酸素投与がなされた。右の経過に照らすと、被告病院における原告裕子に対する酸素投与期間はかなり長いが、途中で一旦投与を中止した後にもチアノーゼがみられるなど原告裕子の呼吸の症状が不安定であったことによるものである。もっとも、四月二一日までの酸素投与は前記の診療方針の期間からみると長いが、それは四月一一日の症状に応じて変更したものであり、器内酸素濃度が三〇パーセント程度であったことを考慮すると、被告病院における慎重な酸素投与は医師の合理的な裁量の範囲内のものと認められるし、前記の診療方針自体も本件当時における医療水準を形成していた一つの有力な医学的見解に準拠するものと認められる。

したがって、被告病院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

19  原告宮沢に対する被告加藤の責任について

被告病院(産婦人科の開業医)における昭和四七年当時における診療方針は前記第八の一九記載のとおりであり、第五の二の分類でいえば、イの見解に近いものと考えられる。但し、症状が悪いときはより高濃度の酸素投与を認め、また、酸素投与の方法については鼻腔カテーテルを利用していた。投与量については、ルーチン投与のときは毎分〇・〇五ないし〇・一リットルを投与し、おむつ交換とか栄養補給のときには一時的により高濃度の酸素投与をしていた(なお、被告加藤は毎分〇・〇五リットルの場合には器内酸素濃度は三〇パーセントに達しない程度であるとの認識でいた。)。これは酸素ボンベの備蓄があまりなく酸素を効率よく使うためであった。

原告健児についてみれば、生下時体重は一三〇〇グラム、在胎週数が三〇週で未熟性が強く、被告病院では酸素投与を開始した。七月一八日から二五日までは鼻腔カテーテルを使用してルーチンには毎分〇・一リットル程度の酸素(正確な投与量は必ずしも明らかではないが、ボンベの使用量から毎分〇・一リットル程度の投与がなされていたと推認される。)を投与し七月二五日から八月二二日までは保育器内に流す通常の方法で毎分〇・一リットルをめどとして投与し(なお、八月二一日には一時酸素投与を中止したが、発熱のため再開した。)、八月二三日からは昼間は時々酸素投与を中止するなどし、八月二七日に酸素投与を中止した。この間、チアノーゼは、七月一八日、一九日にみられたほか、呼吸が弱く啼泣が充分にないという状態が長く続き、啼泣が聞かれるようになったのは八月一七日ころからであった。

右の酸素投与は被告加藤の前記の診療方針にはおおむね合致している。しかしながら、前記の診療方針(期間の限定のないルーチン投与を認め、かつ、鼻腔カテーテルを使用するため酸素濃度が不明である。)、鼻腔カテーテルを使用した酸素投与方法などは、昭和四七年当時におけるものとしては、酸素投与量の制限という点からみて、いささか水準が低いという感は否めない(例えば、本件における他の被告らの担当医(多くは大都市部の総合病院の医師)に比してかなり遅れている面があるといわざるを得ない。)。しかし、昭和四七年当時の大月市には他に未熟児の保育にあたる医療機関はなく(ちなみに、大月市で一番大きな病院である市立病院にも、未熟児室がなかった。)、また、被告加藤は産婦人科医として約二〇年の経験を有する開業医であるが、極小未熟児保育の経験が少かった(かつ、いずれも生存させ得なかった)ことなどの被告加藤の置かれた医療環境やその産婦人科医としての経験を考慮すると、被告病院における酸素投与の方針が大都市部の病院におけるものからみると遅れている面があり、極小未熟児である原告健児を生存させるため、酸素流量は多くはないにせよ、ルーチン投与の打ち切りに消極的であり、この限りで過剰と批判し得る面があったとしても、被告病院の医師としては、限られた診療環境の中で、医師自身の最善を尽くしており、これをもって治療行為が適切さを欠くとして過失を認めることはできない。また、本件当時前記認定のとおり大月市においては、転医の条件も整っていなかったというのであるから、この点でも責任を問うことはできない。

したがって、被告病院における酸素投与に過失を認めることはできない。

20  原告福島らに対する被告太田の責任

被告病院(産婦人科の開業医)における昭和四五年当時における診療方針は前記第八の二〇記載のとおりであるが、極小未熟児については特に異常がなくとも期間を限定せずルーチンに酸素投与をする点において第五の二のイの見解に近いものがある。ルーチン投与の場合の流量は毎分〇・五ないし一リットルであり、被告太田はその場合の器内酸素濃度は二〇ないし三〇パーセントであると認識していた。原告千枝についてみれば、生下時体重は一一五〇グラム、在胎週数二八週と未熟性が強く、チアノーゼがあり呼吸が不規則であったため、被告病院では一二月一六日から毎分〇・五ないし一リットルの酸素投与を開始し、以後三一日まで継続した。その間、一二月一七日には症状が悪化したため蘇生術を実施し、一二月二七日には一旦酸素投与を中止したが、チアノーゼがみられるようになったので、酸素投与を再開した。また、低体温が継続し、体重は一二月三一日に最低の九三〇グラムとなり、生下時体重を回復したのは一月二二日になってからであった。してみると、右の酸素投与は前記の診療方針に合致するものであり、被告太田が実施した酸素投与は期間が二週間、器内酸素濃度がせいぜい三〇パーセント程度のものであって、昭和四五年当時において医療水準を形成していた医学的見解のひとつであるロの見解にも沿うものである。

したがって、被告病院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

21  原告林らに対する被告旭中央病院組合の責任について

被告病院における昭和四八年当時の診療方針は、前記第八の二一記載のとおりであるが、これは第五の一の27の文献(クロスのもの)を参照したものであり、28や58のいわゆる東大小児科治療指針の診療方針にも合致するもので、第五の二の分類でいえば、ロに該当する見解である(もっとも、器内酸素濃度を漸減していく点でこれをさらに修正したものである。)。桑島医師は、当時の様々な見解を承知していて、それぞれ実施してみたが、うまくいかなかった。すなわち、酸素の適応をチアノーゼに限定してやってみたが、観察の頻度に限界があって手遅れになった経験もあり、また、ワーレイ・ガードナー法も実施が困難であった。そこで、被告病院においては、死亡例が多い生後一〇日間に限って、しかも、器内酸素濃度を三〇パーセントとしてルーチンに酸素投与をすることにし、さらに漸減法を採用したものである。このような桑島医師の診療方針は、当時の様々の見解を充分検討した上で自己の臨床経験に基づき採用したものであり、当時の医療水準に照らし、肯認されるものといえる。そして、原告千里についてみれば、生下時体重は一四九〇グラムであったが、在胎週数は二八週と短く、双胎児の第一児で(双胎児が生命の危険という点でも未熟児網膜症の発症という点でも不利な条件であることは前記のKinseyらの研究のとおりである。)、第二児は死亡した(それだけに担当医らの原告千里についての生命についての危惧には強いものがあったものと推測される。)。そして、被告病院では三月二六日の出生直後から三月二七日午前七時一〇分までは毎分三リットル(換算表による器内酸素濃度は三〇パーセント程度だが、実際には二三ないし二五パーセントであった。)、三月二七日午前七時一〇分から午後一時二〇分までは毎分二・五リットル、三月二七日午後一時二〇分から三一日午前一一時三〇分までは毎分二リットル(器内酸素濃度は二三ないし二六パーセント)、三月三一日午前一一時三〇分から四月一一日午前一〇時三〇分までは毎分一リットルまたはそれ以下の極微量の酸素を投与した。この間、原告千里には、三月二八日までチアノーゼ(末梢性のもの)が断続的にみられ、その後四月二日にもチアノーゼがみられ、三月二六日には呻吟もみられていたが、その後は特に問題とすべき症状はなかった。右の酸素投与は、前記の被告病院の診療方針に沿うものである。なお、原告千里の症状が良かったので、二日目の三月二七日の段階から器内酸素濃度の漸減を図り、また、四月二日の予想外のチアノーゼの発生により酸素投与期間が四月一一日までと予定より長くしているが、器内酸素濃度は四月二日ころからは流量が毎分〇・五リットル程度に抑え、さらに、五月四日に呼吸困難の状態がみられたため五月四日から五月七日にかけて、毎分〇・五リットルの酸素投与をするなど児の症状をみて肌目細かく投与量を調節している。そうすると、被告病院の原告千里に対する診療行為は、医療水準に照らし適切さに欠けると認めることはできない。

したがって、被告病院における酸素投与につき、過失を認めることはできない。

22  原告仁茂田らに対する被告国の責任について

被告病院の昭和四八年当時の診療方針は、昭和四〇年版の東大小児科治療指針(その内容は前記第五の一の28と同じ)を参考にしたが、酸素投与の必要性についてはチアノーゼの有無、呼吸状態の良否、体重の増加の仕方などの全身状態をみて判断しており、流量については毎分三リットルとしていたが、これはその流量であれば、器内酸素濃度は三〇パーセント台で四〇パーセント以下であるからおおむね安心であるとの考えからであった(換算表では毎分三リットルの流量では五〇ないし五七パーセントであったが、使用した経験ではそうはならなかった。)。これは、前記第五の二のロの見解とホの見解を総合したかのような診療方針であるが、体重の状態までを考慮すると、実際の運用としてはロに近くなるものとみられる。そして、原告ルリ子についてみれば、同人の生下時体重は一一〇〇グラムと少く、在胎週数も三〇週と短かった。そして、被告病院では、八月八日に毎分一〇リットル、次で器内酸素濃度が四六パーセントに上昇した段階で毎分六リットルにし、さらに、一時間後には毎分三リットルに減量し、以後、九月七日の午前一一時三〇分まで毎分三リットルの酸素投与が継続され、その間の器内酸素濃度は三度測定され、二二ないし三五パーセントであった(児の状態の好転に従って器内酸素濃度は上昇しており、八月二八日に三五パーセントであった。)。この間の原告ルリ子の症状は、チアノーゼが八月八日の入院時から九日までと八月二〇日にみられ、低体温も八月八日から八月一二日まで、八月二四日から九月七日までみられ、四肢の冷感はその後八月二〇日位まで継続しており、呼吸状態は九月七日まて呼吸数が六〇を超える多呼吸の状態が時々みられた(特に八月二二日以降に目立つようになった。)。原告ルリ子が生下時体重を回復したのは九月一日になってからである。右の治療行為は、前記の診療方針に沿うものといえる。被告病院の担当医師が参考としていた東大小児科治療指針の昭和四〇年版では、生下時体重一一〇〇グラムの児に対しては二ないし三週間のルーチンの酸素投与(器内酸素濃度四〇パーセント以下)を認めていたのであるが、それに比してやや期間が長いが、九月七日ころまで、呼吸数に異常があったことからすると、前記の診療方針を逸脱するものとはいえない。ところで、被告病院が参考としていた東大小児科治療指針にはその後昭和四四年に改訂版が出ており(前記第五の一の58)、ここではルーチン投与する場合の器内酸素濃度を三〇パーセント以下としており、昭和四八年当時の方針としては問題があるのではないかという指摘もあり得ようが、器内酸素濃度が三〇パーセントであるか四〇パーセントであるかによって未熟児網膜症の発症の危険に統計的な有意差があるとの研究はなく、また、酸素投与は器内酸素濃度以外の要素を総合して行うものであるから、この点を捉えて、右の診療方針が不適切なものであるということはできない。

したがって、被告病院における酸素投与に過失を認めることはできない。

また、本件当時において眼底検査及び転医を遅滞したという点について被告に責任を認めることができないことは、前示のとおりである。

23  原告植木らに対する被告君津郡市中央病院の責任について

被告病院における昭和四五年当時の診療方針は第八の二三記載のとおり必ずしも明確ではない。原告竜夫についてみるに、生下時体重は一三四〇グラム、在胎週数は三〇週であり、アプガースコアは七点でシルバーマンスコアは三点であり、四肢にチアノーゼや陥没呼吸がみられた。酸素の投与量は七月七日から七月一〇日午後一時三〇分までは毎分二リットル、七月一八日午前一〇時までは毎分〇・五リットル、八月三一日午前七時から九月一日までは毎分一リットルであった(保育器に添付された換算表によると毎分二リットルで器内酸素濃度は三五パーセント程度で、毎分一リットルで二六パーセント程度であった。)。この間、原告竜夫については低体温が継続し、八月三一日には抗生物質が注射されており担当医は感染症を疑ったものと推認される。右の酸素投与は期間が比較的短く、投与量も少く(器内酸素濃度は三五パーセント以下であったものと推認される。)、前記のとおり、被告病院における酸素投与の方針は必ずしも明確ではないが、右酸素投与は、少くとも、本件当時に医療水準にあったと評価される医学的見解の一つである前記第五の二のロの見解からは許容されるものであるといえ、適切さを欠くとは認められない。

したがって、被告病院の酸素投与には過失を認めることはできない。

24  原告米良らに対する被告日本赤十字社の責任について

被告病院における昭和四六年二月当時の診療方針は、前記第八の二四記載のとおりであるが、これは第五の二のイの見解とホの見解を総合したようなものである(ルーチン投与の量は毎分〇・五リットルであり、期間は不明である。)。酸素投与の中止に当っては漸減法を採用していた。原告律子についてみれば、原告律子の生下時体重は一〇五〇グラム、在胎週数は三〇週であって未熟性が強く、出生時に仮死状態がみられ、呼吸は不規則で啼泣は弱かった。そこで、被告病院では、毎分一・五リットルの酸素を保育器内に流出させるとともに(器内酸素濃度は三〇パーセントであった。)鼻腔カテーテルにより毎分〇・五リットルの酸素を投与し、以後二月二六日午前〇時までは鼻腔カテーテルによる毎分〇・五リットルの酸素投与を継続し、保育器内への酸素投与も、同日午前八時までは毎分一・五リットルを継続し、三月二六日午後四時まで毎分一リットル(器内酸素濃度は二七ないし三一パーセント)、三月三一日午前八時まで毎分〇・五リットル(器内酸素濃度は二四ないし二九パーセント)の酸素投与をした。この間、チアノーゼや無呼吸発作はなかったが、呼吸の不整は二月二三日から三月九日まで、三月一二日、三月一四日にみられ、陥没呼吸は二月二五日、二月二七日、三月八日、三月九日にみられ、呼吸数は三月一九日と三月三〇日にやや多めであり、体重が生下時体重を回復したのは三月二六日であった。前記の被告病院の診療方針からすると、本件の酸素投与はルーチンとしての投与ではなく、児の症状が良くないとの認識で、症状に応じてなされたものであるが、その診療方針からしても、三月一五日以降は呼吸機能面で問題とすべき症状が収まってきたことからするともう少し早く減量の措置を執ってもよかったのではないかという指摘もできようが、生下時体重への回復が遅く、治療に当っている医師としてはその機能的未熟性についての懸念を抱き、なお低濃度の酸素投与(器内酸素濃度は最高でも三一パーセントであった)を続けるべきであると判断したものと推認され、被告病院の担当医の措置が前記ホの見解から合理的な根拠なく逸脱し、適切さを欠くものであると認めることはできない。

したがって、被告病院における酸素投与については過失を認めることはできない。

また、本件当時、治療義務違反、転医義務違反、説明義務違反について被告に責任を認めることができないことは、前示のとおりである。

25  被告芦屋市の原告戸祭らに対する責任について

被告病院における昭和四八年当時における診療方針は前記第八の二五記載のとおりであり、第五の二の分類でいえば、ロの見解に近いものである。チアノーゼがあるときの流量は毎分三リットル、ないときの流量は毎分二ないし一リットルとし、投与期間は二週間程度をめどとしていた。担当医は毎分二リットルであれば器内酸素濃度は四〇パーセントを超えないとの認識であった。原告智子についてみれば、生下時体重一二七〇グラム、在胎週数は二九週と未熟性が強く、チアノーゼなどの症状はみられなかったが鼻翼呼吸がみられ、そこで、毎分二リットルの酸素投与がなされた。酸素の投与量は一月一五日午前五時二五分から同日午後七時四〇分までは毎分二リットル、一月二一日午前三時までは毎分一リットル(三〇ないし四二パーセント)、同日午後六時まで毎分二リットル、一月二九日午前九時三〇分までは毎分一リットル(二六ないし三八パーセント)であった。この間、末梢性のチアノーゼが一月一五日、一七日にみられ、二一日には全身チアノーゼがあった。無呼吸状態は一五日ないし二一日においてみられ、シーソー様呼吸が一五日、一六日にみられ、振せんが主として一五日ないし二二日にみられ、その他にも陥没呼吸、多呼吸、呻き声、不規則呼吸、浮腫、低体温などの症状もみられた。このうち、振せんや多呼吸の状態は一月二四日以降もみられた。してみると、右の酸素投与は前記の診療方針に合致しており(ホのような立場からでも肯定される酸素投与であろう。)、また、前記の診療方針は当時の医療水準にあったと評価すべき医学的見解を根拠としており、合理的なものであったと認められる。

したがって、被告病院における酸素投与には過失は認められない。

また、本件当時、治療義務違反、転医義務違反、説明義務違反について被告に責任を認めることができないことは、前示のとおりである。

26  被告日本赤十字社の原告内田らに対する責任について

被告病院(担当医は産婦人科医)における昭和四七年当時における診療方針は前記第八の二六記載のとおりであり、第五の二の分類でいえばホの見解に近いものであり、なお、漸減法を採用していた。原告麻子についていえば、生下時体重一三〇〇グラム、在胎週数二九週で、双胎児の第一児として出生し(第二児は死亡)、出生後一週間ほど経過した九月二二日に被告病院に転医してきた(転医時の体重は一〇三〇グラムであった。)。酸素の投与量は九月二二日午後四時四二分ころから同日午後七時までは毎分三リットル、九月二三日午後一時までは毎分二・五リットル、九月二九日午前一一時三〇分までは毎分二リットル、一〇月一日午前八時までは毎分一・五リットル、一〇月一四日途中までは毎分一リットル、以降一〇月二三日一〇時三〇分までは毎分〇・五リットルであった。この間、チアノーゼは九月二二日ないし二六日、一〇月一日、二日にみられ、無呼吸状態は九月二三日ないし一〇月一日、一〇月三日、四日、六日ないし八日、一一日ないし一三日においてみられた。陥没呼吸は九月二三日、九月二五日ないし一〇月一日、一〇月三日、四日にみられた。多呼吸の状態はしばしばみられ、不規則呼吸は継続的にみられた。したがって、右の酸素投与は前記の診療方針に合致するものであり、かつ、前記の診療方針は本件当時医療水準にあったと評価すべき医学的見解に沿うものと認められる。

したがって、被告病院における酸素投与には過失を認めることはできない。

なお、本件当時、治療義務違反、転医義務違反、説明義務違反について被告に責任を認めることができないことは、前示のとおりである。

27  原告後藤らに対する被告日本赤十字社の責任について

被告病院における昭和四七年当時の診療方針は、前記第八の二七記載のとおり詳細は必ずしも明らかではないが(被告病院では担当医制度を採っていない。)、診療を担当した医師の一人である宮井医師自身は第四の一の34、45を参考にしており、これはへに沿うものである。被告病院では、原告強に対して、六月二七日から七月六日午後一一時まで毎分三リットル(器内酸素濃度は二四ないし三五パーセント、七月六日午後一〇時二五分からはマスクによる投与)の酸素投与を継続し、七月八日午前五時三〇分までと七月八日午前七時から午後三時までは毎分五リットルの酸素を投与し(一時毎分四リットルに減量した。器内酸素濃度は三七ないし四〇パーセントであった。)、七月八日午後三時から七月一九日午後〇時五〇分までは毎分四リットルの酸素を投与し(七月一三日午前四時までマスクを使用していた。器内酸素濃度は三二ないし三九パーセント)、七月二〇日から七月三〇日までは毎分三リットル(器内酸素濃度は三一ないし三八パーセント)の酸素を投与し、七月三一日から八月二九日午前九時一〇分まで毎分二リットル(器内酸素濃度は二五ないし三九パーセント)の酸素を投与した。その間、七月一二日位まではチアノーゼ、かなり時間の長い無呼吸発作、陥没呼吸などがみられ、原告強の症状は極めて悪く、よく救命できたといってよいほどの状態であったが、原告強の症状に応じて酸素の投与量及び投与法を変えるなど前記認定の治療を行った結果、呼吸状態はようやく七月一三日位から改善しはじめた。その後、原告強にはチアノーゼや呼吸障害はなかったが、全身冷感や腹部の膨満がみられ、体重の増加が遅れ、生下時体重に近くなったのは七月三一日のことであった。ところで、八月一日から酸素投与を中止した八月二九日までの間は、チアノーゼもみられず、呼吸障害などもなく、体温も正常であった。臨床的には極めて症状が悪かった児については当分の間は経過を見るのが当然であり、七月三一日ころまでの酸素投与は宮井医師の参考にした34、45の見解によっても肯認されるところであるが、それ以降の毎分二リットルの酸素投与については漸減法をとるにしても期間が長すぎる感は否めず、また、この点についての担当医師の判断は必ずしも明確ではない。しかしながら、前示のとおり医師は成書などに示される通常の診療方針を児の状態に応じ、その臨床経験に基づいて、その合理的な判断に基づき修正変容させることができると考えるのが相当であるところ、前記の診療経過に照らすと、被告病院の担当医師が八月に入って原告強の症状が安定してきたものの引き続き酸素をルーチン投与したのは、原告強の七月中旬ころまでの呼吸障害の症状があまりに悪すぎたため、呼吸状態の急変を懸念し慎重を期すためであったと推認される。右のような事情に照らすと、被告病院における酸素投与は、全体としてみると、投与期間がやや長すぎる嫌いはあるが、原告強を救命し、呼吸状態の改善を図ろうと右の投与を行った医師の判断に基づくものであり、また、右の医師の判断が合理性を欠く不適切なものであると認めることはできない。

したがって、被告病院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

28  原告藤城らに対する被告日本赤十字社の責任について

被告病院(担当医である中嶋医師は産婦人科医であるが新生児医療を専門としている。)の昭和四五年当時における診療方針は前記第八の二八記載のとおりであり、前記第五の二の分類でいえばホとチに近い見解であると考えられる(投与量については呼吸窮迫や中心性チアノーゼがみられるときには器内酸素濃度が四〇パーセントを超える酸素投与も行っていた。)。原告保史美についてみれば、生下時体重は九一四グラム、在胎週数二七週で未熟性は極めて強く、出生時には四肢にチアノーゼがみられ仮死一度の状態であった。そこで、被告病院では毎分二リットルの酸素投与(器内酸素濃度は三四パーセント)を開始した。酸素投与に当っては器内酸素濃度が測定されていた四月一五日から一八日までの器内酸素濃度は三〇ないし三六パーセントであり、四月一九日ないし四月二六日には特に症状が悪くフェイステントを利用した酸素投与が実施され(酸素濃度は三六ないし五三パーセントであった。)、器内酸素濃度は三〇ないし四六パーセントとされ、四月二七日以降五月一四日までの器内酸素濃度は二二ないし三二パーセントであった。この間の症状は、チアノーゼが四月一五日ないし二〇日、二三日、三〇日にみられ、呼吸不整が四月一五日ないし二一日、二三日に発生し、陥没呼吸が四月一五日ないし五月一四日(四月二二日を除く)にみられ、無呼吸状態も四月一五日ないし五月一四日(五月四日を除く)にみられた。その他にも多呼吸、呻き声、低体温などの症状もみられ、症状は全体として重篤であった。したがって、右の酸素投与は前記の診療方針に合致し(リの見解以外のいずれの見解によっても合理性が肯定されるであろう。)、また、前記に診療方針は当時の医療水準に達していると認めるべき医学的見解に沿うものと認められる。

したがって、被告病院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

なお、本件当時、治療義務違反、転医義務違反、説明義務違反の責任を問うことはできないことは前示のとおりである。

29  原告久連山らに対する被告日本赤十字社の責任について

被告病院(担当医は小児科医)における昭和四六年当時の診療方針は、前記第八の二九記載のとおりであり、これは第五の二のホの見解に近いものであり、漸減法も採用していたが、器内酸素濃度が四〇パーセント以下であれば後水晶体線維増殖症の危険はないとの認識であった。原告直也についてみれば、原告直也の生下時体重は一九〇〇グラム、在胎週数は三四週と三日であって出生時にチアノーゼが認められ、被告病院に転入院した時にも顔・四肢にチアノーゼがみられた。酸素は八月三日から八月一二日までは毎分三リットルが投与され、八月一二日に毎分一リットルに減量されて翌一三日には投与が中止された。この間、八月四日には全身チアノーゼを伴う無呼吸状態が瀕回にみられ、その後も八月一一日までは末梢性ではあるがチアノーゼが継続していた。そうしてみると、被告病院における酸素投与は前記の診療方針に合致したものであり、かつ、前記の診療方針は当時においても医療水準にあるものと評価すべき見解に沿うものであり、適切さを欠く点は認められない。

したがって、被告病院における酸素投与に過失を認めることはできない。

30  原告寺西らに対する被告医療法人仁寿会の責任について

被告病院(担当医は産婦人科医)における昭和四三年当時の診療方針は、医師間に統一した見解があったか必ずしも明確ではないが、担当医の一人である武田医師の診療方針は前記第八の三〇記載のとおりであり、これは第五の二のロとホの見解を総合したようなものである(生下時体重一五〇〇グラム以下の児については生後しばらくの間ルーチンに酸素投与をすることにしていた。)。酸素投与は流量によっており、保育器に添付されている換算表により、毎分一リットルのときに器内酸素濃度は二四ないし二五パーセント、毎分二リットルのときに二八ないし三〇パーセント、毎分三リットルのときに三三ないし三七パーセントと把握していた。原告満裕美についてみれば、生下時体重一四二〇グラム、在胎週数二九週と未熟性が強く、そこで、被告病院では毎分三リットルの酸素投与を開始した。その後七月二八日まで三週間にわたって酸素投与が継続され、その間毎分三ないし一リットルの酸素投与が実施された。この間の症状としては、チアノーゼが七月九日、一〇日にみられ、その他に低体温や浮腫がみられた。そして、右の酸素投与は期間が三週間程度であって、器内酸素濃度が四〇パーセント以下であり継続的な様子であるが、チアノーゼなどの症状、児の全身状態などをみながら流量を調節しており、前記の診療方針に合致するものということができる。さらに、前記の診療方針は昭和四三年当時の医療水準を形成していた医学的見解を参考にし、担当医師の臨床経験などに基づき修正変容を加えているものであるが、合理的なものであり、適切さに欠けると認めることはできない。

したがって、被告病院の酸素投与について過失を認めることはできない。

31  原告塩田らに対する被告日本赤十字社の責任について

被告病院(担当医は新生児医療の専門家)における昭和四八年当時の診療方針は、前記第八の三一記載のとおりであり、これは第五の二のチの見解を基本としつつりの見解などを加味したものと考えられる。原告洋子についてみれば、一一月五日には蘇生術を施し(このときの動脈血中酸素分圧は九一・九)その後毎分五リットルの酸素(器内酸素濃度三六ないし五二パーセント)を投与し始め、その後前記認定のとおり、器内酸素濃度と動脈血中酸素分圧を測定しつつ、一一月一三日に中止するまで投与した。この間、一一月一〇日までの症状は重篤なものであったと認められ、一一月一一日からはチアノーゼがみられなくなったものの、なお呼吸は不整で促迫と陥没呼吸もみられ、一一月一二日にも促迫と無呼吸状態がみられ、一一月一三に酸素投与を中止した後にはチアノーゼがみられた。そうしてみると、被告病院における酸素投与は原告洋子の症状に応じて適宜投与量が調節されており、前記の診療方針に合致するもので、かつ、前記の診療方針は当時の医療水準にある医学的見解に基づくものであり、何ら適切さを欠く点を認めることはできない。

したがって、被告病院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

なお、本件当時において、治療義務違反、転医義務違反、説明義務違反の責任を問うことができないことは前示のとおりである。

32  原告浅川らに対する被告国の責任について

被告病院(担当医は産婦人科医)における昭和四六年当時の診療方針は、前記第八の三二地載のとおりであり、これは第五の二のロとホの見解を総合したようなものである(ルーチン投与の量は毎分二リットルであり、保育器の換算表では器内酸素濃度は三五パーセント程度になる。)。原告勇一についてみれば、原告勇一の生下時体重は一四〇〇グラム、在胎週数は二九週と四日であって、出生時全身チアノーゼが著明であった。被告病院では出生直後の二月五日午前一時一二分ころから毎分二リットル(一〇分位)、毎分三リットル(午前八時まで)、毎分二リットル(午後一一時二〇分まで)、毎分三リットル(二月六日午前一時三〇分まで)、毎分二リットル(二月六日正午まで)と流量を調節していき、二月六日正午から四月二日午後一一時五〇分までは毎分一リットルの酸素投与を継続した。この間、二月五日にはチアノーゼがみられ、二月八日までは呼吸は不規則であり、低体温の状態も二月一杯はみられたが、生下時体重は二月二六日に回復していたことからすると、毎分一リットル(保育器の換算表では器内酸素濃度は二六パーセント程度とされていた。)の酸素投与の期間が長すぎ適切さを欠くのではないかという点が問題となる。第四の二のハの見解によったとしても、三月に入ってからは問題とすべき症状はなく、二月半ば以降には、脳障害の存在を疑わせる落陽現象などの症状がみられ、少くとも三月以降の酸素投与は呼吸障害などの改善という観点からはその積極的な必要性があったか疑問の余地がある。しかし、ルーチン投与された酸素は毎分一リットル程度の量であり(器内酸素濃度は大気中の酸素濃度と大差ない二六パーセント程度であった)、酸素投与中止後も鬱血様顔貌皮膚色不良などがみられたことからすると、呼吸障害の予防的な措置として行われたとみられる右の酸素投与をもって、臨床医師の一定範囲内の裁量ないし判断にもとづいて行われる治療行為として適切さを欠くものとまで認めることはできない。

したがって、被告病院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

33  原告三浦らに対する被告国の責任について

被告病院(担当医は小児科医)における昭和四二年当時の診療方針は前記第八の三三記載のとおりであり、必ずしも方針が明確でない面があるが、これは第五の二の分類でいえばホに近いものとも考えられる。原告由紀子についてみると、原告由紀子は双胎児で出生し、生下時体重が一二〇〇グラムと少く、チアノーゼがみられたため、被告病院では毎分六リットルの酸素投与を開始した(この時の器内酸素濃度は不明であるが、森医師の認識では四〇ないし五〇パーセントであった。保育器の説明書では換気孔が全開でも器内酸素濃度は六二パーセントとなるとされていた。)。この後、三月六日午前一一時まで毎分六リットルの酸素投与が継続され、さらにその後は毎分三リットルの酸素投与が三月二〇日まで継続された。この間、三月三日から三月七日までの間、三月一二日、三月一五日ないし一七日までの間にはチアノーゼがみられ、呼吸数が六〇を超える多呼吸の状態もしばしばみられ、当初は低体温の状態もみられた。森医師はそのような状態や体重の動向などをみながら投与の要否や投与量を決しており、器内酸素濃度がやや高い点が問題ではあるが、わずか三日のうちに症状をみて毎分三リットルに減量しているのであるから、前記の診療方針に沿いつつ、臨床医としての栽量と判断に基づいて行ったもので、右方針を逸脱するものとは認められないし、また、前記の診療方針は当時の医療水準にある医学的見解(ホの見解)に沿うものである。

したがって、被告病院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

34  原告田尻らに対する被告国の責任について

原告享司については前記第八の三四記載のとおり、酸素投与の事実を認めるに充分な証拠はなく、したがって、その他の点について論ずるまでもなく、原告田尻らの請求には理由がない。

35  原告小松らに対する被告岩倉、被告東京都の責任について

(被告岩倉の責任について)

被告病院(産婦人科の開業医)における昭和四三年当時の診療方針は、前記第八の三五記載のとおりであるが、これは第五の二の分類でいえば、イの見解によるものである。なお、文献上で明確にこの立場に立つものはないがそのように受け取られ易いものがかなりあることは前記のとおりである。また、実際にも産婦人科の一般開業医の間では当時は四〇パーセント以下の酸素であれば危険はないと信じられており、四〇パーセント以下の酸素であっても未熟児網膜症が発症するということについての知見は必ずしも普及してはいなかった。したがって、本件の当時におけるこのような見解を捉えて、医療水準から合理的範囲を超えて逸脱したものということはできない。そして、原告宏衣についてみれば、生下時体重が一〇五〇グラム、在胎週数が二八週という未熟性の強い児であったため、症状は際立って悪くはなかったが一一月一三日から保育器に収容して毎分一リットル以下の酸素を投与し(保育器の説明書による器内酸素濃度は三〇ないし三五パーセントになるとされるが、被告病院では換気孔を閉鎖していなかったのでこれより低かったものと推認される。)、その後も一一月二二日に一時投与を中止したほかは一二月六日の転院時までは毎分一リットルの酸素投与を継続した。この間、低体温が長く継続し、一一月一五日の哺乳時にはチアノーゼがみられ、一一月一六日の哺乳時には呼吸停止がみられ、一一月二二日の酸素投与中止時にはチアノーゼがみられた。右の酸素投与は、前記の被告病院の方針に沿うものであるし、また、本件当時の有力な見解の一つである東大小児科治療指針のように期間を限定する見解によったとしても肯認されるものである。

したがって、被告岩倉の酸素投与については過失を認めることはできない。

(被告東京都の責任について)

被告病院(新生児医療の専門家である篠塚医師がその中心である。)の当時の診療方針は前記第八の三七記載のとおりであり、第四の二の分類でいえば、ホの見解に近いものである。なお、多量の酸素を投与するときには動脈血中酸素分圧を測定していた点では当時の医療の先端をいくものであり、右の診療方針が当時の医療水準に達したものであったことは明らかである。原告宏衣についてみれば、被告病院に転医してきた一二月六日には体重は九五〇グラムに減少し、非常に体温が低く、四肢末端及び口唇にチアノーゼがみられるという状態であり、篠塚医師は新生児硬化症の疑いをもって毎分四リットルの酸素投与を開始し、動脈血中酸素分圧の測定も実施した。その後もチアノーゼが四肢末端に限定されるようになると酸素を毎分一リットルに減量し、体重や体温の状態が改善されてきた一二月一八日にはなお呼吸は不規則であったが酸素投与を中止する前提で毎分〇・五リットルに減量し、一二月二〇日には酸素投与を中止している。したがって、篠塚医師は児の症状に応じてきめ細かい対応をしており、酸素投与に関して何らの適切を欠く点を認めることはできない。

したがって、被告病院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

36  被告東京都の原告益繁らに対する責任について

被告病院(担当医は小児科医)の昭和四二年当時における診療方針は前記第八の三六記載のとおりであり、これは前記第五の二の分類でいえば、ロの見解を基本としつつ、ホの見解や漸減法をも考慮するものであって、当時の医療水準を構成する一つの見解を基本とするものである。原告康弘についていえば、生下時体重は一一三〇グラム、在胎週数二七週と六日であって未熟性が強く低体温であったため、被告病院では原告康弘を保育器に収容し酸素投与を開始し、その際、小沼医師は器内酸素濃度が四〇パーセント以下となるように酸素投与をするように指示した。酸素投与は一〇月一三日から一一月一四日までと一一月二二日から一一月二七日まで実施され、器内酸素濃度はほぼ四〇パーセント以下であり(一時的に四二パーセントまで上昇したこともある。)、一一月三日以降はほぼ三〇パーセント以下であり、一一月二二日から二七日までの間は二四ないし三六パーセントであった。この間、一〇月二〇日ころまでは無呼吸状態が瀕発し、チアノーゼもしばしばみられ、原告康弘の症状は重篤であり、その後症状は好転していったが、担当医らは症状の好転が安定したものであるかどうかをみながら一一月三日からは器内酸素濃度を三〇パーセント程度以下とし、一一月一四日に至って酸素投与を中止した。右の酸素投与は、前記の方針に従い児の症状に応じてなされたものであり、何ら適切さを欠く点を認めることはできない。

したがって、被告病院における酸素投与に過失を認めることはできない。

37  原告熊川らに対する被告浦安市市川市病院組合葛南病院の責任について

被告病院(担当医は産婦人科医)における昭和四七年当時の診療方針は、前記第八の三七記載のとおりであるが、これは第五の二の分類でいえば、ロとホの見解を総合したようなものであったが、酸素投与の必要性の判断にあたって生下時体重の回復をも考慮していた点において、さらに修正を加えたものである。原告佳代子についてみれば、生下時体重は一四二〇グラム、在胎週数は二九週であり、軽度の仮死状態がみられた。そこで、担当医は出生した七月五日から七月七日の午前一〇時までは器内酸素濃度を三五パーセントとするように指示し(実際には二九ないし三六パーセントであった。)、七月七日午前一〇時から七月二六日午前一〇時までは三〇パーセントと指示し(実際には二四ないし三八パーセント)た。この間、チアノーゼはなく、七月一〇日に呼吸停止らしきものがあったほかには呼吸障害はなく、呼吸数もほぼ安定しており、哺乳も順調であったが、生下時体重を回復したのは七月二五日であった。この治療行為は器内酸素濃度について、三〇パーセントを超えていたことが多かった点でやや問題が残るが(但し器内酸素濃度をコントロールすることは容易ではないから、この点のみを捉えて云々するのは適切ではない。)全体としてみれば、前記の診療方針に沿った治療であると認められる。

ところで、前記の診療方針が当時の医療水準に照らして合理的範囲内の修正変容を加えたものとみ得るかについて考えると、体重が機能的未熟性(呼吸機能を含めた)の判断資料の一つとなること自体は否定できず、被告病院の場合には体重に重点を置き過ぎたきらいはないではないが、投与期間や器内酸素濃度を総合してみると、医師の合理的裁量の範囲内における修正変容であると認められる。

したがって、被告病院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

38  原告渡辺らに対する被告三橋の責任について

被告三橋(産婦人科の開業医)の昭和四五年当時の診療方針は前記第八の三八に認定したとおりであり、いわゆる東大小児科治療指針を参考としたものであり(昭和四四年改訂以前のもの)、前記第五の二の分類ではロの見解に近いものである。なお、漸減法が採用されていた。原告修二についてみれば、生下時体重は一一五〇グラム、在胎週数は二七週と未熟性が強く、皮膚色も不良でチアノーゼ状であり、無呼吸のような状態もみられ、そこで被告三橋は毎分二リットルの酸素投与を開始した。酸素の投与量は一二月一六日から一二月二六日までは毎分二リットル(保育器添付の説明書では毎分二リットルのときの器内酸素濃度は二八ないし三二パーセントとされていた。)、一二月二七日から二九日午前一〇時までは毎分一リットル、一二月二九日午後一〇時から一二月三〇日午前八時まで毎分一リットル、翌年一月七日には約一〇時間にわたって毎分一リットルであった。この間、一二月二四日までは無呼吸状態がみられ、哺乳時の一時的なチアノーゼもみられていた(もっとも、右原告らが主張するようにカテーテルによって哺乳をし気道を確保しておけば発生しなかった可能性もある。)。してみると、右の酸素投与は前記の診療方針に沿うものと認められる。また、前記の診療方針は有力な医学文献上の見解を根拠としたものである。確かに、本件当時の東大小児科治療指針ではルーチン投与の期間はできるだけ短くし、器内酸素濃度も三〇パーセント以下とするように記載されており、被告三橋の見解は昭和四四年の改訂前のものに依拠したものと推認されるが、昭和四五年当時であれば、被告三橋のような滅多に未熟児を扱うことがない産婦人科の開業医が改訂後の見解を直ちに把握することは必ずしも容易ではなかったものと推認されるし、この点を捉えて直ちに酸素投与方針の適切さを欠くといえないことは明らかであろう。また、被告三橋は自ら極小未熟児に対する医療のような高度な技術が充分にないことは自覚しており、それまでの同様の児については千葉大学医学部付属病院に転医させており、原告修二についても転医させようとしたが受け入れて貰えなかったというのである。

そうしてみると、被告三橋に酸素投与について過失を認めることはできないし、転医義務違反も認めることはできない。

39  原告松本らに対する被告医療法人深田病院の責任について

被告病院における昭和四五年当時の診療方針は前記第八の三九記載のとおりであり、これは前記第五の二の分類でいえばロに該当するものである。深田チエ医師は文献を参考とするだけでなく、安達教授(産婦人科)の指導を直接受けていたというのであり、右診療方針が本件当時の医療水準にある医学的見解に準拠していたことは明白である。原告純子についてみれば、生下時体重は一六〇〇グラム、在胎週数は三〇ないし三一週と未熟であり、出生時に陥没呼吸が著明であり、中心性のチアノーゼが中程度にあって、呼吸数も多かったので被告病院では毎分三リットルの酸素投与を開始した(保育器に添付された換算表によると器内酸素濃度は毎分三リットルでも三三パーセント程度である。)。酸素の流量は七月二五日午前一〇時四五分から七月二六日午前八時一〇分までは毎分三リットル、七月二七日午前一〇時までは毎分二リットル、七月二九日午前〇時三〇分までは毎分一リットル、同日午後三時三〇分までは毎分二リットル、七月三〇日午後五時五五分までは毎分一リットル、八月一日午後一時までは毎分二リットル、八月三日午前一一時三〇分までは毎分一リットル(同時刻に投与を中止)、八月一一日午後一時三〇分(酸素投与の再開)から八月一三日午後七時一〇分までは毎分二リットル、八月一五日午前九時五分(酸素投与の最終的な中止)までは毎分一リットルであった。この間、原告純子には四肢末端のチアノーゼや陥没呼吸が七月二五日から七月二七日ころまでみられ、無呼吸状態は七月二五日から二八日ころまでみられ(七月二九日には多くみられた。)、七月三一日ころまでは呼吸は不規則であった(七月三〇日には非常に不規則であった。)。また、八月一一日から新生児メレナ(出血性素因)や感染症の疑いで酸素投与を再開したものである。右のとおり、被告病院における酸素投与は前記の診療方針に合致し、かつ、児の症状に応じてきめ細かくなされているものと評価できる。

したがって、被告病院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

なお、本件当時において治療義務違反、転医義務違反、説明義務違反の責任を問うことができないことは前示のとおりである。

40  原告皆川らに対する被告株式会社日立製作所の責任について

被告病院(担当医は産婦人科医)における昭和四一年当時における診療方針は前記第八の四記載のとおりであり、これは前記第五の二の分類でいえばイの見解に近いものである(ホの見解にも似た面がある。)。なお、文献上で明確にこの立場に立つものは見当たらないが、そのように受け取られ易いものがかなりあることは前記のとおりである。また、実際にも産婦人科の一般医師の間では(被告病院は一応は総合病院であるが地域の中心となるような病院かは証拠上明らかではない。)当時は四〇パーセント以下の酸素であれば危険はないと信じられており、四〇パーセント以下の酸素であっても未熟児網膜症が発症するということについての知見は必ずしも普及してはいなかったことからすれば、本件当時においてはこのような見解も医療水準から合理的範囲を超えて逸脱したものとはいえない。原告広行についてみれば、生下時体重一一八〇グラム、在胎週数二九週であって未熟性が強く、被告病院では酸素投与を開始した。酸素の流量は九月一四日から一〇月一日までは毎分三リットル、一一月九日までは毎分一リットルであった(器内酸素濃度は測定されていないが、流量との関係は前記認定からすると毎分二リットルで三〇ないし三五パーセント、毎分一リットルで二三ないし二五パーセントであったものと推認される。)。この間、九月一四日から一八日まではチアノーゼがみられ、九月二〇日まで呼吸は不規則であり、体重が一〇七〇グラムと増加してきた一〇月一日には酸素が減量され、その後一時的に呼吸が不規則になることがあったが他に異常はなく、体重が二〇〇〇グラム近くになった時点で酸素投与が中止されている。器内酸素濃度が四〇パーセント以下であったことからすると右の診療行為は前記の診療方針に合致するものである。

したがって、被告病院の酸素投与につき過失を認めることはできない。

41  原告川崎らに対する被告神奈川県の責任について

被告病院(担当医は産婦人科医)における昭和四六年当時の診療方針は前記第八の四一記載のとおりであり、極小未熟児に関する限り第五の二の分類でいえばイの見解に近いものと認められる(なお、特定の文献などに依っていたわけではないという。)。原告陽子についてみれば、生下時体重は一二五〇グラム、在胎週数は三〇週であり、さらにアプガースコアは三点であり、被告病院に転医してきた際の症状は全身チアノーゼがあり、呼吸困難の症状がみられた。そこで、被告病院では毎分三リットルの酸素投与を開始した(器内酸素濃度は四〇パーセント以下となる。)。その後の酸素の投与量は一一月二二日から二五日午前一一時までは毎分三リットル、一二月二九日午前一〇時までは毎分二リットル(一一月二七日の器内酸素濃度は二一パーセントであった。)、一月一四日までは毎分〇・五リットルであった。この間、一一月二二日以外はチアノーゼはみられなかったが、体重の減少の程度が著しく、一二月四日には呼吸停止が二回ほどみられた。右の酸素投与はいずれも器内酸素濃度が四〇パーセント以下になるようになされていたものと認められ、これは前記の診療方針に合致したものである。そこで、前記の診療方針が当時の医療水準に達していた見解と比較して認められるものであったかを検討する。本件当時(昭和四六年)には酸素投与と未熟児網膜症発病の危険との関係についてある程度知識が普及しており、文献上では器内酸素濃度が四〇パーセント以下であればいくら期間が長くてもよいと明言したものは見当らない(ルーチン投与を認めていたとされる東大小児科治療指針や安達教授の文献においても期間を限定してのものである。)。本件においては被告病院の担当医が酸素投与を必要とする疾患の存在をどのような根拠に基づいて疑ったかが明らかにされていないし、参考にした文献も明確にされていないため、前記治療方針を、医療の専門家としてどのような根拠と判断のもとに採用したのか必ずしも明らかではない。この点で右方針に問題がないわけではない。しかしながら、前記酸素投与についてみると、毎分二リットルの場合でもその器内酸素濃度四〇パーセント以下であって高いものとはいえず、また、毎分〇・五リットルの投与の場合にはさらに低かったものと推認されるし、一二月四日における呼吸停止などの症状もみられた上産婦人科医である担当医師としては、入院時の原告陽子の状態は極めて悪かった上体重の回復も遅い状態にあったところ、被告病院においてそれまでに未熟児の死亡例は多数あったが医師の知る範囲で未熟児網膜症による失明例は経験していなかったことなどの事情からして、原告陽子の救命に全力を挙げていたことが窺える。そうすると、右の酸素投与は、投与期間が長すぎる嫌いはあるが、右方針及び酸素投与方法が、適切さを欠き法的責任を問われるべきものであると認めることはできない。

したがって、被告病院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

42  原告池島らに対する被告神奈川県の責任について

被告病院における昭和四七年当時における診療方針は前記第八の四二記載のとおりであり、これは前記第五の二の分類でいえばホとチの見解を総合したようなものであった。被告病院の小宮医師は東大小児科治療指針の一部を執筆するなど未熟児医療に関しては我が国における専門家の一人であり、文献上の諸見解を考慮した上で右のような方針を執っていたものである。原告池島についてみれば、生下時体重が七五〇グラム、在胎週数二四週と二日という超未熟児として生れ、出生時には仮死の状態がみられ、アプガースコアは五点であった。また、転院時の症状も手や足にチアノーゼがみられ、陥没呼吸、呼吸の不規則さ、低体温などの症状もみられた。そこで、被告病院では毎分三リットルの酸素投与をすることとした(診断がなされるまでは毎分二リットルの酸素投与がなされていた。)。酸素の流量は一〇月二三日から二六日午後一〇時五五分までは毎分三リットル(一〇月二三日の動脈血中酸素分圧は四〇・三mmHg、二四日のそれは五六・四mmHg)、同日一一時五五分までは毎分六リットル、しばらくの間はマスクを使用して毎分二リットル、一〇月二七日は当初は毎分三リットルで午前二時からは毎分二リットル(動脈血中酸素分圧は六六・五mmHg)、一〇月二八日は当初は毎分二リットルでその後毎分一・五リットル、毎分四リットル、毎分二リットル、一〇月二九日から三一日の午前一〇時ころまでは毎分二リットル、一一月七日までは毎分一・五リットル、一一月八日は当初は毎分一・五リットル、ついで毎分一リットル、一一月九日は毎分一リットル(午前一一時ころから午後二時三〇分ころまでは酸素投与は中止されていた。)、その後一二月四日午後七時までは毎分一リットル(器内酸素濃度は二四ないし二六パーセント)であった。この間、無呼吸状態、呼吸不規則、多呼吸、呻き声、チアノーゼ、浮腫が見られていたのであり、危機的な状態がしばしばみられ、体重が一〇〇〇グラムを超えたのは酸素投与を中止した一二月四日であった。右のとおり、酸素投与はこのような児の症状に応じてきめ細かく調節され、前記の治療方針に合致しており、かつ、前記の治療方針は本件当時の医療水準に達していた医学的見解に根拠を有するものであり、被告病院における酸素投与には適切さを欠く点は何ら認められない。

したがって、被告病院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

本件当時において、治療義務違反の責任を問えないことは前示のとおりである。

なお、被告病院では原告直子に対して定期的な眼底検査を実施し、光凝固手術を実施したのであるが、原告直子の未熟児網膜症はⅡ型であって、第七において認定したところによれば、本件当時はⅡ型の病態は研究が開始されたばかりであり、その急激な進行は予見できないものであり、被告病院が先駆的な医療機関であることを考慮しても担当医に過失を認めることはできない。

43  原告安藤らに対する被告医療法人滋啓会の責任について

被告病院(担当医は小児科医)における昭和四六年当時における診療方針は前記第八の四三記載のとおり必ずしも明確ではない(診療方針を決定していた大江医師の証人尋問が同人の死亡のため中途で終了したことが原因でもある。)。低体温も酸素投与の適応であると考えていたこと、漸減法を採用していたことのみが判明している。原告美香についてみると、生下時体重は一四六〇グラム、在胎週数三二週であり、全身チアノーゼ、強度の陥没呼吸、無呼吸状態などの症状がみられ、そこで、被告病院では毎分三リットルの酸素投与を開始した。酸素の投与量は一〇月三〇日から一一月二六日午後五時二〇分ころまでは毎分三リットル(器内酸素濃度は不明である。)、一二月九日午前一〇時二〇分までは毎分二リットル、一二月一六日午前一一時までは毎分一リットル、一二月二九日午後一時までは毎分〇・五リットルであった。この間、チアノーゼは一〇月三〇日から一一月三日、五日ないし八日、一四日(一時的なもの)、一六日(一時的なもの)、一二月二四日(一時的なもの)にみられ、無呼吸状態は一〇月三〇日、三一日、一一月一日ないし七日、一九日、二六日にみられ、不規則呼吸は一一月二六日ころまで継続し(一二月二六日にもみられた。)、低体温も一一月二四日ころまで存在した。体重が生下時体重を超えたのは一二月六日であった。右の酸素投与は、昭和四六年当時に医療水準に達していたと認められる医学的見解のうち比較的酸素投与に積極的な見解に照らしても、生下時体重と回復した以降の酸素投与については、期間の点において、長すぎるのではないかという疑問がある。しかしながら、一二月六日以降の酸素投与は毎分二ないし〇・五リットル程度の量であり、また、担当医師らは原告美香が出生直後呼吸状態が悪かったことから、酸素投与の打切りに慎重となったと推認されることからすると、右の投与を捉えて、臨床医師として認められる裁量や判断を逸脱した不適切なものであり法的責任を問うべきものと認めることはできない。

したがって、被告病院における酸素投与につき過失を認めることはできない。

第一〇被告国の行政上の責任について

一  被告国の未熟児網膜症に対する対応の概略

《証拠省略》を総合すると次の事実を認めることができ、この認定を覆すに足る証拠はない。

1  委託研究や未熟児講習会の後援など

久慈直太郎らは、昭和三〇年、厚生省の委託研究として後水晶体線維増殖症の探索を行い、その結果を報告している。

厚生省児童局は昭和三二年発行の「未熟児」を監修したが、将来において後水晶体線維増殖症が増加する可能性があることが記されている。

厚生省は未熟児疾患の治療や予防に携わっている者を対象として開かれた未熟児講習会を後援したが、その成果は未熟児シリーズとして出版され、その中の第三集「未熟児の病理及治療」(昭和三五年発行)においては、大坪らが「全ての例にルーティンとして酸素を与えることには議論はある。」、「三〇パーセント~四〇パーセントの酸素が用いられているが、Crosseは継続して用いる場合には三〇パーセントを超えぬようにすべきだという。」などの記載がある。

厚生省児童家庭局は、昭和三六年、母子保健法上の訪問指導を行う者を対象とした「未熟児養育医療訪問指導必携」を編集したが、そこには「チアノーゼや呼吸困難に対しては……酸素吸入を行う。酸素は症状を消失せしめるのに必要な最少量を使用するのが安全で、又経済的である。酸素の濃度が四〇パーセントを超えると、後水晶体線維増殖症の原因になることがあるから、酸素使用に当っては、酸素濃度の測定を行うことが望ましい。」と記載されている。

以上のように未熟児網膜症に関連する記述もあるが、研究全体からみた主たる目的は、当時未熟児の生存率が低かったことから如何にして生命を救うかということであった。

2  未熟児網膜症に関する厚生省研究班の設置

昭和四三年度の未熟児網膜症に関する厚生省研究班は、九州大学の生井教授を主任研究者として主として未熟児網膜症の病態などを研究したもので、そこには眼科医としては大島健司医師、永田誠医師、植村恭夫医師が、小児科医として奥山和男医師が参加した。会合は年一回程度であった。

昭和四五年の未熟児網膜症に関する厚生省研究班は植村医師を班長として設置され、構成員は名古屋大学の田辺吉彦、松戸市立病院の丹羽康夫、東京都心身障害者福祉センターの原田正美などによって構成された。その目的は発症原因の研究、治療法ないし予防法を如何にするかということであった。

未熟児網膜症に関して有名な昭和四九年度厚生省研究班の設置目的は、未熟児網膜症についての診断・治療基準について一応の基準を作ることであった。つまり、発症率などの実体を把握するためには診断基準が必要であるということと、光凝固法ないし冷凍凝固法の適切な実施時期を検討することにあった。構成員は眼科医が植村教授、永田医師、馬嶋教授、塚原教授、佐々木教授(佐々木教授のかわりに山下由紀子医師が参加したこともある。)、大島教授であり、小児科医が山内医師、奥山医師であり、リハビリテーション関係が原田医師であった。この時には各研究員がそれぞれ眼底写真を持ち寄って診断基準を検討した。その内容は前記のとおりである。

昭和五六年時点における厚生省の未熟児網膜症に関する研究班の目的は、第一に治療法の評価であり、第二に馬嶋教授が開発したリボフラビンテトラブチレートの効果の判定であり、第三は病態の研究特に酸素を投与しないのに発症する場合の病態の研究であり、第四は光凝固法を実施した例についての長期予後の検証、第五には光凝固で治りそうもない例についての治療法の開発であった。

3  以上の厚生省の未熟児網膜症に対する対応をみると、未熟児網膜症に対する医学界の研究を助成し、促進することがその内容であり、特に積極的に診療方針を後見的に医師に提示するというようなことはしていなかった。昭和四九年度の研究班の場合にはそのような要素も窺えないではないが、医療の高度の専門性から診療方針については医学界の自主性に委ね、これを外から内容に立ち入らない程度に援助するというのが基本姿勢であったものと考えられる。

二  厚生大臣の薬事法上の権限不行使に基づく責任について

原告らは、厚生大臣において、薬事法上の権限(一部、工業標準化法上の権限)を行使して、(一)薬事法五二条一号に基づき添付文書として、アメリカ小児学会の酸素投与に関する勧告と同一の指針を「使用上の注意」として記載させること、(二)同条二号に基づき日本薬局方のなかに「添付文書又はその容器もしくは被包に記載するように定められた事項」として右「使用上の注意」を記載させること、(三)保育器の製造承認に際し、または保育器の日本工業規格を測定するに際し「使用上の注意」を保育器に表示させることなどの措置を執るべきであったのに、厚生大臣はこれらの措置を違法に怠り、よって、酸素の過剰投与により原告児らは失明などの障害を被り、原告らに損害を生ぜしめたと主張する。そこで、以下に厚生大臣の薬事法上の権限の内容、性格はどのようなものか、厚生大臣が何らの措置を執らなかったことの当否について検討する。

1  医薬品の性質

古くから疾病の治療、予防のために、動植物の一部分及びそれから抽出した有効成分並びに鉱物の粉末その他の無機物質が医薬品として利用され、それらの中には薬効のないものも少くなかったと想像されるが幾世代、幾世紀にわたる使用経験から有害無益のものとは次第に排除され、姿を消していった。その結果、昔から現在まで使用されている医薬品の類は、その有効性に疑わしいものはあっても、従来の使用態様の範囲内においては、その安全性は、いわば歴史的な検証を経たものとして、ほぼ承認されてきたといってよい。もっとも、副作用のうち、時をおかず、かく顕著な変化がでるものはともかく、それによる変化が発見し難いものについてまで完全に検証を経てきたとはいえない。また、このような医薬品の安全性に関する資料・知識は、これを実際に使用してきた臨床医らが最も豊富に有しているものと考えられる。

他方、近代に入り科学の発達に伴い、医薬品の精製方法が進歩し、有効成分の分析により化学構造式が決定され、原材料からより純粋な形で有効成分が抽出され供給されるようになるとともに、その薬理作用についても研究が進み、極量も次第に明らかにされるに至ったが、今世紀になると多くの有機化合物について人工的な合成が可能となり、天然自然界に存する物質と化学構造式を同じくする合成物質が大量に供給されるようになった。そして、従来知られていた物質であっても、天然自然に産出するものと異なり、医薬品として全く純粋な、換言すれば濃厚な形で供給されるため、従来の経験により安全性の確かめられた用法、用量を超えて過度に人体に対して用いられるおそれがあることは容易に推測できるところである。

そればかりではなく、現代では、天然自然界には存在しない新規な化学物質が次々と合成され、その物質の薬理作用が研究され、薬効を有することが発見されるに至っている。このようにして化学的に合成された物質は、それが新規物質である場合には、医薬品として使用した場合の副作用については不明であることも多いし、副作用に関する資料や情報は、主としてその物質を製造したものが有しており、臨床医らが副作用を確認することはそう容易なことではないと考えられる。

以上は裁判所に顕著な事実である。そして、以上の事実からすると、同じく医薬品とはいっても、その危険性(副作用)、その危険性に関する情報の所在などにはかなりの差があるものと推測される。通常の薬害事件の場合には、情報は主として製薬会社にあり、次いで国がこれを入手し易い立場にあり、医師は殆どこれを知る機会がないが、本件の酸素の場合についていえば、最も情報を入手し易かったのは臨床の医師らであるといえよう。

2  医薬品としての酸素、医療用具としての保育器

(一) 酸素の法令上における取り扱い

酸素は、昭和七年六月二五日内務省令第二一号で公布された第五改正日本薬局方に「圧縮酸素」として収載され、戦後、厚生大臣は、昭和二六年三月に第六改正日本薬局方を制定公布したが、ここでも「酸素」は収載されていた。その後の数次の改正を経て、昭和六一年四月の現行の第一一改正日本薬局方に至るまで「酸素」は引き続き収載されてきた。

(二) 保育器の法令上の取り扱い

保育器は、昭和二三年薬事法(昭和二三年法律第一九七号、以下「旧薬事法」という。)から医療用具として指定され、昭和三五年薬事法(昭和三五年法律第一四五号、昭和五四年改正前のもの、以下「現行薬事法」という。)の二条四項に規定する医療用具として薬事法施行令一条に定める別表Ⅰの八号に引き続き指定されている。そして、同法一三条及び 一四条一項によると、「厚生大臣の指定した医療用具」については厚生大臣の製造についての承認なしに製造業の許可が与えられる。そして、「厚生大臣の指定した医療用具」として、同法施行規則一八条により、工業標準化法一七条一項の日本工業標準規格に適合する医療用具がそれとして定められている(工業標準化法の保育器の規格は昭和四三年三月二八日に制定されたものである。)。

3  薬事法の性格と厚生大臣の権限

(一) 薬事法の目的

憲法は、同二五条一項において生存権の保障を規定し、さらにこれを発展させて同条二項において「国は、すべての生活部面について……公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」としているが、現行薬事法は、この国の政治的な責務の実現のために制定された法律の一つである。

そして、現行薬事法は、その一条において「医薬品に関する事項を規制し、その適正をはかる」ことを目的として定め、不良医薬品の追放などを通じて公衆の衛生の増進を図ることとしており、直接的に個々の国民の生命、健康の維持、増進を図ることを直接の目的とはしていない。そして、その主要な取締規制である日本薬局方収載外医薬品の製造承認(一四条)、医薬品製造業、輸入販売業の許可(一二条、一三条)、薬局開設の許可(五条)及び諸販売業の許可(二六条、二八条、三〇条、三五条)などは、いずれもいわゆる講学上の「許可」に該当し、一般的な禁止の解除と解される。したがって、薬事法は基本的には警察取締法規としての性格を有しているものと解され、さらに、その取締法規は、憲法二二条一項に定める職業選択、職業活動の自由保障との兼ね合い上、消極的な取締を念頭においているものと解すべきである。勿論、現行薬事法の究極の目的は国民の生命・身体の安全あるいは健康を維持・増進を図ることにあり、それは社会の構成する個々の国民のそれなしには考えられないことも事実であり、この点も考慮を要することは当然のことである。そして、旧薬事法の場合も同様に考えられる。

(二) 厚生大臣の権限とその性格

旧薬事法をみると、第一に、公定書に収載されていない医薬品・医療用具の製造に際しては、品目ごとに厚生大臣の許可を受けなければならない(同法二六条三項、 三一条)。特に、その化学構造式、組成又は適応が一般には知られていない医薬品を新医薬品として製造承認するについては、薬事委員会の審議を経てこれをなすことにしていた(同法二条五項)。また、公定書については、厚生大臣は、医薬品の強度、品質及び純度の適正を図るために、薬事委員会の提出する原案に基づいて、公定書(日本薬局方、国民医薬品集又はこれらの追補)を発行しこれを公布しなければならないとされ、公定書に収められた医薬品は、その強度、品質及び純度が公定書で定める基準に適合するものであれば、特に許可を必要とせず製造ができるのである(同法三〇条、 二六条三項)。同法四〇条は取締の対象となるべき不良医薬品の定義をしているが、第一に、品質、性状に問題があるものを挙げている。第二に、許可を受けた医薬品、医療用具であっても、「効能、効果又は性能」について虚偽又は誇大な記事を広告し、記述し、又は流布してはならないとされ(同法三四条)、その表示書に「虚偽の事項又は誤解を招く恐れがある事項」の記載されているもの、「使用上の適当な注意」、「疾病の状況により、又は幼児にとり、保健上危険を生ずる虞がある場合の使用に関し、又は危険な使用の分量、方法若しくは使用期間に関し、公衆保健の保護のため必要な注意」が記載されていないもの、表示書に記載されている用法、用量または使用期間が保健上危険であるものなどを「不正表示医薬品」としたうえ(同法四一条)、その製造販売を禁止している。第三にこれらの規制の実効性確保のため、違反に対しては刑罰をもって臨むほか、医薬品の製造または販売業者の登録取消または業務停止の命令権(同法四六条)、業者などからの報告聴取権、立入検査権、不良医薬品または不正表示医薬品に対する処分命令権ないし処分権などが厚生大臣に付与されている(同法四八条、 四九条)。現行薬事法においても基本的には同一であった。同法四二条二項にいう「保健衛生上の危害の防止」も性状・品質・性能に問題のある不良医薬品による危害の防止がその内容であったと考えられる。また、同法五二条は「医薬品は、これに添付する文書又はその容器若しくは被包に、次に掲げる事項が記載されていなければならない。」と定め、一号では「用法、用量その他使用及び取扱上の必要な注意」をあげ、三号では「厚生省令で定める事項」をあげている。

これに対して、現在の薬事法(昭和五四年法律第五六号による改正後のもの、以下「新法」という。)は、法一条において「この法律は、医薬品の……安全性を確保することを目的とする。」と規定し、同法第一四条二項において、製造・承認につき、厚生大臣は「……副作用などを審査して行う。」と規定している。

前記の法の目的、旧薬事法及び現行薬事法の規定並びに新法の規定を総合的に考えると、新法になるまでは、我が国の薬事立法は、一貫して、医薬品の性状、品質の適正確保、つまり、品質が粗悪という意味での不良医薬品の規制を主目的として立法されており、正規の医薬品についてその副作用からの安全性の確保ということは、予期していなかったか少くとも主目的としてはいなかったものと理解される。したがって、旧薬事法及び現行薬事法が厚生大臣に権限を与えているのも、医薬品の性状、品質の適正を図るためであり、副作用からの安全性を確保するためのものではない。

(三) 日本薬局方の性格

旧薬事法の三〇条一項は、厚生大臣は、「医薬品の強度、品質及び純度の適正」を図るために、薬事審議会の意見を聞いて、日本薬局方、国民医薬品集またはこれらの追補(すなわち「公定書」、同法二条八項)を発行し、公布しなければならないと定め、同条三項で、公定書に定められた医薬品は、その強度、品質及び純度が公定書に定める基準に適合するものでなければ、これを販売してはならないと定めている。現行薬事法は、「医薬品の性状及び品質の適正をはかるため」(四一条)、「厚生大臣が中央薬事審議会の意見を聞いて日本薬局方を制定し、これを公示する」(同法四一条一項)ものとし、「日本薬局方に収載されている医薬品であって、その性状または品質が日本薬局方で定める基準に適合しないものの販売などを禁止」している(同法五六条一号)。以上の薬事法の規定及び前記の規定から明らかなように、旧法の公定書及び現行法の日本薬局方は、医薬品の性状、品質の基準を定めたのみであり、この面での安全性を保証したものに過ぎない。すなわち、その基準に適合した医薬品について常用量を用いれば性状や品質が保証されているので、治療に効果があるということは保証され、医薬品に不純物が混入することなどによる危険性は防止される。しかし、当該医薬品に予定されている効果以外の好ましくない効果、すなわち副作用があるかどうかという点に関しての安全性についてまでは、日本薬局方は何ら保証していないというべきである。換言すれば、厚生大臣がある医薬品を日本薬局方に収載するかどうかを決定するに当っても、副作用の有無・内容を検討してこの面での安全性を確保することが法的な義務であるとまで解すべき根拠は現行薬事法上見出すことはできない。

(四) 安全性確保に関する厚生大臣の権限・責務について

(一)ないし(三)に述べたところによれば、厚生大臣には医薬品の副作用に関する安全性の確保に関する権限につき明文の規定がなく、したがって、安全性を確保する法的義務も負わないのが原則ではある。しかし、医薬品にとって福作用の問題が重要であることは明白であり、医薬行政においても、副作用の点での安全確保を期して、医薬品の製造・輸入の許可に当って事実上副作用の有無についてもある程度審査してきたのであるし、許可後の追跡調査についても、昭和四二年に副作用モニター制度、昭和四六年に医薬品の再評価制度を創設するなど(これらの事実は証人野海勝視の証言により認める。)様々な行政指導を実施してきたのである。また、前記のとおり、薬事法の究極の目的は国民の生命健康の維持・増進にあるのであるから、一定の例外的な場合には厚生大臣において、条理に基づき、安全性の確保のための調査をし、この調査に基づいて医薬品の製造承認を拒否したり、承認を撤回したり、使用上の注意を定めたりすることができるものと解される。すなわち、国民の生命、身体、健康に対して具体的な危険(この危険は行政によって対応すべきことが要請されるほどに多数の国民に生ずるものを指す。)が切迫していて、厚生大臣がこの具体的な危険を知り、又は容易に予見し得る状況にあり、厚生大臣において右の如き行為をすれば容易に結果の発生を回避することができ、かつ、厚生大臣がそのような行為をしなければ他に結果の発生を回避することができない場合であって、国民が厚生大臣にそれを期待しているときには、厚生大臣には、条理に基づき例外的に右の如き行為をする法的権限が生じ、かつ、これをする法的な義務を負うに至るものと解されるのである。

これを本件についてみれば、危険の切迫の予見についてみれば、第二において述べたように、重症の瘢痕を伴う未熟児網膜症が生ずる確率は低く(自然治癒率が八割とも九割ともいわれていることは前記のとおりである。)、第七において認定したように、本件当時までには定期的な眼底検査が一般化していなかったこともあって、一部の学者から先駆的な警告があったものの、未熟児網膜症の大量発生が報告されていたと認めるに足る証拠はなく、行政において対処を必要とするほどの危険が切迫していたことを容易に認識すべき状況があったと認めるに充分な証拠はない。行政においても、未熟児網膜症という疾病が存在することは充分に知っており、これに関して前記一のとおり一定の方策を講じてきたのであるが、これは研究の助成といった性格のものが多く、例外的な危機的な状況に応じてなされてきたという性格のものとは考えられない。また、厚生大臣が前記のような行為をすれば結果を回避できたかについても明確な証拠はなく、厚生大臣が前記のような行為をしなければ重症瘢痕を残す未熟児網膜症の発症を防止できないという関係も認められない。すなわち、前記第二、第三、第五において述べたところによれば、未熟児に対する酸素の投与は、生命の危険と未熟児網膜症発症の危険との比較考量によって決するほかはないのであり、経皮的・継続的に動脈血中酸素分圧を測定できるようになるまでは、重症性の未熟児網膜症はほぼ完全には予防できるものではなかったものと考えられ、さらに、本件当時の我が国においては、酸素投与の方針について医学的な見解の統一もなく(仮に行政が介入するとした場合には医学界の有力者を集めて統一的な基準を答申して貰うという手法によるほかないが、我が国における見解の統一がなされたのは小児科学会新生児委員会の報告が出てからと考られ、昭和五〇年代初め以降のことであると考えられる。)、結局、個々の医師が自らの採用する医学的な見解を基準としつつ児の症状をみながらこれを決するほかない状況にあったと認められるのであって、行政の側で画一的な基準を打ち出して介入できる又は介入すべき状況にはなかったというべきである。したがって、原告らの主張の如き行為をなす法的な義務があったとは認められない。

三  厚生大臣の保育器に関する工業標準化法上の権限の不行使に基づく責任について

1  右法律は、その一条において、「この法律は、適正かつ合理的な工業標準の制定及び普及により工業標準化を促進することによって、鉱工業品の品質の改善、生産能率の増進その他生産の合理化、取引の単純公正化及び使用又は消費の合理化を図り、あわせて公共の福祉の増進に寄与することを目的とする。」と定め、二条において、工業標準において統一すべき事項の一つとして、「種類、型式、形状、寸法、構造、装備、品質、等級、成分、性能、耐久度」と並んで「安全度」をも問題としている。そして、保育器についての日本工業規格は主務大臣たる厚生大臣が定めることとされ(同法一一条厚生省設置法五条四一号、四二号)、一五条においては、工業標準制定後五年(現行法。旧法下では三年)内における確認、改正、廃止をすべき義務を定めている。したがって、厚生大臣は保育器に関して工業標準を定める前後において安全性をも審査できる法的な権限を有していたものと考えられる(したがって、薬事法施行規則一八条自体には何らの問題もないと解される。)。

2  しかし、未熟児網膜症の発症にとって原因となるものは保育器それ自体ではなく酸素であり、酸素と保育器の関係はいわば薬剤と注射器のような関係にあるにすぎず、保育器それ自体の安全性が問題となるのは、保育器の流量の調節器などに欠陥があって医師が予想できないような高濃度の酸素が流れる場合など医師に説明されている性能を欠いている場合であると考えられる。どのような場合に酸素を投与すべきか、どの程度の期間、どの程度の量ないし濃度の酸素を投与すべきかは前記のとおり極めて臨床的な判断であり、保育器の製造者にはこれを判断できる資料も能力もないことは明らかであり、医師においてこの判断をなすのが最も妥当なものである。したがって、保育器に使用上の注意を付すことが便宜であるとしても、原告のいような「使用上の注意」が付せられていないからといって保育器に欠陥があるとはいえず、厚生大臣の権限不行使を問題とする余地はないものと考えられる。

四  厚生大臣の医師法二四条の二に基づく権限の不行使について

医師法二四条の二は、医道審議会の意見を聴いて「厚生大臣は、公衆衛生上重大な危害を生ずる虞がある場合において、その危害を防止するため特に必要があると認めるときは、医師に対して、医療又は保健指導に関し必要な指示をすることができる。」と定めている。しかし、指示を受けるべき医師側について、指示にしたがうべきことが法令上明示されていないところから、右の指示は法的な拘束力はないものと解される。このように医師法が厚生大臣の指示を極めて例外的な場合に限定し、しかも、医師に対する法的拘束力を認めなかったのは、国ないし厚生省は原則として個々の医療行為に介入しないとの立場をとっているためである。医療行為は、個人差の大きい生体を対象とするものであり、かつ人体に対し重大な危害を与える可能性が高く、それゆえに医療行為を行うためには高度の医学的知識及び技術を必要とするものであり、かつ絶えず臨床的に臨機応変の判断を迫られるものである。そこで、医師法は、医師でなければ医療行為を業として行うことができないものとしたうえ(法一七条)、医師の資格を厳しく限定して(法二条ないし六条、九条ないし一四条)不適格者が医師となることを防止して、医療行為に伴う危険の防止を図ることとし、それ以上に医師の個々の医療行為に介入することを避けたのである。

以上のような法の精神・規定からすると、厚生大臣が右の指示をするかは広範な裁量に委ねられており(要件の定めかた自体が極めて抽象的である。)、この指示をすることが法的な義務となるのは法二四条の二の要件を満たすのみならず、前記二に述べた要件が満たされた場合に限ると解すべきである。そして、前記のとおり、本件当時の酸素投与に関してはそのような例外的な条件が満たされていたとは認められず、厚生大臣の指示が義務的であったとは認められない。

五  厚生大臣の母子保健法上の権限の不行使に基づく責任について

母子保健法は、一条において、「この法律は、母性並びに乳児及び幼児の健康の保持及び増進を図るため、母子保健に関する原理を明らかにするとともに、母性並びに乳児及び幼児に対する保健指導、健康診査、医療その他の措置を講じ、もって国民保健の向上に寄与することを目的とする。」と定め、三条において、「乳児及び幼児は、心身ともに健全な人として成長してゆくために、その健康が保持され、かつ増進されなければならない。」とし、五条において、「国及び地方公共団体は、母性並びに乳児及び幼児の健康の保持及び増進に努めなければならない。国及び地方公共団体は、母性並びに乳児及び幼児の健康の保持及び増進に関する施策を講ずるに当っては、その施策を通して、前三条に規定する母子保健の理念が具現されるように配慮しなければならない。」と定め、一九条においては未熟児の保護者に対する訪問指導を定め、二〇条においては養育医療の給付(養育医療を担当する機関の指定を含む。)について定めている。以上の規定は、母子保健の指導理念を抽象的に定めたものにすぎず、厚生大臣ないし国が医師に対して酸素投与の指針について指導する具体的な法的義務を負うべき根拠を見出すことはできない。したがって、これを前提とする原告らの主張は採用することはできない。

第一一結論

以上によれば、原告らの本訴各請求は、その余の点について判断するまでもなく、いずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、 九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 根本久 裁判官小池裕、同斉木敏文は転補のため、いずれも署名捺印することができない。裁判長裁判官 根本久)

<以下省略>

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